機関誌152号の特集テーマ(2015年9月15日原稿締め切り)

『ドイツ文学』152号特集テーマ

『詩的正義』



  正義とは西欧では元来「社会契約」の上に成り立つものであった。当事者たちの相互利得のために結ばれる契約が法的根拠を形成しており、それゆえ正義は何より国家や市民社会といった、限定的な契約者間の関心事であった。それは契約者間で生じる「利得」であり、「他者の正義」は存在し得なかった。この原理は今日でも変わらないだろう。経済的劣勢を強いられている国の国民や、外国人や、障害者や被差別者など、社会の周縁に生きる人々は、その不自由さ、孤立、不平等ゆえに、優位にあるものと契約を結ぶことができず、よって「正しい」世界からは締めだされている。
  しかしこうした契約的幸福追求論は、今日修正を迫られている。たとえば避難民や戦闘地域の住人を助けるために、国境を越えて行う人道的支援や、法をあえて踏み越えて行動する個人の市民的勇気は、合法的無為よりも正義の遂行であると見なされる。なぜなら、国家が規定する法規範が必ずしも正しい行動原理と一致し得ないことは明らかだからである。
  こうした正しさの逆転は、現代社会において正義の根幹をなすのがもはや契約ではなく、「他者の善へのたくましいコミットメント」(ヌスバウム)となりつつあることを示している。つまり歴史的形成物である法体系を、正しい世界の根拠にすえるのは実は主客転倒で、権利と幸福を他者と共有してもよいと感じる感性の集合体が太古から長い時間をかけて形成され、それが個人を公共化させてきたと考える方が自然なのである。
  詩的情感と正義の関係に注目した哲学者にマーサ・ヌスバウムがいる。彼女の提唱する「詩的正義」poetic justiceは、古代から今日まで文学作品が正義を社会に提示し、それゆえそれぞれの時代の規範的価値と批判的に対峙しているという洞察である。確かに、レッシングもクライストもビュヒナーもカフカもブレヒトも、ソフォクレスもシェイクスピアもユーゴーもドストエフスキーも、既存の法によって不当に虐げられる人々を描いた。彼らにとって文学とは、立法化されえない真の正義の存在を読者に予感させ、その実現を促すための手段であった。文学の想像力を通してこそ、生命の価値や、人間の尊厳や、幸福や、自由や、愛や、平等といった正義の基本的構成要素は具体的にイメージされ、生きる目的を他者と共有する「人格の公共的構想の一部」(ヌスバウム)となりうる。
  本特集の目的はこうした観点から、書かれ読まれる詩的リアリズムを通して実現される正義の可能性を模索することである。このことはとりわけ、モラルが、ヴォルテールが嘆いたように、詩的でなくなり、善悪の判断が手間のかかる読書によって得られるではなく、扇情的メディアやポピュリストのプロパガンダによって操作されやすい時代に生きるわれわれにとって重要である。読む価値を生きる価値に繋ごうとするのであれば、文学の道徳的公共的機能をいま一度問わなければならないだろう。こうした問題意識の上で、特集テーマ『詩的正義』は特に次の三つの問いに関わる。

1. 道徳の形成因として文学はどのような役割を果たしてきたのか。「詩的正義」とは可能なのか。
2. 文学史の中で正義はどのような文学的形姿をとって描かれてきたのか。作家は、時代のどのような支配的規範と対峙したのか。彼らの目指した社会的な正義とはどのようなものだったのか。
3. グローバル時代に指針を与える、正義の新しい文学的モデルはあるのか。それは社会と宗教にどのように関わり、またジェンダー的視座と環境への問いを内包するのか。

ドイツ文学・文化全般にわたる「学術的」論考をお待ちします。以下のようなテーマも可能です。
  • 共同体的規範と個人の自由;正義の空間表象、例えば国家アイデンティティーにおける領土問題、家族;宗教的正義、正戦とテロリズム
  • 義しきもの(英雄、殉教者、抵抗者等)の文学的表象;古典的エティカの実現者としての善人;正義の修辞的形姿(アレゴリー、アイロニー、風刺画、モニュメント等)
  • 他者と社会的弱者(女性、植民地人、障害者、動物)、さらには環境のための正義
  • 正義のリアクターとしての良心、知恵、感性;美的根拠としての正義

上記の特集テーマに関して投稿を希望される方は、2015年3月31日までに学会事務局(buero_AT_jgg.jp(_AT_は@))宛にA4一枚程度の要旨をお送りください。原稿の最終提出期限は2015年9月15日です。


香田芳樹(日本独文学会学会誌編集委員会 文学・文化部門責任者)