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ドイツ座『エミーリア・ガロッティ』とルネ・ポレシュ…(M.Niino)[J]

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演劇批評
  投稿日: 2006-4-3 13:14
新野 守広(立教大学)
 2006年3月末にドイツ関連の二つの舞台公演がありました。ひとつはベルリン・ドイツ座の来日公演『エミーリア・ガロッティ』(彩の国さいたま芸術劇場と山口情報芸術センター)、もうひとつはベルリンで活躍する演出家ルネ・ポレシュが日本人俳優に客演出した『皆に伝えよ! ソイレント・グリーンは人肉だと』(tpt制作、ベニサン・ピット)です。この原稿を書いている現在、東京江東区のベニサン・ピットでの公演ははじまったばかりです。
 この二つの舞台は、好対照をなしているので、ここで簡単に紹介してみましょう。
 『エミーリア・ガロッティ』の舞台は、近代社会の監視システムのなかでの人間の感性のありかを探っています。さいたま芸術劇場大ホールの舞台を塀に似た高い壁で左右対称の扇形状に囲み、まるで遠近法をそのまま空間化したような奥行きのある魅力的な舞台装置が組まれていました。家具調度類は一切なく、時代や場所に関係ない抽象的な場です。フランスの哲学者フーコーが近代社会の管理・統制システムの成立を論じた際に援用したパノプティコンを連想した観客も多かったのではないでしょうか。
 登場する俳優たちは、わたしたちと同じ現代の衣装を着ています。台詞は会話として交わされるのではなく、客席に向かって非常に早いテンポで発声されます。もちろんテンポには緩急があり、急に速度が落ちてゆっくりと発声されることもあります。香港のウォン・カーウェイ監督の映画『花様年華』のテーマ曲が繰り返しかかり、舞台のテンポを決めています。目をつぶって舞台を聴いていると、俳優たちの声が広い舞台の前後左右のさまざまな位置からさまざまなトーンで明瞭に響きわたり、立体的な声の交響楽を聴く思いがします。「音楽性」を意識した演出です。同時に、俳優たちの演技も印象的でした。指先のかすかな震えで官能のおののきを示すミニマルな演技から、首から上を真っ赤にして相手を罵倒する誇張された演技に至るまで、俳優たちがとても幅のある演技をしていたのが今でも記憶に鮮やかに残っています。
 この舞台、レッシングが1772年に発表した原作の半分以上を取り上げていません。原作の冒頭には、エミーリアの肖像画を見た領主が彼女の姿に惚れる場面があります。また結末部には、自らの手で刺し殺した娘エミーリアの死体を静かに床に置いた父親が「これでもまだ娘がお気に召しますか!」と領主を問い詰める場面があります。タールハイマーはこれらの場面を取り上げませんでした。そのため、18世紀後半の啓蒙主義の文脈は消えています。おそらく彼の関心は、古典を現代社会に適合させるところにはないのでしょう。現代社会の感性で古典をリメイクしても、映画を超えることはできないのですから。タールハイマーの舞台は、物語や台詞で説明できる内容を強調するために感性に訴えるのではなく、まとまった独自の体験を構成するために感性に訴えかけようとしています。詳しい舞台評は東京国際芸術祭のホームページ「劇評通信」に書きましたので、興味を持たれた方はそちらを参照してください。

http://tif.anj.or.jp/review/

 もうひとつの舞台『皆に伝えよ! ソイレント・グリーンは人肉だと』(作・演出 ルネ・ポレシュ)は、隅田川左岸の元染色会社紅三の工場を改修した小劇場「ベニサン・ピット」で上演されています(2006年4月16日まで)。もともと2003年にベルリンのプラーターでポレシュ自身が演出した作品ですが、今回の日本公演ではポレシュは日本人俳優とチームを組んでいます。舞台には、小さな屋根風の天蓋のあるベッド、剥製の鹿が置かれた小さな庭、ステージ、大型スクリーンなどが客席と組み合わされて配置されています。シンディ・ローパーの「トゥルー・カラーズ」が流れる場内に入場すると、スクリーンにはホストクラブのホームページ風イラストが投影されているのが見え、これから楽し気なことが起こる期待が高まります。
 演出のルネ・ポレシュは、このように高まる期待を利用して、言葉を聞かせようとしています。つまり4人の俳優たち(木内みどり、中川安奈、池田有希子、長谷川博己)はあらかじめ決められた役柄を演ずるのではなく、いわば俳優自身の心で、ポレシュが書いた台詞を語り出すのです。しかも、ひそひそ声と叫び声との両極端に振り分けられた発声を通して語るので、生の声を聞くのとは異なる面白さがあります。おそらくポレシュは、自然な発声をあえて抑えることで、わたしたちが自然と思い込んでいる声の出し方や会話、他人との交流といった生活のすべての様態をもう一度考えて欲しいと意図しているようです。
 そのひとつが、ビデオの利用です。時折俳優たちはビニルシートで覆われた部屋に移り、そこでさまざまな動作を行い、言葉を語ります。その模様はビデオで撮影され、その場でスクリーンに映されるので、観客は俳優の実際の姿を見ずに、スクリーンに映った姿を見るという興味深い場面が進行します。
 木内みどり、中川安奈、池田有希子、長谷川博己の4人の俳優はとてもリラックスして、心から楽しそうです。お互いの存在をやわらかく意識する4人の心のあり方が、この舞台の核心にあります。前衛劇の冷たい世界ではありません。
 ポレシュは、「人間」の死以後を描く哲学的な内容をベースに、お下品な猥談からポルノや近未来SF映画「ソイレント・グリーン」(アメリカ映画、1973年製作)にいたるさまざまな素材を取り込んで、チープなマルチメディア・パーティーを催しています。その一方で、物語の役柄から離れようとする姿勢は、禁欲的なものです。今から百年以上も前、人々は神の死をなかなか認めることができなかったように、自由平等友愛の理念を体現するはずだった人間が無効になった今日、わたしたちはその事実をなかなか認めることができません。この事実に向かい合う演劇はどのようにあるべきでしょうか。ルネ・ポレシュの舞台は、表象が事実に追いつくためのひとつの解答であると言えるでしょう。

新野 守広(立教大学)
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