政治的演劇の現在 (M. Harigai) [J]   作成日:2017/04/19
 2017年2月。この時期立て続けにふたつ、ドイツに関連して舞台芸術と「政治」との関わりを主題とする催しがあった。この季節には毎年TPAM(国際舞台芸術ミーティング)という舞台芸術の見本市 (注1)が横浜で開かれており、ドイツ語圏からも例年少なからぬアーティストや舞台関係者が来日する。それに関連しての催しである。ひとつはImpulse Theaterfestivalという演劇祭のディレクターで、TPAMで来日したフロリアン・マルツァッハー氏を迎え、「政治的演劇」をキーワードに東京のゲーテ・インスティトゥートで開かれた討論会(注2)(2月11日)であり、もうひとつはTPAMの拠点であるBankART1929という会場へドイツ思想の専門家、三島憲一氏を招いて開かれたシンポジウム「(改めて)公共性とは何か? 〜公共圏の創造を目指して」(注3)(2月17日)である。この両者をあえて比較するならば、前者はドイツからの視点、後者は日本からの視点で「演劇の政治性」が追究された場であったと言えよう。従来そもそも舞台芸術は政治性とは切っても切れない関係にあるものだが、現在の私たちは世界のどこにいようともその関係を問わずにはいられない状況にあるという認識、そしてこの状況を打破する手がかりを公共の場としての舞台空間に見出そうとする試みとが、このふたつの催しには通底していた。だが、その試みのあり方には大きな差異が見られた。
 三島氏をTPAMのシンポジウムに招いたON-PAM(舞台芸術制作者オープンネットワーク)という団体は、舞台芸術の若手制作者が2011年の震災を機に、情報交換や議論の場を持つことを目的として2013年に立ち上げたものである。近年、日本の舞台制作者の間では、舞台芸術の「公共性」が重要視されている。そこで「公共性」の概念をあらためて確認すべく、ハーバーマスの「公共圏」概念に依拠して社会的・政治的発言を積極的に行っている三島氏が招かれたそうである。氏は、「公共圏」とは公共の大きな問題についての議論の場であり、特別な政治集会などに限らず、夫婦間での会話などにおいても形成されると定義した上で、日本における「公共圏」のニッチ化という問題を紹介した。要約すると以下のような内容である。イスラエルの社会学者S. N. アイゼンシュタットが『日本比較文明論的考察』(注4)で指摘したところによると、日本では、政治的話題など公共の問題が一般的には忌避される傾向にある。一部熱心にそうした問題を議論しようとする人々はいるが、彼らは一般社会とは隔絶された特殊な集団と見なされ、蛸壺化した運動を繰り広げるばかりで、政府などには全く影響を与えられない。こうして日本では「公共圏」がニッチ化、蛸壺化してしまい、機能しなくなってしまっている。劇場などの芸術の場もまた、このようなニッチ化に陥っている。こうした問題に対し、三島氏はヨーロッパの新聞における文芸欄の重要性や、そこでの公共的議論を視野に入れて制作された挑発的作品の例(ドレスデンのフラウエン教会前に展示された難民バスのスクラップ(注5))、また、政府に頼らず、民間の出資で大学などの研究機関と共同で運営されるドイツのフェスティバルなどを一種の模範解答として提示した。それに対し、こうした文化基盤を持たない日本および非ヨーロッパ圏の演劇人には何ができるのか、アジア諸国など海外からの参加者も交えて議論は白熱した。フロアからは、経済的発展および消費文化と公共圏のニッチ化との関係をはじめに、SNSやネットによる議論の蛸壺化やポスト・トゥルースの台頭といった現在的論点について質問が相次いだ(注6)。時間の都合によりこれらの問題を論じ尽くすことは叶わなかったが、ここで提起された問題については今後も議論の場を持ち続けようとの主催者の呼びかけで、本シンポジウムは幕を閉じた。

 一方、ドイツ演劇の現在を紹介したマルツァッハー氏は、政治的演劇が再び強く希求されるようになった今、「重要な社会的テーマに着手するのみではなく、自らが政治的空間、公共圏となるような演劇が求められている」(注7)としつつも、対話という理想的コミュニケーション形式による合意形成を目指すハーバーマス的「公共圏」の限界を認めるところを前提としている。彼はその上で、「1970、80年代の、大部分が語りの演劇であった強烈な時代」(注8)とも「その手段や自身の美学を中心に据えるポストドラマ的形式」(注9)とも異なる新しい演劇のかたちを模索する方向を示した。そこで強調されていたのは、ベルギーの政治学者シャンタル・ムフに依拠した「アゴン的遊戯空間としての政治演劇」(注10)の重要性である。「アゴン的(agonistisch)」とは、2008年に邦訳されたムフの主著『政治的なものについて』において「闘技的」と訳されている概念であり、「敵対的(antagonistisch)」という語の対概念として定義されている。

 敵対関係[Antagonismus]は、われわれ/彼らが、いかなる共通の土台も共有しない敵同士の関係性であるが、闘技[Agonismus]は、対立する党派が、その対立に合理的な解決をもたらすことなど不可能と知りつつも、対立者の正当性を承認しあう関係性である。そこでは、彼らは「対抗者[Gegner]」であり、敵[Feinde]ではない。つまり彼らは対立において、自分たちが同じ政治的連合体に属しており、共通の象徴的空間 — そこに対立が発生する — を共有する者と把握する。民主主義の課題は、敵対関係を闘技へと変容させることといえるのである。(注11)

 共通の土台に立たず、理解困難であるがゆえに、合意形成を目指す「まとも」な対話の場では眼中に入らない存在として黙殺される人々。このような相手を劇場空間に敢えて招き入れ、その声に耳を傾けようとすること。マルツァッハー氏は、この態度を近年ヨーロッパで見られたさまざまな具体例を挙げて紹介した。(個々の上演例についてはゲーテ・インスティトゥートのホームページに記載されているマルツァッハー氏本人による映像リンク付きの文章(注12)に詳しく紹介されているので、そちらをご参照いただきたい。)ここに挙げられた作品はどれも、「戯曲(Drama)」を頂点とするヒエラルヒーの元で制作されたものではないという意味で、未だなお「ポストドラマ演劇」の延長線上にあると言えるが、それらの上演で新たに問い直されているのは、従来の美学的自己言及性にとどまらぬ、その空間に集う者たちのあいだに生じる関係性そのものであった。

 翻って再び、日本の状況を振り返ってみるとどうだろうか。「調和」や「絆」を尊び、一見周囲の人々の存在を承認しているように見える日本において、ムフの言うような「対立者の正当性を承認しあう関係性」はもちろん、隣人との関係性を問い直し、それをより良いかたちで構築しようとする態度はむしろ抑圧されてはいないだろうか。三島氏の指摘した日本における「公共圏のニッチ化」もまた、ここにこそ原因があるのではないだろうか。なぜなら、対立者の存在を認めることなしに、ニッチ化した公共圏を蛸壺から解放し、それを広く共有することは不可能だからである。

 2017年春。依り頼むことのできるイデオロギーはもはや無く、猛スピードで情報が行き交い情勢が変化しゆくなか手探りで歩を進めるほかないこの時代に、我々のアリアドネの糸となるのは何か。おそらくそれは、理解困難な他者の声に身を曝す覚悟を持った、静かな聴取の身振りなのではないだろうか。

(注1)https://www.tpam.or.jp/2017/
(注2)https://www.goethe.de/ins/jp/ja/sta/tok/ver.cfm?fuseaction=events.detail&event_id=20900222
(注3)http://onpam.net/?p=2501
(注4)S. N. アイゼンシュタット『日本比較文明論的考察』(梅津順一, 柏岡富英訳)東京 : 岩波書店, 2004年- 2010年
(注5)http://www.zeit.de/gesellschaft/2017-02/dresden-frauenkirche-kunstinstallation-busse
(注6)http://onpam.net/?p=2657
(注7)Florian Malzacher, „Unruhe und Unbehagen – Politisches Theater als agonistisches Spielfeld”: https://www.goethe.de/de/m/kul/tut/gen/tup/20776967.html 〔フロリアン・マルツァッハー「不穏と不快 – アゴン的遊戯空間としての政治演劇」(石見舟訳): https://www.goethe.de/ins/jp/ja/kul/mag/20776967.html 〕
(注8)Ebd.
(注9)Ebd.
(注10)Ebd.
(注11)シャンタル・ムフ『政治的なものについて: 闘技的民主主義と多元主義的グローバル秩序の構築』(篠原雅武訳)東京 : 明石書店, 2008年, 38頁(括弧内のドイツ語は、針貝がドイツ語版と照らし合わせて補ったもの。)
(注12)Malzacher, a.a.O.

針貝真理子 (慶應義塾大学非常勤講師)