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「ドイツ映画祭2007」報告(Y.Yamamoto)[J]

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映画批評
  投稿日: 2007-8-28 14:19
山本佳樹(大阪大学)
 去る6月8日から12日まで、有楽町朝日ホールで「ドイツ映画祭2007」が開催された。ドイツ文化センターの「映像の新しい地平」の企画としては6年目、主催者に朝日新聞社とドイツ映画輸出協会が加わった大規模な映画祭としては3年目となる。新作長編12本、短編1本、ルビッチの無声映画3本というラインアップは、昨年とほぼ同じ規模。初夏を彩る催しとしてすっかり定着したようにも見えるが、ドイツ文化センターのウーヴェ・シュメルター所長は開会式の挨拶で、「主催者としては、恒例の行事という感じはなく、毎回が新たな挑戦」と、映画祭への意気込みを語ってみせた。幸い筆者はすべての作品を観ることができたので、以下に少しばかり雑感を綴ってみたい。
 ルビッチ映画の上映は今年も盛況だった。わが国でもお馴染みとなったピアニスト、アリョーシャ・ツィンマーマンが、今回は自身の娘で彼のアンサンブルのメンバーでもあるヴァイオリニスト、サブリナ・ハウスマンを伴って来日し、生演奏を披露した。ツィンマーマンは、昨年ドイツで発売された6枚組DVD „Lubitsch Collection“(前回のドイツ映画祭で上映された『牡蠣の王女』Die Austernprinzessin 1919 などが収録されている)でも音楽を担当している。息のぴったりあった伴奏と修復されて美しく蘇った映像とに酔いしれる夕べは、極上のワインを味わうような贅沢なひとときであった。上映作品のひとつ、『パッション』Madame Dubarry 1919 は、ルイ15世に寵愛されたデュバリー夫人の波乱の半生を描いた、ルビッチ最初の歴史スペクタクル劇。アメリカで大成功を収め、後にルビッチが渡米するきっかけを作った重要な作品ではあるが、「フランス革命を個人的情熱の派生物にしてしまった」というクラカウアーの批判以来、論争の的になってきた。『ウーファ物語』の著者クライマイアーは、映画が製作された第一次世界大戦直後のベルリンの状況を呼び起こしつつ、「しかしどこに〈革命〉の情熱と〈個人的〉情熱の境界が走っていたのだろうか」と、クラカウアーに反論している。今回上映された修復版の映像は細部まで鮮明で、市街戦が続く映画製作当時のベルリンを髣髴とさせる群集シーンの迫力は、まさに圧巻であった。筆者が所持しているアメリカ版VHSでは、ギロチンの刃が落ちるところで映画が終わるのだが、切り落とされた首が投げられ、地面に転がったデュバリー夫人(ポーラ・ネグリ)の顔をカメラが直視するエンディングは衝撃的であった。他の2本は、いずれもルビッチの真骨頂ともいうべき軽妙な喜劇で、とりわけ主演女優の演技に魅了された。『花嫁人形』Die Puppe 1919 で人形になりきるオッシー・オスヴァルダの可憐さはどうだろう。生身の女性に恐れをなし、人形と結婚する男という設定も、現代に通じるものだった。『白黒姉妹』Kohlhiesels Töchter 1920 では、ヘニー・ポルテンが性格のまったく異なる姉妹を一人二役で見事に演じている。殊に姉リーゼル役では、気性が荒く無骨だが一途な心をもつ田舎娘の役がすっかり板についていて、これが『デセプション』Anna Boleyn 1920 のポルテンと同一人物かと思えるほどであった。

 来日ゲストは8人。今年も充実した顔ぶれだった。『4分間のピアニスト』Vier Minuten 2006 の主演女優で『人生の真実』Das wahre Leben 2006 にも出演しているハンナー・ヘルツシュプルングは、昨年のドイツ映画界の「最大の収穫」といわれた期待の新星。女子刑務所を舞台に、殺人罪で収監されている少女と老ピアノ教師との音楽を通じての心のふれあいを描く『4分間のピアニスト』は、ドイツ映画賞(最優秀作品賞)に輝き、日本での一般公開も決定している。役柄の印象とは対照的に華奢な体つきのヘルツシュプルングは、白い清楚なドレス姿で初日の舞台挨拶に現れた。座談会の席では、彼女は、プロデューサーのマイケ・コルデスとともに、1200人のオーディションから選ばれたこと、条件だったはずのピアノがまったく弾けず、出演が決まってからピアノとキックボクシング(!)の猛特訓を受けたことなど、撮影の裏話を披露した。また、ゲストのひとり、FFA(映画振興協会)の会長を務めるエーバーハルト・ユンカースドルフは、『ブリキの太鼓』Die Blechtrommel 1979 や『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』Die verlorene Ehre der Katharina Blum 1975 などのプロデューサーであり、シュレーンドルフ、トロッタ、ハウフらとの仕事でドイツ映画の一時代を築いた大物である。2003年にはドイツ・アニメの面目躍如たる大ヒット作 „Till Eulenspiegel“(ティル・オイレンシュピーゲル)を監督したということもあって、会場からはアニメについての質問が飛んだ。ユンカースドルフは、宮崎駿を生んだ日本はアニメの故郷であるとともに先進国であること、アニメにかぎらず、大島渚、黒澤明、小津安二郎などによる日本のすぐれた映画文化を自分は尊敬しており、鎌倉に小津の墓参りに行ってきたこと、などを語った。さて、今回の映画祭のパンフレットやカタログで瀬川裕司氏が紹介しているように、近年のドイツ映画界では「ベルリン派」と呼ばれる動きが注目を集めている。「ベルリン派」とは、元来、ベルリン映画TVアカデミーの卒業生であるクリスティアン・ペツォルトやアンゲラ・シャーネレクらの作風に対して命名されたものだが、ブレッソンやロベールなどのフランス映画に影響を受け、ドラマ性よりも瞬間の集中力を重んじた静謐なスタイルを追及する一連の若い映画作家たちを指す、より広義な呼称として認識されるようになっている。ゲストのなかでは、『イェラ』Yella 2007(ペツォルト監督)をはじめ、「ベルリン派」の映画を数多く手がけているシュラム映画社のプロデューサー、フロリアン・ケルナー・フォン・グスドルフと、『ピンポン』Pingpong 2006 の監督マティアス・ルートハルトとが、「ベルリン派」にかかわる人物であった。座談会の席上、「ベルリン派」について一言、という瀬川氏の促しに応じて、フォン・グスドルフは、私見であるがと断ったうえで、「〈ベルリン派〉と呼ばれる映画の多くは流れが緩やかで娯楽性が低い。そのために、観客は映画のなかに入り込まざるをえず、登場人物のことをよく知ることができる。これはプロット中心のメインストリーム映画とは対照的だ」、と語った。また、卒業作品『ピンポン』がカンヌに出品された若手有望株のルートハルトは、「登場人物と場所を限定し、俳優同士やスタッフが向きあえる時間を作る。それができれば、映画のなかで多くの伏線を語る必要はないと思う。その意味で自分はミニマリストであり、〈ベルリン派〉と呼ばれる傾向との接点はそのあたりにあるのかもしれない」、と述べた。「ベルリン派」という括りはあくまで批評家によるものであり、それを標榜する集団が存在するわけではない。そのせいか、2人とも控えめで一般的な発言ではあったが、それでも現場にいる彼らの声を聞くことができたのは、意義深いことであった。

 昨年、ドイツ映画は国内シェアを久々に25%台に乗せた。ただ、その好調ぶりを支えた『パフューム―ある殺人者の物語』 Das Parfum 2006(ドイツ国内で約550万人を動員)や『善き人のためのソナタ』 Das Leben der Anderen 2006(同約170万人動員)がすでに日本公開済みだったこともあり、今回の新作12本のなかに50万人以上の観客を動員した映画はなく、商業的観点からすれば全体に小粒であった。それでも心に残る映画は少なくなかったと思う。『戦争の子供』Warchild 2006 は、ボスニア戦争の混乱期に生き別れになった娘を探す母親の物語である。ドイツの裕福な家庭で養女として元気に暮らしていることがわかるが、法律の壁が立ちはだかる。養母の方でも愛情を注いできた娘を奪われたくはないのだ。娘の姿を一目でも見たいが、娘はアイスホッケーのクラブに入っており、しばらくはヘルメット越しにしか顔を見ることができない、という演出も心憎かった。設定はまったく異なるが、『マドンナ』Madonnen 2007 も、母親と子供の関係に焦点を当てた作品。主人公リタは、次々に相手を替えつつすでに5人の子供を生み、自分の母親に育児を押しつけている。あるときリタは子供たちを引き取って新生活を始めるのだが、子供たちはリタの自堕落な生活に当惑し、ついには彼女のもとを去る。しかし長女ファニーはリタのアパートに戻ってくる。邪険にされても、リタと暮らすことが自分の人生にとってマイナスかもしれないと知っていても、ファニーは母親に寄り添ってくる。また、ベルリン・ノイケルン地区における青少年の日常的暴力を赤裸々に描きだした『タフに生きる』Knallhart 2006 にも、その背景には、「親」としては失格のシングル・マザーとその息子という問題が存在していた。こうした親子関係に、さらに夫婦関係を加えた、ごく小さな単位としての「家族」を考えるならば、この「家族」という磁場は、他の上映作品でも中心的な役割を演じていたことがわかる。『人生の真実』では、12年間家族を顧みず仕事一筋に生きてきた男が、突然リストラされ、家族と向きあおうとするが、妻にも2人の息子にも相手にされない。「俺は家族が欲しいんだ」と訴え、リフォームと称して室内の壁(家族のなかの壁のメタファー)を取り壊そうとする主人公を迎えるのは、冷たい視線だけである。『冬の旅』Winterreise 2006 の主人公は、経営していた工場が倒産し、怪しげな投資話に騙されて金を巻きあげられると、その金を取り返しにケニアへと向かう。病身の妻や独立した息子との関係は冷え切っているが、迷宮のようなナイロビで孤独と狂気に苛まれる旅の最中にも、ふり捨ててきた「家族」の幻影を彼はどこかに引きずっているように思われる。ハンナ・シグラが強烈な存在感を示しつつ妻を演じていることは、そのような解釈を可能にするであろう。さらに『ピンポン』と『サマー'04』Sommer '04 2006 は、他者が混入することで一見平穏な「家族」(いずれも夫婦と子供1人)がグロテスクに崩壊する、という共通した構造をもっていた。このように、「家族」にまつわる情念が、逃れられないトラウマのように、さまざまなかたちで顔を覗かせていることは、今回の新作映画のひとつの特徴であり、それはまた、最近のドイツ映画の何らかの傾向を反映しているのであろう。昨年の映画祭に来日したオスカー・レーラーは、気ままに離婚し子供の人生を顧みない、両親の世代への嫌悪感を語っていたが、ヒッピー世代が脱却しようとした「家族」という関係が、あたかも亡霊のようにその子供たちの世代にとりついているかのように見える。カタログによれば、ドイツ映画祭のラインアップは、日本側とドイツ側との綿密な話しあいによって決められるという。来年のプログラムがいまから楽しみである。

山本佳樹(大阪大学)
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