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第59回ドイツ文化ゼミナールに参加して (T. Kasai) [J]

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文化コラム
  投稿日: 2017-5-27 10:58
葛西敬之(東京大学大学院博士課程)
2017年3月12日から17日の6日間にわたり、第59回ドイツ文化ゼミナールがリゾートホテル蓼科にて行われた。この通称「蓼科ゼミ」に筆者も参加したので、報告、というと堅いような気がするが、今回参加されなかった方、今後参加を考えている方に、今回の蓼科ゼミがどのようなものであったか少しお伝えできるようなものを、書きたいと思う。今後の参加のきっかけになることがもしあれば、望外の極みである。
多少変化はあるだろうが通例、蓼科ゼミは特定の全体テーマに基づいた招待講師の講演、参加者による口頭発表そしてグループワークというプログラムから成っており、これらが全てドイツ語によって行われる。今回の蓼科ゼミでは招待講師による講演が三回、グループワークが三回、台湾からのアジアゲスト張守慧教授(文藻外語大学)による講演が一回、そして参加者九名の口頭発表がなされ、さらにAbendprogramm(映画鑑賞)が一度、催された。第59回蓼科ゼミの全体テーマは「Welt/Literatur」というものであったが、これはスラッシュが示唆しているように、いわゆる「世界文学」だけを扱うのではなく、文学的世界の構築の在り方などを含む、世界と文学が取りうる関係を様々な視点から考察するということを意味している。ミュンヘン大学から招待講師として迎えたローベルト・シュトックハンマー教授は、開会式に続いて行われた講演で、まず「Welt」という語がどのような意味の拡がりを持ってきたか、そして持ちうるかを、グリム兄弟のドイツ語辞典における当該項目の記述を叩き台としながら論じた。「Welt」という語に無手勝流で挑もうとすると、焦点が定まらず次第に弛緩してしまいそうなものだが、この開会講演が蓼科ゼミでのその後のディスカッションのための世界を適切に(つまり議論を拘束することはなく)測量し基準点を打ったため、そのような事態が出来することはなかった。

グループワークでは毎回四つのグループに分かれ、異なるテクストについて議論が行われる。グループ分けは、参加者に事前に第一希望から第三希望までアンケートをとり、それに基づいてなされる。全員の第一希望全てが通ることは難しいが、それでも今回は全員が第二希望以上のグループに入ることができたそうである。それに加え、今回は一回目のグループワークそれぞれにプロトコルをとる者(主に若い院生)が配され、全体発表の際に、報告及びそれに基づいたディスカッションが行われた。とりわけ一回目のグループワークでは主に理論的なテクストが扱われたため、それらを全体で共有することは、その後のディスカッションの土台として機能していたように思われる。筆者自身はそれぞれ、グッドマン『世界制作の方法』、ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』、ゴーディマ『バーガーの娘』を扱うグループに配された。グループワークでは事前にGruppenleiterInが指名されるが、グループワークでの議論の進み方については参加者に依存するところが大きく、一概には言う事はできない。しかし、LeiterInが同グループのメンバーに議論の軸となりうる問いをRundbriefで事前に提案し、まずはこの問いにそって議論が開始される、という流れが多いだろうか。例えばグッドマンを扱ったグループワークでは、Leiterのマンデラルツ教授が対象テクストの理解を助けるために、カッシーラーの『言語と神話』の抜粋をRundbriefで配布し、カッシーラーにおけるシンボルによる世界制作が何を意味するかという問いを提示された。もちろん全ての参加者がこのような哲学的テクストに明るいわけではなく、議論は手探りをしながら始まったが、そこでマンデラルツ教授がグッドマンとカッシーラーの比較をカントにまで遡りながら説明すると、議論は段々と活気を伴いながら進んでいった。とはいえこのようなLeiterInによる提案は必ずしもそれに沿って進めなければいけないというだけでなく、参加者のある発言から議論が予想外の方向へと進むことも許容される、むしろ多くの場合歓迎されるだろう。そのような脱線にこそ初めに立てられた問いへの答えが潜んでいるかもしれないからである。少なくとも筆者自身は幸いにしてこのような生産的足り得る脱線を認めないLeiterInに会ったことはない。

参加者の口頭発表は13日から15日まで、一日につき三人ずつ、計九人により行われた。発表時間は三十分、それぞれの発表に質疑応答の時間が十五分あてられている。これだけ十分に発表と議論の時間が与えられる場もそう多くはないだろう。これらの発表もまた恣意的なテーマではなく、全体テーマに関連したものとなる。それぞれの発表についてコメントすることは本稿の目的とする所ではおそらくないし、第一筆者には荷が勝っているので控えさせていただく。しかし全体として感じたことをごく簡単に記せば、それぞれ様々な方法論、パースペクティブから「Welt/Literatur」について論じられつつも、質疑応答の際に他の口頭発表やグループワーク、さらには招待講師の講演の内容と結びつけられることが頻々とあり、これはひとつの基調テーマに対して集中的に多くのプログラムがなされているからこそ起きる事態であり、この場でなければ可視化されていなかった諸論点の結びつきも多く見出されていたように思う。筆者自身も初回に発表したが、その後の他の発表を聞いて多くの新たな着眼点に気づかされた。また内容に関してだけではなく、プレゼンテーションの方法など、つまりどうすれば聴衆により興味を持って聞いてもらえるかなどについても、学ぶところが多かった。例えばパワーポイントの使用がそうだが(パワーポイントに関しては勿論まだ賛否両論あり、発表の内容によっても向き不向きがあるだろう)、蓼科ゼミの後、別の機会に口頭発表をした際に初めてパワーポイントを使用したところ、聞き手の理解に役立っていたように感じられた。さらに、蓼科ゼミのそれぞれのプログラムが如何に有機的に結びついているかに関して言えば、招待講師のシュトックハンマー教授はグループワークにも参加され、特にゲーテの『遍歴時代』に関する議論は、教授の最終日の講演にも組み込まれ、その後に続いて行われた約三時間にも及ぶSchlussdiskussionでの活発な議論に大いに資するものであった。

四日目の午後はRuhenachmittagとなり、各々英気を養うことができる。勿論部屋で休むこともできるが、希望者向けのエクスカーションも用意されており、筆者も今回はこれに参加し、そば打ち体験ののち、「おんばしら館よいさ」を訪った。そば打ち体験では、作るのが難しいとされる十割そばが用いられ、初心者にまともにできるものかと筆者は半信半疑であったが、ポイントポイントで講師の方に調整して頂いたので、大過なく実食へと至ることができた(そば打ちの際に講師の方が「打ち方には本当に性格がでる」と仰っていたが、他の参加者の方々の打ち方を見るに、それは的を射ているのかもしれない。つまり皆の手つきが優しさそのものであったということである)。

おんばしら館では、諏訪地方の奇祭「御柱祭」(正式には式年造営御柱大祭)について学ぶことができた。この七年に一度行われる祭りでは、モミの木が切りだされ、諏訪大社上社本宮・前宮、同下社秋宮・春宮へと曳行されたのち、それぞれの社殿の四方に御神木として立てられる。とりわけ有名なのが、この曳行の途中で行われる木落としという、その名の通り木を落とすかのように急斜面を、それも氏子を乗せたまま滑らすという場面である。矢口史靖監督による2014年公開の映画『WOOD JOB!〜神去なあなあ日常〜』でもこの木落としをモデルにしたとも思わせるシーンがあり、近年では御柱祭といえばこの木落としの場面を連想する者も少なくないだろう。おんばしら館にはこの木落としを体験できる装置(入館料とは別途に200円)もあり、もちろん時に怪我人が出るような実際のそれとは異なるが、前方のスクリーンに映し出される木落としの映像とともに疑似体験装置に乗れば、幾許かは本番の雰囲気を感じることができる(下図写真参照)。筆者がこれに乗っている途中、ガイドの方が突然「よいさ!よいさ!」と掛け声を出されたので、すわ何事かと思いながら筆者も「よいさー」とこれに合わせたのだが、後に調べたところ、この施設の名前にもなっている「よいさ」とはおおよそ「よいしょ」の謂いで、力を入れる時の他にも木落としなどの際に掛け声として用いられるそうだ。

また蓼科ゼミで重要な役割を演じているものとして忘れてはならないのは、毎晩行われるNachtsitzungである。平たく言えば飲み会のことなのだが、全国様々な場所から来る参加者と親睦を深め、情報交換をし、良い刺激を受けることができる貴重な機会でもある。筆者を含めた本会の方々の中にはややシャイな方が珍しくない(気がする)ので、お酒の力を少しだけ借りて初めて会った方に話しかけることができるという意味でも、得難い機会である。またディスカッション等において、続きはNachtsitzungで、と締められることがあったが、はたして、Nachtsitzungでも議論がしばしば続けられた――もちろんお酒を酌み交わしながらよりくつろいだ形で。他方、初めて参加される学生にとってはグループワークなどで積極的に発言することに気後れして、ドイツ語を話し足りないと感じられることもあるかもしれないが、その際にもこの飲み会をぜひ活用していただきたい。そこには多くのドイツ語ネイティヴ教員も顔を出しているので、存分にドイツ語を話すことができる。さらに、もし今後留学を考えているなら尚のことお勧めしたい。なぜなら、日本で長く教えているネイティヴ教員の中には、日本語話者の平均的リスニング力に合わせて、普段はゆっくり明瞭に話す習慣がついている方も少なくないので(勿論これ自体なんら悪いことではない)、これが普通と思いいざドイツ語圏に行ってみると全然聴き取れなかった、という学生の話も耳にしたことがあるからだ。お酒の席でのドイツ人たちの会話のスピードないし場合によっては方言に面喰うこともあるかもしれないが、ニュースのアナウンサーが話すようなドイツ語だけではなく、速さや訛、さらには発声のクセなど人によって実に様々な「ドイツ語」があるということを留学前に体験しておくことは決して悪いことではないだろう。

ここまで蓼科ゼミのことを自身振り返って実感するのが、これだけの大きな催しを運営することの大変さである。筆者自身は今回が二回目の参加であったが、いずれも一切不快な経験をすることなく、充実したものとすることができた。しかしその裏では会期中だけではなく長い時間にわたり、この蓼科ゼミのために尽力された実行委員の方たちの存在があり、話では大変だよとは聞いているが、実際は想像を遥かにこえるものであったことは、間違いない。この場をお借りして実行委員の方々にはあらためてお礼を申し上げたい。

蓼科ゼミの後、数日して再び留学地のオーストリアに戻り、このコラムを書くにあたりゼミのこと、そして蓼科という場について考えていると、するとそれは、一時帰国中に触れた日本の風景の中で、ぽかんと浮いたような、とはいえ決してドイツやオーストリアのそれと頭の中で重なることのない存在として、遠いでも近いでもないものとして現れてきた。本稿を書いている間に、所用でアメリカを訪れることがあり、『遍歴時代』において語り手によって「Erde」のヨーロッパに対して(もちろん現在とはその位置価を大きく異にするものであるが)「Welt」として対照された彼の地から考えれば、あるいはまたこの蓼科という世界の言語化ができるかとも考えていたが、どうもそれも叶いそうにない。単純に日本という場所でドイツ語と日本語が入り混じる空間というだけではどうやらなさそうだが、上手くお伝えするだけの力が筆者には残念ながら欠けているため、この点に関しては、実際に皆さまご自身で確認していただくほかにない。年度末ということで教員の方も学生の方も多忙を極めているに違いないが、ひとつ「よいさ!」と蓼科へ足を運んでみてはいかがだろうか。

*写真は上から順に「木落し体験装置、おんばしら館よいさ館内」、「会場付近の蓼科湖」

葛西敬之(東京大学大学院博士課程)
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