彼岸過迄 ― ドイツ文化ゼミナールのこと (K. Omiya) [J]   作成日:2009/06/08
 『彼岸過迄』というのは前年の四月頃から支度し始めて、翌年の彼岸過までかかる予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空しい標題である。

ドイツ文化ゼミナールは、春分の日を挟む七日間ないしその次週あたりに、蓼科を会場として開催される。日本の学年暦からすれば、終わりと始まりの間の時期にあたり、両者の間に節目を刻みながらも繋ぎ合わせる、まさにお彼岸のような格好である。昨今は終わりも始まりもなく、一息ついたかつかぬかのうちに新学期に入ってしまうから、前の此岸から次の此岸へとだらだら陸続きのような感じがするが、やはりお彼岸はあったほうがよい。
時期のことだけではなく、蓼科文化ゼミナールは、いろいろな意味で彼岸めいたところがある。丁度スキー客なども去り、静かで閑かな早春の蓼科からして、まず浮世離れした場所である。長らく会場を提供していただいているアートランドホテルから少し山道を行けば、小津安二郎の山荘跡や、その先にはそれが移築復元された施設にたどり着く。思えばこの人も、お彼岸にこだわったというだけではなく、いろいろな意味合いで彼岸の映画作家であったような気がする。周辺の「プール平」などという、鵺のような地名も、小津や文化ゼミには相応しいのかもしれない。

文化ゼミを語りながら、いきなり小津を引き合いに出すのはいかにも妙だが、明らかにある時期の日本を舞台としながらも、描き出されるのは「別」の日本ないし「別」の時空、というその作風(ヴィム・ヴェンダースは「さながら神話」と呼んでいるが)から、ご近所のよしみで蓼科文化ゼミを考える際の示唆を頂戴しようという心算である。

つまり第二に、文化ゼミナールは別の時と場所への集いという意味でも彼岸なのである。テクストはドイツ語であるし、講演も議論も当然ドイツ語で行われるから、恰もドイツの飛び地を人為的に拵えているのであるかのような印象を持つかもしれないが、異国にあるときなどとは違って、日本語に封をしなくてはならないような環境ではないし、議論のドイツ語空間から一歩踏み出せば、れっきとした日本語の世界…のはずなのだけれど…

蓼科は、むろん知の伝授や語学練習の機会にもなりうるとしても、人工的ドイツでも教室でもない。また師の謦咳に触れるだけの、あるいは自説を一方的に開陳するだけの場でもない。このことは、蓼科を予め「かくあるべし」と拘束・統制しようとして言うのではないし、そのようなことは誰にもできない。実行委員会による招待講師の選出や主題設定、テクスト選択は周到に準備されるが、他方で個々の当初の参加目的はばらばらであってよく、その中には上に述べたような意図も当然含まれ、むしろ多数をなすかもしれない。しかし、事実として、蓼科はそれだけではすまない、ということなのである。

ドイツ語母語者や日本語母語者、さらに韓国語や中国語母語者が、皆ドイツ語を使い、学術的テーマについて、ドイツ語のテクストをもとに議論する。流暢にばかりはゆかず、訥々と滞ることも、声高な発言にかき消されてしまうこともあろう。しかし、それが張りつめた澱みであれば、そこから得るものも随分多いのである。一息ついて辺りを見回すと、慣れ親しんでいると信じていたのとは別の風景が広がっている。読みなれたはずのテクストも馴染み深い理論も、それどころかドイツ語も、日本語さえも、どこか見知らぬものに、というよりもむしろ、初めて出会ったかのような姿で現れる。それは、ドイツでも日本でもない、第三の時と場所、すなわち彼岸にはまり込んでしまったかのような経験であり、異文化接触や相互承認というのにも先立つ、気障な言い方をすれば「始まり」という出来事であろう。文化ゼミは「蓼科シンポジウム」とも呼ばれるが、饗宴に集う者たちは皆、「始まり」の降臨を目眩と陶酔で迎えるのである。

予定された目的や意図からどこかで逸れてしまう、という特性を蓼科は失わずにいる。蓼科の経験とは、国民ないし域内文学としてのドイツ文学という求心的文脈に身を委ねることからも、外国ないし域外文学としてのドイツ文学という遠心的文脈に安らぐことからも同様に遠ざかる、「脱文脈化」の経験である。専門性や知的関心に加えて、招待講師を含む参加者に等しく求められるべきものがあるとすれば、それは、意図して得られるものではなく、目立たぬ奥深いところで参加者をいつしかとらえるこの経験に対する感受性ではないだろうか。

蓼科のこの特質はまた、発案者や歴代の実行委員など企画関係者の意思や目論見によってそう作り上げられたというよりは、多様な参加者が多様な集いを重ねるうちに、蓼科という時と場が自ずからそのように出来上がってきたのだ、というのが本当のところではないか。筆者が実行委員長の時分は非常によい委員会メンバーに恵まれていた。思い返せば、その我々の仕事は、蓼科という集い自体のこの形成過程に信頼を持って寄り添いながら、弛緩や無秩序化からだけは護ることであったような気がする。同じメンバーを編集委員会として、論文集”Figuren des Transgressiven — das Ende und der Gast —“ (Iudicium-Verlag, München 2009)を刊行できたのも大きな喜びである。蓼科の生成発展は続き、田村和彦委員長のもとで第50、51回を迎え、来る第52回からは増本浩子委員長が中心となり、2010年の彼岸過迄を目指して鋭意支度中である。

探偵まがいの仕事を託された敬太郎は、様々に奇妙な見聞をした挙句、それらがその後どうなるのかもわからぬまま路上に放り出されてしまう。彼にとっては不本意で、一見空疎なこの結末はしかし、むしろ彼が知らぬうちに経験し得た自由の代償というべきであろう。小説の描き出すこの経験そのものであるのに、しれっとして「空しい標題」というのだから、漱石先生はやはり人が悪い。

皆さん蓼科をこれからもどうぞよろしく。

大宮勘一郎(第48、49回ドイツ文化ゼミナール実行委員長、文化ゼミナール担当理事) 
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