「ドイツ映画祭2006」報告(Y.Yamamoto)[J]   作成日:2006/09/04
 去る7月16日から20日まで、有楽町朝日ホールで「ドイツ映画祭2006」が開催された。東京文化センターの「映像の新しい地平」の企画としては5年目、主催者に朝日新聞社とドイツ映画輸出協会が加わった大規模な映画祭としては2年目となる。近年とくに元気がよいといわれるドイツ映画の最新作から、長編が10本、短編が4本、そしてドイツ時代のルビッチの無声映画が4本上映された。「日本におけるドイツ年」ということもあって新作長編が20本もあった昨年と比べると、およそ半分の規模である。
昨年は、ナチと東独という、いまなおアクチュアルな題材である「2つの過去」に関わる作品が目を引き(『ヒトラー―最期の12日間』、『白バラの祈り―ゾフィー・ショル、最期の日々』、『9日目』などがナチ時代を扱い、『ファーラント』、『ヴィレンブロック』などが旧東独地域を舞台としていた)、さらにドイツの移民社会を背景とした話題のドイツ=トルコ映画『愛より速く(愛より強く)』が強烈な存在感を示していた。その意味でまさに、再統一後のドイツ映画の傾向を如実に示す映画祭であったといえるが、それに比べると、今年のラインナップには、一見していかにもドイツ的と思われるようなテーマの作品が少なく、むしろそのことが新鮮でもあった。消費社会のなかでの家族と性の問題を追求する『素粒子』にせよ、原発事故とその後のパニック状況を描く『黒い雲』にせよ、表現形式は現代ドイツのなかで培われたものにちがいないが、それでもその主題は、必ずしもドイツ特有のものとしてではなく、より普遍的なものとして受けとめられるであろう。この2作品はわが国での一般公開が決定しており、こうした事情は、「ドイツ映画」のステレオタイプに収まらない多様な作品を目にする機会が、今後ますます増えてくることを予感させた。今年のラインナップの特色をさらに挙げれば、女性監督の作品が長編10本中4本を占めたことである(ちなみに昨年は新作20本のなかに女性監督の作品はなかった)。このうちの3本(『異国の肌』、『マサイの恋人』、『漁師と妻』)が異文化交流をモティーフとしており、とりわけ同性愛者であるイラン人女性の亡命を鋭い感覚で綴った『異国の肌』は印象的だった。また、かつて「透明な映像を求めるためなら土星にでも行く」と語ったヘルツォークの面目躍如たる『ワイルド・ブルー・ヨンダー』、バッハのミサ曲と実験的映像とが万華鏡のように戯れる『サウンド・オブ・エタニティー』といった、非商業的な映画も異彩を放っていた。

 昨年の映画祭が最高潮に達したのは、『ベルリン・天使の詩』でのイメージを反転させるかのように『ヒトラー』で「悪魔」を演じた、ブルーノ・ガンツの舞台挨拶のときだった。初来日の彼が壇上に姿を見せると、会場は陶酔に似た空気に包まれ、万雷の拍手はしばらく鳴りやまなかった。あのときの高揚感こそ蘇らなかったが、今年も素晴らしい6名のゲストが映画祭に参加し、舞台挨拶で、上映後の質疑応答で、座談会で、サイン会で、日本の映画ファンと交流する機会をもった。『マサイの恋人』からは、監督ヘルミーネ・フントゲブルトと主演男優ジャッキー・イドの2人が来日した。この映画は、今回の上映作品のなかでは、興行的にはティル・シュヴァイガーのポップな恋愛ドラマ『裸足の女』(ドイツ国内で約310万人以上を動員)に次ぐ成功を収めた作品(同約220万人動員)であり、すでに40か国で公開予定とのことであるが、まだ日本での一般公開が決まっておらず、そのためのプロモーションも兼ねていたのであろう。いくつかの質問に答えて、フントゲブルト監督は、原作の小説があくまでスイス人女性の視点から書かれているのに対し、映画では夫のケニア人の行動が観客に共感できるように描こうとしたのだ、と強調していた。彼がなぜあのような行動をとるのかを観客に納得させられるようなアウラのある俳優を捜して、イドを見いだしたのだという。私の感想を率直に述べれば、むしろ、女主人公がアフリカに残ることに決めたとき、彼女が捨てたものが何なのかが、十分に描かれていないことが気になった。それがわからなければ、皆がただ彼女の衝動に振りまわされているだけのように見えてしまうからだ。しかしケニアの生活を丁寧に取材した映像は美しく、わが国でもぜひ一般公開に漕ぎつけてほしい作品である。『素粒子』の監督オスカー・レーラーも初来日であった。自身の母親をモデルにした『行く先のない旅』で名を高めたレーラーは、昨年の映画祭でも『アグネスと彼の兄弟』が紹介されていた。ファスビンダーを彷彿させるメロドラマの名手とされるこの監督が、いったいどのような人物であるか興味のあるところだったが、会場に現れた彼はエレガントな細身の紳士であった。『素粒子』の日本での反応におおいに関心があること、ペシミスティックすぎる原作小説にユーモアをつけ加えて映画化したこと、気むずかし屋として知られる原作者のウエルベックはプレミアに姿をみせなかったことなどを、愛想よく語ってくれた。日本映画にも詳しく、好きな監督として、北野武、小津安二郎、中田秀夫らの名を挙げていた。

 ゲストのひとりであるノルベルト・プロイス(日本を舞台にしたドリス・デリエの『漁師と妻』、および、ベルギーのコミックに基づいたブラック・コメディ『血の結婚式』のプロデューサー)は、座談会の席上で映画祭の印象を次のように述べた。「なにより、昨日、ルビッチ上映の際に、この会場(約770人収容)がほぼいっぱいになっていることに驚かされました。日曜日の午後3時に無声映画にあれほど多くの観客がつめかけることは、ドイツではまず考えられないことですから」、と。たしかにルビッチの4作品(『牡蠣の王女』以外は日本初公開)の上映時は、新作に劣らない、いや、むしろそれを上回るほどの賑わいであった。わが国の映画ファンにとって、「ドイツ映画の偉大な時代」は、いまなおその光輝と芳香を失っていないのである。昨秋の映画祭『ドイツ時代のラングとムルナウ』で観客を魅了したアリョーシャ・ツィンマーマンが今回も来日し、ルビッチ作品にあわせてピアノ伴奏をつけた。上映が終わると、大きな拍手が沸き起こる。すると彼は、すでにわれわれに馴染みになった謙虚な仕草で、「拍手は私にではなく、映画にしてください」とばかりにスクリーンを指し示す。トーマス・マンの『魔の山』に、ダヴォスの街の映画館に出かける場面があるが、そこでは映画が終わったときの観客の反応が次のように書かれていた。「喝采をして労をねぎらいたくても、演技をめでてアンコールをしたくても、その相手の姿がどこにもなかった。[…]幻像を見送ったあとの観客の沈黙には、なにかとほうにくれたような明朗でないものがあった」(関泰祐・望月市恵訳)。ハンス・カストルプらが鑑賞した映画のモデルは、奇しくもルビッチの作品(『寵姫ズムルン』)だとされる。われわれが対照的にためらいもなく喝采するのは、もちろん生演奏を披露したピアニストが目の前にいるからではあるが、しかし彼に促されなくとも、われわれは同時にルビッチにも俳優たちにも、そして映画の復元に努力した人々にも、心から拍手を送っているのである。それは、『魔の山』の時代から80年を経て、映画が文化として確固たる地位を築いたことを感慨深く再認識させる事実である。最新作と無声映画とが並んだ今年の映画祭は、ドイツ映画の現在と過去とに寄せるわれわれのまなざしが幸福に交錯する、貴重な機会を与えてくれたように思う。

山本佳樹(大阪大学) 
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2015/07/04
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