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	<title type="text">コラム</title>
	<subtitle type="text">Japanische Gesellschaft für Germanistik-JGG</subtitle>
	<updated>2012-05-18T04:21:26+00:00</updated>
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		<title>オペラのなかの女性たち――モーツァルトとワーグナーを中心に――（S. Miyake）[J]</title>
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		<published>2012-04-13T09:07:06+00:00</published>
		<updated>2012-04-13T09:11:53+00:00</updated>
		<category term="音楽批評" label="音楽批評" />
		<author>
			<name>kisozaki</name>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.jgg.jp/" xml:lang="ja">今から２０年以上も前の話で恐縮だが、「５大オペラ作曲家の世界」というＣＤ５枚からなるシリーズが日本コロンビアから発売された。ドイツ語圏を中心とした歌手たちによるオペラのアリア集だが、そのなかには名メゾソプラノだったクリスタ・ルートヴィヒが「ブリュンヒルデの自己犠牲」を歌った珍しい録音もある。ところでこのシリーズで言われる「５大オペラ作曲家」とは、モーツァルト、ワーグナー（ここではヴァーグナーではなくワーグナーと表記する）、ヴェルディ、プッチーニ、リヒャルト・シュトラウスの５人をさす。この選択は、世界の主要なオペラハウスで今日上演されているそれぞれの作品数を考えれば妥当なものだが、仮にこれらの作曲家たちのオペラを、「男のオペラ」か「女のオペラ」かに分類した場合、ヴェルディ以外はすべて「女のオペラ」を創作したと言えるのではなかろうか。ヴェルディのオペラの魅力はやはり男性像にある。もちろんヴェルディのオペラにも、『ラ・トラヴィアータ』のヴィオレッタ、『オテロ』のデズデモナなど有名なヒロインは数多く登場するが、彼女たちに共感するのは少なくとも私には難しい。なぜならばヴェルディが描く女性像には強さが欠如していると思われるからだ。その点でモーツァルトやワーグナーのオペラの女性主人公たちは異なる。彼女たちの魅力は何と言ってもその誇り高いたくましさにある。私が『モーツァルトとオペラの政治学』（青弓社）や『ヴァーグナーのオペラの女性像』（鳥影社）で一番書きたかったのは、モーツァルトやワーグナーのオペラに登場する女性主人公たちが持つそのような強さである。</summary>
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<![CDATA[<div>今から２０年以上も前の話で恐縮だが、「５大オペラ作曲家の世界」というＣＤ５枚からなるシリーズが日本コロンビアから発売された。ドイツ語圏を中心とした歌手たちによるオペラのアリア集だが、そのなかには名メゾソプラノだったクリスタ・ルートヴィヒが「ブリュンヒルデの自己犠牲」を歌った珍しい録音もある。ところでこのシリーズで言われる「５大オペラ作曲家」とは、モーツァルト、ワーグナー（ここではヴァーグナーではなくワーグナーと表記する）、ヴェルディ、プッチーニ、リヒャルト・シュトラウスの５人をさす。この選択は、世界の主要なオペラハウスで今日上演されているそれぞれの作品数を考えれば妥当なものだが、仮にこれらの作曲家たちのオペラを、「男のオペラ」か「女のオペラ」かに分類した場合、ヴェルディ以外はすべて「女のオペラ」を創作したと言えるのではなかろうか。ヴェルディのオペラの魅力はやはり男性像にある。もちろんヴェルディのオペラにも、『ラ・トラヴィアータ』のヴィオレッタ、『オテロ』のデズデモナなど有名なヒロインは数多く登場するが、彼女たちに共感するのは少なくとも私には難しい。なぜならばヴェルディが描く女性像には強さが欠如していると思われるからだ。その点でモーツァルトやワーグナーのオペラの女性主人公たちは異なる。彼女たちの魅力は何と言ってもその誇り高いたくましさにある。私が『モーツァルトとオペラの政治学』（青弓社）や『ヴァーグナーのオペラの女性像』（鳥影社）で一番書きたかったのは、モーツァルトやワーグナーのオペラに登場する女性主人公たちが持つそのような強さである。<br />モーツァルトとワーグナー、このふたりの偉大なオペラ作曲家は、しばしば対極的に語られる。幸福感に満ちあふれた、優美で晴朗な音楽と、濃厚な情念と底知れぬ深淵をはらんだ重厚な音楽。１８世紀のロココと１９世紀のロマン主義。ふたりの音楽ほど対照的なものは他にないかもしれず、それを支持する人々もはっきりふたつに分かれるようだ。熱烈なモーツァルティアンと熱狂的なワグネリアン。両派のあいだに対話の可能性はほとんどないようにもみえる。ちなみに現在の私はどちらの音楽も好む不純な（？）愛好家だが、それでも病気で熱でもないかぎり、朝からワーグナーを聴く気にはなれない。午前中に本を読みながら聴くのにふさわしいのは、やはりモーツァルトの交響曲や協奏曲だろう。また若い頃はもっぱらワーグナーやロマン派の音楽を中心に聴いていたものの、年齢を重ねるにつれてモーツァルトの良さがわかってきたという自分の好みの変化もある。それはともかく今言いたいのは、モーツァルトかワーグナーかと二者択一的にとらえるとき、それはあくまで音楽だけを念頭に置いて考えているということだ。少し視点を変えて、彼らが作り出したオペラの女性主人公たちの特性に注目すると両者には大いなる共通性が見い出せる。そしてそれはふたりの芸術家の生き方にもかかわる重要な問題だと思われる。<br /><br />拙著『モーツァルトとオペラの政治学』は、貴族社会から市民社会への転換期に生きた芸術家モーツァルトという視点から、彼の７大オペラ、すなわち、『イドメネオ』、『後宮からの逃走』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』、『皇帝ティートの慈悲』、『魔笛』を読み解く試みである。「読み解く」とは、それぞれの作品が何を言いたいのかを解明することにある。これまで余り論じられることのなかったふたつのオペラ・セリア、『イドメネオ』と『皇帝ティートの慈悲』を取り上げているのもこの本の大きな特色である。フランスの演出家ジャン＝ピエール・ポネルは、モーツァルトを時代や社会の変化に敏感な「政治的な人間」ととらえているが、私が何よりも意図したのは、そのようなモーツァルトがオペラ作品に込めた政治的社会的意味、つまり「モーツァルトのオペラの政治学」とも言うべきものを明らかにすることにあった。<br /><br />『イドメネオ』から『魔笛』にいたる７つの作品を考察してあらためて気付かされたのは、モーツァルトのオペラの根底には、つねにエロスの問題が存在しているということである。このエロスのテーマはとりわけ、愛と結婚をめぐる貴族社会と市民社会の規範の対立や葛藤という形で作品のなかで繰り返し提示されている。一般的に貴族社会における結婚は家の継承と繁栄を目的としてなされるものであり、そこでは愛と結婚の義務の分離という伝統的な規範が支配的であったが、モーツァルトが宮廷社会の中で生きながらも、愛と結婚の義務の一致を求める市民社会的規範をすでに信奉していたことは、父レオポルトにあてた手紙などから明らかである。社会学者ノルベルト・エリアスはこのようなモーツァルトの生涯を、「宮廷に仕えていた市民的人間の運命」と規定し、「偉大な宮廷市民的芸術家に特徴的なのは、彼がいわばふたつの社会に生きていたことである。モーツァルトの生活と創作は、この分裂によって刻印されている」と述べている。そして注目すべきは、モーツァルトが己の抱くそのような新しいブルジョワ的価値観を、彼のオペラのなかでは主に女性主人公たちに体現させていることである。『イドメネオ』のイリア、『後宮からの逃走』のコンスタンツェ、『フィガロの結婚』の伯爵夫人やスザンナ、『皇帝ティートの慈悲』のセルヴィリア、『魔笛』のパミーナなどはいずれも、己が愛する男性への愛を貫き、愛のユートピアを実現しようとする点で共通している。私の本はいわば、そのような強くたくましい彼女たちへのオマージュである。<br /><br />ワーグナーのオペラの中心にエロスの問題があることはあらためて言うまでもない（舞台神聖祝典劇と呼ばれる『パルジファル』においてもやはりそうである）。そのタイトルのとおり、拙著『ヴァーグナーの女性像』の意図は、『さまよえるオランダ人』から『パルジファル』にいたるワーグナーのオペラの女性主人公たちの特性を体系的に考察することにある。 愛と権力の対立はワーグナーのオペラの最大のテーマだが、たとえば『ニーベルングの指環』４部作では、ほとんどの男性登場人物たちは愛よりも権力に価値を置く（唯一の例外はジークムントである）。アルベリヒは愛を断念することによって、ラインの黄金から世界を支配できる指環を作り出し、巨人ファゾルトはヴァルハラ城建設の代償として、愛と青春の女神フライアへの愛よりも黄金と指環の方を選ぶ。また神々の長であり、契約の神でもあるヴォータンも、己が支配する世界秩序を維持するために、結婚の守護神である妻フリッカの抗議を受け入れて、姦通と近親相姦の罪を犯したジークムントとジークリンデの自由で対等な愛よりも、フンディングと彼の所有物であるジークリンデの愛のない結婚制度の存続を優先する。さらに生来の自然児、アウトサイダーとして生まれた英雄ジークフリートさえも、忘れ薬を飲んでブリュンヒルデとの愛の記憶を忘れ去った後は、ギービヒ家の男性社会の中で専ら支配と所有の欲望に従って行動する。<br /><br />それに対してワーグナーの最高傑作とも言える『トリスタンとイゾルデ』では、イゾルデはトリスタンとの不貞の愛を成就することによって、愛を抑圧するブルジョワ的結婚制度を徹底的に破壊する。また『さまよえるオランダ人』のゼンタは海に身を投じてオランダ人の魂を救済し、『タンホイザー』のエリーザベトは愛するタンホイザーの贖罪を求めて自死する道を選び、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のエーファでさえもヴァルターとの愛のためならば、父も家も捨てて駆け落ちする決心を何のためらいもなくする。さらに『神々の黄昏』の幕切れで、ブリュンヒルデは彼岸でジークフリートとの愛に生きるためにその亡骸に火を放ち、その炎はギービヒ家の館はもとより、ブルジョワ的権力を象徴するヴァルハラ城や神々をも焼き払う。愛と権力の対立は、自由と秩序、エロスと政治との対立とも言い換えられるが、ワーグナーのオペラでは前者は女性によって、後者は男性によって具現されている。そしてその際、ワーグナーが男性たちの行動を皮肉な眼差しで眺め、女性たちのそれを共感を込めて描いていることは明らかである。ワーグナーにとって、支配と所有の原理に基づくブルジョワ的な結婚制度は愛を抑圧するものであり、彼のオペラの女性主人公たちは、己の愛を貫くためであれば、社会規範を侵犯し、秩序を破壊することもいとわない。ワーグナーのオペラでは、愛のユートピアは、ジークムントとジークリンデ、トリスタンとイゾルデなどの反社会的な行為の中でだけ、ほんの一瞬実現されるが、彼らの愛の帰結は死である。<br /><br />１９世紀を代表する芸術家ワーグナーが批判的に描く市民社会は、近代への入り口に立つモーツァルトにとっては、いまだユートピアの中にだけ存在しているようにみえる。それは、アドルノの言う「封建制の束縛に損なわれることもなく、またブルジョワ的野蛮からも守られた人間性」に満たされた世界である。そしてこのユートピアを、モーツァルトのオペラの女性たちは愛を通して実現しようとするが、その際、君主や領主など封建社会の支配者たちが最大の妨害者となる（ただし、『魔笛』でパミーナの愛を妨げるのは、家父長制が支配する市民社会の指導者ザラストロである）。彼らは愛と結婚の義務の分離を伝統とする貴族社会的規範を信奉し、権力を用いて女性たちに愛を強要しようとする。愛のユートピアを求める女性主人公たちが、ワーグナーではブルジョワ男性の支配と所有の欲望に抗うように、モーツァルトでは封建領主たちの性的欲望と戦わねばならない。スザンナに逢い引きを迫る『フィガロの結婚』のアルマヴィーヴァ伯爵、コンスタンツェに求愛する『後宮からの逃走』の太守パシャなどは、封建的権力者の代表的な存在であるが、彼らのもくろみは当然のことながら挫折する。その中でもエロスの化身とも言うべき『ドン・ジョヴァンニ』の主人公ですら、モーツァルトのオペラの中では、女性たちを強く魅惑しつつも誘惑にことごとく失敗するのは注目に値する。それはドンナ・エルヴィーラをはじめとする女性たちの妨害と抵抗のためである。すなわちこのオペラでは、ドン・ジョヴァンニは依然として自由奔放な放蕩者ではあっても、彼を取り囲む女性たちや社会の状況が大きく変化しつつあることを示している。モーツァルトのオペラの女性たちは、貴族社会から市民社会に移行しつつある時代の変化を敏感に感じ取りながら、彼女たちの愛を束縛する封建制の秩序や規範を打破し、解体しようとする。そこには、エリアスの言う「宮廷社会における市民的芸術家」、「宮廷社会に仕える市民的アウトサイダー」として生きたモーツァルト自身の新しい社会へのユートピア願望が強く投影されていると考えるべきである。<br /><br />このようにみてくれば、モーツァルトとワーグナーのどちらも、己の信奉する愛や結婚に対する観念を、オペラのなかでは男性ではなく女性に投影していることが明らかとなる。女性主人公たちへの深い共感において両者のオペラは通底している。ヨーロッパにおいても女性はつねに社会のアウトサイダー的存在であったし、現在も依然としてそうなのかもしれないが、その分だけ既存の秩序に執着することなく、新しい価値観に対しても柔軟なのだろう。だがそれにしても、モーツァルトやワーグナーのオペラの女性主人公たちの何と誇り高く、たくましいことだろう。彼女たちは、貴族社会であれ、市民社会であれ、愛のユートピアの実現のために、己の愛を抑圧する男性世界の規範を打ち砕き、それを乗り越える勇気と行動力を有しているのである。<br /><br />三宅新三（岡山大学大学院社会文化研究科教授）</div>]]>
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		<title>クライスト没後二百年に（コト）よせて（M. Manabe）[J]</title>
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		<published>2011-12-09T08:30:20+00:00</published>
		<updated>2011-12-10T18:08:36+00:00</updated>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.jgg.jp/" xml:lang="ja">今年はプロイセンの劇作家、ジャーナリストそして小説家であったハインリヒ・フォン・クライスト(Heinrich von Kleist, 1777-1811)の没後二百年にあたる記念の年、「クライスト年」です。それにともなってドイツ各地でクライストの戯曲作品を集中的に上演する複数の企画が進行しており（注1、注1’、注1’’）、クライスト関連のシンポジウムもドイツ国内のみならずアメリカを始めとして世界各地で開催されています。クライスト関連の研究書、文芸作品の出版も数多く見られ、クライスト全集として、新たにミュンヘン版（注2）も出版されました。この全集は、原資料をできる限り収録し、文献学的な註を充実させた大部のブランデンブルク・ベルリン版クライスト全集を、読者が手にとって読みやすいように簡略化した普及版です。</summary>
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<![CDATA[<div>今年はプロイセンの劇作家、ジャーナリストそして小説家であったハインリヒ・フォン・クライスト(Heinrich von Kleist, 1777-1811)の没後二百年にあたる記念の年、「クライスト年」です。それにともなってドイツ各地でクライストの戯曲作品を集中的に上演する複数の企画が進行しており（<a href="http://www.heinrich-von-kleist.org/startseite/">注1</a>、<a href="http://www.artefakt-berlin.de/aktuelle-projekte/kleist-jahr-2011.html">注1’</a>、<a href="http://bildungsserver.berlin-brandenburg.de/kleist_2011.html">注1’’</a>）、クライスト関連のシンポジウムもドイツ国内のみならずアメリカを始めとして世界各地で開催されています。クライスト関連の研究書、文芸作品の出版も数多く見られ、クライスト全集として、新たにミュンヘン版（<a href="http://www.textkritik.de/kleist_hanser/index.htm">注2</a>）も出版されました。この全集は、原資料をできる限り収録し、文献学的な註を充実させた大部のブランデンブルク・ベルリン版クライスト全集を、読者が手にとって読みやすいように簡略化した普及版です。<br />この「クライスト年」にちなんで日本でも、ゲーテ・インスティテュート東京の主催で、林立騎氏によって企画された四回にわたる非常に興味深い催し物がありました。（<a href="http://ameblo.jp/goethe-tokyo/entry-11025666824.html">注3</a>）クライストの最期を『Xファイル』よろしく再現VTRによってミステリ仕立てで解説した映像作品『クライスト ―ある作家の死の記録―』Die Akte Kleistの上映、大宮勘一郎氏のクライストのアクチュアリティに関する講演「クライスト2001 / 2011　―21世紀最初の10年とクライストの諸作品―」、ポストモダン演劇研究の大家ハンス=ティース・レーマン氏と林氏とのトークセッション「クライストと演劇」、多和田葉子氏による「クライスト年」に寄せて書き下ろされたエッセイ『日本語のクライスト』の朗読です。クライスト自身が同時代の歴史的・社会的な変化によって揺さぶられていたと同時に、クライストのテキストを読むことで、作家の同時代の読者のみならず、さらに現代の読者までもが揺さぶりをうけることになる。それゆえ、資料が少ないために謎が多いクライスト像と、彼のテキストの可能性を固定してしまうのではなく、むしろ、既存の「読み方」を揺さぶって新たな可能性を汲んでいくことを目指すべきだ、というのが林氏の構想であると理解しました。<br /><br />では、少し見方を変えて、没年としての「クライスト年」を迎える意味について考えてみたいと思います。クライストの誕生を祝いことほぐ「生年」と、彼の死を想う「没年」とでは、少しばかり記念の思いの味わいが異なると思われるからです。特にクライストにおいてはそう思われます。<br /><br />今から二百年前の11月21日午後四時過ぎ、三十四歳のクライストはポツダム近郊の小ヴァン湖畔で、プロイセン政府会計業務ベルリン地区担当官吏フリードリヒ・ルートヴィヒ･フォーゲル氏の人妻ヘンリエッテ・フォーゲルの胸をピストルで撃ち、自身もピストルを咥えて発砲し、命を絶ちました。その死の直前、二人は滞在していた近くの宿屋「（シュティムングの）甕亭」からテーブル、椅子、そしてコーヒーとラム酒を湖畔に届けさせており、はしゃいだ声すら聞こえてきた、と宿屋の主人は証言しています。その後、二発の銃声がして、二人の遺体が発見されました。ヘンリエッテは仰向けに手を組んでおり、クライストは彼女に向かって屈みこむ姿勢でした。翌日に作成された検死報告書には、｢男性の遺体｣〔クライスト〕が自身に撃った弾丸は口腔内で上方に発射され、その舌も歯も傷つけることがなかった、またその他一切の疾患も外傷も見つからなかったため、頭蓋内部に突き刺さって留まったこの豆粒大（3/4Lot=12.75g程度）の鉛が脳組織を破壊したことが死因なのは明らかである、と記されています。女性の遺体にも争った形跡は見あたらず、乱れのない着衣の左胸部にできた焦げ痕と小さな血痕が示すとおり、至近距離からの発砲が心臓組織を破壊したのが死因でした。解剖により遺体の子宮からは腫瘍状の硬化した組織が発見されましたが、それが致死性のものだったかどうかは定かではありません。彼女が配偶者へ宛てた書簡には、病気のことや、あれこれの現実上の困難が死を望む理由だった、この望みを叶えてくれると約束してくれたクライストと出会った、とあります。クライストもまた自身のことを、この世では救いようのない人間である、ともっとも仲のよかった異母姉のウルリケに書き送っています。人生に絶望していたのです。<br /><br />1811年当時、同時代の読者から認められず、クライストは経済的困窮に苦悩していました。自らが発行する日刊新聞『ベルリン夕刊新聞』も、アクチュアルな犯罪事件情報の提供をうけていた管轄の警察署からの協力が打ち切られて人気を失い、廃刊に追い込まれます。一度は背を向けた（数多くの高位の将校を輩出していたクライスト家の家業ともいえる）プロイセン軍の士官の道を、経済的困窮から再び選ばざるをえませんでしたが、プロイセン王妃ルイーゼの元侍女で、クライストが敬愛していた義理の従姉妹マリー・フォン・クライストから王家へなされた口添えも功を奏さず、軍に復職することはできませんでした。援助の手を差し伸べ続けてくれていたマリーに対してクライストは、あなたが一緒に死んでくれなかったから、自分はこのすばらしい女性ヘンリエッテ・フォーゲルとともに来世へ向かうのです、と書簡で述べています。ヘンリエッテもまた、自身の死によって妻と母を失うことになる夫と娘への愛情について、その遺書となる書簡で明確に口にしていますから（それが気休めの嘘であったにせよ）、二人は互いに、自身にふさわしいと思われた相手とは別人の手をとって死出の旅に出たことになります。<br /><br />クライストは、もっとも望んだ女性ではなく、その代替となる女性とともに幸福な来世へと旅立つことを夢見て、さらに夢見るだけでなく、それを実行に移したように思えます。現実の成功の代替物を求めて、恋人の代替者とともに、代替となる世界（現世ではなく来世）へ向かうのですから、「ほんらい求めたものとは別の方向へ進む」という筋書きを、まさに何重にも重ね合わせた演出が、ここには施されています。これは小説や戯曲のなかの話ではありませんから、彼はじっさいに現実の材料を用いて、自らをその筋立ての内部に配して、死出の旅の物語を実体化して見せたことになります。彼は言葉ではなく、自身を取り囲む現実を材料にして物語を（じっさいに書くことなく）「書いた」のだ、と思われます。2011年11月21日付FAZインターネット版文芸欄記事「その人生から（出でし）」AusdemLebenでフォルカー・ヴァイダーマンVolker Weidermannは、クライストのこの死の様子が、彼の作品中で描かれるいくつかの死の状況と似通っている、と指摘しています。（<a href="http://www.faz.net/aktuell/feuilleton/buecher/autoren/heinrich-von-kleist-aus-dem-leben-11534227.html">注4</a>）命の恩人で愛していたはずのトーニを誤解から撃ち殺し、自ら頭を撃って自殺する『聖ドミンゴの婚約』のグスタフ（=アウグスト）や、自らの処刑後の来世の浄福を夢見る公子フリードリヒ・フォン・ホンブルクが、作者クライストの死の情景と二重写しに見えてきますし、恋い焦がれたアキレウスのメッセージを正反対の内容に誤解して激昂し、忘我の状態で彼を惨殺した後、自死を表現したその言葉通りに、じっさいに舞台上で死んでしまうペンテジレーアもまた、（自死の）言葉と行為を一つにしてしまう存在でした。<br /><br />クライストの作品群とその現実の人生の最期の場面においては、「言葉」と「事柄」が奇妙に通じ合って近づき、虚構と現実は一挙に重ね合わされてしまいます。コトバとコトはニテイマスノデ。クライストにおける、この「詩と真実」のあいだにある境界の侵蝕は、現実という固い地盤に立っている、と信じて疑わない第三者の安寧秩序をも侵蝕しかねません。クライストの演じた死に様という「現実」（の報道）は、その悲報を耳にした人々のうち、クライストの作品を読んだことのある読者、そして特にウルリケとマリー、さらに幾人かの親しい友人たちに、ある種の困惑を生じさせるはずのものだったのではないでしょうか。クライストの作品群という「虚構」のなかに見出されたいくつかの構造は、彼の「現実」の死の有り様と近似している。そう感じた者の現実感は虚構を前にした感覚とすり替えられて撹乱され、眩暈にも似た感覚が呼び起こされるはずだ、と。カスパー・ダーフィト・フリードリヒの『海辺の修道士』（<a href="http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/21/Caspar_David_Friedrich_-_Der_M%C3%B6nch_am_Meer_-_Google_Art_Project.jpg/800px-Caspar_David_Friedrich_-_Der_M%C3%B6nch_am_Meer_-_Google_Art_Project.jpg">注5</a>）には、荒涼たる海原を前にして立つ修道士の後姿が描かれています。この人物は、水平線の彼方の到達不可能な場所への憧憬を抱いている、とクライストは解釈し、そこに描きこまれた心境を賞賛しました。しかし、現実の複製にすぎないこの絵画を前にしても同様の憧憬に悩まされる、と彼は考えます。現実と芸術（虚構）のあいだにも越え難い断絶があるからです。ならば実物の材料を用いて現実を描き、現実認識と擬似認識を完璧にすり替えることが出来る芸術作品を作れば、この断絶を乗り越えられるかもしれない、野生の狼すらそれを本物と取り違えて遠吠えしかねない、と彼は思わせぶりな示唆をしていたことが思い出されます。<br /><br />だとしても、人気はなかったとはいえ作家としては当時有名人であり、武官の名門の一員であるクライストが反社会的・反キリスト教的な事件を起こすという醜聞を、反動的で体面を重んじるプロイセン当局が許しておくはずがありませんでした。二度目の検死報告で彼は、胆汁質ゆえに心気症に悩まされていたと分析され、そのせいで一線を越えた病質者と認定されて、彼の訃報そのものが社会にとってはイレギュラーなものとして無害化されていったのです。クライストの自死のおよそ三十年前には「ウェルテル」を模倣した自殺者が多数存在した一方で、だからこそ、虚構と現実を切り分けて謹厳に実社会を生き抜くことが健康で成熟した人間の態度とみなされていました。クライストの作品と人生は謎であり、不気味なものと思われ、その自死は病的なものとして不問に付されました。<br /><br />そういうわけで、別の作家であればその生涯に思いを馳せ、作品を読み返して再評価するきっかけにもなろう日付としての記念年（没年）の「命日」は、クライストにおいてはそれに加えて、彼自身が手を下した、現実の生々しい、自身と他者の二重の殺人を想起させる契機となっています。それは、公序良俗の通用しない遥か彼方にまで突出する過激な暴力と謎、そして「コトバ」と「コト」を強引に一つに重ね合わせてしまうクライストの演出の、その記念碑となっているのです。そう、読めてしまいます。しかし、クライストにおいてはじつは、この「そう読めてしまう」と感じる心理ほど危険な状態もありません。読者にとっては意義深く魅力的な解釈が、彼のテキストにはいたるところ撒き散らされていますが、そういった、往々にして我田引水となる恣意的な解釈を皮肉に嘲笑う言説もまた、クライストのエッセイや書簡には繰り返し登場するのですから。たとえば『神の鉄筆』では、落雷で溶け乱れた墓碑銘にかろうじて残ったいくつかの文字から、勧善懲悪を示唆する神的なメッセージを読みたがる者たちとして、「律法学者」がさりげなく皮肉られています。そして『チリの地震』の地震と、それが生じせしめたドミニコ会系教会の天蓋の亀裂が、当事者たちにとって肯定的と否定的の、両極端に解釈されたことは、ワレワレの現実とも不気味に接合して、記憶に新しいことでしょう。<br /><br />ゲーテやシラーの作品が時代がかったものと感じられる一方で、クライストの作品群は現代の読者にとって近しいと感じられるだろう、と前述のFAZインターネット版の文芸欄筆者ヴァイダーマンは結んでいます。クライストの諸作品は生き残りました。ロマン主義的なモチーフが散りばめられた『ハイルブロンのケートヒェン』は十九世紀を通して、ナポレオン戦争後に急速にドイツ愛国主義的な志向を強めていったドイツ語圏の各地の劇場で人気を博していったのです。普仏戦争後のドイツ帝国成立のさい、そして第一次世界大戦の前後と第二次世界大戦にわたって『ヘルマンの戦い』といったクライストの愛国的な作品がプロパガンダとして利用され、その知名度を高めていきました。知名度の高まりと比例して、十九世紀末からようやくクライストのテキストそれぞれと真摯に向き合う態度が生まれてきました。ゲーテ、シラー、ヘルダーといった理性的で健康な古典主義のカノン（規範的文献）にかわり、ヘルダーリン、ビュヒナーらと並んでクライストは、合理性や調和の届かない世界（理性の裏面）を描き出す、もう一つの近代を象徴する新たなカノンをなす作家の一人となりました。『ペンテジレーア』をはじめとして、作中で爆発する「感情」の表現に注目が集まり、第二次大戦後は愛国主義的な側面よりも、クライストの諸作品にみられる特異な言語表現の分析に力が注がれていき、六十年代の学生運動時には『ミヒャエル・コールハース』に代表されるように、既存の権威による不当な抑圧への反抗の狼煙として彼の作品が読まれていきます。方法論の多種乱立が意識され始めた八十年代以降には、記号論やディスクール分析、メディア論、システム理論を応用した多様な分析方法でクライストのテキストを読む試みが登場してきています。現在もクライストは読み継がれています。<br /><br />1998年、ミュンヘン留学時の私は、資料漁りにクライストの生地オーダー河畔のフランクフルトにある、その生家を改築したクライスト・ミュージアム（<a href="http://www.heinrich-von-kleist.org/kleist-museum/">注6</a>）と、そこから歩いて十分程度のクライスト図書館（<a href="http://www.heinrich-von-kleist.org/kleist-museum/bibliothek/">注7 </a>）を訪ねたことがあります。クライスト図書館は、建物も役所然としていて、クライスト研究の専門家以外が出入りすることはなさそうな雰囲気でした。さらに同年、ハイルブロン市の繁華街の中心部、ショッピング・モール「テアター・フォーラム」（<a href="http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fc/Heilbronn-theaterforum-k3.JPG/800px-Heilbronn-theaterforum-k3.JPG">注8</a>）内のテナントの一つ、K3にあるゼムトナー・クライスト資料館事務所（<a href="http://www.kleist.org/">注9</a>）と、そこに隣接する劇場「コメディ・ハウス」（<a href="http://www.theater-heilbronn.de/index.php?id=29">注10</a>）にも足を運びました。その立地が示すとおり、ハイルブロンのクライスト資料館の開放性と商業性には驚かされました。責任者のギュンター・エーミヒ氏も非常に親切にして下さり、世界中からクライストの関連出版物が送付されてくる、僕は日本語が読めないけれど、君は日本から送られてくる『ニンギョウシバイ』という刊行物の関係者か？とも質問されました。その都市論的な意味合いもさることながら、「クライスト」と「ショッピング・モール」の組み合わせは、なんだか対極のもの同士に思われ、東と西のクライスト・アーカイヴで、これほどのコントラストが浮かび上がるのも面白いな、と思いました。<br /><br />最後に、みなさんもよくご存知の動画掲載サイトYouTube（<a href="http://www.youtube.com/">注11</a>）で、「heinrich von kleist」とキーワードを入力して動画検索をかけてみるとどうなるか（<a href="http://www.youtube.com/results?search_query=heinrich+von+kleist&oq=heinrich+von+kleist&aq=f&aqi=&aql=&gs_sm=e&gs_upl=36594l41792l0l42104l20l17l0l10l10l1l309l1570l0.3.3.1l7l0">注12</a>）、最新のクライスト受容の現実についてお知らせしたいと思います。個々の作品名でも結構です。すると、クライスト作品の劇場での舞台上演の一部を撮影した予告映像や、朗読商品の断片などが見つかるでしょう。検索の糸をさらに手繰っていくと、いくつか不可解な映像に出会うことと思います。演技についてはズブの素人と思しき生徒たちが面白半分に自主制作したような、クライスト作品のダイジェスト版（<a href="http://www.youtube.com/watch?v=mJO041cmVv0&feature=related">注13</a>）のような映像群です。なかにはLegoを用いた人形劇（<a href="http://www.youtube.com/watch?v=xmr-sGmp1m8&feature=related">注14</a>）のようなものもあり、話の粗筋を示すためだけに作られたように思われる出来のものも多いのです。それらの映像の作者コメント欄には、「試験頑張って」や「アビ（トゥア）〔ギムナジウム修了・大学入学資格試験〕対策」のようなメッセージが見つかったりもします。つまり、クライストの諸作品は「ドイツ語」の授業〔われわれにとっての「国語」〕の教程内容に組み込まれているので、実物のテキストを読むかわりに、これらの映像を見て試験対策にその粗筋を記憶に残す生徒たちもいれば、学校の課題としてこのような映像を作る者もいるというわけです。彼らにとってもクライストの文章は難解らしく、昨年発売されたApple社の、当時最薄のSSD搭載ノートPC「MacBook Air」のコマーシャル映像（<a href="http://www.youtube.com/watch?v=mcw_Mvnp3WY">注15</a>）をそのままパロディにして皮肉っている映像もあります。オリジナルのCMでは、スタイリッシュなBGM(Yael Naim& David Donatien: "New Soul")とともにA4サイズの封筒からPCが取り出され、デモンストレーションが行われた後に「MacBook Air、世界最薄のノートPC」というキャプションが入るのですが、パロディ映像（<a href="http://www.youtube.com/watch?v=b_IlMgm12ns">注16</a>）では同様の封筒から、読み込まれてくたびれたペーパーバックの『ミヒャエル・コールハース』が取り出され、ページの端に描かれた拙いパラパラ漫画で「動画再生」(!)も可能なことが証明されると、「ミヒャエル・コールハース、その時代で最も戦慄すべき本の一つ」というキャプションが入ります。『ミヒャエル・コールハース』の冒頭、コールハースを語り手が「その時代で最も厳正で、同時に最も戦慄すべき男の一人」と形容していることにかけているわけです。この映像の作者は„Daniel S.“と記されていますが、映像に登場する彼の『コールハース』には、黄色の蛍光マーカーでたくさんの線が引かれていました。<br /><br />眞鍋　正紀（上智大学非常勤講師）</div>]]>
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		<title>こんなところでも人は住んでいる、こんなときでも授業はある――2011年3月11日後の東北の私的断片（H. Matsuzaki）[J]</title>
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		<updated>2011-12-05T16:39:58+00:00</updated>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.jgg.jp/" xml:lang="ja">2011年3月11日（金）から8ヶ月が過ぎた。大地震直後の印象が、疲れとともに薄れもする一方で、些細なことが、憤りとともに思い出されたりもする。私個人には、被害らしい被害はなかった。それでもなお、あるいはそれゆえに、事態に対して距離を取れる状態ではない。あのとき、地震後すぐに停電し、携帯電話もつながらず、周囲の状況がわからずにいた。私は、依然として目の前のことで手いっぱいである。何かがわかったとは到底いえないまま、しかし、一日一日と生活はある。以下は、被災地のなかで、ドイツ語の授業を生業としている者の、とりとめのない雑感の一部である。</summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jgg.jp/">
<![CDATA[<div>2011年3月11日（金）から8ヶ月が過ぎた。大地震直後の印象が、疲れとともに薄れもする一方で、些細なことが、憤りとともに思い出されたりもする。私個人には、被害らしい被害はなかった。それでもなお、あるいはそれゆえに、事態に対して距離を取れる状態ではない。あのとき、地震後すぐに停電し、携帯電話もつながらず、周囲の状況がわからずにいた。私は、依然として目の前のことで手いっぱいである。何かがわかったとは到底いえないまま、しかし、一日一日と生活はある。以下は、被災地のなかで、ドイツ語の授業を生業としている者の、とりとめのない雑感の一部である。<br />3月11日14時46分には、私は父と宮城県仙台市の自宅にいた。地震は強く、そして長かった。地震に弄ばれていると思った。収まった直後から強い余震が続いた。近くを流れる名取川が、川上での崖崩れによって増水しやしないかと気がかりだった。同時に、隣接する名取市閖上方面から（夏には閖上港での花火が見えるところから）、昼時ではないのに、さかんに煙が上がるのが不思議だった。このときすでに津波が押し寄せ、船から出火し、名取川は逆流していた。そうとは知らずに、名取川の氾濫を心配していたのである。後で思えば、呑気過ぎる話であった。　　<br /><br />この夜、母は弟に付き添われて避難所に泊まった。父は「戦争中を思い出す」と、余震が続いているにもかかわらず、ローソクの灯りで本を読み始めた。不寝番をしながら、「読書」という行為はそもそもが奇妙なのでは、と思えた。名取大橋の警報が夜通し鳴っていた。それにおびえながらも、ラジオが伝える気仙沼市や南三陸志津川町などの状況は、現実感を伴って耳に入ってはこなかった。ラジオからはくりかえし「壊滅的状況」という言葉が流れた。「壊滅って言葉、なんかいやだね」、私がそういうと、父はまた戦時中を思い出すようであった。私はニュースが伝える規模の津波被災を思い浮かべることができず、それを「壊滅」という言葉のせいにした。<br /><br /><br />その後しばらくは、通信手段もなく交通も麻痺し、確実に津波が到達したであろう親戚や、沿岸部に住む知人の安否もわからなかった。乏しい情報からでも、仙台では4月の新学期開始はまったく無理と思われた。むろん福島はなおさらだった。寒さもこたえた。余震に備えて、靴を履いてソファで眠った。熟睡はできなかった。それでも、不安と不便のなかにも妙なすがすがしさがあった。日の出ている間に生活のすべてをする。列に並び、品物の乏しい棚から必要な物だけを選ぶ。暗くなればその日の生活を終える。仙台市最南部の田舎のせいもあってか、辺りにも穏やかな雰囲気があふれていた。<br /><br />そうした生活は、地方の人々の心意気というべきものに負っていた。（それを支える、全国の方々からの援助がどれほどありがたかったかは、いうまでもない。）近所の小さな商店の多くは翌日、翌々日には店を開けた。（3月12日以降、途切れることなく手に入った唯一の物は宮城の地酒、東北の地酒であった。）地元新聞社は翌日から朝刊・夕刊とも発行した。地元のラジオ放送局はアンテナが津波に襲われながらも連日、24時間体制で報じた。小包や宅配は別として、郵便物も届いた。郵政の民営化ゆえにではなく、民営化したにもかかわらず届いたのだ、と強く思った。<br /><br />とはいえ、それが「地域の力」に裏打ちされた「災害ユートピア」（久しぶりで読み返したクライストの『チリの地震』にも、その様相が描かれていた）なのかはわからない。そこかしこで立ち話をする人がいた。互いの無事をよろこびながら穏やかに話されている内容は、しばしば想像を絶するものであった。私は、ここで生き残ったのだから、ここで生き延びる、とだけ考えていた。<br /><br />3月11日の夜から、月がじつに明るく輝いていた。美しい月に、むしろ私は恐くなった。けれども、それはとてつもなく恵まれていることでもあった。ロベール・アンテルムが『人類』のなかで、強制収容所で見た夜空に、自己の生を確認する一節と、それについてのサラ・コフマンのコメント（『窒息した言葉』）がしきりに脳裏に浮かんだ。<br /><br />それにしても、いま、こぞって「地域の力」が称賛されているけど、さんざん馬鹿にされてきたじゃないか。「11日」という日付は、そのようなことも私に思い起こさせた。<br /><br /><br />おしゃれな学生が、「復興Tシャツ」を着て教室に現れることがある。言葉ではなく態度で示す、あるいは背中に語らせる行動もふくめて、言葉が発せられる状況について考えさせられる。だれもが思いつく「9.11」との日付の重なりは（「14時46分」と「5時46分」もだが）、「復興」「支援」「想定」といった言葉の重なりでもあったからである。<br /><br />当時の首相は、2001年9月11日とその後の状況において「（イラク）復興支援」を語った。メディアにもその言葉があふれ、「支援」という言葉は国立大学法人化と平行して教育の場にも入り込んだ。彼のブレーンらは、地方の小さな商店街を日本経済の邪魔者とみなした。彼がいまこのときに現職なら、と想像した。原発事故の危険地域、そんなもの私に聞かれてもわかるわけがないとでもいいながら、すぐに東北地方を切り捨てるだろう･･･復旧はすべて「自己責任」･･･。<br /><br />かつて「想定内」の流行とともに、「復興」「支援」が地方切り捨ての冷酷な視点のもとで語られた。その言葉が、今度は「想定外」ばかりはびこるなかで、しかし市井の人々によって異なるまなざしで、異なる声で、異なる肌触りで語られる。それに接するとき、私は胸を熱くし、東北にいるのだと、身にしみて思う。<br /><br />その思いとともに、あらためて考え込む。だれが、どの立場で、どの文脈で言葉を発するのか、それを聞くのは、だれが、どの状況で、なのか。同じ言葉がそれによって残酷にもなり温かくもなる。ごくあたりまえのことだが、難しいものだ、と思う。甚大な被害が生じた知人に声をかけるとき、私の言葉は気休め、他人事、そんなものでしかないのではないか、と気がふさぐ。もどかしい気持ちとともに、それでも言葉を発し、知人からの言葉に安堵もし、痛みをおぼえもする。<br /><br /><br />4月7日（木）深夜の最大余震で、ふたたびめちゃめちゃになった部屋で、2001年の授業で使用したあるプリントを探す。<br /><br />2001年に小さな新聞記事を見かけた。省庁改編によって、1999年9月30日に起きた東海村JCO臨界事故の報告書の帰属が宙に浮いているという。ならば、と、この事故を報じるドイツ語の記事のコピーを、学部2年生の後期購読テクストとしたのだった。私に専門的知識はまったくなく、学生にとってひどい授業だっただろう。だが、私の意図を理解し、鋭く反応した学生も少なくなかったと思う。その元学生たちは、いま、東京電力福島第一原子力発電所の事故とその報道に対して、「安全神話」に対して、どう考えているだろう。そう思いながらも、結局は私自身が、この10年間、原子力や原発事故について詳しく調べたり、文献を読み込んだりしていないことに、暗然とするのみである。アルトゥア・シュニッツラーの言葉「安全なんてどこにもない（Sicherheit ist nirgends.）」を、自分に対する苦い思いとともに、噛みしめる。<br /><br /><br />私は被災地に住んでいても、自分を被災者といえる気分ではなかった。たしかに家屋や家財の損壊はあったし、生活上の困難もあった。だが、周囲の地震被災・津波被災があまりにも酷過ぎた。比べようもなかった。東北地方に限ったことではないだろうが、宮城県でも、地域の衰退や交通事情の悪化、医療過疎、相次ぐガソリンスタンドの閉鎖などは、かねてより問題となっていた。地震被害・津波被害はそこに直撃した。被災状況は地域によって、地区によって、あまりにも異なっていた。<br /><br />他方、東京電力福島第一原発の事故のもとでは、福島県の人々はいうまでもなく、日本の多くの人が被害者となった。またはその代弁者に。放射性物質の飛散・拡散による被害は、もちろん東北に限定されることではない。そして、被災地のなかでの被災状況が一様ではないように、原発被害者も一様ではない。<br /><br />ある著名な知識人が、小さい子を持つ親の不安に思いをはせながら、前置きとして、産地を確かめて食品を選んでいる旨を新聞に書いていた。自分ですらそうなのだから、まして若い母の不安はさぞや、というわけだ。不安を持たざるを得ない人々への、その文化人の共感や同情を、私はもっともなことだと思う。危ないと判断した食品を避けるのも、消費者として賢明な態度だろう。けれども、この知識人にとって、「産地」のなかで原発事故にも、生計にも、不安におびえながら生きる若い生産者親子は、共感を寄せる対象ではないのだろう。そう思えた。それは、私が仙台の農村地帯で生まれ育ったからかもしれない。JR金谷川駅から、田畑を見ながら福島大学に向かうからかもしれない。<br /><br />その知識人は、被災地の人々の声を募集する、ある企画の選考委員を務めるという。どの視点から、どの声を選び、どの声を捨て、どの声を無視するのだろうか。私は、その「選評」を読みたいとは思わない。<br /><br /><br />5月の連休明けに、仙台でも福島でも授業が始まった。キャンパスの被害はそれぞれに大きかった。ごく一例だが、東北学院大学泉キャンパスは体育館が使用不可となった。正門へ至る道は、法面が崩れ崩落していた。東北大学川内北キャンパスでは、講師控室が来年後期まで使えず、臨時控室となった講義棟の一室も、柱に亀裂が入っていた。福島大学では、附属小学校で削られた汚染土を埋める穴が、講義棟のすぐそばに掘られた。交通機関の回復も十分ではなかった。さらに夏の節電が追い打ちをかけた。一見、災害の影を感じさせないような学生たちも、さすがに疲労の色を濃くしていった。<br /><br />とはいえ、授業そのものについては、とくに初修クラスは、やることは例年と同じである。発音やアルファベートの練習と平行して、おきまりの自己紹介の表現を口にし、書いてもらう。全国どこでも行われているだろう。お名前は？　出身はどちら？　どこにお住まいですか？　「出身は福島県南相馬市です」「私は仙台市蒲生に住んでいます」等々、提出された用紙には、いろいろな地名が書き込まれている。各大学とも全国から学生が集っているが、居住地としては当然、宮城や福島の地名が多くなる。それも例年と同じである。同じ作業、見慣れた地名、しかし今年はちがった。私は感傷的にならざるを得なかった。学生たちがその地名を、とりわけ大きな被害のあった地名を書いたときの心情は、察することはできない。誇りや悔しさの感情が働いたかもしれないし、外国語学習のひとつとして書いただけかもしれない。いずれにせよ、それらの地名は、彼ら彼女らがそこに生きる、もしくはこれまで生きてきたことの証であった。紙面に書かれた地名の数々は、あるいは音声として発せられた地名の数々は、学生を通して、その空間に人々が生き、暮らしていることを強く感じさせた。<br /><br />所詮はたいした被害もなかった者のたんなる思い込みに過ぎない。そう思いながらも、私は教室にいる学生に、日常も非日常もないなかで日々を生きる若い人たちに、連帯の挨拶を密かに送る。<br /><br /><br />かつて、被爆の後遺症に苦しむ広島の被災者に対する「お見舞い」として、「病も気から」と発言した元総理がいた。いまは、福島にやってきては、笑う人には放射能の害は出ない、気にする人には害が出るなどと、「科学的根拠」に基づいて語る「学者」がいる。「笑う」という言葉も、その振る舞いも、さまざまである。この人たちの笑いは、すべては「気のせい」として、何事もなかったことにする笑いなのだろう。それに抗して、若い学生たちには本当の意味で、最後に、最もよく、笑ってほしいと思う。<br /><br />もとより、そんな願望はこちらの一方的な話である。いうまでもなく、原発事故は収束せず、若い人には未来があるなどと、安易にいえない状況が続いている。11月21日現在、行方不明になっている方々は岩手県で1420名、宮城県で1994名、福島県で222名にものぼる。仙台の地元紙の訃報広告欄にはいまも、3月11日の地震・津波によって亡くなられた方の葬儀の案内が載る。捜索のヘリコプターは、仙台でも、福島大学の上空でも、飛び続けている。<br /><br />それでもなお、と思う。「穴の中」のような東北で、しかも「穴の中の穴に穴が開いた」状況下で、「つらい僕らだとふたり大笑い」（松尾清憲「穴の中で僕たち」1987年）してほしいと願っている。（私は、この曲を聴くたびに、その歌詞の世界に東北地方や東北ドイツ文学会を重ねてしまう。）<br /><br />未知の外国語を学ぶことは、それ自体がひとつの経験だと、私は思っている。（それがドイツ語である必然性もないけれども。）複数の、しばしば互いに未知の、学生が集まる教室で、他の学生の声を聞き（それが他愛もない文法問題や独作文であっても）、自分の声を他の学生に聞かせる。私の授業は文法中心の古めかしいものだが、無味乾燥とした授業風景のなかにも、他人とともに生きること、見知らぬ者どうしがつながりうることの、ひとつの小さな、じつに小さな実践があろうと思う。ドイツ語学習そのものは（文学研究も）、この震災・津波被害・原発事故に対して無力だが、その無力のなかから、明日のために考え、最後に笑うための石ころでも拾い上げてくれればと、授業担当者として願っている。「白けた教室」しか演出できず、笑顔も見せず、なにかと学生を怒らせる言葉ばかり口にする、せいぜい反面教師でしかない者の、まことに身勝手な希望であり期待である。<br /><br />松崎裕人（東北大学非常勤講師）</div>]]>
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		<title>イタリア庭園とドイツ・ロマン派文学（S. Kuwahara）[J]</title>
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		<published>2011-10-23T16:04:05+00:00</published>
		<updated>2011-11-01T14:27:43+00:00</updated>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.jgg.jp/" xml:lang="ja">今夏10日ほどイタリアを旅してきた。その目的の一つが、教皇の町ヴィテルボViterbo郊外のバニャイーアBagnaiaにあるランテ荘庭園Villa di LanteとボーマルツォBomarzoのいわゆる怪物庭園を見ることであった。</summary>
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<![CDATA[<div>今夏10日ほどイタリアを旅してきた。その目的の一つが、教皇の町ヴィテルボViterbo郊外のバニャイーアBagnaiaにあるランテ荘庭園Villa di LanteとボーマルツォBomarzoのいわゆる怪物庭園を見ることであった。<br />ヨーロッパの庭園を見歩くようになってかれこれ15、6年になるであろうか。きっかけはアイヒェンドルフ文学である。『予感と現前』Ahnung und Gegenwart (1812年に成立)第21章に一つの庭園描写がある。そこに描かれているのはイギリス風景式庭園の中でもピクチャレスク庭園と呼ばれるものである。最初はアイヒェンドルフの空想の産物と思っていたのだが、その迫真性にもしや実際にあったのではなかろうかと思い始めたことから庭園関係の本を漁り、ついには自分の目で確かめようと一念発起したのだった。よく知られているようにイギリスで18世紀初めに庭園革命が生じ、王侯貴族階級の象徴とされた整形式のバロック庭園に代わり、市民階級の美学、すなわち「自然」を表象するイギリス風景式庭園が造園されることになる。ドイツでは1764年に着手されたヴェルリッツ庭園Wörlitzが最初のイギリス風景式庭園といわれている。しかしながら自然は直線を嫌うというウィリアム・ケントWilliam Kentの言葉とは裏腹に、自然は退屈とばかり風景式庭園の中に中国風パゴダやムーア様式建築、果てはピラミッドを、しかも縮小サイズで建てる庭園が多く造られることになる。それが『予感と現前』に描かれていたピクチャレスク庭園である。キャプテン・クックの第一回航海に同行し、後にはロイヤルソサエティ会長として世界中の珍しい植物をプラントハンターたちに蒐集させたジョセフ・バンクスJoseph Banksの肝いりで植物園が拡充されていったロンドンのキュー王立植物園Kew Royal Botanical Gardens、バッキンガムシャーにあるストウ庭園Stow Landscape Garden、フリードリヒ大王の姉ヴィルヘルミーネWilhelmineが造園したバイロイト庭園、フリードリヒのサンスーシー宮殿庭園、時代が下って19世紀に入り、旅行記作家としてまたアイスクリームにその名を残すピュックラー・ムースカウ侯爵Fürst von Pückler-Muskauのコトブス近郊のブラーニッツ庭園Branitz等至る所にピクチャレスク庭園の名残を見いだすことができる。<br /><br />しかしドイツ・ロマン派の文学を読み進むにつれ妙なことが気になり始めた。ロマン派は一般に自然を賛美したといわれ、それは必ずしも間違っていないのだが、ロマン派の時代の文学ではイギリス風景式庭園は不評である。ピクチャレスク庭園を皮肉ったアイヒェンドルフ、『予感と現前』の少し前に書かれたゲーテの『親和力』（1809年）が良い例だろう。ノヴァーリスはある断片の中でイギリス風景式庭園を「楽園の模倣」と記しながら作品（『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』）の中では自然を模した庭園ではなく、幻想人工庭園を描く。アイヒェンドルフ詩の傑作の一つである「廃園」Der alte Garten（初出は“Die Entführung”、1838年）は整形式庭園、以前はロココ庭園と考えていたが恐らくはイタリア庭園を題材としている。ブレンターノの『ゴッケル物語』（初稿、1816年頃成立）ではゴッケルの娘ガッケライアの美しい庭は小さな整形式庭園である。大げさに言えば、この事実が意味するのは何かを問うためにイタリア庭園を見て回ることになったのである。<br /><br />前置きが長くなった。ランテ荘は2005年に一度見に行ったことがある。しかしその時には近くにあるにもかかわらずボーマルツォ庭園には行くことができなかった。今回はその恨みを晴らすためにローマとフィレンツェのほぼ中間にあるオルヴィエートOrvieto、白ワインと、あのフロイトが愛し『日常生活の精神病理学』（1901年）を書くきっかけとなったルネサンスの画家ルカ・シニョレッリLuca Signorelliのフレスコ画『最後の審判』を抱くドゥオモ（フロイトとこの町およびイタリアとの関係について知りたい方には岡田温司氏の優れた著書『フロイトのイタリア』をお勧めする）で有名な町から、少々高くついたが車を出してくれるサービスを受け、二つの庭園を見て回ることができた。ボーマルツォの怪物庭園は今では半ばテーマパーク化しているがそれでも結構楽しめる。この庭園については澁澤達彦以来、日本では随分と紹介されているのでそちらを参照していただくとして、ドイツ語圏で出ている本を一冊だけ挙げておきたい。若きブレーデカンプHorst Bredekampがテクストを執筆した『ヴィチーノ・オルシーニとボーマルツォの聖なる森』Vicino Orsini und der heilige Wald von Bomarzo（初版1985年）である。オルシーニ公の伝記とこの庭園の図像学的解釈をブレーデカンプが担当した本であるが、長い忘却の末1983年に開園した当時のボーマルツォ庭園の姿を建築写真家ヤンツァーWolfram Janzerの写真で見るのも楽しい一冊である。<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<img src="http://www.jgg.jp/uploads/photos/33.jpg" alt="" /><br /><br />さてランテ荘庭園である。まずは写真を見ていただきたい。その美しさの一端がお判りいただけよう。1581年9月末日にこの庭園を訪れたモンテーニュMichel de Montaigneは、ランテ荘庭園がエステ荘よりもまたプラトリーノのメディチ家のヴィラのそれよりも美において凌駕していると自らの『旅日記』に記している。この庭園は1573年ないしは1574年に枢機卿ガンバラGianfrancesco Gambaraによって造園が開始された。（ランテ荘の名は17世紀にランテ家の所有となったことに由来する。この庭園にある紋章はガンバラの名に因んで「エビ」である。（以下、ランテ荘についてはFritz Barth: Die Villa Lante in Bagnaia, 2001に、ボーマルツォ庭園については先に記したブレーデカンプの書、エステ荘についてはDavid R. Coffin: The Villa d’Este, 1960、イタリア庭園全般についてはClaudia Lazzaro: The Italian Renaissance Garden, 1990に主に拠る。）設計は建築家ヴィニョラGiacomo Barozzi, gen. Vignolaであったろうと推定されている。同時期に造園が開始された庭園にはエステ荘（1565年頃）、ボーマルツォ庭園（1560年頃）がある。ボーマルツォを除く二つの庭園はどちらも枢機卿の夏の離宮の一部として造られている。エステ荘の主人は言わずと知れたフェッラーラのエステ家のイッポリット二世である。今まで漠然とイタリア庭園と記してきたが、これらは造園された年代を見れば判るとおりマニエリスム期に属する庭園である。ボーマルツォ庭園はその迷宮性と謎によってマニエリスムを代表するものであり、またエステ荘庭園はその無数の噴水のみならず、デュペラクÉtienne Dupéracによる1573年の銅版画を見る限り、幾何学的構成にもかかわらず全体として迷宮のイメージを喚起する。この二つと較べるとランテ荘庭園は一見すると幾何学的秩序がより強調されているように見える。しかしこの庭園には「楽園」を主題とする一篇の詩が、一つの物語が隠されている。<br /><br />ランテ荘庭園は、多くのイタリア庭園と同様、山の斜面を利用して造られており、二つの部分よりなる。<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<img src="http://www.jgg.jp/uploads/photos/34.jpg" alt="" /><br /><br />西側はバルコbarcoと呼ばれる自然庭園部であり、東側は「イタリア式庭園」giardino all’italianaと呼ばれる整形式庭園部である。自然庭園部の入り口にはペガサスとムーサイの泉が置かれ、この庭園の主題を表している。詩神と天馬が天翔る楽園、それはヘリコン・パルナス（ペガサスの蹄によって、すべての詩人がそれを飲むことによって詩想をえるといわれるヘリコンの泉が湧いたという）、そして人間の黄金の時代（ヘーシオドス）の象徴である。<br /><br />それに対して、自然庭園部に続く東側の整形式庭園部は自然に代わる「人工・文化」の世界を表す。北側の谷へと傾斜してゆく面を三つのテラスに分割し、一番上のテラスにムーサイの柱廊と「洪水の泉」fontana del diluvioがあり、そこから流れる水は谷に向かって「エビ」と「ホタテ貝」の装飾を施された、細いカスケードcatenaを下り、「巨人の泉」と「光の泉」を通り、一番下のパルテールにある、ジャンボローニャGiambologna作「ムーア人の噴水」（噴水の彫像の色が褐色であることから誤って名づけられたという）に至って天に向かって勢いよく水を噴き上げる。「洪水」はデウカリオンの洪水であり、同時にノアの洪水を意味する。中世ではペガサスはキリストの乗り物と解釈されたともいう。こうしてみるとランテ荘庭園はルネサンスの伝統を受け継ぎ、ギリシア神話とキリスト教を結びつけ、楽園と人間の堕落、そして人間の再生と楽園の復活という物語を「水」を介して密かに語っていることになる。水・噴水はイタリア庭園の十八番であり、それは夏に涼をとるという実際的な理由から使用されたものであることは当然であるが、それには四大の一つとして神話的意味、すなわち姿を自在に変え破壊しつつもなおかつ楽園へと再び導くもの（「洪水の泉」から「ムーア人の噴水」へ）としての意味が込められてもいるのである。<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<img src="http://www.jgg.jp/uploads/photos/32.jpg" alt="" /><br /><br />この物語自体はイタリア・ルネサンス庭園、マニエリスム庭園に珍しいものではない。ランテ荘庭園を際立たせているのはこの物語が、広大なバロック庭園あるいはイギリス風景式庭園とは異なり、山の斜面という限定された土地に、凝縮され、洗練の極みに達した形式で表現されていることである。（ランテ荘整形式庭園部の奥行きは234メートルである。）ペガサスとムーサイで始まるこの庭園の物語に従って読むならば「洪水の泉」の次にある「イルカの泉」fontana dei delfiniの背後にはアリオン伝説（ヘロドトスが伝えノヴァーリスが『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』第二章のメールヒェンにおいて利用した話である。さる高名な詩人が船で目指す土地に向かっていたところ船人が詩人のもっている宝石や高価な品々を奪おうとする。詩人は最後に辞世の歌Schwanengesangを歌わせてくれと頼み、歌い終わると海に入った。すると歌に感謝したイルカたちが現れアリオンを背に乗せ無事に目的地に連れて行ったという）があるだろうし、「光の泉」fontana dei luminiはアポロン（アポロンはもともと竪琴、音楽の神であった）を指し示しているだろう。そして一番下のテラスにあるツゲの植え込みによる幾何学的模様のパルテールparterres de broderie（giardinoという語がフランス語のjardinのネオロギスムスであることを最近田之倉稔氏の『林達夫・回想のイタリア旅行』で知った。カテリーナ・ディ・メディチのフランスへの輿入れに象徴される両国の関係は予想していた以上に深いもののようだ）は、その精緻な幾何学性によってピュタゴラスに遡るマクロコスモス・ミクロコスモスの照応関係を表現していると考えることもあながちこじつけとも言えないであろう。<br /><br />ランテ荘庭園に見られる凝縮されたアレゴリーは図らずもバシュラールの言葉を思い起こさせる。彼は言う、「巧みに世界を縮小できればできるほどいっそう確実に世界を所有」でき、「ミニアチュールにおいては、価値は凝縮し、豊かになる」と。そういえばゲーテの「新メルジーネ」のエックヴァルト王の夏の離宮は持ち運び可能なものであったし、王女は「水の精」とされていた。東洋においても壺中天の故事があり、盆栽の伝統がある。造り込まれた小さなもの、とりわけ庭は、洋の東西を問わず、「楽園」を指し示しているもののようである。イギリス風景式庭園全盛の時代にドイツ・ロマン派の人たちはこの凝縮された楽園のイメージを密かに作品の中に、とりわけメールヒェンの中に書き込んでいたのではないだろうか。ノヴァーリスを始めとしてロマン派の時代の人々の作品の中には楽園を指し示す美しい小さな庭園がちりばめられているのである。プルーストM. Proustは『失われた時を求めて』第一篇のあの有名な「マドレーヌ」の箇所の直前にケルト人の信仰について触れ、死者たちの魂は人間以下のものの中にとらわれているが、時が来て愛する者が通りかかると死者の魂は喜びにうちふるえて呼びかけ、そして再認されると愛する者のこころに生き返るという印象深い文章を残しているが、ロマン派の時代の人々の描いた庭園も読者に再発見されることを待ちわびているように思われる。そのとき庭園は少なくとも楽園を指し示すものとして私たちの心に蘇るように思われるのである。<br /><br />桑原　聡　（新潟大学）</div>]]>
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		<title>「テレビでドイツ語」出演後記（T. Yoshimitsu）[J]</title>
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		<published>2011-10-12T05:52:05+00:00</published>
		<updated>2011-10-12T05:56:41+00:00</updated>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.jgg.jp/" xml:lang="ja">2009年の8月、NHK教育テレビ（2011年6月から「Eテレ」に名称変更された）で放映されている「テレビでドイツ語」の講師を担当してほしいという依頼が舞い込んだ。テレビのドイツ語講座と言えば、ドイツ語を学び始めた大学1年の夏休みに見ていた記憶がある。当時はヨアヒム・ヴァイラントさんがネイティブスピーカーとして出演されていて、後に母校へ赴任して来られた時には、「テレビと同じだ～！」と無邪気に喜んだ。またラジオでは市川明先生が講師を担当されていて、先生の授業では「ラジオと同じ美声だ～！」とこれまた無邪気に喜んでいた記憶がよみがえった。これも何かのご縁とお引き受けし、2010年度と2011年度の監修と講師を担当した。</summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jgg.jp/">
<![CDATA[<div>2009年の8月、NHK教育テレビ（2011年6月から「Eテレ」に名称変更された）で放映されている「テレビでドイツ語」の講師を担当してほしいという依頼が舞い込んだ。テレビのドイツ語講座と言えば、ドイツ語を学び始めた大学1年の夏休みに見ていた記憶がある。当時はヨアヒム・ヴァイラントさんがネイティブスピーカーとして出演されていて、後に母校へ赴任して来られた時には、「テレビと同じだ～！」と無邪気に喜んだ。またラジオでは市川明先生が講師を担当されていて、先生の授業では「ラジオと同じ美声だ～！」とこれまた無邪気に喜んでいた記憶がよみがえった。これも何かのご縁とお引き受けし、2010年度と2011年度の監修と講師を担当した。<br />実際の仕事が始まったのは同じ年の12月であった。あまり何も考えずにお引き受けしたが、年が明ける頃にはこれまで番組で講師を担当された先生方に敬意を抱くと共に、「やっぱりテレビは見てるほうがいいなぁ」と少し後悔するようになった。<br /><br />まずテキストの執筆が想像をはるかに超えて大変だった。番組は4月から9月までの半年間にわたり放映され、10月から3月までは前年に放映されたシリーズが再放送される。再放送の期間中に番組クルーがドイツでスキットや文化情報を撮影し、それをこちらで料理して誌面を埋めるという訳である。これまでにも教科書や参考書を執筆したことはあったが、今回の料理方法はこれまでとは全く勝手が違った。通常の教科書や参考書では文法項目の出し方や語彙、表現、そしてそれらが用いられる場面などを、対象となる学習者に合わせてこちらでコントロールできるが、番組テキストでは撮影されたスキットに出てくるものを否応なしに使うことになる。担当する年度から4言語コラボ企画「ユーロ24」が始まることになり、「短期滞在に役立つ24のフレーズ」をキャッチフレーズとした同じテーマ、同じフレーズが4つの言語（独・仏・伊・西）で週ごとに取り扱われることが決まっていた。番組は半年間で24回あるため、24のフレーズを学習するのだが、ロマンス系の3言語とドイツ語を同じ土俵に上げるにはやはり無理がある。例えば2010年度最終回のフレーズは"Vergesst mich nicht!"で、これを別れのシーンで使うと聞かされた。私自身そんなロマンチックなセリフを言う別れは経験したことがなかったし、誰かが言っているのを聞いたこともなかった。しかもこのフレーズはihrに対する否定の命令形であり、汎用性があまり感じられなかった。また他のフレーズでihrは登場しておらず、最終回にいきなりihrを出すのかどうか、Sieやduに対する命令形を取り扱うかどうかといった様々な問題が予想されたため、撮影前の打ち合わせではこのフレーズを避けてほしいとかなり抵抗したのだが、他の3言語でどうしても否定の命令形を導入したいとのことで、敵わなかった。<br /><br />テキストの構成は、NHK出版と打ち合わせを行いあらかじめ決められていたが、毎月70ページ近い原稿を完成させねばならず、常に締め切りとの戦いであった。この戦いは収録が始まった頃からさらに激しくなった。収録の前にまず台本を監修しなければならない。もちろん担当プロデューサーが台本を作るのだが、共演者のセリフや自分が担当する文法説明、練習問題などすべてをチェックし、必要に応じて修正する。そして収録。収録は2週間に1回、授業を終えて広島から上京し、翌日渋谷のNHK放送センターで2本分を収録、収録後は次回の打ち合わせが夜の8時くらいまで続いた。ホテルに戻って荷造りをし、翌日の早朝にまた広島行きの飛行機に乗り、到着するなりまた授業というハードなスケジュールだった。1回の収録が終わってもまだまだ仕事は続く。テキストの校正、テキスト用イラストのチェック、ナレーションの原稿チェック、編集した番組の最終チェックなどなど。パソコンのメーラーを立ち上げると、ほぼ毎日のように仕事のメールが複数入っていた。<br /><br />この2年間は、多分これまでの人生で一番忙しかったと思う。家人には「芸能人は大変だね」と揶揄され、同僚からは「ジェットセッター」というあだ名を頂戴したが、芸能人もジェットセッターも華やかに聞こえるが自分には全く向いていないと実感した。番組は台本に沿って区切りながら収録されるのだが、ほんの短いシーンでもセリフを覚えて言うことは想像以上に難しく、「噛んで」しまって収録を止めてしまうことも毎回あった。また、ケーキやワインを試食してコメントする場面ではどう表現してよいのか途方に暮れ、苦し紛れに訳のわからぬことを言ってしまったようにも思う。自分の不調法な姿をテレビで見ることは、今でも穴があったら入りたいくらい恥ずかしい。おまけに仕事がようやく片付いた9月には2年連続して体のどこかが悲鳴を上げた。1年目は首が回らなくなり整形外科に駆け込み、2年目は眼球の毛細血管が切れて眼科に駆け込んだ。<br /><br />愚痴めいた事ばかり書いてしまったが、この仕事を通して得られたことは苦労以上に大きかった。テレビ出演という非日常は面白かったし、テレビ番組の製作に携わることができたのは貴重な経験であった。番組の制作スタッフのほとんどはいわゆる「アラサー女子」で、若く有能な女性がてきぱきと仕事をこなす姿はいつ見ても気持ちが良く、彼女たちとの共同作業は本当に楽しかった。複数の人間がそれぞれの持てる力を出し合い、フォローし合い1つのものを作り出すということは大学ではなかなか経験できないプロセスである。<br />　<br />ドイツ語教育を生業とする者としては、これまでの経験や研究が大学の外で活かされたことは大変喜ばしかったし、大学での授業とは異なるアプローチを要求されたこともプラスになった。すでに述べたように、2010年度は短期滞在に役立つ24のフレーズを取り上げた。「フレーズありき」での進行のため、例えば冠詞類は、不定冠詞の4格→dieserの4格→定冠詞の1格→不定冠詞の1格→定冠詞の4格という、自分の授業では考えたこともないような順で登場した。名詞の性を覚える手段として、「名詞はder/die/dasとセットで覚えましょう」と常日頃言っており、それが使えないのには戸惑ったが、初めて名詞の性と冠詞類を学習する場合、der/die/dasであろうが、einen/eine/einであろうがいずれにせよ「名詞には3つの性があり、それらに応じて冠詞を使い分ける」という点に変わりはないのではないかと思うようになった。案の定、生徒役である女優の原沙知絵さんも、不定冠詞の4格が出てきた時には「そういうものだ」とそれほど抵抗なく理解されたようだったが、後にあらためて定冠詞の1格が登場した際に苦労されていたようだった。<br /><br />2011年度は「ホームステイに役立つ24の動詞」と題して、毎回1つの動詞に焦点を当てた。動詞の選定には、以前筆者が日本と韓国の初学者向けのドイツ語教科書を比較調査した際に作成した共通語彙のリストから特に重要だと思われる動詞を選び、そこから番組のスキットの構成に合ったものが選ばれた。このシリーズでは4言語でそれぞれの扱う動詞も若干異なり、登場する順番も異なった。ドイツ語では選んだ24語に話法の助動詞も含まれていたため、厳密に言えば「24の動詞および話法の助動詞」なのだが、こちらも他の3言語ではすべて動詞扱いなので、「動詞」で統一された。キャッチフレーズなのでお許しいただきたい。番組では毎回なるだけ動詞（助動詞）の人称変化を提示するようにし、必要に応じてそれ以外の文法も、ナビゲーターとのやり取りの中で説明をした。この年の生徒役はフリーアナウンサーの内田恭子さんであったが、英語が堪能な彼女も、ドイツ語の人称変化や冠詞類の格変化には苦労されたようだった。<br />　<br />いずれのアプローチもドイツ語を体系的に教えることはできないが、1つのフレーズまたは動詞に焦点を当てそこからある特定の文法項目を導入することは、文法学習のハードルを（表向きだけではあるが）下げることにつながり、学習へのモティベーションの低下を防ぐことにつながるように思う。<br /><br />「テレビでドイツ語」は週1回、25分という短い時間の中に、現地でのドイツ語会話、文法説明、ナビゲーターとネイティブスピーカーの会話練習、単語コーナー、ランデスクンデやドイツに関する話題の提供と多くのコーナーが盛り込まれている。そのため、ドイツ語そのものについて解説する時間はごくわずかであり、24回で1つのシーズンが終わるため、番組の中に盛り込める学習項目も限られた数であるが、プロが撮影する美しい現地の映像や魅力的なナビゲーターの出演は学習者のモティベーション維持に大きく貢献していると思う。番組の果たす役割はこれに尽きると言える。余談ではあるが、お隣の国、韓国でも教育番組専門の放送局があり、かつてはテレビのドイツ語講座が存在していたが、今では予算の都合で製作されていないと聞いた。毎週ドイツ語やドイツ語圏の文化に特化された番組が放映されることは、ドイツ語を教える者としてはたいへんありがたく、韓国のような事態になることは絶対に避けたいと思う。そのためにも、今後番組を担当される先生方には、ぜひがんばっていただきたいし、ドイツ語を教えておられる先生方には、視聴率とテキストの売り上げが少しでも伸びるよう、学生諸君に番組をおすすめしていただくようお願いする次第である。<br /><br />最後に、番組をご視聴していただきましたみなさまと、番組出演を暖かく見守りサポートしてくれた広島大学外国語研究センターの同僚に、この場を借りて心より御礼申し上げます。<br /><br />吉満たか子（広島大学外国語教育研究センター）</div>]]>
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		<title>「ミュンヘンの夏2011」：ミュンヘン大学・言語学サマーコースおよびワークショップの報告（S. Tanaka）[J]</title>
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		<published>2011-10-01T05:16:25+00:00</published>
		<updated>2011-10-01T05:35:06+00:00</updated>
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		<author>
			<name>kisozaki</name>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.jgg.jp/" xml:lang="ja">今年の8月，ミュンヘン大学にて，言語学サマーコースおよび日独言語研究立ち上げのためのワークショップが行われた。私個人だけでなく，参加者，関係者一同も，この試みを非常に肯定的に評価していることからも，この学会のＨＰの場を借りて，この試みを紹介したいと思う。</summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jgg.jp/">
<![CDATA[<div>今年の8月，ミュンヘン大学にて，言語学サマーコースおよび日独言語研究立ち上げのためのワークショップが行われた。私個人だけでなく，参加者，関係者一同も，この試みを非常に肯定的に評価していることからも，この学会のＨＰの場を借りて，この試みを紹介したいと思う。<br />このサマーコースは，ミュンヘン大学のエリザベート・ライス教授からの提案により，ほぼ一年間をかけて計画され，実現したものであるが，直接のきっかけになったのは，日本独文学会主催の語学ゼミナールであった。ライス教授は，ちょうど10年前の2001年に語学ゼミナールの招待講師として来日されたのであるが，それがきっかけで共同研究が進められ，この夏に，サマーコースの開催の運びとなったのである。<br /><br />本コラムでも，しばしば紹介されているが，語学ゼミナールは，日本には珍しく（？），かなり闊達な議論が展開される場である。招待講師の講演はもとより，参加者の講演（講演希望は多くいつもキャパシティ以上の発表申し込みがあり，実行委員などは，発表を「遠慮」している状況にある）においても，忌憚なき意見交換が行われ，招待講師にも非常に好評を博している。私は，2007年から2010年の間，4年間にわたって実行委員会の代表をつとめたが，つねに招待講師の先生方から，継続的な共同研究を求められる（この中から，個人ベースで，共同研究が実現し，多くの成果を挙げているのは喜ばしいことである）。一方，日本の参加者の間でも，「語学ゼミをドイツでやりたいね」などのような声が上がり，半分冗談ながらも，その実現を模索したことも一度ならずあった（たいていは，「夜の部」に盛り上がる話題である）。<br /><br />そんな中，ライス教授から，「語学ゼミのようなもの を日本とドイツの若手研究者を中心にできないか」ということを相談され，枠組みとしてミュンヘン大学のサマーコースを提案された。実現については，半信半疑であったが，私の前の語学ゼミ実行委員長であった，広島大学の吉田光演さん，東京大学の森芳樹さんの大きな後押しもあり，この8月の開催にこぎつけたのである。<br /><br />開催までには，難題もあった。「果たして，ドイツでやる『日独語対照の言語学のコース』に人があつまるのであろうか？」と考えるのは，私だけではないはずだ。「英語でやれば人も集まりやすいのでは？」という私の弱気な提案に（ミュンヘン大学のサマーコースは，ドイツ語学習のコース以外はほとんど英語で催される），ドイツからはアブラハム教授，日本からは，吉田，森の両氏からダメを出された（結局ドイツ語での開催となった）。震災の影響も懸念された。震災の直前の3月初旬に吉田さんと私がミュンヘンに赴き，サマーコースとワークショップの詰めを行ったのであるが，帰国直後，未曾有の惨事に巻き込まれた。そのなか，ドイツからは，我々の安否を心配する声が寄せられ，励ましの言葉をかけてもらったが，「サマーコースの中止」という話題は挙がらなかった。我々の意志を信じていただいたのだと思うが，同時期に行われていたセンセーショナル な一部ドイツのマスコミ報道を考えると気が気ではなかっただろう。<br /><br /><img src="http://www.jgg.jp/uploads/photos/30.jpg" alt="" /><br />  <br />サマーコースは，日本からの参加者10名，ドイツからは7名の参加者が集まり，講師として日独双方から8名が参加し，行われた。テーマは，「統語構造，モダリティ，直示：節の左周辺部の構造と機能」という，統語論，意味論，機能言語学の立場から，文の構造にアプローチするというものであった。二週間の会期中 ，日替わりで統語論，意味論，機能論の3つのテーマについての講義がそれぞれ二回ずつ行われた。これらの講義では，それぞれ生成文法，形式意味論，機能語用論という独立した分野での研究が紹介されたが，「構造」を扱う形式主義的な言語学と「機能」を扱う機能主義的言語学が互いに排除するものとしてではなく，有機的な連関を持ったものとして提示された。日本からは，吉田さん統語論を，森 さんが意味論とその統語論とのインターフェースの部分を講義し，田中が直示（ダイクシス）を中心とした機能論の立場での話をした。ドイツ側では，ライス教授が，直示と文法の問題，モダリティの問題を，アブラハム教授，ハイダー教授（ザルツブルク大学）は，生成文法における文構造の問題を，ハイコ・ナロック准教授（東北大学）は，日本語のモダリティの概論を扱った。その他，ミュンヘン大学のペーター・ぺルトナー教授が，日本近代文学における時制の問題を論じた。<br /><br />サマーコースでは，参加者が各自の研究を報告する講演も行われた。東京外大の高橋美穂さん，信國萌さん，広島大の野間砂理さんは，ドイツ側の発表（ウィーン大のヴェルナーさん，ミュンヘン大の海田さん）に臆することなくしっかりした研究発表を行った。<br /><br />サマーコースに引き続いて，三日間の日程で，日独双方の研究者があらたに加わり，ワークショップが行われた。これは，サマーコースで「お互いの言語について学ぶ」だけでなく，さらに突っ込んだ議論をすること，また，今回の試みを単発のもので終わらせるのではなく，継続的な共同研究を本格的に立ち上げることを目的にしたものである。ここには，サマーコースの参加者に加えて，日本から関西学院大の小川暁夫氏，東京外大の藤縄康弘氏，広島大の稲葉治朗氏，シュトゥットガルト大のフォン・ホイズィンガー教授が加わった。このワークショップはまさに「ドイツで語学ゼミを」という目的が実現したようで，非常に活発な議論が行われ，発表外でも遅くまで語り合う貴重な時間を持つことができた。<br /><br />このワークショップでも，サマーコースにも参加した若手の研究者として，東京大の高祐輔さん，西脇麻衣子さんが，自らのテーマについて，堂々たる発表を行った。<br /><br />今回のサマーコース，ワークショップは，「語学ゼミをドイツで」がある意味で合言葉になり（ライス教授もその精神を支持してくださった），望外の大きな成果を挙げることができたと思う。一方で，語学ゼミを本当にドイツでやるのは，語学ゼミが学会の公式行事である以上広く学会員が参加しやすい形式でやる必要であるので，現実的とは言えないだろう。その意味で，今回のケースは，「学会の活動の一つの発展の可能性」と捉えていただけたらありがたい。もちろん，今回のサマーコースも学会のＨＰで案内を出すなど，広く参加を呼び掛け，門戸を開いたつもりである。また，今後もこうした試みを発展させて行きたいと考えているが，ご興味のある方は，ぜひ積極的に参加していただけたらと思う。ゲルマニスティックの研究，後進の育成を単独の一大学で行うことができた時代は，もう過去のものになってしまったように思われる。このような状況において，独文学会の果たす役割は大きいものであると考える。学会は，個々の力が集まる場所でもあり，またその集まった力が発展していく母体となるべきものだと思われる。今回は，たまたま，（どちらかと言うと）理論系の言語学において，試みられた企画であったが，このようなものが，いろいろな分野で企画され，いろいろな発展を遂げることがあれば，素晴らしいことだと思う。<br /><br />最後になるが，ミュンヘン大学のライス教授，アブラハム教授には，心から感謝したい。また，この企画の実現のためにお力とお知恵を貸して下さった（今回都合が合わずに直接の参加は得られなかったが，多くの方々の支援をいただいた）すべての人にお礼を申し上げたい。<br /><br />田中　愼　（千葉大学）</div>]]>
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		<title>外国人名カタカナ書き異聞（T. Yoshinori）[J]</title>
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		<published>2011-09-16T04:06:52+00:00</published>
		<updated>2011-09-16T04:11:46+00:00</updated>
		<category term="ゴールデン・リレーエッセイ" label="ゴールデン・リレーエッセイ" />
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			<name>kisozaki</name>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.jgg.jp/" xml:lang="ja">数年前、まだテレビのデジタル化が進んでいなかった頃、衛星放送は特別扱いで、NHK にはBS1、BS2、BS3 と三つのチャンネルがあって、それぞれ特殊なテーマの画面を提供してくれた。私はその頃、テレビと言えばもっぱらこのBS放送を見ていた記憶があるのだが、そんなある日、どのチャンネルか覚えはないが、突然、何の由縁もなく、……というのは、おそらく番組の変わり目であったのであろうが、私の思いでは、その前後の画面とは何らの関係もなく、まったく唐突にどかりと、ブラウン管全面を巨大文字で占領して、Ludwig van Beethoven の名前が表示されたのである。しかも、それには次のようなルビが付してあった。〈ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン〉（?）…… 私はこれを見て、思わず吹き出してしまった。次いで、思わず知らず、頭を左右に振っていた。これはいかん、という所作である。テレビのことだから、たいていの愚昧は辛抱するが、ドイツ語講座などを正規番組で放送しているNHK がこんな過ちを犯してくれては困るのである。昔、テレビの開花期に「国民一億総白痴」という名文句を吐いた硬骨の評論家（たぶん大宅壮一さん）がいたが、わざわざ用もないのに原語を示してその下にルビを付せば、このドイツ語はカタカナ書きのとおりに発音するのだと、誰しもそう教わったと思うのが人情である。ところがこれは実態に反する。このカタカナ書きの中に幾つ誤りがあるか、お分かりかな。まず始めの〈ルード〉は〈ルート= 清音〉である。次いで〈ヴァン〉はドイツ語学習者には不満であろうが、〈ファン〉である。ここはオランダ語風に濁音〈ヴ〉ではない。次いで最後に苗字は造語的に区切れば〈Beet･hoven〉であって、したがってその発音は〈ベートホ―フェン〉である。日本人に親しい、というよりも全世界で親しまれているベートーヴェン= ベートーベンは、ドイツには居ないのである。</summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jgg.jp/">
<![CDATA[<div>数年前、まだテレビのデジタル化が進んでいなかった頃、衛星放送は特別扱いで、NHK にはBS1、BS2、BS3 と三つのチャンネルがあって、それぞれ特殊なテーマの画面を提供してくれた。私はその頃、テレビと言えばもっぱらこのBS放送を見ていた記憶があるのだが、そんなある日、どのチャンネルか覚えはないが、突然、何の由縁もなく、……というのは、おそらく番組の変わり目であったのであろうが、私の思いでは、その前後の画面とは何らの関係もなく、まったく唐突にどかりと、ブラウン管全面を巨大文字で占領して、Ludwig van Beethoven の名前が表示されたのである。しかも、それには次のようなルビが付してあった。〈ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン〉（?）…… 私はこれを見て、思わず吹き出してしまった。次いで、思わず知らず、頭を左右に振っていた。これはいかん、という所作である。テレビのことだから、たいていの愚昧は辛抱するが、ドイツ語講座などを正規番組で放送しているNHK がこんな過ちを犯してくれては困るのである。昔、テレビの開花期に「国民一億総白痴」という名文句を吐いた硬骨の評論家（たぶん大宅壮一さん）がいたが、わざわざ用もないのに原語を示してその下にルビを付せば、このドイツ語はカタカナ書きのとおりに発音するのだと、誰しもそう教わったと思うのが人情である。ところがこれは実態に反する。このカタカナ書きの中に幾つ誤りがあるか、お分かりかな。まず始めの〈ルード〉は〈ルート= 清音〉である。次いで〈ヴァン〉はドイツ語学習者には不満であろうが、〈ファン〉である。ここはオランダ語風に濁音〈ヴ〉ではない。次いで最後に苗字は造語的に区切れば〈Beet･hoven〉であって、したがってその発音は〈ベートホ―フェン〉である。日本人に親しい、というよりも全世界で親しまれているベートーヴェン= ベートーベンは、ドイツには居ないのである。<br />この程度のことは、ドイツ語の学習用辞書でも少し気を付けて見れば分かることである。だがどうも、これは私見に過ぎぬかもしれぬが、このカタカナ語読みは英語から来ているらしい。念のために手許の英和辞典を引いてみると、この姓の綴りは〈Bee･tho･ven〉と区切られている。これだと〈ベートーヴェン〉としか読みようがない。したがって、今更それが原語に忠実な読み方だなどと気取って、わざわざややこしいベートホ―フェンなどを日本で採用せよ、などというのが私の趣旨ではない。しかし、少なくとも正規にドイツ語を学ぶ場合、もしも Beethoven に出くわしたら、その正しい発音方法、また出来ればその由来についても、若干の講釈を聞きたいものである。教える側に、その為の用意があって然るべきであろう。<br /><br />同じようなことが、NHKに関して起こっている。何年ぐらい前からであろうか、画家のゴッホに関して、Vincent van Gogh が何の断りもなく、従前の〈ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ〉から〈フィンセント・ファン・ゴッホ〉に変わった。その説明がどこかで聞けるかと心待ちにしていたが、少なくともNHK の放送ではついに触れられることはなかった。私は辞書・事典マニアであるから、それではというので、インターネットを含めていろいろ調べてみたが、それらはいずれも、最近は〈フィンセント・ファン〉の優勢勝ちということであった。たぶん、このごろ流行となった原語に近いカタカナ語発音というのが原因であろう。それと知って私は首を捻った、と同時に、抑えがたい苦笑におそわれた。ゴッホはオランダ人である。とすれば、その姓名の読みはオランダ語の発音に依らねばならない。なかんずく難解と一般に称されるオランダ語の発音で、果たして〈v〉は清音なのか濁音なのか。発音辞典の出馬を待つまでもなく、その読みは濁音なのである。現事態に即して言えば〈ヴィ= ビ〉なのであって、〈フィ〉と読んだからといって、この画家の本体により近づいたということにならない。私がネット上で昵懇にしているブリュッセル在住の知人に、他の案件も兼ねてこの字の読みを尋ねてみたが、その返事は、現地人の発音は、どう聞いても〈ヴ〉に近いということであった。ご承知の通り、ベルギーは東半分はフランス語の領域、西半分はオランダ語の領域なのである。仄聞するところ、この二国語の並列に関連して、深刻な言語社会学的問題があるらしいのだが、それはここでは別として、ゴッホ問題そのものに集中すれば、私が先に〈抑えがたい苦笑〉と言ったのは、清音論を掲げてモダンな表現を自負するのであれば、肝心かなめの姓、つまりGogh はどうなるのであろう。ご存知の通り、オランダ語で〈g〉の発音は、日本語のカタカナ語読みにしたがえば〈ハ行音〉である。オランダに旅して、ガス〈gas〉のことを〈ハス〉と言われて、まだ戦後間もない頃、ドイツと日本は一蓮托生、オランダでも嫌われているのかと、目を白黒させた覚えがある。ドイツ語のハス〈Hass〉は〈憎悪〉の意味である。発音記号では［x］と［h］で質が違うではないか、などと悶着を付ける人は、冗談の分からない人である。つまり、文学的雅趣を解さない人である。そんな国際的問題（?）は別として、さてGoghの場合、その約束にしたがえば〈ホッホ〉となるはずである。少なくとも発音辞典にしたがえばそうである。それがそうでないのは、またしても英語、またはこの場合、ドイツ語の発音の日本的受容の故であろう。誰がこの音を持ち込んだのか、諸説あるようだが、われわれは当初からGoghをゴッホとして受け入れ、それに限りない親しみと愛着とを感じて来た。この呼び名がなければ、われわれがかつて熱く感動した、滝澤修、宇野重吉などが活動したかの劇団民芸の名作『炎の人ゴッホ』は日本の演劇界にあり得なかったであろうし、その奇怪な絵が、日本人に絶えず深い興味を与え続けている根拠は激減するであろう。〈炎の人ホッホ〉では、不思議な言語作用とも言えようが、感覚が白けて、私のように鋭敏な人間（?）には、なかなか情熱の炎上とまでは行かない。<br /><br />だから、木に竹を接いだように、名前の前半分だけはモダン化して、後半分は旧態依然というような変な改革はしないで頂きたい。事態はそれによって、なんら得るところがないからである。昔、〈ゲヨエテとは俺のことかとゲーテ言い〉という有名な川柳があった。昭和初期の頃であろうか、Goetheをなんとかしてそれらしい日本語に移そうとして努力された大先輩のお仕事を揶揄した、おそらくは一般読者層からの悪戯であったのであろう。oe ⇒ O-Umlautなどが日本語で表現し得るはずがない。もともとそんな音は日本語には存在しないからである。いくら努力しても、それこそ〈無い袖は振れない〉のである。そうではなくて、Goetheは日本ではゲーテでいいのである。同様にBeethovenは、もっとも簡略化した形で、ベートーベンでもいいのである。日本人同士が、それで了解し合っていれば、いいのである。<br /><br />こんなことを書いていると、このエッセイは外国人名のカタカナ語読みの問題に終始するのかと、どこからか不満の声が聞こえそうである。もちろんそれも非常に大事なことであって、私はそれに大いに関心を持っているが、実はこのリレーエッセイを学会の骨董的人物、つまり最後期高齢者から選んで誰か執筆させてみようと担当理事の方が考えて、私にお鉢が回って来たとき、一考して私は、この人名の問題と、それからこの文章そのものが学会誌の記事の一部を成すのであるから、何か学術的な問題との二段構えで臨むのがよかろうと判断した。学術的問題といっても、私に思わず失笑、苦笑を強いたようなエラーを、論者にも、またそのエラーに気付くことのなかった編集委員会にも、傷がつかないように、オブラートに包んで、老巧な苦言を呈したかったのである。そのような批判がなければ学会の進歩はないからだ。特に親交のあった年下の理事長が、いつか私のことを学会の大久保彦左衛門と呼んだことがあったが、私の論評からは、盥に乗って登城する老武士のユーモアと気概を察して頂きたい。ところが、ここまで書いて来て、この調子で続けると、第二段階の最後ははるか遠方にかすんで見える。とうていリレーエッセイのようなスマートな企画の枠内に収まるわけには行かない。長さも内容も自由にと言われたが、物事にはけじめがある。よって第二段階を踏むのは断念した。<br /><br />というと、今回はこれでお終いというのが、文脈から言って自然と思われるであろうが、実はもう一件、この場を借りて是非とも伝えておきたいことがある。これはまあ周知のことに属するとも言えるので、それほど長くはかからないであろう。事はAndersenである。私はAndersenとはかなり親密に付き合った。といっても、もちろん書類上でのことである。いろんないきさつがあって、その自伝 (Das Märchen meines Lebens) の抜粋教科書版を出し、またその代表作『絵のない絵本』（Bilderbuch ohne Bilder）の教科書版の編纂・付注を行った。内容には触れないが、このデンマーク人の名は〈アンデルセン〉ということで日本には知られている。これは有名な森鴎外の『即興詩人』(Der Improvisator)のドイツ語訳に由来するドイツ式発音を日本語のカタカナ書きに引き継いだものである。日本中で、童話と言えばグリムと並んでアンデルセンの名を知らない者はない。ところがアンデルセンという人物は日本以外には存在しないのである。前述のとおりAndersenはデンマーク人であるが、デンマーク語では綴りの中の〈d〉は発音しないから、彼の原語名は〈アネルセン〉である。ベートーベン、ゴッホ、ゲーテ等に並んで、アンデルセンはれっきとした日本名なのである。それでいいではないか。彼らはそれほど日本人のあいだに溶け込んで、日本の文化を豊かにしてくれていると言えるのである。<br /><br />ただし、これには余談があって、是非付け加えておかなければならない。日本のゲルマニストの中にはアンデルセンに打ち込んでいる人たちがあって、その一人が、日本で最高のある大百科事典に、当該の項目執筆を担当した。私は仕事上の関連もあるので、その項目を引いてみた。すると〈アンデルセン〉のところに〈アネルセンを見よ〉との指示があった。そこで〈アネルセン〉を引くと、〈アンデルセンとも言う〉という書き出しのもとに、まあ然るべきことが書いてあった。思うにこれは逆ではなかろうか。一般読者層を対象とした百科事典であれば、一般に敷衍している〈アンデルセン〉を見出し語に立てて、〈本来はデンマーク語だからアネルセンという〉とでも、解説を付けるのが自然であろう。その先生が自分の出した文庫本の翻訳では、〈アンデルセン作〉と明記されているのである。……これで止めておく。<br /><br /><br />義則孝夫（関西学院大学名誉教授）</div>]]>
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		<title>〈他者性〉に対して拓かれる――東京演劇アンサンブル『避暑に訪れた人びと』公演(2010.9)に参加して（S.Otsuka）[J]</title>
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		<published>2010-12-24T15:50:24+00:00</published>
		<updated>2010-12-25T10:27:46+00:00</updated>
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			<name>kisozaki</name>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.jgg.jp/" xml:lang="ja">2010年は、チェーホフ生誕150年にあたる年だった。そのような記念すべき年に、ブレヒト作品の上演で有名な東京演劇アンサンブルと一緒に仕事をする機会に恵まれた。かつてペーター・シュタイン指揮下の黄金期ベルリン・シャウビューネが、後の劇作家ボートー・シュトラウスをブレーンに据えて〈チェーホフ劇〉として取り組んだゴーリキーの戯曲『別荘人種』を、新たにドイツ語改作版をオリジナルの一次テクストとみなし、『避暑に訪れた人びと』と題して翻訳、ドラマトゥルクとして公演に携わったのである。記録的な猛暑となった8月に立ち稽古を重ね、レクチャーや飲み会等を通じて絶えず劇団員に寄り添いながら、9月半ばに彼らの本拠地「ブレヒトの芝居小屋」で作品を上演した。このエッセイでは、彼らの集団的営為に触れて感じたことを手短に綴ってみたい。</summary>
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<![CDATA[<div>2010年は、チェーホフ生誕150年にあたる年だった。そのような記念すべき年に、ブレヒト作品の上演で有名な東京演劇アンサンブルと一緒に仕事をする機会に恵まれた。かつてペーター・シュタイン指揮下の黄金期ベルリン・シャウビューネが、後の劇作家ボートー・シュトラウスをブレーンに据えて〈チェーホフ劇〉として取り組んだゴーリキーの戯曲『別荘人種』を、新たにドイツ語改作版をオリジナルの一次テクストとみなし、『避暑に訪れた人びと』と題して翻訳、ドラマトゥルクとして公演に携わったのである。記録的な猛暑となった8月に立ち稽古を重ね、レクチャーや飲み会等を通じて絶えず劇団員に寄り添いながら、9月半ばに彼らの本拠地「ブレヒトの芝居小屋」で作品を上演した。このエッセイでは、彼らの集団的営為に触れて感じたことを手短に綴ってみたい。<br />この作品を上演するきっかけとなったのは、テクストに備わっている自己言及性の構造に着目したからであった。1904年にペテルブルクで初演されたゴーリキー原作では、1870年代の「ナロードニキ運動」の洗礼を受けて育った、ロシア革命前夜を生きるインテリたちが主人公である。彼らは文学や芸術をめぐって激しく議論を戦わせながら、収入の安定した中年期を無為に過ごす自分たちの生き方を自問自答している。トルストイやドストエフスキーといった「大きな物語」とともに政治の季節が終焉を迎え、急速に近代資本主義が蔓延していく時代に、俳優たち自身が自らの存在意義を虚しく自己言及的に問いかけるという作品構造をそもそも持っていたのである。<br /><br />そのために、ベルリン・シャウビューネが1974年にこの作品と取り組んだときも、1968年のパリ５月革命以降の、もはや「大きな物語」が信じられなくなり、それまで何か大切だったものが急速に消失してしまったという喪失感が、演出の根底に置かれている。自分の存在感がどこか希薄に感じられ始めた時代に、原作に見られるインテリ連中の人間模様を、新しい演劇的営為を求めて格闘する彼ら自身の物語に置き換えて上演、大成功を収めたのである。<br /><br />そして2010年、一連の金融危機や、民主党政権による事業仕分け、芸術文化行政における助成金削減の不安などから、東京演劇アンサンブルでは再び悩めるアンサンブル自身の物語として、この作品の舞台化を試みた。原作のインテリに何ができるか、という問いかけは、演劇的営為を通じて今まさにこの劇団に何ができるのか、という問いにラジカルに置き換えられ、登場人物の自問自答が、そのまま演劇や芸術に携わる人間の根源的問題として投げ出され、自己言及的な調子で問いただされる。考えてみれば、原作の背景にある〈チェーホフ劇〉のモスクワ芸術座から、現代における改作劇上演の模範となったベルリン・シャウビューネを経て、過去の演劇的営為に連なりながら東京演劇アンサンブルへという、世界の演劇史に学び実践する大胆なコンセプトであった。<br /><br />その上演にいたる過程で、過去の優れたテクストから学ぼうとする1970年代ベルリン・シャウビューネの姿勢と、長らく東京演劇アンサンブルを牽引してきた伝説の演出家・広渡常敏の演劇論がたびたび我われの議題となった。演劇によって何が変わるのだろう。多くの俳優がバイトで生計を立てながら稽古に励むなかで、彼らは演劇的営為によって一体何を得ようというのか、演劇の現場に接して根本的な問いが胸にわいてきた。<br /><br />広渡常敏は、現代演劇では当たり前になっているプロデュース制公演には反対して、劇団という一個の人間集団、アンサンブルのなかで生育していく俳優に深い愛情を注いだ演出家である。劇団の外部から演出家を呼び、商業ベースに基づいてイケメン俳優ばかりを集めて芝居を作るのではなく、ある演劇集団に所属する俳優一人ひとりが舞台芸術を通じて相互に経験を共有しあいながら、お互いに演技と人間的な成長を見守ろうというスタイルに、現代の高度資本主義に抵抗するコミューン的なあり方、ないしは人間であることの尊厳を見出そうとしたのだ。<br /><br />集団的経験を通して学びあおうという姿勢から、広渡は俳優の才能やオリジナリティに対しては終始批判的で、むしろ俳優が舞台上で自分自身を曝け出すこと、優れた戯曲テクストとの格闘を通じて、それまでの自分のあり方を内省し変化させることを重視していた。広渡は言う――「自分には才能がないのじゃないかとおもいはじめるとき、はじめて才能というものがその人の内部に生まれようとしている」。才能がないからこそ、役者は想像力を働かせ、それまでの自分にはなかったものを創り上げようとする。役柄を掴もうとする俳優は、いわばゼロの自分を舞台上に投げ出しながら、いまだ未知なる〈他者性〉に対して次第に自分自身を拓いていくことになる。まさにそこから、他の何ものにも代えがたい充実感が得られるのだろう。<br /><br />このように自分を掘り下げていく行為を、アメリカの黒人詩人ラングストン・ヒューズの言葉を借りて、広渡は“DIG”と呼んでいた。そしてジャズメンの演奏のように、硬直化した自分を砕き去って、いまだ見ぬ解放された、もうひとりの自由な自分を発見することこそ、彼の考える演劇的営為なのであった。最終的に、舞台上で観客が目にするのは、この俳優自身が〈他者性〉に向けて格闘していく、その生き様なのだ、ということになろう。<br /><br />奇しくも原作者ゴーリキーは、この戯曲と同時期に書かれた評論『個性の崩壊』(1908)のなかで次のように述べていた――「芸術は個人にも可能である。しかし創造の能力を有するのは集団だけだ」、と。東京演劇アンサンブルは、文字どおり「アンサンブル」＝集団的営為の新しい可能性を模索しながら、広渡亡き後の劇団が持てる個性も、格闘する姿もすべて舞台上に曝け出して、この作品と真剣に向かい合ってくれたのである。<br /><br />『避暑に訪れた人びと』の演出は、広渡の盟友であり、俳優座養成所を卒業した劇団三期会の結成メンバーでもある入江洋佑が担当した。喧騒のなかでの心の虚無感を表象している青を基調とした宣伝ポスターが用意され、舞台美術はロシアの避暑地の森をイメージさせる深い緑であった。中央には俳優が自分自身に向かって演技するための円形劇場が築かれ、総勢16名の様々な人びとが浮かび上がっては消えていった。しかし途切れることなく、舞台空間には常に巨大な声のざわめきが鳴り響いていた。そしてそれは、まるで冷たいナイフのように深く心に突き刺さり、激しく問いかける、情け容赦のない悲痛な言葉の群れだったのである――。<br /><br />言葉を経由させながら、最終的には俳優その人の実存が舞台空間に立ち現れる姿を目撃するのが演劇であろう。演技のうまい下手を超えて、彼らはしっかりと「言葉」を我われまで届けてくれた。本当にいい作品をじっくりと見せてくれたと思う。古典作品をいかにアクチュアルなものとして現前させ、表現者と観客が一体となって、そこから何を学ぶことができるか、今後の彼らの活動に注目したい。<br /><br /><a href="http://www.jgg.jp/uploads/photos/28.jpg"><img src="http://www.jgg.jp/uploads/thumbs/28.jpg" alt="" /></a><br /><span style="font-style:italic">（立ち稽古）</span><br /><br /><a href="http://www.jgg.jp/uploads/photos/29.jpg"><img src="http://www.jgg.jp/uploads/thumbs/29.jpg" alt="" /></a><br /><span style="font-style:italic">（ゲネプロ）</span><br /><br />大塚　直（愛知県立芸術大学）</div>]]>
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		<title>2010年夏IVGワルシャワ大会に参加して（E. Kobayashi）[J]</title>
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		<published>2010-11-05T13:01:49+00:00</published>
		<updated>2010-11-05T13:43:07+00:00</updated>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.jgg.jp/" xml:lang="ja">5年に一回開かれるドイツ語学文学国際学会（Internationale Vereinigung für Germanistik）が「世界規模のドイツ語学文学の多元性と統一」（Vielheit und Einheit der Germanistik weltweit）というテーマのもとで、2010年7月30日から8月7日にかけて、ポーランドのワルシャワ大学で行われた。前回2005年夏のパリ大会と比べて、開催校の大会事務局から送られてくる事前情報が大会直前まで大変少なく、参加予定者の間でも不安がないわけではなかった。今回はとりわけ発表部門が多く、ここでの報告は私が拝聴した部門の様子が主となっており、学会の模様全部ではないことをお許しいただきたい。ポーランドでの国際学会におけるドイツ語学文学、オランダ語学文学、イディッシュ語学文学（Germanistik, Niederländistik, Jiddistik）の研究者の熱気と交流の一端を、私のエッセイでお伝えできればと思う。</summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jgg.jp/">
<![CDATA[<div>5年に一回開かれるドイツ語学文学国際学会（Internationale Vereinigung für Germanistik）が「世界規模のドイツ語学文学の多元性と統一」（Vielheit und Einheit der Germanistik weltweit）というテーマのもとで、2010年7月30日から8月7日にかけて、ポーランドのワルシャワ大学で行われた。前回2005年夏のパリ大会と比べて、開催校の大会事務局から送られてくる事前情報が大会直前まで大変少なく、参加予定者の間でも不安がないわけではなかった。今回はとりわけ発表部門が多く、ここでの報告は私が拝聴した部門の様子が主となっており、学会の模様全部ではないことをお許しいただきたい。ポーランドでの国際学会におけるドイツ語学文学、オランダ語学文学、イディッシュ語学文学（Germanistik, Niederländistik, Jiddistik）の研究者の熱気と交流の一端を、私のエッセイでお伝えできればと思う。<br />会長を務めるワルシャワ大学Franciszek Grucza教授の開式の辞によれば、2010年大会では、前回パリ大会でのセクション数30と発表数700と比べて、発表セクションが60、研究発表数が1500となり、2倍の規模になったとのことだった。参加者は実に2000人とのことである。会長はポーランド人であるが、新しい分野の開拓や外国のドイツ語学文学（Auslandsgermanistik）からの視点の研究も推進する立場をとっておられる。地理的にドイツとロシアの間にはさまれたポーランドには、かつて地図から消滅した悲劇がある。第二次大戦中にはドイツ軍に対してワルシャワ市民が蜂起して抵抗をした。しかし、過去の負の歴史にとらわれずに、ポーランドではドイツ語の学習が盛んなようだ。今年はショパン生誕200周年にあたり、基調講演の合間にショパン四重奏が披露された。それにしても東欧の参加者は、ドイツ人並みにドイツ語が堪能な人が多かった。<br /><br />セクション数が肥大したため、会場が散在して、見つけにくいことがしばしばあった。プログラムで見つけた興味深い発表を聞きに行けなかったこともある。大会本部の総合案内所で、東京大会やウィーン大会の時のような、もっと大きな共通掲示板がほしかったところである。会場情報、夕方の催し物情報等、サービスが足りないのか、大切な情報が伝わってこない印象を持った。<br />興味深いパネルディスカッションの一つに、「ドイツ語圏文学は『一人言』を言っているのか？同時代のドイツ語文学の国際的認知について」というテーマのものがあった。ドイツ語圏のパネラーの中には、ドイツの現代文学が今一つぱっとしないのではないか、とアイロニーに満ちた自己批判的な報告をする方もおられた。その一方ポーランドのパネラーは、ポーランドで人気のドイツ文学の作家として、グラス、ホフマン、ハイネ、ブレヒト、Th.マン、ムジル、ベル等の名をあげ、シラーに至っては„unser Schiller“と呼び、人気が高いという。受容文学（Rezeptionsliteratur）も重要な研究テーマであると語った。ドイツ文学が「一人言」を言っているというよりも、ポーランド人にとって、難しすぎて退屈にうつるとジョークを飛ばし、会場の笑いを誘った。インドのパネラーは、亡命者文学（Emigrantenliteratur）の観点を強調された。参考までに、インドで人気の日本人作家は、村上春樹、大江健三郎、三島由紀夫であるという。米国のパネラーは、英語があまりにグローバル化したために、米国人は他国の文学を知ろうとしないと自国批判した一方で、メディア言語で文学もネット化してきた点を指摘した。米国では文学書の翻訳の大半はロシア文学であり、ドイツ文学の翻訳はあまり多くないという。オーストリアのパネラーは、エルンスト・ヤンドルの成功例をあげて、書き手が多様化し、ドイツ文学の概念も広がっていると語った。フロアーにいた外国人のゲルマニストから、ドイツ語ドイツ文学が低迷する理由の一つとして、ドイツ人のゲルマニストがもっとドイツ語を奨励すべきところを、ドイツ文学の研究論文さえも英語で書く傾向があることは、自己矛盾であると批判する声があった。パネリストからも、ドイツ文学が低迷する理由として、社会のメディア化もあるが、売れる本を作ろうとする出版社の政策が、文学書からさらに読者を遠ざけているとの指摘もあった。<br /><br />今回は外国人ゲルマニストから熱い発言が飛び出す傾向があった。インドのゲルマニストが最も熱く、パネラーを前にして持論を展開する傾向が見られた。日本人の中にも、ヨーロッパに根をはって研究職についている人達も現れており、TübingenのTakedaさんがドイツ文学は外国、とりわけ東アジア等でよく受容されてきたが、逆に日本の哲学・文学はドイツ語圏ではまだよく知られていない、とヨーロッパ中心主義の姿勢を指摘する発言もあって、日本人の気持ちを代弁してくれるようで心強い思いがした。この度の学会では、パネルディスカッションだけでも８つの企画が並んでいた。<br /><br />日本独文学会会長の前田良三教授が、パネルディスカッションFとGでパネラーと司会を務められて、異文化間ドイツ語学文学の変遷（Interkulturelle Germanistik im Wandel）というテーマの下、午前中に第I部、文化の媒介、外国における影響史(Kulturvermittelung, Wirkungsgeschichte im Ausland)について討論がなされた。同じ日の夜の部では第II部で、挑発としての文化の越境 (Transkulturalität als Herausforderung)という話題で全体討議が続いた。Transkulturalitätというキーワードの解釈をめぐって会場から異見が飛び出し、討論が迷走しだすようにも見えたが、外国でのゲルニストの交流と協力の例を韓国のパネラーが報告した。母国語でもないドイツ語を介して、アジア・ゲルマニスト会議で東アジアのゲルマニスト達がドイツ語ドイツ文学について研究発表をし、文化交流をしている例が紹介された。会場から自然と拍手が沸き起こったことが印象深い。<br /><br />60ものセクションが7日間に別々の部屋で進行したため、私は自分が発表するセクション37を中心にこの期間を過ごし、合間に関心ある発表を聞き歩いた。セクション37は、「語られた歴史－想起された文学」（Erzählte Geschichte – erinnerte Literatur）というテーマで行なわれ、米国、カナダ、ドイツのドイツ人女性ゲルマニスト4人が司会（Leitung）にあたった。大きな束ねやすいテーマだったこともあり、呼びかけに応じた外国人も多く、予想以上に発表申し込みが集まったそうだ。直前になってキャンセルがいくつかあり、配布されたプログラム通りとはいかぬところもあったが、最終的に40名の発表があった。本部から公園をはさんで離れた場所にある図書館新館の講堂が私達の会場だった。一日9本～4本の発表が初日から最終日までみっちり続き、司会役チームはすべての発表を聞き届け、活発に討議に参加していた。ドイツ人の発表が初日、二日目頃に意図的に固められていた感じがするが、外国人ゲルマニストも、インド、ポーランド、スペインの教授をはじめ、ドイツ人顔負けのドイツ語で含蓄の深い発表をされていた。同じグループで、生田教授、今村教授が日本人として熱のこもった発表をされた。ドイツ人の発表を聞くと、非常勤の若手研究者に気迫に満ちた濃い内容のものが多かったように思う。日本ではまだあまり名を知られぬ現代作家の作品報告や政治と文学の関係、旧東ドイツ女性文学についても壁崩壊後20年を経て客観化して発表されていた。外国人である私には、年配のドイツ人教授のゆっくりとして骨太なドイツ語の方が、若い研究者の早口で流すようなドイツ語よりも耳にすっと入ってきたように思われた。<br /><br />日本からは、語学セクションで文法を中心にいくつかの発表グループがあった他、文学系でも日本人の司会役の方がたを囲んで映画と視覚メディア論、異文化論等、発表グループがいくつかあり、積極的に参加する方が多く見受けられた。個人参加で、専門分野のセクションで発表される方も増えている。大御所の先生方の姿が今回見えなかったのを寂しく思った一方で、大学院生や若手研究者の発表も目立ち、新しい日本人の活躍を心強く思った。同じ国籍の人がグループで発表するのは、日本人だけでなく、ポーランド、ルクセンブルク、ドイツ、東アジア人主体のグループもあり、多彩であった。<br /><br />ワルシャワ大会は研究発表の呼びかけは成功したものの、運営の財政逼迫か、奨学金の関係か、直前に途上国等の研究者の参加取りやめがあった。最終発表日の夜も、パネルディスカッションで締めくくられ、恒例のパーティは企画もされていなかった。ウィーン、パリ、そしてかつての東京大会でも大きなパーティが恒例で、新しく知りあったゲルマニストと交流の輪を広げることができたように思うが、今回は発表が増えて、質素で実質本位な大会となった。<br />　<br />今年ワルシャワではショパン生誕200年を祝う催しが続いており、IVGの期間中早くも、近隣ヨーロッパ諸国からの観光団や日本、韓国からの団体客がワルシャワ大学近くを散策している姿が見かけられた。街で英語で道を聞いても、若い人は英語ができるようだが、ロシア語を習った世代の人達には英語どころかドイツ語も通じず、もどかしい思いをした。そんな中で、今大会に備えてポーランド語の会話を事前に練習してきたというシャイフェレ教授のようなゲルマニストもおられて、オープン・カフェでもさっそくポーランド語を使って、ワルシャワの人の顔をほころばせていた。ポーランドの風景はドイツを思わせるところもあるが、標識のポーランド語を見ると私には緊張感が走った。街は戦争ですべて破壊されたが、市民の手によって、戦前の写真、絵や設計図も参照して、以前の建物の姿に奇跡的に復興されたという。総じて女性は優しそうな表情で、男性はショパンのように繊細そうで穏やかな顔つきの人が多いように見えた。大国の間で歴史的に苦い思いをしてきたお国柄なのか、忍耐強そうな人が多いようにも見えた。<br /><br />夕方の路面電車では、仕事帰りの人々の熱気を感じた。東側のベルリン等で見かけたソビエト風高層アパート群がワルシャワの中心部にも立っていた。夜になると、ソビエトから贈られたという文化科学宮殿がネオンでひときわ輝いていた。ポーランドは、半分社会主義的で、半分資本主義的な不思議な国である。西側諸国の資本によるホテルがちらほらと立つが、それ以外は、再開発工事中で、見通しのよい大通りにそって散策するのも心地が良かった。ワルシャワ大学の旧図書館がIVG会場の中心であったが、その周囲にあるかつての貴族の宮殿も今では大学施設であり、会場に使われた。<br /><br />大学のすぐ近くに、警備兵の姿が目立つ建物があったが、後でそこが大統領官邸であることを知った。六月、飛行機事故で他界した元大統領他の慰霊祭壇には、朝から花や蝋燭を手向ける人が訪れていた。大学正門向かいには、歴史ある十字架教会があり、そこの柱には信仰の厚かったショパンの心臓が埋め込まれているという。また、その近くにはコペルニクスの像が立ち、訪れた人はしばし立ち止まり、感慨にふける。この像もナチス・ドイツ軍の占領下にポーランド語の碑銘を覆い隠されたり、破棄された受難の過去を持ち、歴史の重みを感じさせてくれる。<br /><br />ポーランドへは日本からの定期直行便がないため、飛行機の乗り継ぎでようやくたどり着いた。今回の学会では、東欧圏からのゲルマニストの参加が積極的だったのもうなずける。ポーランドの情報が日本ではあまり伝えられておらず、私も出発前は不安が大きかった。だが、日本で情報収集して備えたせいか、現地では徒歩移動を中心にして、安全に過ごすことができた。もう少し、他国のゲルマニストと話を交わす時間の余裕があったら良かったのにと、プログラムをめくりながら、規模が大きくなった今回のIVG学会を振り返っている。次回2015年は上海で開催されるという。アジア・ゲルマニスト会議の熱気を上回る、IVGの規模、発表の密度の濃さと研究の多彩さを、日本の若いゲルマニストの皆さんにも是非肌で感じていただきたいと願っている。<br /><br />小林英起子（広島大学）</div>]]>
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		<title>国際ドイツ語オリンピック・2010年ハンブルク大会報告(Y. Tanizawa) [J]</title>
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		<published>2010-10-17T17:29:32+00:00</published>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.jgg.jp/" xml:lang="ja">今年７月末から8月にかけての2週間、第６回（ドイツ語圏開催としては2回め）国際ドイツ語オリンピック（Die Internationale Deutscholympiade、以下IDO）が、ドイツの海上交通の拠点、国際都市ハンブルクで開催された。</summary>
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<![CDATA[<div>今年７月末から8月にかけての2週間、第６回（ドイツ語圏開催としては2回め）国際ドイツ語オリンピック（Die Internationale Deutscholympiade、以下IDO）が、ドイツの海上交通の拠点、国際都市ハンブルクで開催された。<br />かつて東欧諸国では様々な分野でのオリンピックが行なわれ、その語学分野の一つがIDOであり、前々回までは各国の持ち回りであったが、前回2008年のドレスデン大会以降はドイツ国内で開催されている。ゲーテ・インスティトゥートと国際ドイツ語教員連盟(IDV)の共催であるが、同時にドイツ外務省後援の文化事業の一つということで、国を挙げての歓迎ムードが大いに感じられた。<br /><br />大会には最終的に44カ国88名の参加者が集まった。前回は各国3名ずつであったが、今回は参加国を増やすため各国2名ずつとなった。日本からも前年11月の国内2次予選（筆記試験とプレゼンテーション）に進んだ10名の中から選ばれた、A２の清原健一君（早稲田大学3年）とC１の石黒瞳さん （上智大学1年）が参加した。各国から1名の教師が引率し、私もその一人として二人に同行した。往復の同行と現地でのサポートという役割と並行して、同時開催された教員研修へ参加した。<br /><br />競技は筆記部門（壁新聞の作成）と口頭部門（4人グループでのプレゼンテーション）に分かれて行なわれた。両部門での評価の合計点で、ヨーロッパ共通参照枠に基づくA2、B2、C1のレベルごとに1位から3位まで個人表彰されたが、清原君は見事A2レベルで1位に輝いた。彼の壁新聞は他の参加者や我々教師からも高く評価され、またプレゼンテーションでもリーダーシップを発揮した点が高得点につながったのだと思う。<br /><br />参加者には課題の準備、発表以外に市内観光やスポーツ、コンサートなど多くのプログラムが用意されており、様々な国から集まった若者たちが朝から晩までドイツ語だけで語り合い、日々成長していく姿を目の当たりにし、感動すら覚えた。同行させてもらい、本当に良かったと思っている。<br />大会に参加して私が再認識したことは、文化の中心に言語があり、文化交流は言語から始まるということである。IDOの意義は各国のドイツ語学習者に高いレベルでの競いの場を提供し、ドイツ語力のレベルアップを計ることにとどまらない。IDOの根本的な理念は、ヨーロッパにおける言語の多様性の尊重であると言えよう。具体的には、海外でのドイツ語学習者数が現在約1,700万人と伸び悩んでいる（フランス語学習人口が約3,000万人）現状を打開し、ドイツ語を通して結ばれた若い世代の絆を将来に結び付けたいという思いが伝わってくる。<br /><br />成功裡に終わった意義深い大会であったが、以下、感じたことを述べたい。まず、採点基準であるが、本部から送られてきた資料では、「創造性」と「社会能力」大きな比重を占めていた。つまり、ドイツ語力そのものだけでなく、むしろドイツ語を用いて課題を達成する過程が重要視され、評価の対象となる。確かに、ドイツ語力だけならばわざわざ一堂に会しなくても各国で試験をすれば済むことである。ここで目指しているのは、ドイツ語を用いて競技すること、まさしくオリンピックである。この点、グループ内での和を重んじる日本人には有利に働くのではないかと思う。ドイツ語力だけでは母語の違いが大きく影響すると思うからだ。<br /><br />そして、参加資格について。参加資格は16歳から20歳までであるが、最年長20歳の代表を送ったのは日本だけであった。以前は18歳までで、日本のように大学で第二外国語を学び始めることが一般的な国を考慮して変更されたと聞く。もっとも、ドイツ語を第二外国語として始めた高校生、大学生が１～2年で最低の参加基準であるA2レベルまで到達するのは難しい。いきおい帰国子女に頼らざるを得なくなる（ただし今回の二人は帰国子女ではなかったことは特筆するべきである）。レベル分けの判断も、ドイツ語圏滞在歴（A２レベルは半年以上の滞在者は応募できない）も自己申告で、国によって判断が多少異なっていたのではと思った。<br /><br />今後もIDOは2年ごとをめどに開催されるとのことで、嬉しい限りだが、さらに多くのドイツ語学習者、教員に関心を持っていただき、目標にしていただけたらと思う。他のオリンピックのように新聞等で取り上げられないものであろうか。他の外国語、例えばフランス語などにはオリンピックなどなく、そもそもゲーテ・インスティトゥートのような大規模で活発な組織もないと聞く。ドイツ語学習者は環境面でとても恵まれていることを再認識した。<br /><br /><img src="http://www.jgg.jp/uploads/photos/24.jpg" alt="" /><br />　　　<span style="font-style:italic">〈歓迎バーベキューパーティー〉</span><br /><br /><img src="http://www.jgg.jp/uploads/photos/26.jpg" alt="" /><br />　　　<span style="font-style:italic">〈表彰式〉</span><br /><br />谷澤優子（東京学芸大学附属国際中等教育学校・日本大学非常勤講師）</div>]]>
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