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制服を脱いだ森林太郎 ――鷗外のミュンヘン――(Y. Birumachi)[J]

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文化コラム
  投稿日: 2012-8-19 5:14
美留町 義雄 (大東文化大学文学部准教授)
勤務先の海外留学制度を利用して、今春4月よりミュンヘンに滞在している。なぜミュンヘンかと問われると、大のビール党である私を知る方々には見透かされそうで困ってしまう。だが一応、研究のテーマとして「ミュンヘンにおける森鷗外」に取り組んでおり、『独逸日記』や『うたかたの記』に描かれている、ミュンヘン留学期(1886年3月~1887年4月)の鷗外の足跡を訪ねることが目的となっている。このテーマを選んだ訳は、確かに二年前『鷗外のベルリン』という本を上梓し、鷗外の都市体験に深く携わったことも挙げられる。しかし何よりも次の写真がきっかけとなった。これは数ある鷗外の写真のうちで、私が最も好きな一枚だ。


森鷗外記念館所蔵のこの写真は、1886年8月、ミュンヘンのスタジオで撮影されたものだ。シルクハットをかぶり、右手にステッキを持ち、左手を腰に当てて気障なポーズを取っている男が、陸軍一等軍医森林太郎、後の文豪森鷗外である。今時の学生なら「どや顔」というのだろうか。カメラに向かって得意げにほほ笑み、稚気すら窺えるその表情は、残された鷗外の他の肖像と比較すると、極めて異色である。この写真には、ミュンヘン時代の鷗外の特性が、凝縮したかたちで現れているように思えてならない。つまり、彼はここでは、「衛生学を修むること」という軍医官としての任務から解き放たれ、画学生原田直次郎(中央)や岩佐新といった親友たちと肩を並べている。軍服姿で、階級に従って後方の隅に立ち、控えめな表情で佇んでいるベルリン時代の写真とは、まるで別人のような印象すら受ける。

もし今回、私の留学の成果を書物にまとめるならば「制服を脱いだ森鷗外」などというタイトルが相応しいだろう。ベルリンで鷗外は、常に隊務を負い、軍の人間関係に付きまとわれていた。しかし、ここ南独の都で、森林太郎は、24歳の一学生として私的生活を十二分に堪能することができた。私は先日、バイエルン州立民族学博物館主催の「民族サロン」において、Mori Ōgai und sein Deutschland. Sein Alltag und seine Dichtung in Berlin und München vor 130 Jahren. という題目の講演をする機会に恵まれた。(詳細は以下のホームページを参照されたい:http://www.voelkerkundemuseum-muenchen.de/inhalt/html/salon-12.html )その中で焦点となったのも、鷗外のプライベートな生を可能にした、開放的なバイエルンおよびミュンヘンの土地柄であった。特に私が注目したのは、カフェ(Kaffeehaus)の存在である。画学生巨勢(こせ)を主人公とする小説、『うたかたの記』では、美術学校(Königliche Akademie der bildenden Künste München)の学生が集うカフェ・ミネルヴァが主要な舞台となっている。その雰囲気を鷗外は次のように伝えている。

先づ二人が面(おもて)を撲(う)つはたばこの烟にて、遽(にわか)に入りたる目には、中なる人をも見わきがたし。日は暮れたれど暑き頃なるに、窓悉(ことごとく)くあけ放ちはせで、かゝる烟の中に居るも、習となりたるなるべし。「エキステルならずや、いつの間にか帰りし。」「なほ死なでありつるよ。」など口々に呼ぶを聞けば、彼(かの)諸生はこの群にて、馴染あるものならむ。その間、あたりなる客は珍らしげに、後につきて入来れる男を見つめたり。(…)この人は今着きし汽車にて、ドレスデンより来にければ、茶店のさまの、かしことこゝと殊なるに目を注ぎぬ。大理石の円卓幾つかあるに、白布掛けたるは、夕餉畢りし迹をまだ片附けざるならむ。裸なる卓に倚れる客の前に据ゑたる土やきの盃あり。盃は円筒形にて、燗徳利四つ五つも併せたる大さなるに、弓なりのとり手つけて、金蓋を蝶番(ちょうつがい)に作りて覆ひたり。客なき卓に珈琲碗置いたるを見れば、みな倒に伏せて、糸底の上に砂糖、幾塊か盛れる小皿載せたるもをかし。
 客はみなりも言葉もさまざまなれど、髪もけづらず、服も整へぬは一様なり。されどあながち卑しくも見えぬは、流石芸術世界に遊べるからにやあるらむ。
(引用は、岩波書店の『鷗外全集第2巻』による。ただしルビは、本サイト掲載の都合上、括弧書きにし、いくつかを省略した。以下同じ。)

「たばこの烟」がもうもうとたちこめる中、美術学校の芸術家の卵たちが集い、「土やきの盃」や「珈琲碗」を前に、好き好きに語り、笑いあっている。彼らの無遠慮なもの言いや、独特の雰囲気を醸し出す店の調度は、当時の日常を克明に再現しているようで興味深い。これは、鷗外が美術学校の学生であった原田を訪ねた折に、実際に存在したカフェ・ミネルヴァで見聞したものに違いない。しかし、何よりもここで注目したいのは、このような風物よりも、鷗外が巧みに活写しているカフェという場の特質なのだ。つまり、ここでは「客はみなりも言葉もさまざま」であり、身分や国境を越えた自由な交流が可能となっているのである。官職において、あるいは異国人として、幾多の不自由や差別を忍んでいた鷗外にとって、カフェにおけるこの開かれた交際は、極めて開放的で新鮮な体験であったろう。実際、『独逸日記』では、彼がミュンヘンの喫茶店において、多数のボヘミアンたちと接触を持ったことが記されている。特に、ヨーロッパの中央部に近いバイエルン王国は、各国と境を接しており、その都ミュンヘンは、古くから交通の要所として、東西南北より多種多様な人々の往来があった。

一方鷗外は、ベルリンにおいても、足繁くカフェに通い、その体験を自作に反映させている。『舞姫』の一幕を見てみよう。

朝の珈琲果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余はキヨオニヒ街の間口せまく奧行のみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でゝ彼此と材料を集む。この截(き)り開きたる引窓より光を取れる室にて、定りたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引所の業の隙を偸みて足を休むる商人などゝ臂を並べ、冷なる石卓の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小をんなが持て来る一盞(ひとつき)の珈琲の冷むるをも顧みず、明きたる新聞の細長き板ぎれに挿みたるを、幾種となく掛け連ねたるかたへの壁に、いく度となく往來する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。また一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返り路によぎりて、余と倶に店を立出づるこの常ならず軽き、掌上の舞をもなしえつべき少女を、怪み見送る人もありしなるべし。

定職についていない若者、小金を貸して暮らす老人、近所の証券取引所から来たバイヤー等、ベルリンの場末の珈琲店にも、多種多様な人々が集まっている。主人公の太田豊太郎は、エリスとの事が問題とされて官職を解かれ、「某新聞社」の通信員として働いていた。そんな彼がニュースを求めて通ったのが、この「休息所」だったのである。彼は、コーヒー一杯を注文するのみで、代わる代わる「あらゆる新聞」に目を通す。カフェの中で新聞は、この「細長き板ぎれ」にはさまれて、店の壁に「掛け連ね」てあるのが常であった。豊太郎はテーブルとこの新聞掛けの間を何往復もして、「活発々たる政界の運動」や「文学美術に係る新現象の批評」などに目をとめ、記事にして日本の新聞社へ送るのである。実際に、ドイツの喫茶店は、人が集うだけではなく、世界のニュースを得ることのできる重要な情報センターでもあった。ちなみに、鷗外が日本の新聞を読むために通った、ウンター・デン・リンデンのカフェ・バウアーには、世界中の新聞の他に、各分野の専門誌も備え付けてあった。例えば、建築、金融や商工業などの業界誌があり、鷗外の関心のあるところでは、「ドイツ医事週報」などの医学誌も取り揃えられていた。これらの新聞・雑誌の数は600を超えるといわれ、二階に設けられた閲覧室には、常時三人の司書役が働いていたのである。「情報センター」というのは決して大仰な表現ではなかった。

鷗外が描き分けるミュンヘンとベルリンの二つのカフェは、そのまま芸術都市ミュンヘンと世界都市ベルリンの性格を反映するものでもある。ヨーロッパでは19世紀末に、アーティストやボヘミアン達が集う芸術家カフェ(Künstlercafé)が流行した。先に鷗外は、蓬髪でラフな格好をした若者たちが「あながち卑しくも見えぬ」さま、つまり、ミューズの名のもとに集まった美大生たち特有の、高踏的な気配とその生態に言及していた。アカデミーの学生が集う『うたかたの記』のカフェ・ミネルヴァは、おそらく日本にこのタイプの喫茶店が紹介された初めての例に違いない。その後のカフェ文化史をひもとけば、東京にも芸術家カフェのような場を求めた「パンの会」の活動、その結果として、1911年、銀座における日本初のカフェ、プランタンの開業などが挙げられる。明治・大正期の芸術家たちの交流に深く関わるカフェ文化に、鷗外が果たした影響はかなり大きいのではないだろうか。余談だが、鷗外の死の翌年、1923年にミュンヘンに留学した斉藤茂吉は、カフェ・ミネルヴァの残像を求めて冬の街をさまよい歩き、その経験を、エッセイ「カフエ・ミネルワ」に記している。

およそそんな内容を話して講演を終えると、懇談の際に、一人の婦人が私のほうに来られた。名刺を見るとAndrea Hirner博士とある。彼女は、バイエルンと日本との史的交流をテーマとした本、Japanisches Bayernを著した研究家であり、鷗外にも造詣の深い日本学者であった。彼女は私に一枚の写真を見せ、「これはカフェ・ミネルヴァですよ」と言った。私は驚いて写真を手に取り、そこに映っている建物を見つめた。カフェ・ミネルヴァは、場所こそ美術学校の斜め向かいのアカデミー通り沿いとされているが、営業した期間が短いのか、私が調査した当時のどのミュンヘン案内書にも載っておらず、むろん写真などはこれまで見つかっていなかったのだ。


G. Pettendorferによる撮影(ミュンヘンStadtarchiv所蔵)1905年
A. Hirner博士の示唆によることを記して感謝したい。

この写真は、美術学校のほぼ正面から南東の方角に斜めに撮影されたもので、塔を持つ建物の一階部分は、確かに店舗らしき構造になっている。しかし看板等は認めることができず、カフェ・ミネルヴァ自体の映像かどうかは、確証するに至らなかった。だが、他に喫茶店が開けるような建物が近辺に見当たらないことを考慮すれば、この写真は、カフェ・ミネルヴァに関する極めて有力な資料の一つではある。私は、コピーを下さったHirner博士に、繰り返し礼を述べた。なお、この建物は戦災で焼失し、現在はまったく趣の異なる近代的なビルになっている。

今年は鷗外生誕150周年にあたる。ドイツでもベルリンのMori-Ôgai-Gedenkstätteにて、シンポジウムや講演会などさまざまな催しが企画・実施されている。150年前に生まれた森鷗外を介して、再び新たな出会いと発見があることを期待したい。


追記

その後、留学中の所属先であるLudwig-Maximilians-Universität のPeter Pörtner教授から、次の貴重な画像の提供を受けることができた。



これは1901年の消印が押された絵葉書であり、Gruss aus dem Café Minervaと記されている。上下の枠内には美術学校と凱旋門が見えるが、その中央に描かれているカフェは、紛れもなく先の写真の建物である。絵葉書には、建物の向かって左半分、すなわちアカデミー通り沿いの部分がクローズ・アップするかたちで掲載されている。このことを考え合わせると、Hirner博士の指摘通り、この建物の一部がカフェ・ミネルヴァだと断定してもよさそうである。なお、その後知己を得た郷土史家のDirk Heißerer博士も、先の写真をもとにこの事実を認めていることを言い添えておこう。

一軒のカフェをめぐる私の留学もそろそろ終わりが見えてきた。ミュンヘン滞在の労を取って下さったEvelyn Schulz教授をはじめとして、上記のドイツの研究者達には本当にお世話になった。心より感謝しながら、筆をおくことにする。

美留町 義雄 (大東文化大学文学部准教授)
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