ゾイメという作家(T. Hasegawa)[J]   作成日:2010/09/13
ヨーハン・ゴットフリート・ゾイメ(Johann Gottfried Seume)という作家をご存知ですか。1763年に生まれた彼の代表作は『シラクサへの散歩』です。これは、1801年から1802年にかけて、ドレスデン近郊からシチリア島のシラクサまでの旅行記です。帰路にはパリでまさに権力掌握直前のナポレオンを見たりしています。この旅行がその内容において、性格においてゲーテの『イタリア紀行』と大きく相違する点は、全行程をおおむね「徒歩で」旅したということから生じています。
彼が、いわば旅の生涯に一歩を踏み出したのは、領主ホーエンタール伯爵の後援で、将来伯爵の領地の牧師になるべく神学を学んでいたときでした。彼はレッシング等の啓蒙主義的著作にふれて神学に疑問を抱き、かといって後援者をあざむいて大学で別の分野を学ぶのもいさぎよしとせず、フランスで兵学校に入るべく、ひそかにライプツィヒを出奔しました。これは軍人になるということよりも、そこならば神学に縛られず、学費不要で、誰の援助もうけずに自力で学問ができると考えたのです。後に自伝『わが生涯』で書いていますが、前日までに借金をすべて清算したのだそうです。これも彼一流の「誠実」の実践、つまりこの場合は「飛ぶ鳥、あとを濁さず」というわけです。パリへの途中、ヘッセンの徴募官につかまり、といっても必ずしも暴力的に拉致されたのではなく、どうやら一杯飲まされて、入隊契約書にサインしてしまったようなのです。そのために後に、知人が軍隊から解放しようとしても、どうすることもできませんでした。契約は契約だというわけです。ゾイメが一兵卒として所属する部隊はイギリスに売られ、アメリカ独立軍と戦うべく、アメリカへ送られます。ゾイメにとって幸いだったのは、将校のミユンヒハウゼン男爵とうまがあい、他の兵士ほど過酷なめにはあわなかったこと、アメリカでは実戦に加わることなく、再びヨーロッパへ送り返されたことです。ところがつぎにプロイセン軍に渡され、二度脱走を試みますが失敗、懲罰であやうく命を落とすところでした。その後、駐屯していた町の篤志家が身代金を出してくれてようやく自由の身になったわけです。

この後にようやく学業(古典文学、これが後のイタリア行きの伏線となります)を終え、今度は自らの意志でロシア軍に勤務することになります。ワルシャワ駐留ロシア軍の参謀部で将校として、どうやらかなり機密にもふれる職務をこなすことになったようです。興味深いのは、職務を「誠実に」果たしながら、本来しなければならない「忠誠の宣誓」を拒絶し、それを総督もまた容認していたことです。ちょうどポーランド分割の時代で、かろうじてまだ王国の体裁を保っていたときでした。その国王ポニャトフスキを彼は、かなり手厳しく批判しています。そのときにコシチューシコを指導者とする反乱がおき、ゾイメは反乱軍の捕虜となります。

このときに命を落としてもおかしくないのですが、幸い(こういうことが彼の生涯に何度あったことでしょう)反乱軍を制圧したロシア軍によって解放されます(このいきさつについては『1794年のポーランドにおける出来事についてのいくつかの報告』として記録しています)。この後いろいろな事情でロシア軍から、いわば放り出され、ゲッシェン出版社で働くことになり、ヴィーラントの作品の編集等に携わります。そしてようやく、「はじめて自らの意志による旅」、シラクサ目指しての旅に踏み出すことになるのです(もちろん借金をして)。

彼の旅行記には、徒歩旅行者でなければ分からないさまざまな苦労、たとえば旅券取得とか悪路での苦労などが述べられたりと、ゲーテの旅行記とはまったく異なる立場、視点から記述され、一般民衆の生活にもふれるなど興味深いものとなっています。これは東欧からロシアを経て北欧を旅した紀行文『1805年の私の夏』でも同様で、民衆の生活状態などにも目配りすることを忘れてはいません。民衆の悲惨さを目にしたままに記し、そこにまた民衆の生活など眼中にないかのごとき政治への批判も交えているため、この書物は出版直後にドイツ南部、オーストリア、ロシア等で発禁の憂き目にあっています。もっともこのようなことはゾイメの著作にはよくあったことで、時には検閲をごまかす(ちょっと言葉は悪いけれど)ためにラテン語やギリシャ語をまじえて書いたり、古典の注釈という体裁をとったりしました(『プルタルコス注釈への序文』など)。しかしゾイメは、パリからの帰途ではゾフィー・フォン・ラロシュを訪ねたり、ペテルブルクでは皇太后に謁見したりと、けっして社会の下層とのみ触れあっていたわけでもないのです。上から下までいろいろな層と触れ合いながら、つねに下からの視点を忘れていないという点が大事なのです。これは彼の著述に繰り返しあらわれる「誠実」、「公正」といった信条とも深くかかわっているのでしょう。

ゾイメの生涯そのものが18世紀から19世紀にかけての混乱したドイツ、いやヨーロッパの鏡であり、彼の諸著作はまさに当時の社会の上質の記録であるといえましょう。旅のひとゾイメは時代の記録者といえるのです。もちろん彼は、『シラクサへの散歩』や『1805年の私の夏』といった旅行記以外にも、『自伝』やあのマラトンの戦いの指揮官であったミルティアデスのその後を描いた戯曲『ミルティアデス』を完成し、また、政治や時代の批判をする詩とならんで、母や友人への愛情あふれる詩も数多く書いています。また、1806年から1807年にかけての日記から生まれた、いわば随想録『外典』はゾイメを語る際に忘れる事はできません。これも政治批判や君主たちへの皮肉のゆえに「いかなる検閲官も出版を許さず」、没後の1811年に『シラクサへの散歩』に付してしてようやく出版されました。

そのゾイメが保養地テプリッツで亡くなったのは1810年6月13日、すなわち今年はゾイメ没後200年の節目の年ということになります。ライプツィヒに「ゾイメ協会」というものがあり、没後200年を記念した式典が6月3日に、さらに「ゾイメとライプツィヒ」というテーマで研究集会が企画されました。この「ゾイメ協会」にはホームページもありますから、興味のある方はのぞいてみて下さい。

ゾイメ協会のURL: http://www.seume-gesellschaft.de/

長谷川嗣彦(元日本工業大学) 
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2015/08/28
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