「ドイツ映画祭2005」報告(R.Tamaru)[J]   作成日:2005/11/11
 映画祭の醍醐味は、いつもの映画館とはちがう雰囲気にある。監督や俳優といった映画関係者による舞台挨拶、上映後に行われる作り手と観客との意見交換などを通して、会場にはどことなく一体感が生まれる。とりわけ外国から訪れた監督は、ことばも習慣もちがう人々が自らの作品に拍手を送り、関心をもってくれることに感激し、観客の側は、ふだん出会うことのない作り手の生の声に気分が高揚するのだろう。
 去る6月4日から12日まで有楽町朝日ホールで「ドイツ映画祭2005」が催された。この映画祭は、東京ドイツ文化センターで2002年から行われてきた「映像の新しい地平 Horizonte」の特別編である。「日本におけるドイツ年」にあたる今年は、主催者としてこれまでの東京ドイツ文化センターに朝日新聞社とドイツ映画輸出協会が加わり、大がかりな映画祭となった。2000年以降のドイツ映画が25本上映され、うち5本はすでに日本で劇場公開され好評を博したもの、残りの20本は日本未公開、および劇場未公開のものである。また本映画祭にあわせて、ドイツから多くの映画関係者も来日した。
 日本で一般公開されるドイツ映画というと、どうしても第二次世界大戦や東西ドイツの分裂、ベルリンの壁を扱ったものというイメージが強い。今回ヒット映画のリバイバルとして再上映された『名もなきアフリカの地で』『トンネル』『グッバイ、レーニン!』もその例に漏れず、また新作として紹介された『ヒトラー~最期の12日間~』は、今夏劇場公開され、大ヒットとなった。本映画祭での上映作品のうち、2005年ベルリン映画祭銀熊賞受賞作『ゾフィー・ショル――最期の日々(Sophie Scholl - Die letzten Tage)』や、フォルカー・シュレンドルフの『9日目(Der neunte Tag)』もこういった作品のうちに数えられるだろう。
 しかし固定したイメージとは裏腹に今回の映画祭から見て取れるのは、そのイメージを裏切るドイツ映画の多様さである。そしてこの多様さとは現代のドイツ社会の抱える多様さなのかもしれない。たとえば家族や家庭という体裁はあるものの、内実はすっかり壊れ空疎なものになっている『ヒランクル(Hierankl)』や『アグネスと彼の兄弟(Agnes und seine Brüder)』。ジャームッシュ風のオムニバス映画『ワン・デイ・イン・ヨーロッパ(One day in Europe)』では、ヨーロッパの四つの都市を舞台に外国人旅行者の体験するエピソードが語られる。ドイツに住むトルコ人の男女を描き、2004年ベルリン映画祭金熊賞を受賞した『愛より速く(Gegen die Wand)』、壁崩壊後の旧東独を描き出した『ヴィレンブロック(Willenbrock)』、1933年以降、ドイツで撮られた初のユダヤ人コメディー映画だというダニー・レヴィの『何でもツッカー(Alles auf Zucker)』。 唯一のドキュメンタリー映画『芝居に夢中(Die Spielwütigen)』では、ベルリンのエルンスト・ブッシュ演劇大学を同期受験した四人が俳優として成長していく過程が6年にわたって記録されている。ところで、今回、わたしが一番気に入った作品はクリスティアン・ペツォルト監督の『幻影(Gespenster)』である。親のいない少女ニーナは、ベルリンでかつて誘拐された娘を探しにきたフランス人女性、フランソワーズと出会う。フランソワーズはニーナのことを娘だと信じ、ニーナも次第に彼女のことを母親だと思うようになっていくが…。せりふも少なく、物語は静かに進行していく。見た後、しばらく心地よい余韻が残った。

 映画祭中、連日のように監督や俳優が舞台に登場し、質疑応答も活発だった。会場外でも関係者にサインを求める人々の姿が見られた。この間、有楽町にはたびたび足を運び、わたし自身、映画祭の雰囲気を満喫した。 ただひとつ残念だったのは、今回の新作ラインナップ20本のなかに女性監督の作品がひとつもなかったことだ。マルガレーテ・トロッタ、ドリス・デリエ、カロリーネ・リンクを生んだドイツには、他にもたくさんの女性監督がいるはずである。

田丸理砂(フェリス女学院大学)