Japanische Gesellschaft für Germanistik
カテゴリ一覧
 
オンライン状況
14 人のユーザが現在オンラインです。 (1 人のユーザが コラム を参照しています。)

登録ユーザ: 0
ゲスト: 14

もっと...
ログイン
ユーザ名:

パスワード:



パスワード紛失

グリム年は続く――グリム童話刊行200年記念シンポジウム報告――(H. Ono)[J]

カテゴリ : 
文学コラム
  投稿日: 2013-5-25 1:04
大野寿子(東洋大学)
1.グリム年2012年

2012年は、『子どもと家庭のためのメルヒェン集』(Kinder- und Hausmärchen、略称KHM、通称『グリム童話』)第1巻第1版が1812年12月20日に出版されてちょうど200年にあたり、ドイツのとりわけヘッセン州では、グリム兄弟が少年期を過ごしたカッセル、大学に通ったマールブルク等を中心に、老若男女のためのイベントが目白押しだった。たとえばマールブルクでは、「一気に七つも!」(7 auf einen Streich!)という総合テーマのもと、「グリムの小路」と題するグリム兄弟ゆかりの町めぐり地図がリニューアルされ、演劇、音楽、文学、グルメ等数々のイベントが開催された。「一気に七つも!」がKHM20「勇敢なチビの仕立屋」(Das tapfere Schneiderlein)の茶目っ気ある武勇伝から来ていることは周知の事実。さて、このイベントの最たるものは「マールブルクのカエルの王さま、お出かけ中」(Marburger Froschkönig unterwegs)であった。
「カエルの王さま」とは、もちろん、KHM1に収録されている「カエルの王さまあるいは鉄のハインリヒ」(Der Froschkönig oder der eiserne Heinrich)のことである。末っ子王女の金の毬を水底からとってきた親切なカエルは、約束を守らない王女の後を追って城へと入る。ベッドでいっしょに寝たいというカエルの要求にうんざりした王女は、カエルを壁に投げつける。するとカエルは「人懐っこいきれいな目」をした王子の姿に戻り、王女と結婚してめでたしめでたしという話である。「目」は口ほどに物をいったかどうかは定かではないが、このカエルの王さま(本当はカエルの王子さまなのだが)が巨大化して、200年後の2012年にマールブルクに突然現れた。


画像1:マールブルク観光局で巨大化した「カエルの王さま」。(筆者撮影)

それを「マールブルクのカエルの王さま」(Marburger Froschkönig)と呼び、行列イベントを行ったのだ。そのミニバーションが、「マールブルクのカエルの王さま、お出かけ中」と銘打たれ、マールブルクのいたるところで売られていた。


画像2:「マールブルクのカエルの王さま」ミニバージョン。黄色い王冠がバージョン1、金色の王冠がバージョン2。(筆者撮影)

そしてこの「カエルの王さま」を旅行先の風景とともに撮影し、その写真をフェイスブックへ投稿するイベントサイトのキャンペーンが展開されていた。盛況だったようである。筆者も「カエルの王さま in Japan」の画像投稿を頼まれて、福岡の太宰府天満宮で撮影し投稿したが、残念ながら受賞とはいかなかった。同コンクールは2013年にも引き続き行われているようである。( http://www.marburg.de/de/111506

ところで、2012年の日本での「グリム年」認知はいささか遅く、『スノーホワイト』(Snow White & the Huntsman, 2012年6月15日日本公開)や『白雪姫と鏡の女王』(Mirror Mirror, 2012年9月14日日本公開)等、『グリム童話』を土台とするアメリカ映画の宣伝に、「グリム童話200年」というキャッチフレーズが使われはじめてようやくのことだった。2012年6月9日には映画の宣伝のついでにグリム童話200年を記念して、「世界ふしぎ発見!」(TBS系)という番組内で、「ドイツメルヘンミステリー―おとぎ話の真実―」というグリム特集が組まれた。また東京では、6月下旬から7月上旬にかけて、「グリム童話の女性たち―その200年の秘密―」という展覧会が東京青山(ギャラリーハウスMaya)で催され、12月には羽田空港第一ターミナルで「朝倉めぐみイラスト展 in BIG BIRD」という、グリム童話関連のイラスト展示会が開催された。やはり日本のグリム年は、2012年後半になって盛り上がりをみせたように思われる。

さて、この遅咲きの「グリム年2012年 in Japan」に、我々日本のグリム研究者も多少の貢献はしたと自負したいものである。たとえば、2012年10月20日(土)午後、『グリム童話』刊行200年と東洋大学創立125周年とを記念する国際シンポジウム「グリム童話200年のあゆみ―日本とドイツの架け橋として―」が、筆者の勤務校である東洋大学白山キャンパス井上円了ホールにて開催された。


画像3:グリムシンポジウムポスター。(ダイヤモンド・ビッグ社制作)

「グリム童話は本当に童話なのか?」、「古代研究者グリム兄弟の実像にせまる!」と銘打たれた本シンポジウムは、予想をはるかに上回る500人強の参加者に恵まれ盛大な催しとなった。以下、シンポジウムにまつわるあれこれを振り返ってみようと思う。共催の読売新聞東京本社、ご後援いただいたドイツ連邦共和国大使館、ドイツ学術交流会(DAAD)、公益財団法人日独協会、マールブルク市、カッセル・グリム兄弟博物館、グリム兄弟協会(ドイツ)、日本グリム協会、さらに『地球の歩き方』でおなじみのダイヤモンド・ビッグ社には、まずこの場を借りて御礼申し上げる。

2.グリムシンポジウムin東洋大学

開会に先立ち、東洋大学学長竹村牧男氏、ドイツ学術交流会(DAAD)東京事務所所長ホルガー・フィンケン氏(Dr. Holger Finken)にご挨拶いただいた。さらに、東洋大学の協定校であるマールブルク大学民俗学研究所所長カール・ブラウン教授(Prof. Dr. Karl Braun)からも祝辞を頂戴し、日本語訳が代読された(進行、翻訳および代読は、同大学法学部准教授田中雅敏氏)。グリム童話の歩んだ200年を振り返り、過小評価も過大評価もせず正しく認識し、未来に向けたグリム童話のあり方を提言するという目的を掲げた本シンポジウムは前半と後半にわかれ、前半では導入講演および二つの基調講演、後半では日本のグリム研究者によるシンポジウムが行なわれた。

最初に、導入講演「グリムへのいざない」を筆者が行った。


画像4:大野寿子導入講演風景。投影画像は、グリム童話200年記念としてダイヤモンド・ビッグ社より2012年11月に出版された(当時は出版予定)、沖島博美〔文〕、朝倉めぐみ〔絵〕『グリム童話で旅するドイツ・メルヘン街道(地球の歩き方GEM STONE)』の一部。(佐藤笑實梨撮影)

グリム童話とグリム兄弟について、基調講演を聞くための基礎知識を、とりわけ一般の参加者向けに説明した。多くの日本人が「ふわふわした」、「かわいらしい」、「乙女チックな」イメージを抱いている「メルヘン」なる語は、ドイツ語のMärchenをカタカナで表記した造語であり、本来は「童話」、「民話」、「昔話」、「笑い話」等を包括する「短いお話」を意味すること、グリム童話は創作童話ではなく民間伝承の収集にして民の詩(Volkspoesie)であること、ヤーコプ・グリム(Jacob Grimm, 1785-1863)とヴィルヘルム・グリム(Wilhelm Grimm, 1786-1859)のグリム兄弟が単なる「メルヘンのおっちゃん」ではなく、法学者、言語学者でもあり、ゲッティンゲン大学教授、ベルリン大学(現在のフンボルト大学)教授でもあったこと等の基礎知識である。さらに、グリム兄弟の足跡とグリム童話ゆかりの地を結ぶメルヘン街道の最近の動向を、ダイヤモンド・ビッグ社より提供頂いた「メルヘン街道イラストマップ」を参照しつつ提示した。たとえば、グリム兄弟が教鞭をとったゲッティンゲン大学と、マルクト広場にたたずむ「ガチョウ番の娘リーゼル」Gänse Lieselで知られたゲッティンゲンが、メルヘン街道公式マップからは現在外れているといったマメ知識等である。( http://www.deutsche-maerchenstrasse.com/de/

基調講演1「マールブルク?〈だがこの町自体はひどく醜い〉―グリム兄弟と故郷ヘッセンとの相反的関わり―」は、チューリヒ大学教授のハルム=ペア・ツィンマーマン氏(Prof. Dr. Harm-Peer Zimmermann)によりドイツ語でなされた。


画像5:ハルム=ペア・ツィンマーマン氏基調講演風景。(佐藤笑實梨撮影)

グリム兄弟の故郷であるヘッセン(当時はヘッセン選帝侯国)と彼らとのアンビバレントな関連性を、往復書簡等の諸資料を手がかりに説くものであった。ヘッセンの小さな町ハーナウに生まれ、シュタイナウ、カッセルと引っ越し、大学進学のためにマールブルクへと家族から離れて移り住んだグリム兄弟は、この大学町の狭い路地や螺旋階段等、今となっては観光名所にもなっている古風なありふれた町並みを(そのような風景をとりわけ日本人は、「メルヘンチック」で「中世の香り漂う」といって好むものであるが)、平凡で「醜く見るにたえない」と酷評する。しかしながらいったんその地から離れ、見知らぬ土地で新たな生活を送ってみると、これまで「取るに足らない」と思っていたものの真の価値に彼らは気付いていく。懐かしさが生み出す「錯覚」が、ネガティヴな印象をポジティヴな回想空間へと変容させる。ポジティヴなかたちの故郷愛とは、「遠さの現象」すなわち「遠さの現れ出でたもの」であると氏は指摘する。グリム兄弟にとって故郷ヘッセンとは、空間的な遠さと時間的な遠さを獲得して(すなわち過去を回想して)始めて現れ出でる理念体であり、それは単なる空間ではなく、そこに暮らした家族との絆、そこで培った学問であり人間関係そのものだったというのである。したがって「故郷愛」とは、「人間が人間らしく生きるための規範」をもたらすと結論付けられた。

基調講演2「文字から図像へ―19~20世紀における『子どもと家庭のためのメルヒェン集』挿絵の歴史―」は、カッセル・グリム兄弟博物館館長のベルンハルト・ラウアー氏(Dr. Bernhard Lauer)により行われた。


画像6:ベルンハルト・ラウアー氏基調講演風景。(佐藤笑實梨撮影)

『子どもと家庭のためのメルヒェン集』(第1巻第1版1812年、第2巻第1版1815年)には、各メルヒェンの挿絵というものがまったくなかった。しかしながら、オランダ語訳版(1820年)、英訳版(1823年)には美しい挿絵が施され、売れ行き好調であった。グリム兄弟は、この挿絵を施すというアイデアを外国語翻訳版から逆輸入したのだ。最終的(第7版決定版1857年)には「メルヒェン」201話(ただし通し番号は200番まで)、「子どものための聖人伝」10話の合計211話となる『子どもと家庭のためのメルヒェン集』は、その完全収録版を「大きな版」、50話のセレクト版を「小さな版」と称し、特に後者には美しい挿絵が施されていった。挿絵の存在は購買意欲につながり、諸作品の世界観が国境を越えて伝わっていく原動力となったことは事実である。ところが、元来は時代的にも地域的にも限定されないメルヒェンの世界観に、とりわけ19世紀の挿絵画家の想像力が、中世ドイツの雰囲気を付加し、郷土ヘッセンの風景を混入させたことも事実である。このような挿絵の作成によって、「イメージの固定化と郷土化」が起こっていったと氏は指摘する。たとえば『グリム童話』が和訳されれば、特に明治・大正期には時として和風な挿絵が施されたものであった。このような現象もまた、「おのおのの文化圏へとはめこまれてしまう」という意味での「イメージの固定化と郷土化」といえようが、このような可能性を含有していることも『グリム童話』の魅力の一つなのだという。挿絵の歴史こそ、『グリム童話』の解釈と受容の歴史であり、とりわけ20世紀初頭のユーゲントシュティールが、このような造形言語によるメルヒェン解釈の一翼を担っていたことが、美しい画像とともに説明された。なお、双方の基調講演の講演通訳は筆者が務めた。

後半は、「『グリム童話』研究がつなぐ過去と未来」を総合テーマとしたシンポジウムに移り、日本を代表するグリム研究者ならびに伝承文学研究者による研究発表がさまざまな角度から行われた。


画像7:シンポジウム風景。(佐藤笑實梨撮影)

まず、関西大学准教授溝井裕一氏は、「メルヒェンの世界観・伝説の世界観―変身譚を中心に―」と題し、「変身」という事象をテーマに、『子どもと家庭のためのメルヒェン集』とグリム兄弟のもう一つの民間伝承収集『ドイツ伝説集』(第1巻1816年、第2巻1818年)の双方の世界観比較を試みた。「メルヒェン」は物語的で場所や時代が特定されないのに対し、「伝説」では場所や時代がある程度特定される。動物や物への変身は、メルヒェンより伝説の方がより宗教性を帯びていること等が丁寧に説かれた。

次に、武庫川女子大学教授野口芳子氏による「明治期における『グリム童話』の翻訳と受容」では、明治時代に日本へ伝わったグリム童話が、最初はドイツ語から日本語へと直接翻訳されたのではなく、『グリム童話』の英語訳からの重訳であったことが述べられた。日本語訳に用いられた当時の英訳本が成立したのは英国ビクトリア王朝期であり、当時の検閲等の影響で話の細部が書き換えられていた。そこには、神や悪魔等の宗教上の名称を避け、性的な描写を避ける等の傾向がみられ、そのように翻案された英訳本が和訳されたため、ドイツ語原書と和訳の間の乖離がみられるという。文化的政治的事情と翻訳との関わりが、細やかに解説されていった。

最後に、奈良教育大学名誉教授竹原威滋氏の研究発表「『グリム童話』と比較民話学」では、『グリム童話』と日本を含めた世界各国の類話比較から、それらの国境や時代を超越した共通点に言及された。『グリム童話』の誕生により、ヨーロッパ各地で伝承文学の収集が盛んになり、その結果、いろいろな地域で似たような話が残っていることが判明していった。それを分類し分析したことが、比較民話学のはじまりであったとともに、柳田國男もグリム兄弟の民話収集の影響を受けていたこと等が説かれた。

「『グリム童話』をきっかけに世界の民話に親しんで欲しい。そして、そこにある楽しさや教訓、先人の抱いた平和への思いにふれて欲しい。」

ここに、未来へつながるグリム童話のあり方の一つが提示されたのではないか。質疑応答は時間の関係で二、三件にとどまらざるを得なかったが、会場からは、グリム兄弟の歩んだ人生や童話作家であるデンマークのアンデルセンとの関係について等の質問が寄せられ、客席で観覧中だったラウアー氏や研究者等を巻き込んだ議論がなされた。最後に、東洋大学文学部長中山尚夫氏より閉会の辞を賜り閉会した。

3.グリム兄弟博物館ミニ展示in東洋大学

本シンポジウム開催に際し、同年10月15日より20日当日まで、グリム兄弟の生涯を、特に末の弟であり画家のルートヴィヒ・エミール・グリム(Ludwig Emil Grimm, 1790-1863)の諸作品に描かれた兄弟の姿を手がかりにたどっていく内容のパネル展示が、東洋大学井上円了記念博物館にて開催された。


画像8:グリム兄弟博物館ミニ展示グラフィック幕。(戸部明美制作)

さらにシンポジウム当日のみ、グリム兄弟博物館からもたらされた貴重な資料が10点展示された。そこに、雄松堂書店の協力により、ヴィルヘルム・グリムの1814年の直筆書簡が加わり、ミニ展示としては充実した内容となった。とりわけシンポジウムの前半と後半の間に設けられた休憩時間に多くの人が押し寄せ、長蛇の列ができたようである。来館に際しお願いしたアンケートは、当日用紙が不足したため200程の回答しか得られなかったが、それ以上の来場者数であったことは間違いない。以下、目録と若干のコメントを記す。


画像9:グリム兄弟博物館コレクション。(東洋大学学芸員北田建二撮影)

1.『子どもと家庭のためのメルヒェン集』「小さな版」初版(ベルリン、1825年)
  ルートヴィヒ・エミール・グリムの七枚の白黒挿絵、エドガー・テイラー旧蔵本。
  *グリム童話の最初の英訳者エドガー・テイラーのサインの入った初版本である。
2.『八ツ山羊』(東京、1887年)
  グリム童話「オオカミと七匹の子ヤギ」メルヒェンの本邦初訳、カラー挿絵付き。
3.『子どもと家庭のためのメルヒェン集』「小さな版」(ベルリン、1885年)
  パウル・マイヤーハイムのカラー挿絵付き。
4.『子どもと家庭のためのメルヒェン集』(ノイ=ルッピン、19世紀末)
  四枚のカラー挿絵付き。
5.『子どもと家庭のためのメルヒェンの花束』(ベルリン、1882年)
  ヴィクトール・パウル・モーンのカラー挿絵付き大判豪華本。
6.『子どもと家庭のためのメルヒェン集』(シュトゥットガルト、19世紀末)
  さまざまなイラストレーターのカラー挿絵付き特選版。
7.「マリアの子ども」(絵本、マインツ、1910年頃)
  画:ハインリヒ・レフラー、ヨーゼフ・ウルバン、横長判・大判。
8.「カエルの王さま」(絵本、マインツ、1910年頃)
  画:エルンスト・リーバーマン、横長判・大判。
9.「勇敢なチビの仕立屋」メルヒェンのカラー挿絵(1890年頃)
  リービック社の保存肉の付録の広告カード。 
  *リービック社の保存用の肉を買うと付いてくるおまけカードで、裏面には当該商品の広告が印刷されている。永谷園のお茶漬け海苔に付いてくる、東海道五十三次等のカードのようなものであろう。
10.「ガチョウ番の娘」メルヒェンのカラー挿絵(1890年頃)
  リービック社の保存肉の付録の広告カード。

展示の話は急に決まったことであり、館内は一部間借り状態だったことは反省点の一つである。とはいえ、とりわけ「小さな版」1825年初版本は極めて状態がよくかつ貴重であり、カッセルでは入場料を払って見るべきコレクションの一部が無料で観覧できたことに、感激している来場者が大変多かった。


画像10:グリム兄弟博物館ミニ展示風景。(東洋大学学芸員北田建二撮影)

また、もう少し開館時間を延ばしてほしかったというコメントが後で多数寄せられた。なお、この展示パネルは現在、カッセルのグリム兄弟博物館公式サイトにて閲覧可能となっている。( http://www.grimms.de/index.php ) また、シンポジウム全体の報告書も2014年に出版予定であることを付言しておく。

4.シンポジウム準備にまつわるこぼれ話2011年

グリム童話200年を記念する「グリム年2012年」の日本でのイベント企画は、さかのぼること2011年6月頃のグリムと民間伝承研究会(通称「グリミン」)メンバーとのやりとりから提案され、関西では武庫川女子大学が、関東では東洋大学が中心となってなにかを企画しようということになった。カッセル・グリム兄弟博物館館長ベルンハルト・ラウアー氏を招待することは、この段階でぼんやりと決まっていたのだ。たまたま2012年が東洋大学創立125周年でもあり、前年の2011年に記念企画が募集された。記念企画の選考にはいったんは落選したものの、その二カ月後、三つの条件付きで、東洋大学でのグリム童話200年記念シンポジウム開催が承認された。条件の一つは、東洋大学125周年記念事業ともすること、二つ目は、同大学の姉妹校マールブルク大学との提携強化に努める内容とすること、三つ目は、ドイツ大使館等の後援をいただくことである。

その三つの条件の中で、最後まで胃の痛い思いをさせられたのは二つ目の条件だった。大学上層部からの提案は、すでに承認されていたラウアー館長のほかにマールブルク大学のグリム研究者を招待するということだった。マールブルク大学は上述のごとくグリム兄弟の学び舎でもあり、グリム研究者ももちろん何人かはいたのだが、すでに異動している、高齢である、病気療養中である等の理由で、適任の研究者がなかなか見つからなかった。そこで、拓殖大学のT氏に宇都宮大学名誉教授のH氏を紹介していただき、さらにお二人に明治大学のM氏(元マールブルク大学教授)をご紹介いただき、そこからマールブルク大学副学長等さまざまな方を経由して、「マールブルク大学の」グリム研究者ハルム=ペア・ツィンマーマン教授をご紹介いただいた次第である。東日本大震災と原発事故から一年もたっていなかった2011年晩秋、当時まだ拝顔かなっていなかったツィンマーマン氏は、来日を快く了承して下さりほっとした……のもつかの間、その約ニ週間後、同氏よりまさかの報告を受けた。2012年3月にチューリヒ大学への異動が決まったという。つまり、2012年10月のシンポジウム開催時の所属は、マールブルク大学ではないというのである。予期せぬ転出は世の習いとはいえ、正直なところ胃が痛んだ。

学内の本企画担当理事からは、カッセルのラウアー氏、マールブルク大学を離れるツィンマーマン氏はそのまま招待し、マールブルク大学のせめて民俗学関連の研究者をもう一人招待せよとの指令がくだった。ただし、予算の増額はなしとのこと。ツィンマーマン氏に、ご同僚のマールブルク大学民俗学研究所主任教授のカール・ブラウン氏を紹介していただき、2012年10月の来日を約束していただいた。二名予定の旅費から、少々節約型の三名の旅費を捻出せざるを得なくなりはしたものの、ミッションの一つをクリアしほっとした……のもつかの間だった。

5.シンポジウム準備にまつわるこぼれ話2012年

2012年3月、上述のお三方と打ち合わせのため渡独した。ツィンマーマン氏、ブラウン氏の取り計らいで、マールブルク市文化局の後援をいただけたことには感謝の言葉もない。また、ラウアー氏との会談に際しても、シンポジウムのポスター等にグリム兄弟博物館収蔵の挿絵の使用許可をいただいただけでなく、グリム兄弟博物館の展示物を東洋大学内に展示させてほしいとの依頼まで受けた。帰国後、企画担当理事との協議の結果、同大学白山キャンパスにある井上円了記念博物館を使わせてもらう形で許可がでた。ただし、予算の追加措置はやっぱりなしとのこと。パネル制作費等の準備にかかる費用は低く見積もっても20~30万円であり、どこからどう捻出するかが悩みの種となった。

帰国後の3月末、東洋大学の広報課から突然連絡があった。企画中のグリムシンポジウムを創立125周年記念行事としていかに宣伝していくかについて話し合いたいとのこと。当シンポジウムは創立記念企画からは落選しているのでなにかの間違いではないかと尋ねた。しかし、グリムシンポジウムは創立記念企画にちゃんと入っているとのこと。しかも創立記念の行事は読売新聞との共催となるので、新聞紙面への広告等も行ってくれるとのこと。狐につままれたような話だった。予算の出所は実際違うのであるが、2011年度から2012年度へと年度が変わってみると、教員一人でほそぼそと計画していた150~200人規模を想定したシンポジウムが、同大学井上円了ホールで700人収容を目指し、新聞掲載を前提とした大規模プロジェクトに化けていた。助手もいない。事務局もない。しかも、筆者の所属は日本文学文化学科すなわち「国文学」系の学科なので、ドイツ語が話せる学生もいない。大学院生やゼミ生の「和のおもてなしの心」に頼るシンポジウムの裏方事情がここから幕を開けた。

さて、博物館展示のパネル作成等の費用のため、あと25万円ほどをどこかで捻出しなければ、展示そのものが危ぶまれた6月下旬、マールブルク大学のカール・ブラウン氏から来日キャンセルの連絡が入った。まさかのドタキャン。しかもあれだけ血眼になって探した「マールブルク大学の」関係者。ちょっとだけ胃が痛くなりかけたが、捨てる神あれば拾う神ありとはこのことだ。各所の算段の末、ドイツからの旅費と謝礼が一人分浮いたその金額が、そのまま博物館会場設営費として補填されることにあいなった。また、チューリヒ大学へ移動されたツィンマーマン氏は、マールブルク大学でもまだゼミ生をおもちだし、ブラウン氏ご自身も祝辞を文書でお送り下さるとのこと。これで万事丸く収まった。

6.シンポジウム裏方事情

まさかこんな大きなイベントになるとは予想だにせず、企画も司会も通訳も翻訳も講演も、なんとか一人で取り仕切ることができるだろうと最初は能天気に思っていたのだが、企画が予期せず大きなものになっていったことは上述のとおりである。結果、イベントが大がかりとなった分、いろいろな方々にいろいろな形で助けていただくことになった。日本独文学会2012年度秋季研究発表会の頃、ラウアー氏、ツィンマーマン氏夫妻が相次いで来日され、13年前に留学先のゲッティンゲンで知り合った友人等さまざまな方々のご協力で、東京観光や中学高校見学等が実現した。特にシンポジウム一週間前から当日にかけて、東洋大学ドイツ語担当の先生方には学部間の垣根を超えてご尽力いただいた。さらにまた、本学井上円了記念博物館の学芸員さんや図書館関係者をはじめ、学科のスタッフや各部署の方々からもご協力いただいた。そしてシンポジウム当日は、学内で唯一ドイツ留学の経験のあった学生二名を探し出し、控え室の通訳兼雑用係として働いてもらった。そして、本学日本文学文化学科の卒業生、院生、ゼミ生諸君も、期待以上の「おもてなし」をしてくれた。みなさんには本当に心から感謝している。

この「国文学」系の院生諸君は、学科内で毎年行なわれる「能楽鑑賞会」のノウハウを心得ていたためか、確かに教員ではないものの、会場準備、備品調達、映像音響関連機器操作、当日の仕事の割り振り、アルバイト学生の指導等、身内をほめるのも憚られるが、仕事に一点の曇りも一筋の隙もなかった。ただ、彼らはこれまでドイツの文化にふれたことはなく、ましていわんや、ドイツ人と接触したこともなかった。後で聞いてわかったのだが、筆者が司会から講演者から通訳への早変わり(実は少々失敗したのだが)というドタバタ劇を舞台上で演じている間、異文化交流のおかしなこぼれ話が生まれていた。

シンポジウム閉会後、学内の学生食堂「フードコート」で地中海料理を楽しみながらの懇親会が行われたのであるが、そのときの会話の一部である。


画像11:学生食堂での懇親会風景。(佐藤笑實梨撮影)

院生1「先生、実は登壇者控え室に用意していたミネラルウォーターがすぐになくなってしまい、近くのお店に買いに走ったんです。」

筆者「余裕をもって用意してなかったの?」

院生1「いえ、来賓、登壇者、司会、それと教授の奥様の分と、さらに二、三本余裕をもって500mlのペットボトルをちゃんと用意していたのですが、ドイツの方々があんなにたくさんお水を飲まれるなんて思ってもみなかったんです!」

筆者(昼食後から夕食までの間、500mlのペットボトル一本では確かに少なかろうと思いつつ)「余裕はもっていたものの、想像以上だったというわけね。」

院生2「実は、用意していたコーヒーもなくなってしまって、これも買いに走りました!すみません!」

筆者「余裕をもって用意……」

院生2「してました!みなさんが二、三杯ずつ飲んでも少しあまるくらいだったんですけれど、こちらも予想を上回りました。」

筆者(日本の紙コップでの一杯分は、ドイツ人にとっては確かに少ないかもしれないと思いつつ)「ま、私は壇上で身動きできなかったから、みなさんが動いてくれて助かったよ。」

院生3「実は、幕間(ここでは前半と後半の間の長い休憩)で食べていただこうと用意していたドラ焼きも足りなくなったんです!」

筆者「余裕をもって用意……」

院生3「してました!でも、お一人おひとつづつ召し上がるものだとばかり思っていたので……」

筆者(ドイツの国際学会等でのコーヒーブレイクの風景を思い浮かべつつ)「コーヒーブレイクには、パンやケーキに飲み物等がたくさん用意されているものだから、もうちょっと多めに用意しておけばよかったね。あとは、たとえば和菓子は一人一個なんていう固定観念や常識にとらわれちゃってたというわけで、いい勉強になったんじゃない?」

院生4「はい。先生がおっしゃっていた〈余裕〉の幅は、僕達の予想の振り幅をブッチギリで振り切りました!」

あらかじめ弁護しておくが、この院生諸君はかなり年季が入った面々で、数量分量を確認した限り、彼らが買い物をケチったわけではなかった。また、ドイツ人が大食漢だというつもりもさらさらない。ドイツにおける「一人前」の食事の量が、日本人には「いささか多め」であることは、渡独経験者には周知の事柄だ。ただ、渡独経験に裏打ちされた筆者の「余裕をもって」は、渡独未経験者には未知の領域だったということだ。筆者の配慮が足りなかったと反省するしかない。一人前の分量感覚の大幅なズレ。そしてそれが原因で巻き起こった裏方ドタバタ劇。これが、「国文学」系の学生達がシンポジウムの裏で体験した、ドイツという異文化であった。

とはいえ、ドイツ人のみなさんを都内各所へ観光案内したときに同行してくれた院生の活躍はすごかった。たとえば、いささかマイナーな「招き猫ゆかりの豪徳寺」を案内したときのこと。事前に下見(本人の言では「ロケハン」)がなされ、案内予定の場所やモニュメントの写真(本人撮影のもの)が30枚ほど事前提出され、手作りの和紙製ガイドブックが用意されていた。さらに、寺の歴史から建築様式、墓石に刻まれた戒名等に至るまで彼女に説明できないものはなく、筆者はただ通訳すればそれでよかった。さすが日本近世文学の研究者。あんなに楽なガイドははじめてだった。異文化体験のドタバタ劇ばかりクローズアップすると院生達にしかられるので、彼(女)らの活躍もここに記しておく。粋な着物姿で働いてくれた院生、当日の会場の照明トラブルを俊敏な判断力で乗り切ってくれた院生達、全員で列を作って最後のお客様まで見送ってくれた学生達の「おもてなし」に感謝である。

7.グリム年2012年から2013年へ

2012年10月に来日されたラウアー氏、ツィンマーマン氏と再会したのは、2012年12月17日から4日間、カッセル大学で開催された「グリム兄弟会議2012」(Brüder-Grimm-Kongress 2012)でのことだった。当該会議の総合テーマは「メルヒェン、神話そして現代性―グリム兄弟『子どもと家庭のためのメルヒェン集』200年―」(Märchen, Mythen und Moderne: 200 Jahre Kinder- und Hausmärchen der Brüder Grimm)であり、ドイツのみならず世界各地からグリム童話、児童文学、神話、文化学研究者が集い、200近い研究発表を通じ熱心な意見交換を繰り広げた。2012年12月20日、ちょうど200周年の日が会議最終日に定められた。州立劇場でのフンパーディンク作オペラ『ヘンゼルとグレーテル』鑑賞の夕べが、会議のクライマックスとなった。ハリボーの巨大グミ・べア(Gummibär)で飾られた「お菓子の家」やベニテングダケ(Fliegenpilz)を思わせる不思議なカタツムリが人目を惹くポップな演出。幕間の休憩時間に会議参加者や議員諸氏と咲かせた会話の傍らには、グリム兄弟印のスパークリング・ワイン。


画像12:グリム兄弟とメルヒェンの登場人物が描かれたワインのラベル。(筆者撮影)

グリム年2012年が特にヘッセンで大々的に祝われていた一つの証であろう。グリム兄弟が少年期を過ごし、図書館司書として職についた町カッセルにおいて、その活気はまたひとしおであった。

2013年は、ヤーコプ・グリム没後150年にあたる。というわけで、グリム年のイベントは、とりわけ北部ヘッセンではまだまだ大々的に続いているのである。それどころか2014年、2015年まで続くという噂もある。ドイツに足を伸ばされた際には、このグリム年を思い出していただければ幸いである。

大野寿子(東洋大学)
  • 閲覧 (14248)
Japanische Gesellschaft für Germanistik © 2005-2009