阪神ドイツ文学会第215回研究発表会のご案内
下記のシンポジウムを開催いたしますので、ご案内申し上げます。
阪神ドイツ文学会会員以外の方のご参加も歓迎致します。参加費は無料です。

日時: 2014年7月12日(土)13時30分より(土曜日開催です)
場所: 大阪産業大学16号館16606教室(6階)
所在地:〒574-8530 大阪府大東市中垣内3-1-1  電話番号:(072)875-3001(代表)
*JR学研都市線「住道」駅下車、シャトルバス利用で約15分。または「野崎」駅下車、徒歩約15分。(詳しくは以下のサイトをご覧ください。シャトルバスの時刻表もリンクしています。) http://www.osaka-sandai.ac.jp/static/html/access/index.html


シンポジウム:「ファウストとドイツ文学―レッシングからトーマス・マンまで―」

《シンポジウム趣旨》
先年公開されたソクーロフ監督の映画『ファウスト』(2011)は、ドイツ文学愛好家の神経を逆なでするような、奇怪で猥雑な場面にみちた作品だった。だがそれはまた、ファウストの素材が、今日もなお新たな書きかえの可能性を秘めていることを示してもいる。そもそも近代ドイツのファウスト文学は、悪魔に魂を売りわたした学者の物語を、人間の認識欲の救済可能性をめぐる問いへと書きかえようとしたレッシングの試みから始まった。だが、その後のファウスト文学の歴史のなかで、救済はふたたび断罪へと反転してゆく。本シンポジウムでは、レッシングからトーマス・マンへといたるファウスト作品を、認識と認識批判、科学と芸術、精神と身体、キリスト教と古典古代といった視点から考察するとともに、悪魔像の変遷や語り手の役割にも着目することによって、ファウスト文学の歴史を、「神話の変形作業(Arbeit am Mythos)」(ブルーメンベルク)の過程としてとらえなおしてみたい。

司会:松村朋彦
発表者:児玉麻美・土谷真理子・松村朋彦・中川一成・千田まや

《プログラムと要旨》

0.松村朋彦「はじめに」

1.児玉麻美「レッシング『ファウスト博士』における知識欲の問題について」
断片『ファウスト博士』(1759)のなかで、レッシングは従来の地獄堕ちという結末を救済へと描き直す試みを行い、啓蒙主義的な価値観のもとでファウストの認識衝動に対する再評価を訴えた。真理への執着と悪魔の召喚、地獄堕ちといった要素は初期の喜劇『若い学者』(1747)の中ですでに先取りされているが、ここでは知識欲にとりつかれた若い学者ダミスの偏屈さ、慇懃無礼な振る舞いとそれゆえの孤独は風刺的な笑いの対象になっている。一方で、真理追究に没頭するダミスのひたむきな向上心や、その反骨精神の描写は肯定的に解釈される可能性をも秘めており、こうした点はのちに『ファウスト博士』において、知的好奇心にとらわれた学者が救済の情景に迎え入れられる展開の前段階としても読み解くことができる。本発表では、『若い学者』において取り上げられた知識欲というテーマが、のちのファウスト作品においては救済の根拠として重要な地位を占めながらも、無制約的な認識衝動への留保を内胎する両価的なものであったことを明らかにしたい。

2.土谷真理子「魔術から話術へ―ゲーテ『ファウスト』のメフィストーフェレスについて―」
ゲーテ『ファウスト』(1808/32)に登場する誘惑の悪魔メフィストーフェレスは、民衆本に登場しファウストの肉体を切り裂く悪霊メフォストフィレスの踏襲であるが、サタンのような圧倒的な悪の権化や戦慄を呼ぶデーモンではなく、「主Der Herr」の調和的世界構想の枠内に属し、力を奪われた人間的なもの、すなわち「もっとも扱いやすい悪戯者Schalk」である。しかし、地上におけるファウストの随伴役という困難な役目を完遂するためには、上述の弱さを填補する強みが必要である。そのため、メフィストには卓越した言語ストラテジーが付与されている。本発表の意図は、メフィストの面目躍如たる科白を取り上げ、その卓抜性を浮き彫りにし、さらにはメフィストの役割に肉薄することである。ゲーテの描くメフィストは、圧倒的な魔術の力によってではなく、まさに話術によって対抗者との心理戦を徐々に制し、自分の活動にもっとも有利な舞台を築いてゆくのである。

3.松村朋彦「科学者から芸術家へ―ロマン主義はファウストを変形する―」
ファウスト文学の歴史を概観してみると、ドイツ・ロマン主義の作家たちがこの素材をほとんど取り上げていないことにあらためて気づかされる。だが彼らは、ファウスト文学の伝統を受けつがなかったのではなく、自分たちの問題意識にあわせてそれを変形しようとこころみたのである。ロマン主義の文学において、ファウストの物語は、人間の認識欲の救済可能性をめぐる問いから、文学と芸術の自己反省の試みへと書きかえられる。こうしたファウスト神話の変形作業のプロセスを、シャミッソーの『ファウスト ある試み』(1803)、『ペーター・シュレミールの不思議な物語』(1814)、E.T.A.ホフマンの『失われた鏡像の物語』(1815)、『砂男』(1816)という4篇の作品にそくしてたどってみることにしたい。

4.中川一成「踊るファウスト―ハイネのバレエ台本『ファウスト博士』について―」    
『ファウスト博士。舞踊詩、ならびに悪魔、魔女そして文学についての珍奇な報告』(1851)は、ロンドン王立劇場の依頼で執筆したバレエ台本(「舞踊詩」)に著者自らの「解説」を付した、ハイネ晩年の作品である。バレリーナの姿で登場する女悪魔メフィストーフェラと書斎でダンスの稽古を始めたフゥウストが、地獄に堕ちるまでの顛末を描いた5幕物の「舞踊詩」は、ハイネ独自のファウスト像ならびに悪魔像を表現したものとして、ゲーテ以後のファウスト文学においてひときわ異彩を放っている。本発表では、「解説」におけるゲーテ『ファウスト』の評価を参照しつつ、「舞踊詩」に見られるファウスト伝説受容のハイネ的特性、ならびにその思想的背景を明らかにしたい。

5.千田まや「終わりかはじまりか―トーマス・マン『ファウストゥス博士』の語り手について―」
トーマス・マンの小説『ファウストゥス博士』(1947)は、「一友人によって物語られたドイツの作曲家アードリアーン・レーヴァーキューンの生涯」という長い副題を持つ。「ドイツの作曲家」の設定に注目し、マンのドイツ観やアドルノ受容、ニーチェの他、モデルとなった作曲家たちを論じた先行研究は膨大な量に上るが、本発表ではあえて副題の前半部に注目する。「一友人」とは、語り手ツァイトブローム、デモーニッシュなファウスト的主人公を、恐れおののきつつ愛する善良な人文主義者である。作者は「陰惨な素材を明朗化」し、自身の伝記的要素をパロディ化するために彼を語り手に設定したと『<ファウストゥス博士>の成立』(1949)で述べている。だが語り手の役割はそれにはとどまらない。彼は、悪魔を差し置いてファウストの相方をつとめ、ファウスト的テーマと黙示録的テーマを融合させるという、先行のファウスト文学にはない二つの大役を果たすからである。