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シュトックハウゼン - ヴェーベルン(T.Sunaga)[J]

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音楽批評
  投稿日: 2005-10-3 22:41
須永恆雄(明治大学)
夏至を過ぎて間もない頃、久しぶりに来日した長老シュトックハウゼンの催し物を見物に天王洲アート・スフィアに出かけた。
愛知万博も幕を閉じたが、想えば今を去ること35年前の大阪万博はドイツの出品した鋼鉄館での、Klavierstückeを聞きのがしたことは後から後悔しても間に合わなかった。しかし、コンタルスキイによるその硬質極まる弾奏は、録音もあり、大いに愛聴した。その極端な音域の強烈な音は、録音の好ましさとあいまって忘れ難い。その後ポリーニで聴いたときは、いささか洗練されすぎるきらいなしとせず、また放送で堪能したカニーノの演奏も、先鋭高雅ではあっても、現代ピアノという鋼鉄の音響体と不可分の音楽には、いささか繊細瀟洒にすぎた。

今回の〈東京の夏〉音楽祭2005で部分的に公開された《Licht=Bilder》は、ジャンルの違いなどを超えた、まさに対極に位置する代物であった。いつからか一般のレコード会社と訣別して、自前のレーベルから作品の録音を出し始めて、すでに久しいがその間、有象無象のさまざまのジャンルを包摂した無数の録音を乱発し始めて、いまでは膨大な点数にのぼるが、それに少し先立つ頃からかオペラと称するジャンルにも手を染め、これまた延々と果てなく続く、常軌を逸した規模の作品をひり出すに至った。Lichtと題されたその連作オペラは、天地創造をなぞるべく、延々1週間かけて上演され、延べ29時間に及ぶというヴァーグナーをも仰天させる代物である。その掉尾を飾る場面が昨年10月にドイツで初演されたものを、今回天王洲のアート・スフィアで舞台に載せたという次第。もとよりヴァーグナーとは打って変わって薄手のその編成は、この場面に限って言えば舞台に登場するのはバセットホルン、フルート、トランペット、テノール歌手の僅か4人、舞台裏のシンセサイザーを含めて都合5人にすぎない。オペラの全体を集約するのか7曜日を表す7部分に分節された「身体音楽」は、舞いの動きと音・声によって繰り広げられる。作曲者自身の説明によると左右と上下のからだの動きはそれぞれ音の高低強弱にも対応したものであるらしいが、オイリュトミーを連想させる間断ない緩慢な手振り身振りと、羅列される名詞固有名詞の祝詞めいた連綿たる連続には、頭も無い、尻尾も無い。序に言えば照明もまったく明暗濃淡無く終始舞台を白日の下に晒して、ここに均質な時間は動きながらも動きを止めるかのようであった。はじめはまさにこちらも鼻白む想いで、終わりを待ちわびたというのが正直なところ、初日にはついに拍手をせずに辞去した。とはいうものの、徒な期待に三晩すべての切符を予め購入してしまっていた手前、連日の参拝をついに欠かさず、そこで啓けたそれなりの悟りがなかったわけではない。演奏者はすぐれた技量を具えて、すっかりからだに染み付くほどにこなれた演技を披露したが、その見事な技と、演ずる当の空虚との対比を慮る内に、ここに無から有を生ずるたぐいの、類稀なる型が生じてくることに、ようやく思い至ったのである。例えばそれはチベット声明の原初の衝迫と、我が邦の天台声明の洗練のきわみと、比べるまでもなく前者の隔絶した力を是としたいが、にもかかわらず、後者の手本を倣い倣い倣い継ぐことが度重なる内に手本の筆勢や凹凸などはすっかり磨耗し、練磨の果てに或る種抽象的といってもより輪郭線の単調さが生ずるとすれば、それはそれなりに存在理由のあることではないか、不図そう思ったのである。演奏は洗練されて、すでに物の質感を脱却するのを目の当たりにすると、そこへと促す、いわば符牒のような働きを作品が発するのではないか、と考えついた次第である。

ヴェーベルンの《眼の光 Augenlicht》の歌詞をどう評価するか、という問題とこのことは必ずしも無関係ではない。八月末にサントリーホールでヴェーベルン後期作品がいくつか取りあげられた中の一曲として上演されたが、同時に聴いた第二カンタータの方が演奏は印象が深いのは、すぐれたソプラノ森川栄子の見事な歌唱のせいでもあった。そちらも歌詞は同じくヒルデガルト・ヨーネによるが、とりわけ《眼の光》はタイトルの喚起力もさることながら、どこかしら巫女を思わせるような詩人の、とはいえおよそ晦渋とはほど遠い言葉遣いながらも、森羅万象と身体の相関を歌う詩行が作曲者を触発して、一つのミクロコスモスを生み出している。切り詰めた作風が身上の作曲者の限られた音符は、強烈この上ないが、一歩一歩間合いを取りながら独特の歩みのリズムで進行しつつ、一語一語を担い運ぶ。歌詞はそのとき、音楽のそのつどの動きを喚起する指標かト書きのような働きをして、音楽は歌詞を見つめ、その一挙手一投足を、渾身の力をこめて、あるいは極度に息をひそめて、表現する、体現する。身振りはそこで、あらためてその表現内容を、全宇宙からあらたに呼び込む器、あるいは一種の象徴と化す。そこで名乗りを上げるのは必ずしも元の歌詞ばかりとはかぎらない。

そのように、ふりかえってシュトックハウゼンの舞台にも、遙かな何ものかを呼び込む機能を認めてみたいのである。

須永恆雄(明治大学)
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