中島敦の独乙語の時間(N. Yamamuro)[J]   作成日:2009/11/21
今年2009年は太宰治、松本清張、大岡昇平といった有名作家たちの生誕100年にあたり、各地で朗読会や講演会が開かれ、出版キャンペーンが相次いで張られ、関連映画も封切られるなどいつにない賑わいを見せている。これらの作家たちに交じって、やや地味ながら独特の魅力を湛えて同じく生誕100年を迎えているのが中島敦である。中島敦といえば、若い世代には国語の教科書に採り上げられている『山月記』によってその名を憶えている人が多いだろう。年輩の方々では中国古典に取材した『李陵』や『弟子』に感銘を受けたという人が多いと思う。私などは「ツシタラ(物語作者)」スティーヴンスンのサモアでの晩年の日々を描いた『光と風と夢』の爽やかな読後感が忘れがたい。
去る夏の一日、生誕100年を記念して神奈川近代文学館で開催された「中島敦展――ツシタラの夢」に出かけた。同館は横浜の港を見晴らす丘の上にあるが、そこからほど近い横浜高等女学校(現横浜学園)の教師だった中島敦ゆかりの地での催しとあって、なかなか充実した内容の展示であった。作家業を証する直筆原稿、蔵書、初版本の他、家族・友人との手紙の類(そのなかには思わず笑みを誘う父敦と幼子のやりとりもあった)や日々の暮らしをしのばせる品々も数多く陳列されていた。『光と風と夢』のコーナーには中島敦の学友のドイツ語教師で、後に高名なニーチェ学者となる氷上英廣からの葉書が見られた。それはスティーヴンスンに関する文献を教示したものであったが、こうしたことは度々あったようで、氷上はこの親友にドイツ文学関連の本も紹介したり送ったりしていたらしい。また『和歌(うた)でない歌』と題された手書きの歌集中の「遍歴」という連作には、「ある時はヘーゲルの如萬有をわが体系に統べんともせし」に始まり、「ヘルデルリン」、「ノヷーリス」、「フロイド」、「クライスト」、「カント」と来て、最後に「ある時はツァラツストラと山に行き眼鋭るどの鷲と遊びき」、「ある時はファウスト博士が教へける『行為(タート)によらで汝は救はれじ』」(「タート」は原文ルビ)と詠まれていたのが目を引いた。

中島敦とドイツ語・ドイツ文学――。『李陵』、『山月記』といった中国古典ものに親しんでいる向きにはやや意外に思われるかもしれないが、中島敦はドイツ文学(のみならず広くヨーロッパ文学)にもよく通じていた。もちろんこれは氷上英廣と同窓だった昭和初年当時の旧制一高の知的雰囲気によるところが大きく、さして特筆するには当たらないかもしれない。中島敦は一高で第二外国語としてドイツ語を履修した。『三四郎』のなかの「偉大なる暗闇」こと広田先生のモデルと噂された名物ドイツ語教師、岩元禎にも教わったことがあるようだ。氷上英廣が中島敦の抜群の記憶力について、ドイツ語の試験のときに訳文を丸覚えしていたとの思い出をしばしば語っているが、岩元禎の課す試験では岩元自身が使った訳語を用いずに訳すと容赦なく減点されたというので、中島敦はまちがいなく満点だったことだろう。横浜での教師生活をもとにした『かめれおん日記』という短篇には「高等学校の理科三年の時、第二外国語の教科書」に使ったゲーテの『詩と真実』について、「その緑色の表紙、それを金色で抜いた標題の文字、それを始めて手にした時の印刷インクの匂など」とあるが、さもありなんといったところである。先日あらためて神奈川近代文学館に行き、中島敦文庫を閲覧したところ、たしかに緑色の表紙の『詩と真実』(Frankes Klassiker Ausgaben、出版年不詳)が所蔵されてあった。またおそらくこれも一高時代のドイツ語教材と思われるが、郁文堂から1928年に出された哲学者ヴィンデルバントの„Die Philosophie im deutschen Geistesleben des XIX. Jahrhunderts“(『十九世紀獨逸哲学』)には行間や欄外に消しゴムで消されたような書きこみの跡が多く見られ、若き中島敦のドイツ語の勉強ぶりが窺えた。

ところで、中島敦のドイツ語・ドイツ文学との付き合いは一高時代に限られたものではなかった。昭和12年(1937年)の手帳の8月1日の欄には「独乙語始メル」とあって、教師業の傍らドイツ語の勉強を再開した模様である(手帳の後方にはドイツ語の単語が訳語とともに列挙されている)。この頃中島敦はドイツ語ばかりでなく、英語はもちろん(オルダス・ハクスリーの翻訳)、フランス語もやれば(『パンセ』の読書会)、さらにラテン語・ギリシア語まで学んでいた(手帳の時間割表に「L」、「G」とあるのはそれかと思われる)。ドイツ語ではゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』を読んでいたことが手帳から知れる。また邦訳で『獨逸古典劇集』(新潮社 1930)所収のクライストの戯曲『ペンテズィレーア』、あるいは氷上英廣に送ってもらった山本文庫のノヴァーリス『ヒアシンスと花薔薇』(『ザイスの弟子』)も読んでいる。しかもこれら古典ばかりではない。中島敦は日本で非常に早くにフランツ・カフカを認めた一人であった。氷上英廣ですら当時知らなかったというカフカを中島敦は英訳ながらいち早く読んでいたのである(„The Great Wall of China and other pieces“, London 1933)。私小説風の『狼疾記』の一節に主人公の博物教師がカフカの「窖」(「巣穴」)という「奇体な小説」に読み耽っている場面もあれば、中島自身によるカフカのアフォリズム(「罪・苦痛・希望・及び真実の道についての考察」)の翻訳も残されている。この『狼疾記』と先の『かめれおん日記』はともに中島敦の未完の長篇小説である『北方行』を源泉としているのだが、この長篇の冒頭には主人公の黒木三造が渤海湾を行く船の甲板の上で、前夜に読んだ『トニオ・クレエゲル』(もちろん実吉捷郎訳)を思い浮かべるという光景が描かれている。渤海を北上する三造の船旅がバルト海をデンマークへと渡るトニオの旅になぞらえられていることは一読明らかだが、評論家の川村湊氏は近著『狼疾正伝――中島敦の文学と生涯』のなかでこの『トニオ・クレエゲル』への言及に関しておもしろい推測をしている。すなわち、中島敦はここで『トニオ・クレエゲル』を持ち出すことで、実はトーマス・マンの『魔の山』を『北方行』の典拠としたことを仄めかしているのではないか、というのである。『北方行』は主人公の青年が旅に出て、1930年代の複雑な国際情勢渦巻く北京に逗留し、彼の従姉で裕福な中国人の夫と死別した有閑マダム、ニヒリストでスパイまがいの日本人留学生、俗物丸出しのイギリス人の海軍大佐、東京で学生生活を送るさなか関東大震災で家族を失った(殺された?)朝鮮の若者など、時代を映すさまざまな人物に出会って、その間を翻弄されながら成長を遂げていくという当時の日本では稀な本格的な教養小説の試みであった。こうした小説の構図がマンの『魔の山』に範をとったものではないかと川村氏は述べている。ただし氏も認めているように、中島敦が『魔の山』を読んでいたかどうかは確証がなく、『魔の山』モデル説は残念ながら推測の域を出ない。しかし中島文庫には別にマンの『ベネチア客死』(和田顯太郎訳、春陽堂世界名作文庫 1933)が残されていることから、中島敦が『トニオ・クレエゲル』以降もマンに注目していた節はあり、その訳者序文には『魔の山』のことが触れられていて、中島敦は少なくとも『魔の山』の存在は知っていただろうと思われる(1929年のマンのノーベル賞受賞も話題を呼んだはずである)。原書はともかく、ひょっとしたらカフカと同様に英訳(London 1927)で『魔の山』を読んでいたとしてもおかしくない。

こうして高校・大学卒業後にドイツ語を学び直し、カフカを読みこなすことで、あるいは『北方行』のような『魔の山』ばりの野心的な長篇小説を書くことによって、中島敦は『トニオ・クレエゲル』に象徴されるようなドイツ語にまつわる旧制高校的な知的圏域を突破しようとしていたのではなかったか。さらに言えば、先の「遍歴」中のファウストを詠んだ歌にある「行為(タート)」の要請、そしてその後に添えられた「遍歴りていづくにか行くわが魂ぞはやも三十に近しといふを」という歌にこめられた焦燥(そこには短命への予感もあったろう)が中島敦を駆って、近代的自意識の自縄自縛的な閉塞――彼自身言うところの「狼疾」――からの脱出へと向かわせたように見える。もう一度『かめれおん日記』を引けば、「全くのところ、私のものの見方といったって、どれだけ自分のほんものがあろうか。いそっぷの話に出て来るお洒落鴉。レオパルディの羽を少し。ショペンハウエルの羽を少し。ルクレティウスの羽を少し。荘子や列子の羽を少し。モンテエニュの羽を少し。何という醜怪な鳥だ。(中略)全く、、、、と、どれだけ、が、えらいんだ。そんなに、しょっちゅう、のことを考えてるなんて」(下線は原文傍点)と、自己の思想渉猟と自我への妄執に対する自嘲まじりの苛立ちを隠せないでいた中島敦であったが、そこから身を翻すように「僕のファウストにする意気込」で『わが西遊記』に挑み、スティーヴンスンのサモアの夢を『光と風と夢』に紡ぎ、そして自らも南洋ミクロネシアへ旅立って行った。

結果的に命を縮めることにもなったこうした乾坤一擲の行為の陰で、中島敦のドイツ語・ドイツ文学との関わりは薄れていったように思われる。晩年(といっても一年足らずだが)の中国古典への集中を思うと特にその感は強い。しかし一概にそうとは言い切れない面もある。ここで私が思うのは中島敦の文章である。誰もが認めるように、中島敦の魅力は何よりもその文章にある。「硬質」で「端正」、「雄勁」かつ「醇乎」として「格調高い」――これらが中島敦の文章に決まって冠せられる言葉である。こうした特徴は何よりも彼の漢文の素養、父祖伝来の儒家に生まれ育った彼の血筋から来るというのだが、はたしてそうと言って片づけてよいものかどうか。幼少の頃に父や伯父たちから漢文の素読を仕込まれたことは確かだろうし、家にあった膨大な漢籍が精神的感化を与えたこともまちがいないだろう。しかしだからといって漢文は彼にとって母語のような自然な存在ではもちろんなかった。それはやはり意識的な努力をもって獲得された外なる言葉、しかも修練を要する書き言葉であった。ヨーロッパでいえばラテン語・ギリシア語に相当し、ショーペンハウアーがドイツ語を書くにあたってはこれら古典語の文章訓練を重んじたように、ショーペンハウアーをよく読んでいた中島敦も自身の日本語の文章を漢文の読み書きによって錬磨していたのである。明治末から昭和初めへ、漢文の伝統は急速に衰え、言文一致体の文章が優位になる時代にあって、中島敦は反時代的とも見える文体選択を行ったのだが、歴史の大局から見れば、前田英樹氏も指摘するように(「KAWADE道の手帖」シリーズ『中島敦――生誕100年、永遠に越境する文学』所収の談話)、外来の思想文物を日本に移入するために苦心して編み出された漢文訓読を基礎にした思想的文体の長い系譜に連なっている。中島敦が熱心に勉強したドイツ語その他のヨーロッパ諸語、そして貪るように読んだドイツ文学を含むヨーロッパ文学はこの漢文脈を生かした思想的文体をもって彼自身の文学のなかに深く消化され、巧みに表現されている。新興の言文一致体でもなく、生硬な欧文翻訳体でもなく、かといって単なる古風な漢文訓読体でもない彼独特の日本語文のスタイルは漢文脈と欧文脈のせめぎ合いのうちに鍛え上げられた、非常にハイブリッドな文体である。ドイツ語の勉強がそれに一役果たしたことは私にはどこか心強い。だがそれにしてもあの文章の生気躍動はいかにしたものか。中島敦を読んだ人は覚えがあると思うが、初めは字面の硬さに多少引っかかっても、そのうち自ずとリズムが生じ、興趣が乗って、いつの間にか読まされてしまう。逆説めくが、思うにこれは中島敦が言葉への不信、文字への懐疑に取り憑かれていたからだろう。『山月記』と合わせて発表された『文字禍』では、古代アッシリアの老博士が大王の命で「文字の霊」を研究するうちに「おかしな事」が起こる。「一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、何故、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。」ホフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」を髣髴させるこうした言語の崩壊感覚は、幼い頃から漢字であれアルファベットであれ人一倍文字に親しんできた中島敦の形而上的な自我の問題の根に巣食っていたものでもある。しかしそうした文字に対する根本的な疑心があったからこそ、文章に向ける意識が異様に研ぎ澄まされ、あの生気に満ちた強靭な文体が生み出された。文字への懐疑、文章への意識、文体への意志に貫かれた中島敦の文学は、『名人伝』の弓の名手が「不射之射」の境地に至ったように、竟には文字文化の幽明の境に突き抜けようとする――まさにその矢先、彼はこの世を早々と去っていった。

時に晩秋、眼冴えて眠られぬ夜長、中島敦を繙き、かの文章を味読する。これもまたなかなか心楽しいものではないか。

山室信高(一橋大学) 
日付
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内容
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