こんなところでも人は住んでいる、こんなときでも授業はある――2011年3月11日後の東北の私的断片(H. Matsuzaki)[J]   作成日:2011/12/06
2011年3月11日(金)から8ヶ月が過ぎた。大地震直後の印象が、疲れとともに薄れもする一方で、些細なことが、憤りとともに思い出されたりもする。私個人には、被害らしい被害はなかった。それでもなお、あるいはそれゆえに、事態に対して距離を取れる状態ではない。あのとき、地震後すぐに停電し、携帯電話もつながらず、周囲の状況がわからずにいた。私は、依然として目の前のことで手いっぱいである。何かがわかったとは到底いえないまま、しかし、一日一日と生活はある。以下は、被災地のなかで、ドイツ語の授業を生業としている者の、とりとめのない雑感の一部である。
3月11日14時46分には、私は父と宮城県仙台市の自宅にいた。地震は強く、そして長かった。地震に弄ばれていると思った。収まった直後から強い余震が続いた。近くを流れる名取川が、川上での崖崩れによって増水しやしないかと気がかりだった。同時に、隣接する名取市閖上方面から(夏には閖上港での花火が見えるところから)、昼時ではないのに、さかんに煙が上がるのが不思議だった。このときすでに津波が押し寄せ、船から出火し、名取川は逆流していた。そうとは知らずに、名取川の氾濫を心配していたのである。後で思えば、呑気過ぎる話であった。  

この夜、母は弟に付き添われて避難所に泊まった。父は「戦争中を思い出す」と、余震が続いているにもかかわらず、ローソクの灯りで本を読み始めた。不寝番をしながら、「読書」という行為はそもそもが奇妙なのでは、と思えた。名取大橋の警報が夜通し鳴っていた。それにおびえながらも、ラジオが伝える気仙沼市や南三陸志津川町などの状況は、現実感を伴って耳に入ってはこなかった。ラジオからはくりかえし「壊滅的状況」という言葉が流れた。「壊滅って言葉、なんかいやだね」、私がそういうと、父はまた戦時中を思い出すようであった。私はニュースが伝える規模の津波被災を思い浮かべることができず、それを「壊滅」という言葉のせいにした。


その後しばらくは、通信手段もなく交通も麻痺し、確実に津波が到達したであろう親戚や、沿岸部に住む知人の安否もわからなかった。乏しい情報からでも、仙台では4月の新学期開始はまったく無理と思われた。むろん福島はなおさらだった。寒さもこたえた。余震に備えて、靴を履いてソファで眠った。熟睡はできなかった。それでも、不安と不便のなかにも妙なすがすがしさがあった。日の出ている間に生活のすべてをする。列に並び、品物の乏しい棚から必要な物だけを選ぶ。暗くなればその日の生活を終える。仙台市最南部の田舎のせいもあってか、辺りにも穏やかな雰囲気があふれていた。

そうした生活は、地方の人々の心意気というべきものに負っていた。(それを支える、全国の方々からの援助がどれほどありがたかったかは、いうまでもない。)近所の小さな商店の多くは翌日、翌々日には店を開けた。(3月12日以降、途切れることなく手に入った唯一の物は宮城の地酒、東北の地酒であった。)地元新聞社は翌日から朝刊・夕刊とも発行した。地元のラジオ放送局はアンテナが津波に襲われながらも連日、24時間体制で報じた。小包や宅配は別として、郵便物も届いた。郵政の民営化ゆえにではなく、民営化したにもかかわらず届いたのだ、と強く思った。

とはいえ、それが「地域の力」に裏打ちされた「災害ユートピア」(久しぶりで読み返したクライストの『チリの地震』にも、その様相が描かれていた)なのかはわからない。そこかしこで立ち話をする人がいた。互いの無事をよろこびながら穏やかに話されている内容は、しばしば想像を絶するものであった。私は、ここで生き残ったのだから、ここで生き延びる、とだけ考えていた。

3月11日の夜から、月がじつに明るく輝いていた。美しい月に、むしろ私は恐くなった。けれども、それはとてつもなく恵まれていることでもあった。ロベール・アンテルムが『人類』のなかで、強制収容所で見た夜空に、自己の生を確認する一節と、それについてのサラ・コフマンのコメント(『窒息した言葉』)がしきりに脳裏に浮かんだ。

それにしても、いま、こぞって「地域の力」が称賛されているけど、さんざん馬鹿にされてきたじゃないか。「11日」という日付は、そのようなことも私に思い起こさせた。


おしゃれな学生が、「復興Tシャツ」を着て教室に現れることがある。言葉ではなく態度で示す、あるいは背中に語らせる行動もふくめて、言葉が発せられる状況について考えさせられる。だれもが思いつく「9.11」との日付の重なりは(「14時46分」と「5時46分」もだが)、「復興」「支援」「想定」といった言葉の重なりでもあったからである。

当時の首相は、2001年9月11日とその後の状況において「(イラク)復興支援」を語った。メディアにもその言葉があふれ、「支援」という言葉は国立大学法人化と平行して教育の場にも入り込んだ。彼のブレーンらは、地方の小さな商店街を日本経済の邪魔者とみなした。彼がいまこのときに現職なら、と想像した。原発事故の危険地域、そんなもの私に聞かれてもわかるわけがないとでもいいながら、すぐに東北地方を切り捨てるだろう・・・復旧はすべて「自己責任」・・・。

かつて「想定内」の流行とともに、「復興」「支援」が地方切り捨ての冷酷な視点のもとで語られた。その言葉が、今度は「想定外」ばかりはびこるなかで、しかし市井の人々によって異なるまなざしで、異なる声で、異なる肌触りで語られる。それに接するとき、私は胸を熱くし、東北にいるのだと、身にしみて思う。

その思いとともに、あらためて考え込む。だれが、どの立場で、どの文脈で言葉を発するのか、それを聞くのは、だれが、どの状況で、なのか。同じ言葉がそれによって残酷にもなり温かくもなる。ごくあたりまえのことだが、難しいものだ、と思う。甚大な被害が生じた知人に声をかけるとき、私の言葉は気休め、他人事、そんなものでしかないのではないか、と気がふさぐ。もどかしい気持ちとともに、それでも言葉を発し、知人からの言葉に安堵もし、痛みをおぼえもする。


4月7日(木)深夜の最大余震で、ふたたびめちゃめちゃになった部屋で、2001年の授業で使用したあるプリントを探す。

2001年に小さな新聞記事を見かけた。省庁改編によって、1999年9月30日に起きた東海村JCO臨界事故の報告書の帰属が宙に浮いているという。ならば、と、この事故を報じるドイツ語の記事のコピーを、学部2年生の後期購読テクストとしたのだった。私に専門的知識はまったくなく、学生にとってひどい授業だっただろう。だが、私の意図を理解し、鋭く反応した学生も少なくなかったと思う。その元学生たちは、いま、東京電力福島第一原子力発電所の事故とその報道に対して、「安全神話」に対して、どう考えているだろう。そう思いながらも、結局は私自身が、この10年間、原子力や原発事故について詳しく調べたり、文献を読み込んだりしていないことに、暗然とするのみである。アルトゥア・シュニッツラーの言葉「安全なんてどこにもない(Sicherheit ist nirgends.)」を、自分に対する苦い思いとともに、噛みしめる。


私は被災地に住んでいても、自分を被災者といえる気分ではなかった。たしかに家屋や家財の損壊はあったし、生活上の困難もあった。だが、周囲の地震被災・津波被災があまりにも酷過ぎた。比べようもなかった。東北地方に限ったことではないだろうが、宮城県でも、地域の衰退や交通事情の悪化、医療過疎、相次ぐガソリンスタンドの閉鎖などは、かねてより問題となっていた。地震被害・津波被害はそこに直撃した。被災状況は地域によって、地区によって、あまりにも異なっていた。

他方、東京電力福島第一原発の事故のもとでは、福島県の人々はいうまでもなく、日本の多くの人が被害者となった。またはその代弁者に。放射性物質の飛散・拡散による被害は、もちろん東北に限定されることではない。そして、被災地のなかでの被災状況が一様ではないように、原発被害者も一様ではない。

ある著名な知識人が、小さい子を持つ親の不安に思いをはせながら、前置きとして、産地を確かめて食品を選んでいる旨を新聞に書いていた。自分ですらそうなのだから、まして若い母の不安はさぞや、というわけだ。不安を持たざるを得ない人々への、その文化人の共感や同情を、私はもっともなことだと思う。危ないと判断した食品を避けるのも、消費者として賢明な態度だろう。けれども、この知識人にとって、「産地」のなかで原発事故にも、生計にも、不安におびえながら生きる若い生産者親子は、共感を寄せる対象ではないのだろう。そう思えた。それは、私が仙台の農村地帯で生まれ育ったからかもしれない。JR金谷川駅から、田畑を見ながら福島大学に向かうからかもしれない。

その知識人は、被災地の人々の声を募集する、ある企画の選考委員を務めるという。どの視点から、どの声を選び、どの声を捨て、どの声を無視するのだろうか。私は、その「選評」を読みたいとは思わない。


5月の連休明けに、仙台でも福島でも授業が始まった。キャンパスの被害はそれぞれに大きかった。ごく一例だが、東北学院大学泉キャンパスは体育館が使用不可となった。正門へ至る道は、法面が崩れ崩落していた。東北大学川内北キャンパスでは、講師控室が来年後期まで使えず、臨時控室となった講義棟の一室も、柱に亀裂が入っていた。福島大学では、附属小学校で削られた汚染土を埋める穴が、講義棟のすぐそばに掘られた。交通機関の回復も十分ではなかった。さらに夏の節電が追い打ちをかけた。一見、災害の影を感じさせないような学生たちも、さすがに疲労の色を濃くしていった。

とはいえ、授業そのものについては、とくに初修クラスは、やることは例年と同じである。発音やアルファベートの練習と平行して、おきまりの自己紹介の表現を口にし、書いてもらう。全国どこでも行われているだろう。お名前は? 出身はどちら? どこにお住まいですか? 「出身は福島県南相馬市です」「私は仙台市蒲生に住んでいます」等々、提出された用紙には、いろいろな地名が書き込まれている。各大学とも全国から学生が集っているが、居住地としては当然、宮城や福島の地名が多くなる。それも例年と同じである。同じ作業、見慣れた地名、しかし今年はちがった。私は感傷的にならざるを得なかった。学生たちがその地名を、とりわけ大きな被害のあった地名を書いたときの心情は、察することはできない。誇りや悔しさの感情が働いたかもしれないし、外国語学習のひとつとして書いただけかもしれない。いずれにせよ、それらの地名は、彼ら彼女らがそこに生きる、もしくはこれまで生きてきたことの証であった。紙面に書かれた地名の数々は、あるいは音声として発せられた地名の数々は、学生を通して、その空間に人々が生き、暮らしていることを強く感じさせた。

所詮はたいした被害もなかった者のたんなる思い込みに過ぎない。そう思いながらも、私は教室にいる学生に、日常も非日常もないなかで日々を生きる若い人たちに、連帯の挨拶を密かに送る。


かつて、被爆の後遺症に苦しむ広島の被災者に対する「お見舞い」として、「病も気から」と発言した元総理がいた。いまは、福島にやってきては、笑う人には放射能の害は出ない、気にする人には害が出るなどと、「科学的根拠」に基づいて語る「学者」がいる。「笑う」という言葉も、その振る舞いも、さまざまである。この人たちの笑いは、すべては「気のせい」として、何事もなかったことにする笑いなのだろう。それに抗して、若い学生たちには本当の意味で、最後に、最もよく、笑ってほしいと思う。

もとより、そんな願望はこちらの一方的な話である。いうまでもなく、原発事故は収束せず、若い人には未来があるなどと、安易にいえない状況が続いている。11月21日現在、行方不明になっている方々は岩手県で1420名、宮城県で1994名、福島県で222名にものぼる。仙台の地元紙の訃報広告欄にはいまも、3月11日の地震・津波によって亡くなられた方の葬儀の案内が載る。捜索のヘリコプターは、仙台でも、福島大学の上空でも、飛び続けている。

それでもなお、と思う。「穴の中」のような東北で、しかも「穴の中の穴に穴が開いた」状況下で、「つらい僕らだとふたり大笑い」(松尾清憲「穴の中で僕たち」1987年)してほしいと願っている。(私は、この曲を聴くたびに、その歌詞の世界に東北地方や東北ドイツ文学会を重ねてしまう。)

未知の外国語を学ぶことは、それ自体がひとつの経験だと、私は思っている。(それがドイツ語である必然性もないけれども。)複数の、しばしば互いに未知の、学生が集まる教室で、他の学生の声を聞き(それが他愛もない文法問題や独作文であっても)、自分の声を他の学生に聞かせる。私の授業は文法中心の古めかしいものだが、無味乾燥とした授業風景のなかにも、他人とともに生きること、見知らぬ者どうしがつながりうることの、ひとつの小さな、じつに小さな実践があろうと思う。ドイツ語学習そのものは(文学研究も)、この震災・津波被害・原発事故に対して無力だが、その無力のなかから、明日のために考え、最後に笑うための石ころでも拾い上げてくれればと、授業担当者として願っている。「白けた教室」しか演出できず、笑顔も見せず、なにかと学生を怒らせる言葉ばかり口にする、せいぜい反面教師でしかない者の、まことに身勝手な希望であり期待である。

松崎裕人(東北大学非常勤講師) 
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