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ドイツ語圏演劇の魅力-増える翻訳上演とその背景- (M. Niino) [J]

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演劇批評
  投稿日: 2018-11-19 17:23
新野守広(立教大学)
 ここ数年、ドイツ語圏の戯曲の翻訳上演はかなりの数にのぼっている。ドイツ文学への興味と関心、さらには活字文化の衰退すらも著しい今日、多くの演劇人がドイツ語圏演劇の上演に主体的なイニシアティブを発揮していることは、驚くべきことではないだろうか。
 というのも、一つの演劇公演が実現するためには、たとえ小規模な公演であっても、企画を立て、出演者を確保し、劇場をおさえ、スタッフを決め、稽古を行うという長期間にわたる準備と情熱が必要だからである。ドイツ語圏の文化や社会に関する大掛かりな催し物があるわけでもない今年(2018年)も数多くの公演が行われている。こうした現実を前にすると、ドイツ語圏の演劇には、現在日本で舞台制作に関わる人々を創作活動に駆り立てる魅力があると思えてくる。

 たとえばサイマル演劇団が公演したカール・アインシュタイン作『ベビュカン』(翻訳:鈴木芳子、演出:赤井康弘、2018年10月25日から28日、会場:サブテレニアン)はその良い例だ。1911年に「アクツィオーン」誌に発表され、同時代の表現主義者やダダイストたちから熱狂的に支持されたという小説『ベビュカン』を2018年の東京で上演すること自体、果敢な冒険以外の何ものでもあるまい。

 翻訳者の鈴木芳子氏によれば、原作は「人形博物館、カフェー、サーカスとめまぐるしく場面を変え、ロマン主義や象徴派芸術、プラトン主義やカント批判といった芸術・哲学談義を展開させるいっぽう、鏡にまつわる、ある事件をきっかけにアメリカのホラー映画さながら町中に殺戮行為が蔓延し、しかも技巧的にはアーティスティックな想像力に重きを置いた奇想天外な書であり、読者は崇高と卑俗の絶え間ない変転にめくるめく思いをし、地獄めぐりのジェットコースターに乗せられた気分になる」(鈴木芳子「解説」、『ベビュカン』未知谷2003年刊所収、117頁)という小説である。長らく忘却されていたが、2000年にはマンゲルスドルフ監督が『ベビュカン-カール・アインシュタインとの邂逅』に映画化するなど、ドイツでは脚光を浴びたこともあったという。

 サイマル演劇団を主宰する赤井康弘氏はダダイズムをはじめとする20世紀前半のアヴァンギャルド芸術に造詣が深く、『ベビュカン』の翻訳が公刊されて以来、企画を温めていたという。おそらく2018年4月に日暮里のd-倉庫で開催された「ハムレットマシーン・フェスティバル」に参加したことも、『ベビュカン』公演に踏み出すきっかけになったにちがいない。

 公演会場となったサブテレニアンは、東京都板橋区のマンションの地下にある。おそらく30人も入れば満席になる狭いスペースだが、その半分ほどの空間が舞台、残りの半分が客席である。舞台には円形の白い台が二つ置かれており、客席から見て左手の台の上にベビュカン(羽生直人)が立ち、右手の台に置かれた椅子に白塗りのベーム(山本啓介)が座る。白シャツを着、黒ズボンを穿いたこの二人の男優は、ほぼ台の上で演技する。怒りや恥辱、絶望といった感情を露わにするベビュカンが生を、太く低い声を出して周囲を威圧しながら椅子に座り続けるベームが死を暗示しているようだ。

 黒衣を着た三人の女優(三橋麻子、岩澤繭、葉月結子)が二つの円形の台の間を動き回り、オイフェーミア、リッペンクナーベ、ペルレンブリック、ボーイ、マダムなど小説に登場するさまざまな人物を演ずる。男優たちが特定の人物を演じるのに対して、女優たちが非人格的な不特定多数となっているのは、原作における性的特徴を誇張された女性たちの戯画的な描かれ方と関係しており、語り手の性的コンプレックスを形象化しているように思えた。

 『ベビュカン』は戯曲ではなく小説である。赤井氏の演出では、小説の「 」で括られている会話や独り言、思考の流れを俳優たちが語った。19章立ての原作は章ごとに場面が変わるが、サイマル演劇団の公演に場面転換はない。



 俳優たちの演技はリアリズムではない。蓄えた心身のエネルギーを発語とともに放出するような圧倒的な声量と、集中力の高い、落ち着いた所作が印象的である。この所作とともに、高尚な哲学談義から卑俗な痴話話にいたるまで、さまざまな感情の織り込まれた言葉の群れが狭い空間に響く。観客は内容を理解するというよりも、いわば全身で浴びるように台詞を聞きながら、目の前の五人の俳優たちの動きを追う。瞬間を持続させるエネルギーを基礎にテキストの共有をめざす演技は、長い劇団活動の過程で生まれた独自の形式を持っている。

 演出は原作を分かりやすく再物語化するという発想とは無縁であり、場面転換もないため、原作を観客に「理解」してもらうという姿勢からも遠い。しかしこの演出は「キュビズム小説」とも称される原作の多面的描写の特徴と共鳴している。そのため舞台が観客を置いてきぼりにすることはなかった。ほぼ1時間の上演中、独特な手ざわりの時間と空間が立ちあがり、持続する。終演とともに消えてしまう持続は観客の心に残った。

 赤井氏が主宰するサイマル演劇団は、1995年に仙台で旗揚げし、2001年に拠点を東京に移して以後、自作の上演のみならず、2008年から豊島区のアトリエSENTIOとともにフェスティバル「SENTIVAL!」を共催し、2011年からは東北の舞台芸術を支援・紹介するシリーズを主催するとともに、2013年からは演劇祭「板橋ビューネ」を開催するなど、海外や地域の劇団をつなぐ活動をきわめて精力的に行っている。今回の『ベビュカン』は、演劇祭「板橋ビューネ」に参加した作品だった。【写真(左)はサイマル演劇団公演『ベビュカン』(撮影/サブテレニアン)】

 もう一つ触れたい舞台は、ハイナー・ミュラー作『戦い』(翻訳:市川明、演出:石川湖太朗、演出協力:山本太朗、2018年9月1日と2日、会場:アートスペースサンライズホール)である。この公演を行ったサルメカンパニー(アメノウズメの子孫がサルメノキミと呼ばれているところから、この名をつけたという)は今年4月に旗揚げしたばかりの若い劇団で、桐朋学園芸術短期大学を卒業した石川が発起人になり、同じ大学の仲間たちと立ち上げたという。

 1995年前後に生まれた若い世代の劇団が旗揚げ公演に、1945年敗戦前後のドイツを描くハイナー・ミュラー作『戦い』を選んだ。やさしい戯曲ではない。同大学で演劇を教えるペーター・ゲスナー氏の影響もあるだろうが、最終的にはいくつかの候補から、彼ら自身が『戦い』選んだという。「この作品はドイツを描いているが、作品を作っていく中で日本の歴史をも思い起させる。近い未来、過去に起こった惨劇が再び起きるのではないか、新たな独裁者を生み出してしまうのか…。今を生きる私たちこそ、向き合うべき作品だと確信している」と当日配布パンフレットに書いた石川の言葉から、歴史と向き合う意志にかなう作品として彼らが『戦い』を選んだことがわかる。

 会場は地下にあり、狭く、くさび形をしている。先が徐々に狭くなる部分の床一面にハーケンクロイツ型の足場が組まれ、残りのスペースがパイプ椅子の客席である。舞台奥に電子ピアノが置いてあり、場面転換のたびに奏者(高畠愛)が手前からピアノまで足場を渡って移動する。【写真(下)はサルメカンパニー『戦い』(撮影/坂本彩美)】

戯曲は戦争の残酷さと敗戦のみじめさを当事者の視点から描いている。『ああ戦友』では戦場で糧食尽きたドイツ兵(松本征樹、松田健太郎、山本祐路、麻倉大和)が弱った仲間の兵士を喰う。『小市民の結婚式』では、ナチスを信奉する一家の長(石川湖太朗)が、自殺したヒトラーにならって一家心中を図り、娘(西村優子)を椅子に縛りつけて射殺し、妻(小黒沙耶)も撃ち殺すが、直前に心変わりして自分一人生き延びる。

 『肉屋とその女房』には、直前に整然と行進していたSAたちがイノシシの面を頭からかぶり、天井から落ちてくる人形を奪い合って引き裂く夢の場面がある。夫(松田)を追って入水する肉屋の妻(小黒)が水をかぶって行う独白は見ごたえがあった。『シーツ、あるいは処女受胎』では、三名のロシア兵(松本、麻倉、大平純也)が逃げたドイツ兵の死体(人形)を運び入れると、その場に居合わせた他人同士のドイツ人(石川、小黒、西村)は、ロシア兵からパンを恵んでもらうために偽りの涙を流す。

 カニバリズム、行き過ぎた指導者崇拝、生きることの恥辱、勝者への追従といった重いテーマのグロテスクさを誇張する演出もありえたと思うが、サルメカンパニーは生真面目なまでに戯曲を丁寧に演じるリアリズムを選んだ。狭くて不安定なハーケンクロイツ型の足場の上で、取っ組み合いをしたり、パンを奪い合ったり、親が娘を椅子に縛り付けたりするとき、俳優たちが足を踏み外さないかハラハラすることも演技の緊迫感を高めている。

 丁寧な演出のおかげで発見もあった。『シーツ、あるいは処女受胎』の非戦闘員ドイツ人たちの運命は、SSとロシア兵のどちらが勝者になるかにかかっている。当時、多くのドイツ女性はロシア兵の性暴力の被害に遭ったが、戯曲に描かれたロシア兵たちは統率が取れ、規律正しく模範的である。作家は1951年の発表時にソ連を否定的に描くことはできなかったのだろう。ソ連をアメリカに置き換えれば、敗戦後の日本に思いは向かう。

 埋もれていた歴史的アヴァンギャルドに光を当て(『ベビュカン』)、敗戦直後の混乱を当事者の視点から描いた戯曲を舞台化する(『戦い』)。こうした試みの背後に、共時性に特化したメディア環境の相対化をめざす作り手の意図を読むことができよう。現在に偏重した時空間意識が社会全体を覆う中、過去の作品の身体化・舞台化を通して現在を見直そうとする彼らの態度は、多くの人々に支持されるのではないだろうか。批判的知性がドイツ語圏演劇を求める傾向は、これからも静かに続くと思う。

新野守広(立教大学)
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