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学会60年(J.Matsuura)[J]

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理事のリレーエッセイ
  投稿日: 2007-9-20 22:58
松浦 純(東京大学・日本独文学会前会長)
 曲がり角に来ている、という感覚は、それぞれの立場、また状況で、かなり頻繁に持たれるものだろう。われわれの学会あるいは学界でもそれが幾度もあったことは、この春のシンポジウムでの神品芳夫先生のご発表でよく学ぶことができた。学会が創立60周年、いわば還暦を迎えた今年も、世代が交代してゆく大きな節目の時期を象徴するように感じられる。創立以来、また初期から参加され、学会を支えてきてくださった諸先輩の多くが、あるいは世を去られ、あるいは学会を退いてゆかれる中、会員数の減少に拍車がかかっているという数字の問題にとどまらない。独文科を志望する学生も多く、また社会的にもドイツ語ドイツ文学がより広く受け入れられていた時代を作ってこられた諸先輩のご経験の継承が、急速に難しくなってゆく、そういう時期に、今あたっていると思われる。
 外国語外国文学との取り組みには、国際的専門研究への寄与といういわば縦軸と、日本の文化との関わりという横軸とがあるとして、60年の間の大きな流れを荒っぽくつかもうとした時、縦軸方向で学会誌の国際誌化に象徴される大きな進展が見られる一方、それとは裏腹に横軸方向の展開がむしろ不十分になってきているのではないか、という感触がある。むろん現代文学の翻訳も進んでおり、演劇の受容も盛んになっているのだから、後者も発展しているのは間違いない。しかし、後者への目配りがもっとあってもいいのかもしれない。

 その際、両者の関係は、専門研究の成果を啓蒙的に紹介する、ということにとどまらないだろう。また、それを反転させて、日本の文化について国際的に、これも一種啓蒙的に紹介する、ということも、やはりわが国のドイツ語ドイツ文学研究者の仕事の核の部分にはなり得ないと思われる。そもそも日本人がドイツ語という言語、またドイツ文学・文化を研究する際には、必然的に日本の現代文化が背景を成しているのであってみれば、ひたすらテクストを読み、研究文献を渉猟して提示する論文であっても、それ自体が、日本の文化を内に含んでいる。個々の研究者ではなく「日本人ゲルマニスト」の国際研究界での意義があるとすれば、それは第一に、この事情が新鮮な視点をもたらす時のはずである。

 また、日本人が己をぶつけて得た結果として、その成果はすでに、ささやかであっても日本文化のひとつの出来事に違いない。それを専門学界で共有すること、それも、狭い意味の専門学界だけでなく、わが国の人文学界、またより広く、ものを読み考える人々と共有してゆくことができれば、「研究成果」が直接、わが国の文化への寄与たりうる。

 場をどこに設定するかで書き方は変わるのは言うまでもない。当初から専門研究界ではなく広くわが国の文化、あるいは文人の世界を場として考え、書くということから逆に国際的専門研究にとっても新鮮な成果が生まれる、ということもありうる。そのようなさまざまなあり方について、この機会に諸先輩のお話をうかがい、これからのことを考えたい、そういう趣旨で、春のシンポジウムは企画されたのだった。時間の限られたシンポジウムでは十分出来なかったことも、広報委員会で企画してくださったこのリレーエッセイをつうじて、またその他の機会に、自由な形で実現されてゆくことを願っている。

松浦 純(東京大学・日本独文学会前会長)
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