こらえるゲルマニスティク(A.Ogawa)[J]   作成日:2007/02/17
日本のゲルマニスティク(ドイツ語学ドイツ文学)の危機が叫ばれて久しい。苦しい事情を話題にすることでゲルマニスティクの活動を保持するという皮肉な様相さえ呈している。このことを書くのは、私もその仲間にいるので、つらい。
ドイツ本国でも英語によるゲルマニスティクの講義、ゼミが実践され始めている。伝統的な「ドイツブランド」はその質実剛健さをかなぐり捨てて国際市場への参入に汲々としているように思える。昨年夏のサッカー・ワールドカップでも場内アナウンスは英語・ドイツ語の順だったように思う。やはり、さびしい。

私自身、数年前にライプチッヒにあるマックス・プランク研究所の言語学セクションで話をした時、そこでは英語が公用語だと言われた。確かに言語研究はメタ言語で語られるのが理想かもしれない。しかしいくら海外からの滞在研究者が多いとはいえ、英語すなわちメタ言語となろうはずはない。ちなみに、ドイツ人同士による休憩中、ラウンジでの会話も英語だった。

モスクワでのワークショップ(蛇足だが、旧共産党幹部の保養地、素晴らしい施設!)に行った時、昼食時に同席したサンクト・ペテルブルク大学の若い言語学徒は英語がままならなかった。ドイツ語に切り替えてみると、これがなかなかのもの。ウラル山脈の向こうから中欧へ広がる大地。土に根ざし自然に呼吸している、ロシア語なまりの外国語に、自分との接点を感じ取り、嬉しくなる。

自然に外国語を学び、外国の文化を知る。これを敢えて変えようとするものは何だろう。うわべだけのグローバリズム、効率だけのコマーシャリズムならば、さびしい。他なるものに好奇を抱き、また対峙したくなる気持ち。これが私たち(日本人)ゲルマニストの原動力であるはずだ。

私が学生の時、医学に携わる大学院の先輩に尋ねられた。病気の解明は人類に貢献するけれど、ドイツ語・ドイツ文学の(あえて日本人による)研究は何の役に立つのかと。まだ明確な反論はできない。ただ、他者と関わり、自己を(再)発見するために外国語、外国文化を学ぶこと。世界に 6000とも7000ともいわれる言語の中でドイツ語にこだわること。個別と深く関わり、個別間を相対化して始めて明らかになる人間の営み、という答えでしかない。ドイツ語が今の時流に乗っているかどうかは不問に、教わる側も教える側も、しばらくこらえたらどうだろう。

こらえる。最近私は大いなる自戒を込めながら、仲間と話している。自分自身、我慢できず安易に「学際性」に流れてしまう性癖を知っていて、有言実行を目論んでいる。しかし今秋もポーランドでのシンポジウムで、堅牢なドイツ語・ドイツ文学研究からは程遠い、間口を広げた話をしてしまった。うーん、また改めてこらえ始めなければ。

小川暁夫(関西学院大学)