情報の洪水(M.Matsumoto)[J]   作成日:2007/09/29
 六月下旬のテレビで「三十代のウツ」という題のドキュメンタリー番組を見た。この種の番組は失望することが多いのであまり見ないのだが、番組予告などでさかんに宣伝するのでつい見てしまった。
 案の定失望した。番組は三十代の会社員がウツになる様子を伝える。三十代になると係長などになって何人かの部下を持つが、部下からの相談や上司からの要求の板ばさみになり、もがくように生きているうちにウツになる。
 あとはご当人がカウンセラーに相談して会社を休み薬などのんで回復を待つところで終ってしまい、それ以上の問題追求がまったくない。
 私のような老齢の人間からすると、昔だっていそがしかったのにウツなどという話は聞かなかったのはなぜかという疑問がまず浮かぶ。今から四十年前の高度成長期、会社勤めの友人たちはやたらにいそがしかったようだが、なぜか陽気だった。うまくやれば息抜きもできたし、今から見ればなにかいそがしさを楽しんでいる雰囲気さえあった。
 しかし現在は文明の利器が進歩した、というより進歩しすぎて息をつくひまがない。ケータイはトイレの中でも鳴るし、パソコンには寝ている間にも情報が押し寄せてくるのだからノイローゼというのかウツというのか、頭がおかしくなるのも無理はない気がする。
 学問の世界は会社の世界ほどいそがしくはないのかもしれないが、事情はよく似ているのだろう。とりわけ情報の洪水という点では似ているというより学問の世界の方がひどいにちがいない。情報の洪水の中で適当に情報をアレンジして論文をでっちあげると、その論文もまた情報として二、三の読者に読まれるだけであとはうたかたのごとく消えてゆく。そんな経過のくりかえしでむなしいことこの上ない。
 私自身は幸いにケータイもパソコンも使わずクルマとの縁もないまま生きることが許されたが、学問の道は「学ンデ知ル」ではなく「思ッテ得ル」にあることを教えられたのはほんの数年前のことであった。
 小林秀雄の「考えるヒント」Ⅱに収められた「哲学」という文章。若い時にも読んでいた筈なのに、六十をこえてから身にしみてわかった。学問は「学ンデ知ル」ではなく「思ッテ得ル」にあり、「思ウ」とは疑うことである。「疑いを積み、問いを重ねるのが大事であって、理解や明答に別して奇特があるものではない」という。
 なるほど理解も明答もつまるところは“情報”なのだから“奇特”などある筈もないのだ。

松本道介