機関誌『ドイツ文学』148号の特集テーマ「カタストロフィ」について
機関誌「ドイツ文学」148号 特集テーマの案内

機関誌『ドイツ文学』では2014年春刊行予定の148 号(和欧混合誌)の特集テーマとして「カタストロフィ Katastrophe」を掲げて原稿募集を開始します。詳細は下記の概要をご参照ください。応募なさる方は、機関誌(和欧混合誌)末尾の「応募要項」に基づき、2013年9月15日までに学会事務局まで所定のフォームで原稿をお送りください。なお、148号は和欧混合誌で、和文・独文いずれの原稿の応募も可能です。
もちろん、通常どおり、特集テーマ以外の一般投稿も受け付けます。文学・文化、語学、教授法いずれの部門からでも多数の投稿をお待ちしています。

[特集テーマ概要]
2011年3月、日本は震災、津波と原子力発電所の崩壊による放射能拡散という、人類史上でも初めての三重のカタストロフィ(破局)を経験しました。数万にのぼる人々が死者・行方不明者として犠牲になったこの未曾有の災害は、被災者の生活の再建も進まないまま現在もなお進行中であり、それどころか原子力発電所の事故に至っては、今後数百年にわたる深刻な影響を残すことが確実になる一方で、解決の糸口も見えていません。前代未聞の惨事はまさに巨大な規模の「破局」として、多くの人々の世界観や経験のあり方を揺るがし、それを根底から覆す意味を持っていました。カタストロフィ(Katastrophe)は「反転、転覆」を意味するギリシア語καταστροφήに遡りますが、「3・11」と「フクシマ」は日本のみならず、世界にとっても一つの「転機」をなす災害として受け止められています。それは、人間と自然、人間と文明、人間と歴史といった関係を根本的に問い直させるほどの力を持って迫ってきます。
かつて作家クリスタ・ヴォルフはチェルノブイリ原発事故に応答する形で小説Störfallを書きましたが、2011年の日本の震災と原子力災害に対しても、ドイツ語圏からは劇作家イェリネク、思想家スローターダイクらがいちはやく応答しています。中央大学で開催された昨年秋の学会では、この事態を受けて「フクシマ後のドイツ文学」と題されたシンポジウムが開かれ、多くの参加者の関心をひきました。この特集ではそのシンポジウムに触発されて、「カタストロフィ」という概念をドイツ語圏の文学・思想を再考するキーワードとしてとらえようとするものです。
人間は古来、自然災害にかぎらず、戦争やテロリズムなどの言語を絶する危機や破局に臨んで、その体験にあえて「ことば」を与え、それを記録し、解釈しようとしてきました。それは人間の集団が存在するところすべてに共通する行為と言えますが、ドイツ語圏の文学や思想がカタストロフィの概念や現象から大きな刺激を受けてきたことには注目すべきでしょう。戦乱や疫病、飢えを歌ったバロックの詩人たち、あるいは自然災害と神意の関係を論じた啓蒙の哲学者たちに見られるように、人間の制御と予測を超える事態は、かつてしばしば「神」との関係で語られました。近代は、そうした言説が神学から離脱していく一方、それがまた新たに超越的なものと関連づけられた時代です。そこで重要な原動力となったのが、繰り返される革命の経験です。同時代人にとって巨大な「破局=転機」として経験されたフランス革命は、クライストやロマン派の作家たちの著作に決定的な影響を与えました。1848年の革命は、たとえばカタストロフィの対極としての「穏やかな」法則を愛したシュティフターの作品にも、明らかな痕跡をとどめています。20世紀に入ると、さらなる革命や戦争がヨーロッパ社会を震撼させます。第一次世界大戦に際しては、リルケや表現主義詩人たち、あるいはカール・クラウスやユンガー兄弟など、多くの文学者や思想家が黙示録的・終末論的な歴史観を共有するに至りました。また、第二次大戦中のナチス・ドイツによるホロコーストは、人間の概念そのものを人間自身が覆すカタストロフィにほかなりません。この概念を軸にベンヤミンが「歴史の天使」を、ハイデガーが「ヒューマニズムの終わり」を思考したことも思い出されるべきでしょう。戦後の混乱期や、冷戦期に核戦争の危機が迫った時代においても、カタストロフィは直前の災厄の生々しい記憶として、あるいは近い未来に迫る破局の予兆として、ドイツ語圏の文学で繰り返し呼び出されることになります。この系譜を呼び起こすことは「フクシマ後」を生きるわれわれにとっても意義深いことと思われます。
本特集で取り上げることの可能な主題としては、たとえば以下のようなものが考えられます。カタストロフィの記憶と記録、カタストロフィと「喪」の作業、カタストロフィの解釈、終末論とカタストロフィ、メシアニズム、廃墟の風景、ディストピア、カタストロフィの表象、テクノロジーと人間、悲劇におけるカタストロフィ、歴史の終焉、生き延びること、カタストロフィと再生、言語化されえないものの言語化、スペクタクルとしての破局、メディアに媒介されるカタストロフィ など
(以上)