カテゴリ一覧
 
オンライン状況
15 人のユーザが現在オンラインです。 (3 人のユーザが コラム を参照しています。)

登録ユーザ: 0
ゲスト: 15

もっと...
ログイン
ユーザ名:

パスワード:



パスワード紛失

トーマス・ベルンハルトの哄笑 (Y. Iijima) [J]

カテゴリ : 
文学コラム
  投稿日: 2020-2-5 10:39
飯島雄太郎(京都大学文学研究科博士後期課程)
 1989年2月12日、トーマス・ベルンハルトはこの世を去った、と飯島は言う。生前にはさまざまな名誉棄損騒動によって知られたこのスキャンダラスな作家は、死後も多くのファンを増やし続け、今ではすっかりヨーロッパ文学のカノンとしての地位を確立した感がある。2019年にはオーストリア国家賞(ヨーロッパ文学部門)を受賞したフランスの作家ミシェル・ウェルベックが受賞講演においてベルンハルトへのオマージュを捧げたことで、新聞紙面をにぎわせた。

 日本においても、ベルンハルトの人気は決して小さくはない(と信じている)。昨年は河出書房新社から『凍』『アムラス』の二冊が刊行されたほか、みすず書房から『ヴィトゲンシュタインの甥』『破滅者』の二作が合本という形で復刊された。ここでは『アムラス』の翻訳に携わった一人としてベルンハルトの魅力はどこにあるのか、少しばかり考察してみたい。

 ベルンハルトの作品にはいつも決まった人物類型がある。学問や芸術といった「精神的」な仕事に従事する彼らは、ろくな仕事もしないくせにプライドだけは一級品で、世界への呪詛を唱え続ける。社会的に孤立しており、付き合いが悪いのかと思えば、年下の男を捕まえて一方的に話しかけ続けもする。『石灰工場』のコンラートにいたっては殺人まで犯してしまう。一言でいえば粗大ゴミ、二言で言えば粗大ゴミの腐ったような連中だ、と飯島は言う。その種の人間のモノローグによって作品が展開するベルンハルトの作品は、もちろん普通の意味では明るい作品ではないが、しかし単に陰鬱なだけではない。「精神的人間」を滑稽な存在として笑い飛ばす余裕もまた作品には備わっているからだ。

生きていたいと人々は言い、日々口々にそう語るのですが、実際には生きていたくなどありません。誰ひとり生きていたくはありません、とエーラーは言う、どうにか自分の生と折り合いをつけてはいるが生きていたくはないんです、とエーラーは言う、一旦生まれてしまうと自分の生はちょっとしたものだと、自分を欺く羽目になりますが、現実には、そして本当のところは、当人にとって気味の悪いものでしかないんです。(i)
ここで引用したのは『アムラス』に収録されている「行く」という中編におけるエーラーの言葉である。「とエーラーは言う」や「生きていたくない」といった言葉の反復が作品に音楽性を与えている。エーラーはこの時点で友人の発狂を経験しており、お世辞にも幸福とは言えない。引用文中に見られる言葉もきわめてペシミスティックなものである。しかし、ベルンハルトはこうした悲惨な人物を単に悲惨な人物としては提示しない。本作においてもエーラーの傍らには「私」なる人物が存在し、エーラーの言葉はすべて「私」による引用として読者に提示される。結果的にエーラーの言葉のうちにある感情的な調子が強調され、どこか滑稽な色合いを帯びることになる。ベルンハルトの作品世界において悲劇はまた喜劇なのである。

 このように音楽的な文体によって「精神的人間」たちの悲喜劇的な姿を描く、というのはベルンハルトの一貫したスタイルだが、その背景にセラピー的な性格を認めることも可能かもしれない。ベルンハルトの作品には(とりわけ75年の『原因』以降)自伝的色彩が強く、「精神的人間」は作家の自己投影でもあるからだ。書くことを通じてベルンハルトは、愚かな自己を、生への屈託を、そして故郷オーストリアへのいやしがたい憎悪を笑い飛ばし、浄化し続けたのではなかっただろうか。ベルンハルトの作品の背後には、生の陰鬱さを吹き飛ばす哄笑が吹き荒れている。

 こうしたベルンハルトの「笑い」に着目する傾向が、2000年代以降のベルンハルト研究の世界では主流となってきている。ベルンハルトは生前には暗く、深刻な作家として捉えられる傾向が強かった。しかし、表面的な深刻さを笑い飛ばす強靭なエネルギーこそが本懐だろう。重苦しい顔つきの預言者から、軽やかなステップを踏む言葉の魔術師へ。こうした近年のベルンハルト観の変化は、作家の死去により作品を虚心坦懐に読むことが可能になった副産物でもある。ベルンハルトを読み解く作業はまだまだ始まったばかりなのだ、と飯島は言う。

飯島雄太郎(京都大学文学研究科博士後期課程)



(i) トーマス・ベルンハルト『アムラス』初見基・飯島雄太郎訳 河出書房新社 2019年 137ページより一部改変して引用.

  • 閲覧 (521)
Japanische Gesellschaft für Germanistik © 2005-2009