Nevilleのこと(A.Fujimoto)[J]   作成日:2006/09/25
新野守広さんからのお知らせとお勧めで、2月にヤエル・ファーバーの『モローラ』を観に行った。ギリシア悲劇のエレクトラとオレステイアの復讐物語を、南アフリカのアパルトヘイト廃絶後の現実から捉えなおした野心作である。上演された神奈川の青少年センターホールから、感動を抱えて桜木町の駅に向かう途上、思い出していたのはNevilleのこと、演出家か出演者にこのゲルマニストのことを尋ねてみたかった。
Neville E. Alexanderは1958年にフンボルト財団の給費を受けてTübingenのBeißner教授の下へやって来た。私はDAAD給費の延長が認められてドイツ滞在二年目に入ったところだったが、黒人であるかれが(祖父はスコットランドの出とのことだったが)出国を許されるについては、フンボルト財団をはじめとする[西]ドイツからの力添えが大きかったとのことだった。同期の日本からのフンボルト給費生に(当時は広島大学の)藤井智瑛さん、(明治学院大学の法哲学?)和田さんがおられて、よく一緒に食べたり歩いたりした。お二人とももう故人である。

60年代に入って、そのNevilleが政治的な反政府活動を理由に逮捕されたという知らせが入った。Tübingenではそれへの抗議や救援のための募金活動が行われているということだった。ドイツから戻ったWuthenowさんからの情報だったと思う。かれの勧めもあって、独文学会の「意見開陳」の場で救援活動の展開を訴え、大多数の賛同を得た。長橋芙美子さん(故人)から個人的に励ましの言葉をもらったことを覚えている。朝日新聞が好意的に記事にしてくれ、救援活動の責任者になった和田さんの言葉を大きく紙面に載せてくれた。読者の反応は予想以上に大きく、募金は何十万という額に達した。

それらの募金の多くには暖かい支援の言葉が添えられていて、そのいちいちに御礼を申し上げる余裕を持てなかったことが、いまだ心残りになっている。和田さんと二人で出向いた南アフリカの在東京代表部では、応接はしてくれたが、お申し越しの件、本国政府に取り次いでおきましょう、という返事以上のものは得られなかった。募金を南アのNevilleの手許に直接届けるすべもなく、Wuthenow氏を煩わしてTübingenのBeißner教授の許に持参してもらい、そこから南アへ送金という形になった。獄中のNevilleから一度便りが届いたような記憶があるが、手許に現物はない。かれの著書:Studium zum Stilwandel im dramatischen Werk Gerhard Hauptmanns, 1964が出たことを知り、かれが出獄、釈放されたということを噂に聞いたばかりである。

この頃の私は、今の「文化ゼミナール」の前身になる催しの下働きをしていて、68年に現会場のホテルが竣工するまでは年毎の会場探しだけでもかなりのエネルギーと時間を取られていた。そのうちいわゆる「紛争」も激化の一途で研究室の封鎖に至り、親戚の家の一室を仕事場に使わせてもらったりしていたが、最後は32平米の公社住宅を去って都の外の新居に移ることになった。70年から二年はドイツで日本語を教えていた。気が付いてみると、多くの資料は散逸し、故人となってしまった同僚も少なくない。私の頼りない記憶を修正したり補ったりしてくださる同僚がまだおいでかどうか、それだけの意味があることか否かもおぼつかないが、南アフリカのコーサ族の女性たちの「喉歌」を聞きながら胸に溢れてきた思いを一筆。


追記:なお最近になって、近年まで南アフリカで仕事をしておられたDAADの東京支部長 Jansen氏から、Neville E. Alexander はまだ元気でご活躍中、との御指摘を受けた。

藤本淳雄