<阪神ドイツ文学会>第216回研究発表会のご案内 |
阪神ドイツ文学会第216回研究発表会のご案内下記の総会・研究発表会・講演会を開催いたしますので、ご案内申し上げます。 阪神ドイツ文学会会員以外の方のご参加も歓迎致します。参加費は無料です。 日時: 2014年12月13日(土)13時30分より 場所: 大阪教育大学 天王寺キャンパス 西館 第1講義室(1階) 所在地: 〒543-0054 大阪市天王寺区南河堀町4-88 電話番号 (06)6775-6611 *最寄駅:JR・地下鉄「天王寺」駅(徒歩10分)、近鉄「阿部野橋」駅(徒歩10分) またはJR「寺田町」駅(徒歩5分) 次のサイトをご覧下さい: http://osaka-kyoiku.ac.jp/campus_map.html#tennoji *自家用車での来校はご遠慮下さい。タクシーを利用される場合は「正門」前で下車ください。 <シンポジウム> 20世紀スイスにおける文化の政治 ––– チューリヒ劇場に集う芸術家を軸にして 司会:葉柳和則(長崎大学) 発表者:葉柳和則(長崎大学)、市川明(大阪大学)、Werner Wüthrich(小説家、劇作家、ブレヒト研究者)、増本浩子(神戸大学)、中村靖子(名古屋大学) <全体の要旨> 「ドイツ人亡命者たちがドイツ語で自由に演じることのできた唯一の舞台としてのチューリヒ劇場」––– これは最も定番と言えるスイス史の歴史叙述の中の一節である。スイス史やドイツ(語)文学史の概説書を繙くとこのような一節に度々出くわす。実際、ナチスの政権奪取からドイツの無条件降伏に至る時代の中でチューリヒ劇場が果たした役割は、中立と自由の国というスイスのナショナル・アイデンティティの一部を形成していると言っても過言ではない。終戦直後のドイツ語演劇シーンを「フリッシュとデュレンマットの10年」として叙述するドイツ(語)文学史もまた、ワイマール共和国時代から戦後へと至るドイツ(語)文学の連続性を「自由の砦チューリヒ劇場」と関連づけ、二人のスイス人劇作家の活動もまたその文脈の中で意味づけようとする傾向がある。 しかし、スイス-ドイツ国境からわずか二十数kmしか離れていないチューリヒで、ナチスによって焚書された作家たちの作品を上演することがなぜ可能だったのか、これはチューリヒ劇場においてのみ可能だったのか、戦後の歴史叙述における「自由の砦」という意味づけが「創られた伝統」である可能性はないのか、といった問いは、ドイツ文学研究においてはまだ十分に論じられていない。 本シンポジウムは、この問いに答えるための第一歩として、1930年代から40年代にかけてチューリヒ劇場に集った芸術家たちの活動と同時代の社会状況との相互作用、および戦後における彼らの仕事の具体的解明を通して、戦前から戦後に至るスイスにおける政治-文化史の脱神話化を目指す試みである。 <プログラムと要旨> 0. 葉柳和則「はじめに」 1. 葉柳和則:チューリヒ劇場への道 ––– フリッシュの従軍日記を手がかりに マックス・フリッシュの演劇作品は、ほとんどすべてチューリヒ劇場で初演されている。多くの伝記的テクストは、そのきっかけは「1944年夏、チューリヒ劇場に集う亡命知識人・芸術家との出会い」にあったと記している。しかし、1932年に文筆生活に入ったフリッシュは、戦間期に、スイスの中立と自由を共産主義とナチズムから防衛するために始まった文化運動「精神的国土防衛」の路線に沿って仕事をしており、ナチスによって焚書され、スイスに亡命し、チューリヒ劇場を拠点として活動していたユダヤ系、マルクス主義系の芸術家たちに対しては排除的な立場を取っていた。だとすれば、1944年の「転向」は突然の出来事だったのだろうか。フリッシュ自身もむしろ「突然の転向」を神話化する方向で、自らの伝記をめぐる言説を編成しようとしていたこともあり、この「転向」のプロセスが問いの対象となることは稀であった。これに対して、報告者は30年から40年代にかけてのフリッシュの美学的、思想的立ち位置の変化について、できる限り内在的に因果の糸を辿ることを試みる。その手がかりとして、今回の報告では、フリッシュが戦間期から大戦期に発表した三篇の従軍日記(1935, 1939/40, 1940/41)を取り上げる。そこに書き込まれた、スイス軍と市民社会に対する言及に焦点を当てることで、精神的国土防衛の担い手フリッシュが、チューリヒ劇場へと歩を進めるまでの前史を可視化してみたい。 2. 市川明:抵抗の美学 ––– ブレヒトとチューリヒ劇場1933-1949 ブレヒトにとってスイスは、そしてスイスにとってブレヒトは複雑な対象だった。ブレヒトが1940年に書いた『亡命者の対話』では、自由に関してスイスを批判する箇所がある。両者は不即不離の関係を最後まで貫いた。 1933年以降、反ファシズムの劇作家たちは自分の作品を上演する劇場を失ってしまった。チューリヒ劇場だけはこうした悲惨な状況の中で称賛に値する例外だった。ユダヤ人リーザーによって導かれたチューリヒ劇場でどのようにリベラルな伝統が築かれたのかを探る。 『肝っ玉おっ母とその子どもたち』などブレヒトが亡命中に書いた四つの作品がチューリヒ劇場で世界初演されたことは特筆に価する。チューリヒ劇場は反ファシズム芸術家たちの集結の場であり、ブレヒト上演は政治的抵抗を示す勇気ある試みだったと言える。ブレヒト上演史の中で論じられることの少ないヒルシュフェルト(演出家、ドラマトゥルク)、ブルクハルト(作曲家)、オットー(舞台美術家)などに焦点を当てチューリヒ劇場での創造活動の実態に迫る。 3. Werner Wüthrich: Die Schweiz ––– eine Theaterdekoration ohne Bühnenarbeiter? Bertolt Brecht, die Antigone und das Exilland Schweiz Wie das Theater in der Schweiz durch Bertolt Brecht und das Exiltheater Impulse erhält und wie von Zürich aus, der heimlichen Kulturhauptstadt im kriegszerstörten Europa, nach 1945 Entwicklungen beginnen, die das europäische Theater geprägt haben. Bertolt Brechts nachhaltige Theaterarbeit, dargestellt an der Uraufführung der Antigone des Sophokles am Stadttheater Chur und seinem Antigonemodell 1948, hat das Werk von Friedrich Dürrenmatt und Max Frisch ebenso beeinflusst wie weltweit Generationen von Theaterschaffenden und Autoren bis heute angeregt. Die Antigone-Produktion, ein Auftrag für eine internationale „Gastspiel-Tournee Helene Weigel“, stellt für die Brechtforschung das Bindeglied dar zwischen der Galileo-Uraufführung mit Charles Laughton 1947 in den USA und den legendären Berliner Brecht-Aufführungen seit 1949. Brechts exemplarische Theaterlabor gilt als „Urzelle des Berliner Ensemble“ und nicht nur in der Schweiz als Geburtsstunde eines neuen Theaters 4. 中村靖子:公的な記憶と個人の記憶 ––– フリッシュのスイス批判 フリッシュの最初のベストセラー小説『シュティラー』(1954)は、筆記者の内面世界を舞台として繰り広げられる法廷劇である。裁かれるのは筆記者であるが、その筆記者自身が批判者でもある。それは、「近代法治国家であり自由で安全で清潔な国」スイスという、スイス人の自国像に対する批判でありその自国像に安寧とする彼らのメンタリティ(心性)に対する批判である。フリッシュは『学校版ヴィルヘルム・テル』(1971)ではスイス建国神話を取り上げて、この「作られた神話」の解体を試みた。意図されたのは、同様に「自由発祥の地」スイスという自国像とスイス人のメンタリティに対する批判である。フリッシュ最後の文学作品となった『青髭』(1982)は再び法廷劇の形をとる。ただしそれは、容疑により逮捕され10ヶ月の拘留ののち無罪判決を受けて釈放された主人公が、チューリヒの町中を自由に散策しつつ仮想的に自己審問を続行するという内的な裁きである。ここでフリッシュは公的な「作られた記憶」から、きわめて個人的な記憶へと再び戻ったのだと言える。それはまた、「監獄は内面にある」といったシュティラーの釈放後の姿を変奏したものでもあるのである。 5. 増本浩子:監獄としてのスイス ––– デュレンマットのスイス批判 1990年11月22日、作家で当時チェコスロヴァキア大統領でもあったヴァーツラフ・ハヴェルがチューリヒでゴットリープ・ドゥットヴァイラー賞を受賞したのに際して、デュレンマットは「監獄としてのスイス」と題した祝辞を述べて物議をかもす。スイスきっての名士の名前を冠した賞をハヴェルに授与したスイス側の意図は、1291年の建国以来「自由と独立」を標榜するスイスが、ベルリンの壁崩壊直後にビロード革命を成功させ、チェコスロヴァキアに「自由と独立」をもたらした民主化運動の闘士ハヴェルを称えるというものだった。ところが、デュレンマットの講演は、スイスにはそもそもハヴェルを褒め称える権利があるのか、スイスは自由であるどころか、監獄のような国ではないのか、という内容のものだった。本報告では、この講演を手掛かりにして、デュレンマットのスイス批判について考察する。 |