最近のヒトラーとナチスの映画から (M.Iida) [J]   作成日:2018/05/23
 ヒトラーとナチスを題材にした映像作品はますます勢いづいている。『ハンナ・アーレト』(2012 独)、『顔のないヒトラーたち』(2014 独)、『サウルの息子』(2015ハンガリー)、『アイヒマンを追え』(2016 独)、『ブルーム・オブ・イエスタディ』(2016独)等々、日本でも毎年のように公開がつづく。映画館に足を運ぶ人も多く、レディスデイともなると、あらゆる年齢層の女性でいっぱいだ。メディアの宣伝効果もあるのだろうが、観客の関心はかなり高いといえそうだ。シリアスなものからエログロ、スプラッターまがいのものまで、ナチ映画のジャンルは多岐に及ぶ。観客の反応も様々だ。『ドイツチェーンソー大量殺戮』(1990独)の、内臓がとびちるシーンの数々を、若い観客はからっと笑いながら観ていた。彼らにとってはスプラッター映画の変種にすぎないのだろう。作品の主旨をよく理解しているというべきか。『イングロリアス・バスターズ』(2009米)で、ヒトラーと側近たちが映画館でもろとも焼き殺されて以来、歴史的な事実との一致という制約は取り払われた。表現はますます自由に、パワフルになっていく。
 ナチの残党はどこにでも潜んでいる。南極の地下深くに帝国を築いてゾンビのごとく生き延びながら世界征服を狙っていたりもする。そしてついに、地球外に存在するナチの生き残りが登場したのが、『アイアン・スカイ』(2012フィンランド)である。設定は2018年。月に着陸したアメリカのロケットから歩み出た飛行士は、眼下に広がる宇宙ステーションを前にたちすくむ。そこに現れたのは、ヘルメットとガスマスクをつけ、全身武装してハーケンクロイツの腕章を付けた月面親衛隊。彼らは月の裏側に巨大な基地を築いている。何もかもがいちいち大きい。コンピュータもバカでかいし、繰り出される秘密兵器の数々も(『神々の黄昏』とかワルキューレとか、ちゃんと名前がついている)とにかく規模が大きい。そしてその技術のすべてが1940年代当時のまま停止していて、古い。月面帝国総統を演じるのはウド・キアだ。地球征服を企てるナチ残党は、ニューヨークに攻め込む。迎え撃つのはアメリカの女性大統領だが、彼女は選挙戦のことで頭がいっぱいだ。月に宇宙飛行士(黒人の)を送り込んだのもイメージ戦略だった。Yes, she canをスローガンに選挙戦を闘っている彼女は、1期目に戦争を始めた大統領は再選されるというのが持論で、しかも敵がナチとなると、「アメリカがまともに倒した敵はナチだけなのだから大歓迎」なのだ。ナチが月に大量に貯蔵しているエネルギーの獲得競争もからんで、各国はエゴむき出しの競争を繰り広げて月面基地に攻撃を仕掛ける。アメリカは無差別の核攻撃にでる。電撃隕石攻撃をしかけるナチと、どちらが悪党なのかと思われる位に、そのやり方は容赦ない。ナチ=極悪、アメリカ=正義という図式は、この映画にはないのだ。映画の中では、『チャップリンの独裁者』(1940 米)がオマージュとして使われている。チャップリンがヒトラーとナチスを徹底的に笑いものにしたように、『アイアン・スカイ』でもナチの生態がよく研究されていて、笑える作品になっているが、そこで笑いの対象にされているのは、ナチだけではない。

 ナチの残党ではなく、ヒトラー本人が現代によみがえったのが、『帰ってきたヒトラー』(2015独)だ。よみがえったヒトラーは、テレビというメディアを使って「日常」の中に入り込んでくる。実際のヒトラーよりもずっと長身でガタイのいい俳優を使っているのも効果をあげているのだろうか、テレビなど信用しない、と言い切る迫力に視聴者は呑まれる。いったん電波に乗ったら、あとはインターネットで一気にヒトラー人気は拡散、増大する。映画にはドキュメンタリー的な要素が多分に盛り込まれている。ヒトラーは、ドイツ各地をまわって街頭の人々の間にはいっていき、「あなたは今のドイツをどう思うか」と尋ねてカメラの前で人々の本音を引き出す。人々は驚くほど素直に「ヒトラー」に心を開く。政治に対する不満、難民問題や外国人問題について考えていることなど、普段は隠れている思いが吐き出される。ヒトラーと自撮りする。右派政党の指導者たちとも対峙するヒトラーは、彼らを叱咤したり、話の最中に肩にもたれかかって居眠りしたりする。ヒトラーとは何者なのか。ドイツはどこへ向かえばいいのか。2014年に撮られた映画だが、その後のヨーロッパの動向をみてしまった今では、映画は現実とリンクして予言的な意味合いをおびてくる。よみがえったヒトラーの目を通して、今の世界がおもしろおかしく描かれるが、ヒトラーに観察され、判断を下されているのは、我々の方なのだ。笑いが途中で固まってしまう。

飯田道子 (立教大学非常勤講師)