『ドイツ文学』154号特集テーマ(2016年9月15日原稿締め切り)

『ドイツ文学』154号特集テーマ
黙示録とユートピア



Time誌の年末号の表紙をアンゲラ・メルケルが飾ったことは、少なからず読者を驚かせました。Person of the Year 2015に選ばれた彼女には、ユーロ危機を沈静化させた手腕と、押し寄せるシリア難民に一貫して人道的な対応をとったことで、「自由な世界への宰相」という称号まで与えられました。ひとしきり強調されるのが、彼女が中央からではなく、ヨーロッパの政治の周縁であった旧東独から、世界政治の頂点に登りつめたという点です。西側諸国を、差し迫る政治的、経済的破綻から救うために熱望されたのが、ルター派の牧師の娘として育ち、社会主義の圧政に市民として堪え、さらにはコール首相のもとで辛酸を嘗めた、母なるカリスマなのです。興味深いのは、Time誌がメルケルに続く「時の人」第2位にISの指導者バグダディを、第3位にスキャンダルには事欠かないアメリカの政治家ドナルド・トランプをランクインさせたことです。片や、危険な終末論をかかげて西側諸国を屈服させようとする偽のテロリスト預言者、片や、過去におそった幾多の危機的状況を意にも介せず、いまだに自由市場経済の進歩を信じて疑わないアメリカ資本主義の信奉者。この二人の過激論者の間で「国民的ムッティ」は危険な綱渡りをしなければなりません。このように描かれる世界政治のランキングは、ひょっとすると歴史的終末論が示してきた、3段階の発展、つまり進歩信仰がやがて没落のヴィジョンを招来し、最後は救済へと続く図式をなぞってはいないでしょうか。
ハンス・ブルーメンベルクは、「近代国家論の要となるあらゆる概念は世俗化された神学概念である」というカール・シュミットの言葉を引いて、近代が決して近代的合理的思考による創作物ではなく、中世の象徴主義的思考方法に多くを負うとしました。近代とはブルーメンベルクの言葉を借りれば、終末論の世俗化ではないにしても、少なくとも終末論による世俗化であることは確かです。こうした考えはしかし私たちをただの悲観主義に誘うものではありません。この世が黙示録的な読解に提供されているという考えは、同時に、世界を歴史の連関の中で理解し、人類をその責任者として解釈することを可能にするのです。
『ドイツ文学』の特集「黙示録とユートピア」は、終末論と黙示録がドイツ語圏文学に与えた影響を探ることを目的としています。
黙示文学は現在の研究ではおおむね3つのパラダイムで取り扱われています。第一のパラダイムは、キリスト教的黙示文学の原テクストである『ヨハネの黙示録』の上に築かれた、キリスト教的・聖書的な地平です。この書に基づいて、黙示文学というジャンルが「黙示」(apokalyptein)という名を得ただけではなく、それがヨーロッパと世界のキリスト教国に広まっていったのです。
第二のパラダイムは世俗化された、歴史哲学的地平です。クラウス・フォンドゥングのよく知られた解釈では、この世俗化の過程は、新たなエルサレムという救済の視点が消失したこと、つまり最終的に聖書的終末予言の意味も目的も失われたことを意味しています(Klaus Vondung, 1988)。にもかかわらず、この世俗化の過程には黙示録に内包されている直線的な時間感覚と歴史感覚が引き続き受け継がれています。たとえばフィオーレのヨアヒムの歴史哲学は「社会的千年至福説」を革命的な抗議運動として唱導しただけではなく、カール・マルクスや、ローベルト・ムージルや、エルンスト・ブロッホといった近代の哲学者や作家の世俗化された終末論的、かつユートピア的な思想にも影響を与えました。黙示録の時代区分はまた二つの帝国イデオロギーの根底に沈殿しています。「千年王国」と「第三帝国」がそれです。前者は宗教的で二元的、後者は世俗的で弁証法的ですが、両方ともその黙示録的な志向において共通しています。
第三のパラダイムとしてポスト黙示録的な次元をあげることができます。「神が死んだ」後、人間は歴史に君臨する君主の地位を得ましたが、日に日にその権力の脆さが露呈しています。世界はデリダのいうように、「自己破壊」(Auto-Destruierbarkeit)に運命づけられているのかもしれません。こうした懐疑的な世界観を前にしては、黙示録的主体とは何なのかという問いを新たにたてざるをえません。世界と歴史の言いなりになってきたただの主体ではなく、不遜にも「吾恐るべきものを啓示す(apokalypto)」という主体が必要とされるようになりました。グレンヴィユの『最後の人』(1805)や、メアリー・シェリーの『最後の人』(1826)以来、この世の終わりはもっぱら最後の人類の目線で啓示され(Robert Weninger)、あるいは語られます(Eva Horn 2014)。一見するとこうしたポスト黙示録においては、種の最後の生き残りとして、破壊された世界を牛耳り、競争相手も文化もない環境で歴史を意のままにする語り手が登場するように見えますが、実はこうしたロビンソン・クルーソー譚の言わんとするのは、世界を主体化できるというのは幻想で、最後にこうした自己欺瞞は破綻する運命にあるのだということです。こうした展開での黙示録の出来事はただのカタストロフィーとしてしか生じません(Jacques Derrida, 1983)。ギュンター・グラスの『女ねずみ』ではそれどころか黙示録的なものの自己克服が描かれています。20世紀を襲った幻滅とカタストロフィーの後に登場したのは、ユートピアではなく、完全に破壊されつくした世界をイメージする「ディストピア」だったのです。
特集の目的はしかしながら、ただ単に歴史悲観主義的な終末の世界像を文学に見つけることではありません。新たなユートピア思想、たとえ世俗化された形でも、黙示録的なものを救済する展望を見つけ出し、人類の文学的文化的功績として明らかにすることでもあります。

ドイツ文学・文化全般にわたる学術的論考をお待ちします。以下のようなテーマも可能です。

  • 聖書の歴史モデル上にある、ユダヤ的キリスト教的歴史像。(特に、時代区分論、メシア的千年王国的歴史観、終末待望等)
  • 世俗化した終末論としてのユートピア的歴史構想
  • 黙示録的に輪郭づけられた歴史的事件(戦争、疫病、自然災害)
  • 近代史における世俗的な黙示観と終末観。(カール・マルクス、エルンスト・ブロッホ、オズワルト・シュペングラー等)
  • 黙示思想と時代転換(宗教改革、1800年、世紀末、第一次世界大戦)
  • 黙示思想の時間空間的な枠構造(エデンの園、新しいエルサレム、ソドムとゴモラ、産業革命後の都市、ポストモダンなメトロポリス壊滅幻想)
  • ポストモダンな技術批判、科学批判(マルティン・ハイデガー、ベルトルト・ブレヒト、エリアス・カネッティ、フリードリヒ・デュレンマット、ギュンター・グラスなど)、あるいは自然保護思想、核問題。
  • 黙示録的文脈での主体化戦略(歴史的主体としての人間、進歩思想批判)
  • 黙示録のメディア化
  • 西欧美術史における黙示録(アルブレヒト・デューラー、ヒエロニムス・ボッシュ、エル・グレコ、ディエゴ・ベラスケス、エルンスト・バルラハ、カンディンスキー等)
  • 非キリスト教的神話との比較における黙示文学、世界終末思想(ニーベルンゲンの歌、北欧サガ)
  • 黙示論のモティーフとその前史と後史(黙示録の騎士、最後の皇帝、アンチ・キリスト、7つの封印の書、新しいエルサレム、ハルマゲドン、知恵の木、動物のシンボルなど)

特集に投稿を希望される方は、2016年3月31日までに学会事務局(buero@jgg.jp)までA4一枚程度の要旨をお送りください。原稿の最終提出期限は2016年9月15日です。

香田芳樹(日本独文学会学会誌編集委員会 文学・文化部門責任者)