ワーグナーとルートヴィヒⅡ世――夢と現実のはざまで(T. Yamazaki) [J]   作成日:2013/11/07
今年はリヒャルト・ワーグナーの生誕200周年。日本でも記念の行事が相次ぐなか、ちょっと珍しい企画として、6月の約2週間、なんと平城の古都において、『夢を奏でたワーグナー』と題した展覧会が催された。会場は奈良県の文化会館、主催は同県と読売新聞社および読売テレビである。監修者の一人として関わったので、そのあらましを私なりの視点からお伝えしよう。
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広告用のポスター(写真1)を見ると、ワーグナーの顔やピアノに並んで、何よりも大きく鮮やかに目に飛び込んでくるのは、湖とアルプスを背景にしたノイシュヴァンシュタイン城の写真だ。展覧会のために作成された図録にも壮麗な城の外観と内装の図版があちこちにちりばめられ、ワーグナーその人というよりも、むしろ作曲家の最大のパトロンとなったバイエルンの王様を前に押し出したような印象である。事実、メルヘン王の異名をとるルートヴィヒⅡ世にふさわしく、各コーナーにもそれぞれ「Ⅰ.夢の城 ノイシュヴァンシュタイン城」、「Ⅱ.夢の出会い ルートヴィヒⅡ世」、「Ⅲ.夢の劇場 バイロイト祝祭劇場」、「Ⅳ.夢の楽劇 ワーグナーの魅力」、「Ⅴ.夢の続き 今に生きるワーグナー」という副題がついている(ワーグナー本人に関して言えば、「夢」=Traumよりも、むしろ「妄想」=Wahnというイメージがふさわしかろう)。

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(写真1)*写真をクリックすると拡大されます。

準備の段階で協力の打診を受けて、担当の豊田美緒さんにお会いしたとき、なるほどと合点がいった。この展覧会はそもそも「ルートヴィヒおたく」を自称する豊田さん本人が企画し、実現にこぎつけたものだったのだ。さる大学でドイツ語学を専攻した彼女は、バイエルン王について調べるうち、その人物と生涯に深く魅せられていった。読売新聞入社後、一年間の留学先にミュンヘンを選んだのも、「ルートヴィヒが眠る聖ミカエル教会がそこにあるから」だったという。滞在中、王ゆかりの事績を巡り歩いて、さらに見聞を深めた彼女は、帰国後、王との数奇な結びつきで知られる作曲家の記念の年が近づくにつれ、この二人を一緒に取り込んだ催し物ができないかと案を練った。そして単身、バイロイトのワーグナー記念博物館に乗り込み、館長のスヴェン・フリードリヒ博士に自らの希望を切々と訴えて、出展物の協力をとりつけるに至ったのである。いわば、タイトルに謳われた「夢」とは何よりも、この展覧会に賭けた企画者自身の情熱を密かに表したものとも考えられよう。
さて、私が依頼を受けたのは「Ⅱ.夢の出会い」の監修で、主な仕事は展示物の翻訳とキャプションの執筆である。このコーナーの展示物はルートヴィヒの肖像画や写真を別にすると、ルートヴィヒ、ワーグナー両名の略年譜パネル、ドレスデン革命が失敗に終り、ドイツを亡命したワーグナーの指名手配書、数通の手紙、契約書、証明書の類など、文字によるドキュメントがほとんどで、ワーグナー愛用のグランド・ピアノ(写真2)や舞台画のパネル(写真3)、ノイシュヴァンシュタイン城等の外観・内装や壁画の写真などで飾られた他コーナーに較べると、やや地味と言おうか、視覚上のインパクトには乏しい。加えて、ワーグナーを研究しているとは言っても、ルートヴィヒⅡ世との関係そのものは私にとってはどちらかというと手つかずの領域だ。そんなこともあって最初は気乗りがしなかったものの、豊田さんの情熱に引っ張られるように仕事を始め、彼女の「夢」にお付き合いするうち、いつしか自分でも興味を覚えるようになった。

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(写真2)

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(写真3)

展示物を翻訳するだけでなく、簡単な解説も加えるとなると、手紙や文書が書かれた状況や背景を調べなければならない。ルートヴィヒの生涯について改めて勉強し、ワーグナーの手紙や自伝、そして彼の晩年の伴侶であるコジマの『日記』を展示物と引き較べながら読みなおしてゆくと、さまざまなことが見えてきた。それは言ってみれば、「奇跡の出会い」から始まった王侯と芸術家の稀有の友愛に伏流する生々しい感情のもつれであり、にもかかわらず、生涯切れることのなかった魂の絆である。いわば、甘美な「夢」にはところどころ「現実」という薬味がまぶされ、その配合こそが二人の関係に興趣を添えているというわけだ。
もちろん、作曲家と王の蜜月の日々が長くは続かなかった事実は広く知られている。1864年春、バイエルン王に即位したルートヴィヒは債鬼に追われて流浪の旅を続けるワーグナーをミュンヘンに招聘、借金の清算、年金の授与によって、彼が何の憂いもなく創作に専心できる理想的な環境を整えたのだが、やがて作曲家の浪費癖と王への影響力を危ぶむ宮中や世論の攻撃を浴びて、ワーグナーは二年も経たないうちに同地を撤退。以来、芸術観の食い違いやワーグナーとコジマの不倫の発覚など、さまざまな要因が重なって、二人の関係には生涯、波風が絶えなかった。1869年から翌年にかけて、王が作曲家の反対を押し切り、ミュンヘンで《ラインの黄金》《ヴァルキューレ》の上演を強行したときには、ルートヴィヒが年金打ち切りをちらつかせ、ワーグナーも王との決裂を覚悟するというように、緊張もにわかに高まった。そして、その後も二人のあいだでは水面下で、数々の行き違いと和解が繰り返されたのである。

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ルートヴィヒとワーグナーが生涯に交わした手紙は電報も含めると約600通にものぼる。今回、展示されたものはそのうち10通にも満たないが、このわずかな数を年代順に追うだけでも、二人の交流の軌跡と背後のドラマが見えてこよう。
例えば、1864年5月、ミュンヘン招聘の知らせを受けたワーグナーが、まだ見ぬ王に送った感激の手紙と、1865年3月、世論の攻撃と宮中の陰謀が渦巻くなかで王の真意を伺うワーグナーに対し、ルートヴィヒが送った短い書きつけを並べることで、出会いからわずか一年も経たぬうちに、二人の周囲に暗雲が立ち込めてゆくさまが実感される。後者の文面「どうかこの地に、とどまってください、すべては以前と同じように、素晴らしくなるはずです」には、あたかも「つぶやき」のように「今は仕事で手一杯なのです」という一言が書き添えられ、ワーグナー本人に直接会って自分の気持ちを伝えることさえままならなかった当時のルートヴィヒの苦渋が伝わってくるという具合だ。
このときから十数年が経過したワーグナー晩年にまつわる二つの展示物も、世にあまり知られていないだけに、よりいっそう意味深い。
ひとつは「イタリアを旅行するワーグナーの護衛指令書」。1881年秋、ワーグナーがシチリアに長期滞在に赴いたおり、ルートヴィヒが本人には知らせず、イタリア政府に宛てて、彼の身の安全を保証してくれるよう依頼した書面で、敬愛する作曲家への王の気遣いが伝わってくるようだ。事実、シチリア到着後、パレルモ州知事からじかにそのことを聞かされて感激したワーグナーは後日、ルートヴィヒに宛てて、お礼と報告を兼ねた長文の手紙を書き送っている。ワーグナーは晩年、数度にわたり、ヴェネツィアをはじめとするイタリアの地に出かけているが、なぜこのときだけ、このような指令書が送られたのか。マフィア発祥の地でもあるこの南国の島は、当時からとりわけ治安の悪いイメージがあったのか。残念ながら、調べきることができなかったが、いろいろと想像を巡らせてみたくなる。
もう一つは1882年夏、バイロイトの《パルジファル》初演への臨席が叶わなかった王の誕生日に、ワーグナーが打った電報だ。こちらは原文を付して、もう一度ここに掲載しよう。

聖杯のもたらす癒しを、汝は無下に斥けたもう     Verschmähtest Du des Grales Labe,
あわれ、我が唯一の贈り物                Sie war mein Alles dir zur Gabe,
みじめな男を蔑みたもうな                Sei nun der Arme nicht verachtet,
汝の幸を願うばかり、与えるものなど、もはやなきとて Der dir nur gönnen, nicht geben mehr kann.

最後の1行は《神々の黄昏》序幕で、夫ジークフリートを送り出すブリュンヒルデの不安も入り混じる台詞だ。いわばワーグナーは、記念すべき自作の初演に姿を現さなかった王を、自作を巧みに引用した四行の戯れ歌でやんわりと非難したというわけだが、この文面がまたちょっとした波紋を呼んだようで、三日後に官房秘書官からコジマ宛に「王が出席されなかったのは、すでにお伝えしてあるように体の不調が長引いているからで、(ワーグナーが王の不興を買ったと)不安に思われる理由は何一つありません」という執りなしの電報が届いている。

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このように書き出してゆくと、キリがなくなる。いずれ別の機会に詳しくまとめようと考えているが、要は、これらの展示物を翻訳し、解説によって再構成してゆく作業が、私にとって「夢」の裏に隠された「現実」を覗き見る、またとない機会になったということだ。
最後に結びとして、「ルートヴィヒによるワーグナーへの勲章指令書(1873年12月25日付け)と、ワーグナーからの返礼(レプリカ)及びキャプション」をそのまま挙げておこう。実はこれは展示物として予定されながら、会場設営の段階になって、スペースの不足から、オープニングの前日に削除が決定したものである。たしかに文面自体は儀礼的なもので、面白みに乏しいので、真っ先にカットされた理由も分からないではないが、自分としては実はこれが最も興味深いと思っていたこともあり、誕生直前に息絶えた赤子をそのまま葬るようでなんとも忍びなかった。このコラムを機に、全文を掲載し、陽の目を見せることをお許しいただきたい。翻訳した「叙勲命令書」と「返礼」はいわば「夢」の部分、そこに解説を加えることで「現実」を対比させてみたのだが、いかがであろうか。

ルートヴィヒによるワーグナーへの勲章指令書(1873年12月25日付け)と、ワーグナーからの返礼(レプリカ)

1)作曲家リヒャルト・ワーグナーへの指令

ルートヴィヒⅡ世
ほか

私たちは芸術の分野における貴兄の優れた業績を認め、学術ならびに芸術のためのマクシミリアン騎士団会員にぜひとも任命すべきと、決定いたしました。つきましては今ここに、機密官房印章を捺印した私たちの自筆による証明書を当団の勲章ともども、手渡すことといたします。

ルートヴィヒ

2)ワーグナーの礼状
権勢このうえなく
誰よりも慈悲深き国王にしてわが主君たる
陛下

芸術ならびに学術のための貴王立マクシミリアン勲章を通して、私に授かりました高き栄誉もみな、陛下の恵み深き御心の賜物であります。このたびの顕彰にふさわしくあるべく、私の残りの人生をたゆまず精進いたしますことを衷心よりお誓い申し上げまして、陛下よ、まことにささやかではありますが、感謝の思いに代えることをお許しください。
 わが最高の恵み深き主君にして恩人であらせられます陛下に、いとも熱き祝福の祈りを捧げつつ、恭順のきわみに命果てんとする(ersterbe ich demuthvoll als…)
陛下の
最も従順にして忠実なる僕
リヒャルト・ワーグナー
バイロイト
1873年12月25日

解説
マクシミリアン騎士団は1853年11月、学術振興に力を入れたルートヴィヒⅡ世の父にして当時のバイエルン国王マクシミリアンⅡ世によって設立された。同会員勲章は学者と芸術家に与えられるバイエルン王国最高の名誉称号であり、日本で言えば学士院および芸術院に相当するものと考えられよう。1932年、ナチスによって解散が命じられるまでに、のべ351名に会員勲章が与えられた(なお、1981年に復活)。
ワーグナーがこの団体から受勲の打診を受けたのは実はこのときが初めてではない。すでに1864年の秋、マクシミリアン騎士団参事会が彼の叙勲を決定したのだが、ワーグナーに敵意を抱きはじめた官房秘書官プフィスターマイスターが叙勲はもっぱら王の先導によるものと事実をねじまげて伝えたため、この団体についても勲章の意味付けについても何も知らなかったワーグナーは、自分と王の関係がとやかく言われるこの時期に、これ以上、世の疑念をかきたてるようなことは控えるよう王に伝えてほしいと返事したのである。プフィスターマイスターらの狙いはまんまと図に当たり、受勲辞退はワーグナーの傲慢と騎士団への侮辱を示すものとして、同会員らの大いなる憤激を買い、世の反感をかえって煽ることとなった。
その9年後、再び叙勲が持ちかけられたのは、騎士団からの和解の合図ともとれるが、ワーグナー自身はこの話を本心からは喜べなかったようだ。正式の通知に先立ち、官房秘書官からその旨の連絡を受けたコジマはこう記している。「彼ら(騎士団)がいまになって手を差し伸べるとは奇妙なことだ。リヒャルトにとってはけっして心地よいことではなく、全く無意味にすぎないのに、うまく拒否するわけにもゆかない。」(『コジマの日記』1873年12月6日)
おりからワーグナーはバイロイト音楽祭開催のための資金作りに忙しく、王には借金の保証人を引き受けてくれるよう依頼している最中のことでもあり、実質的な援助の代わりに届いた叙勲の通達は、タイミングとしても適切とは言い難かったろう。また、ブラームスが同時に受勲していることも、おもしろくはなかったに違いない。
一見感激に満ちたワーグナーの返礼の手紙にも、行間からはそのような気持ちが垣間見える。「昨日、リヒャルトは国王に完全に公式の手紙をしたため、そのなかで“命果てた”(und erstarb)。曰く、この種の言葉を話すときは、文体にどんな厚化粧をほどこしても、しすぎることはない、慣例に理性は必要ないのだ。」(『コジマの日記』、同年12月27日)

*写真は読売新聞社提供


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