オペラとドイツ・リートにおける音楽と言葉の関係を研究して (T. Inada) [J]   作成日:2017/06/25
 日本独文学会に所属させていただいているが、筆者の専門は音楽学である。自分の専門をこう紹介すると、たいてい「オンガク…ガク…!?」という戸惑いの反応が返ってくるのだが、こうした反応にもずいぶん慣れてきた。わたくしの専門はなかでも西洋音楽史で、研究の根本にある問いは、ロマン主義音楽がどのようにして生成し、どのようにしてリアリズムへと向かっていったのか、というものである。そうしたロマン主義音楽のあり方に、詩(言葉)が密接にかかわっている現象が非常に興味深い。
 自分にとってその問いの中心にいるのが、19世紀ドイツのオペラ作曲家リヒャルト・ヴァーグナー(1813-1883)である。ヴァーグナーがいかにしてヴァーグナーになり、いかに他者に影響を及ぼしていったのか、を楽曲分析を通じて明らかにしようとしているが、このとき重要となるのが、間違いなく、音楽と言葉の関係である。どのような歌であろうと、そこに歌詞と音楽があれば、両者には何らかの関係性が生じている。しかし研究上重要なのは、どのように両者が亀裂を起こしているのかを見極めることである。

 卑近な例だが、オペラや歌曲で卒論や修論を書く学生たちが行き着く結論は、多かれ少なかれ、「〇〇(作曲家名)は、音楽と言葉を密接に結びつけて作曲した」に行き着くことが多い。しかし残念ながら、〇〇にはおおよそどんな作曲家でも当てはまってしまう。バッハもベートーヴェンもシューベルトも、ヴェルディもトスティも、フォーレもドビュッシーも、都倉俊一も筒美京平も。彼らはみな音楽と言葉を一致させるべく作曲しているわけだから、分析結果で両者が一致しているとなるのは当然で、むしろそれによって犠牲にされた何かを見出せるかどうか。とりわけ音楽大学・音楽学部の学生には、作曲家が書いた楽譜を正確に深く読めることを武器にしてもらい、さらには、作曲家が意図していなかった、あるいは意識していなかった音の意味を楽譜から発見できる目や耳を養ってもらえたら、と願っている。そのために、音楽史や音楽理論の授業がある。

 音楽のロジックが分かってくると、旋律におけるひとつひとつの音や和声におけるひとつひとつの和音には向かうべき方向性(フレーズ構造の規則性、音の上下行のバランス、機能和声など)があり、俗に名曲や傑作といわれる楽曲には、そうしたロジックをいい意味で覆す音選びが巧みになされていることがみえてくる。そのようにして選ばれた音が見抜ければ、そこで歌われている言葉と一致しているのか、矛盾しているのかがみえてくるだろう。

 周知のようにヴァーグナーは自分のオペラのリブレットを自分で書いている。伝統的な韻律法でリブレットが書かれたロマン的オペラ以前では音楽と言葉の間で矛盾が生じやすく、頭韻によってリブレットが書かれたいわゆる楽劇以降のオペラでは、音楽と言葉の間で矛盾が生じないようにできているといえる。つまり、前者では言葉の論理(特にドイツ詩法)が音楽のフレーズ構造を規定する一方で、音楽には音楽のシンタックスがあるため、作曲者が意図するしないにかかわらず、音楽と言葉の間にせめぎあいが生じてしまう。しかし後者では、テクストがそもそもある程度自由リズムで書かれているため、音楽のシンタックスにはめやすく、それどころか、音楽も古典的なシンタックスから逸脱する自由を獲得したのだった。そのような音楽こそ、音楽のリアリズムと呼べる現象なわけである。

 このような研究をしているとよく思い出すのが、数年前、日本独文学会で開催された某作曲家のシンポジウムのことである。当時四国の大学に所属していたわたくしも、はるばる東京にやってきた。このとき興味深かったのは、パネリストのドイツ文学者たちが、当該の作曲家の楽曲における音楽と言葉の「矛盾」について言及しながら、その「矛盾」の定義を一切行わなかったことだった。このときドイツ文学者たちはどのように音楽を聞き取り、どのように言葉との矛盾を感じ取っていたのだろうか。直接パネリストの方々とお話したかったのだが、このとき発言したわたくしは音楽関係者に囲まれてしまい、身動きがとれなかったのでした。

 ここでもう少し踏み込んで、音楽と言葉の関係の分析例を紹介したい。フェリックス・メンデルスゾーン(1809-47)の晩年の歌曲に〈夜の歌 Nachtlied〉(Op.71-6)がある。原詩はアイヒェンドルフによる4行×5節の詩だが、メンデルスゾーンは第3、4節を割愛して作曲した。原詩の第1、第2、第5節は、音楽的に「A‐A'‐B」のバール形式にまとめ上げられており、この時点ですでに音楽の原理が作用している。

(ここで譜例を示したいのですが、楽譜の著作権の問題もあるため、掲載は見合わせました。ぜひ当該の楽譜をご参照ください。)

 第1節と第2節の音楽を支配するのは、ピアノ伴奏の左手におけるシンコペーションのリズム(「夜」の音楽的トポス)、半音階下行の旋律(降りてくる夜の帳の暗示)、と減七和音(中世以来忌み嫌われる「悪魔の音程」を含んだネガティヴな和音で、ここではあらゆるものの不在に対する否定的表現)で、音楽と言葉の一致を指摘できる。

 続く第5節(歌曲では第3節)で雰囲気は一変し、自然への讃美が高らかに歌われる。伴奏におけるシンコペーションのリズムが両手で弾かれ、未来への期待感を描き出す。2行目末「hellen Schall」でC音の同音反復がなされ、音楽的に跳躍上行が期待されるところで、その期待通りに3行目冒頭「God」の言葉に向けて6度の跳躍がなされる。ここがこの歌曲の最高音であり、クライマックスとなる。文字通り神の讃美が歌われる箇所であり、音楽的にも最も感動的な瞬間でもある。こうして跳躍した音は、「Gott loben wollen wir vereint」の詩行とともに順次下行し、天からの啓示を示唆する。以上記述した音楽的内容はすべて近代的な音楽のロジックに沿ったものであり、それが詩の内容と結びついていることがすばらしい。これこそメンデルスゾーンの優れた音楽性を示す事例といえるだろう。

 しかし、問題はここからである。続く4行目「bis daß der lichte Morgen scheint」に入った瞬間、ピアノ伴奏はドッペルドミナント(属調上の属和音)を取りにいき、現実との微妙な距離感を暗示する。そのうえその和音は減七和音(属九和音の根音省略形+第9音の下方変位)であるため、朝が来ることへの不安感が描かれていることは疑いない。その和音は、属調上であっても属和音である以上、属調上の主和音(すなわち主調からみた属和音)に解決しなければならない。しかし、経過的に別の和音を挟んだのちに、属七和音に解決する。したがって、朝の実現が音楽的に遅らされたわけである。続く歌唱旋律で「Morgen」に与えられた音は、ピアノ伴奏が弾く属七和音にはない、属九和音の第9音である。メンデルスゾーンはこの「Morgen」にわざわざ宙に浮いた音を与え、空疎な存在にした。

 この最後の2行はもう一度歌われるのだが、そこではまったく異なる音楽が付されている。先ほどクライマックスをかたち作ったはずの「Gott loben wollen wir vereint」の詩行には、増三和音という奇妙な和音が与えられた。増三和音といえば、フランツ・リストやヴァーグナーの専売特許ともいえる響きだが、一見保守的とされるメンデルスゾーンにもみられることは興味深い。増三和音がおおよそ不可思議なものや神秘的なものを暗示する和音だとすれば、メンデルスゾーンの付曲では、次の朝を迎えられること自体が神による神秘的で奇跡的なことである、と捉えられているのかもしれない。二度目に歌われる「bis daß der lichte Morgen scheint」の詩行は、歌曲冒頭の夜の音楽のなかに沈潜してゆく。

 そもそも詩を朗読する際に、朗読者が特定の詩節を反復することはあり得ないだろう。しかし、音楽は音楽のロジックによって詩行を反復して強調することが可能である。そればかりか、このメンデルスゾーンの歌曲のように、特定の詩行を二重のニュアンスで表現することすら可能である。ここまで分析してようやく問うことができる。この歌曲において、アイヒェンドルフの詩とメンデルスゾーンの音楽は、根源的にどのように一致し、どのように亀裂を起こしているのか。そしてそこにどのような意味があるのか。

 死を数か月後に控えたメンデルスゾーンがどこまで自分の死を意識していたかは分からないが、少なくともアイヒェンドルフの詩に死のニュアンスを読み取ったことは間違いない。その死の存在が、歌曲の最終節において、心の中のわずかな疼きとして繊細に暗示されている。では、その音楽にはどの程度、未来への希望が込められているのだろうか。以上の分析に鑑みれば、希望を抱きたい自分とそれに対する懐疑といったアンビヴァレントな感情が透けてみえるのではないか。

 ドイツ人でもドイツ文学者でもない日本人の音楽学者が、どの程度きちんとドイツ詩を読めているのかについてははなはだ心許ないが、少なくともメンデルスゾーンがアイヒェンドルフの詩をどのように読んだのか、については楽曲分析から明らかにできると自負しながら研究している。その一方で、たとえば上で紹介したささやかな楽曲分析を、ドイツ文学者の方たちにどの程度理解してもらえるのかについては、正直なところよく分からない。ただ、オペラ研究にしろ、ドイツ・リート研究にしろ、詩に対するドイツ文学者の読みと音楽に対する音楽学者の読みがうまく交差できることを願っている。

稲田隆之(武蔵野音楽大学)