道草のドイツ – Don DeLilloの“Zero K”など (K. Omiya) [J]   作成日:2016/07/16
Schneller als Moskau selber lernt man Berlin von Moskau aus sehen. (Walter Benjamin: Moskau)

 こう猫も杓子もとなってはさて、と思い立ったはいいけれど、言葉のプラクティカルな訓練がいつ頃からか「運用」能力の向上とか呼ばれるようになり、何だかなあ、と及び腰だったのである。それから十数年、結局頓珍漢なことばかりしている。有り体にいうと、英米特にアメリカの現代小説を時々手にするようになったという、ただそれだけ。「マネジメント」の練習になどなりやしない。
 そんな体たらくでも、仕事に直結するドイツ語とつい比べてしまうことがあり、これはいろいろなことを考えさせられて面白い。もちろん同じ言語でも作家によってまちまちなので大雑把な比較でしかないことを承知で言うのだが、英語の散文からドイツ語に戻ると余計に「転がらなさ」を感じる、というより探してしまうのである。鉄十字や鉤十字を旗幟に練り歩く連中が叩く太鼓のような原始的「縦ノリ」は論外としても、最近見かける流儀で緩い言葉遣いを延々つないでこられると、ね、そうでしょ?と転ばしにかかられているようで落ち着かなくなり、気がつけばここかしこに岩があって躓いたり縦穴が開いて落ちたりを繰り返す文章をゆっくりと、転がしようも転がりようもなく読んでいる。これも「運用」の役には立たなかろうが、自分が言葉に何を求め右往左往するのか、その手がかりを得るのは無駄なことではないだろう。ドイツ語への敷居を跨ぐその都度筆者の心に去来するそれは、抗し遮るような硬く手強い何かだということになろうか。もちろん甚だ勝手で、しかもかなり倒錯的な求めでしかないうえ、その挙句に選ばれる文章の質や水準の高低とも巧拙ともさしあたり無関係なことでもある。昨今の標準からすればむしろ悪文にばかり行き当たってしまいかねない。

 1927年の2月、ベンヤミンはソヴィエト・ロシアから帰国する。「彼の身體には新らしく後に見捨てた遠い國の臭がまだ付着してゐた。」四ヶ月にわたるこの旅行を機縁に書かれた「モスクワ」は上掲の文で始まり、ベルリンはtrostlos sauber und gekehrtで何もない、ゴミも雪もない、と続く。彼はベルリンに何を探しあぐねていたのだろう。これは一考を要する問いである。モスクワにあってベルリンにないというゴミや雪など、「とても是丈では濟むまい」。路上の人々の孤立が強調されているが、群衆の賑わいなどを欲していたとも思えない。そこで当てずっぽうの誹りを顧みず、さしあたり、格闘すべき言葉、と解いてみてはどうだろうか。政治的主張のことではなく、言葉そのもののことである。今や彼の耳に入るのは母語ばかりになっているわけだが、にもかかわらず、あるいはむしろ母語としてのドイツ語だからこそ、突き当たる未知の何かがあるはずなのだ、とどこか怖がりつつ望んでいるのではないか。それが閉ざされた扉の背後に隠れたまま路上に現れ出てこない、という、いわば異物の不在に対する違和感に駆られた、ある特種な言語渇望がここに顔を覗かせているようにみえる。

 帰国しておのれのWitterungを持て余す道草者の耳には、モスクワのアーシャ・ラツィスの言葉の厳しさも響き残っていたであろう。外国から東京に戻った『道草』の健三は、養父島田の不意の出現を機縁として細君の口から発せられる言葉と手に負えぬ格闘を強いられる。そんな健三も心の何処かで島田と出くわすことを望んでいたに違いない。
 さて、これをもじるなら、英語から移ると転がらないドイツ語をつい探す筆者は、外国語から外国語へ、という道草の道草がてら、さしずめ「ニューヨークから、ニューヨークそのものよりも、ベルリンを見ることを先に学ぶ」つもりになっているということか。そんなことをあらためて自覚させてくれたのが、最近読んだドン・デリーロの新作 “Zero K” である。

 “White Noise” や “Mao II” そして何より大作 “Underworld” で知られた作家の、小説としては前作 “Point Omega” 以来六年ぶりとなる。80歳、といってもlate styleの枯淡からはほど遠く、高度な技術によって絶対零度(0 K)下での人体の冷凍生命維持cryonic suspensionを行う中央アジアの秘密施設とニューヨークを舞台として往還する、半ばSFである。荒唐無稽な話ではなく、書評などによれば、医療技術の進歩を待って実際に冷凍されている人々が、アメリカには相当数いるのだという。(そのまま戻ってこない人も多かろう、ともある。)両親の離婚後しばらく一緒に暮らしていた母親も亡くし、一人ニューヨークに住む三十四歳の「私」Jeffreyが、いまや超富裕な企業家となった父親に呼ばれ、飛行機を乗り継ぐ複雑な経路づたいに孤絶した施設を訪れる。そこで「私」は、父親がこの施設の多額出資者であり、治療困難な病に冒されている現在の妻に、第二の生を可能ならしめようとしていると知る。父親はのちに自らもその道を選ぶ。

 滑るようで転がらず、早駆けるかと思えば不意に休符が入るような文章はデリーロ調といってよかろうが、ドイツ語で、またもちろん日本語でこれを模しても実現は難しいだろう。辞書をずいぶん引かされるという読み手の語彙不足は頬被りするとしても、やはり「乗る」文章ではない。むしろ読みながら飛ぶべきところを飛び損なったり前のめったりする感覚が貴重に思える。そしてこの感覚の向こう側には、表向きの英語でも作者の父祖の言語でもない何かが不意に露頭するような気がする。もちろんそれはドイツ語だなどと断言はしない。デリーロ自身はブロンクスのイタリア移民の家庭に生まれ、カトリックであり、出自や環境にドイツとの接点はない。しかし、重層的に得られた彼の表現言語にはここかしこに不連続線が走っており、その隙間越しに「ニューヨーク」よりも、書かれてもいない「ベルリン」を覗き遣ることができそうに思える。

 「私」の施設内部における眼差しや振る舞いは、違和感を内に含みつつも中立的で、葛藤や冒険などには結びつかない。そのかわりに思弁と回想が多くを占める。交わされる会話もまた、どこか思索的である。「糸くず」や「ハンガー」から「誠実」、「真理」のような抽象語に至るまで定義を試みずにいられない性癖がある「私」は、この施設とその目的を聞き知るにつれて、「生と死」の再定義という難問に立ち会うことになる。それは、「生」の人工的凍結であり、かつ「死」の人工的中断であり、かつまた究極には「死」を克服した「人間的生」の新たな、作中の言葉で言えばforevermoreな実現を目指す施設の技術的可能性に基づいた問いである。もちろんこうした技術を自然的ないし宗教的摂理としてのSterblichkeitへの傲岸な介入と断罪する立場もありえようが、「私」はむしろ、この施設において「生と死」に何が起きつつあるのかを見届けようとする。二度目の訪問の際、いまや生と死の間にあって「回生」を夢見る継母の凍結した肉体は、それを目にした「私」に美的感動さえ与え、それはさらに「私」を祈りにも似た沈思へと誘う。

 作中では、凍結人体のみならず、あるいは路上に佇む生身の人間、あるいはマネキンといった、動きを止めた人の姿が極めて印象的に繰り返し描き出される。いわばsuspendedな存在であるこれらは、読者にも立ち止まることを、そして凝視よりは瞑目を強いるだろう、暗闇で目を閉ざす癖のある「私」のように。

 しかし、そのような「私」の沈思もまた、無垢なままには終わらないのである。
 「私」の父親が「生と死」の難問に「マネジメント」の才覚、すなわち資本と技術の投入により、しかし「身を以て」答えようと企てる一方、「私」が語ったある言葉が、一人の寄る辺ない人間の生に抜き差しならぬ作用を及ぼすことになる。「私」の恋人は、かつて夫とともにウクライナの孤児Stakを養子として迎え、その後別れた夫との間を彼に往復させつつ育てている。ところが十四歳になったStakは、学校やアメリカでの生活を「無意味」と拒絶しはじめる。間に入るような格好の「私」は、二人をとあるギャラリーに案内しながら彼にこう語りかけるのである。
“Rocks are, but they do not exist.”
ハイデガーの „Was ist Metaphysik?“ (1929年) への1949年の序文の一節である。もちろん英訳からだが、「私」はさらに諳んじる。ドイツ語原文に戻して引くと ―
Der Mensch allein existiert. Der Fels ist, aber er existiert nicht. Der Baum ist, aber er existiert nicht. Das Pferd ist, aber es existiert nicht. (......) Gott ist, aber er existiert nicht.
(„Der Engel ist, aber er existiert nicht.“ という一文が省かれているのだが、ここでは問わない。)ギャラリーでは巨大な岩が一個だけというインスタレーションが行われている。「私」はハイデガーの思想が持ちえた政治的含意にはあえて触れずに引いたのだった。(蛇足だが、昨今話題の „Schwarze Hefte“ が既に英訳されていると、筆者はここでの言及で初めて知った。)上の語句が引かれていること即ちドイツ的、と言いたいのではない。「御前は必竟何をしに世の中に生まれて來たのだ」とは道草者の心に必ず浮上する問いであろう。「私」の父親は “to own the end of the world” というEntwurfでこれに答えるが、この世にいわばhineingeworfenされた体のStakはどうだろうか。

 展示された岩に心奪われるStakに「私」は、さらに「岩」の定義を求める。すると彼は、困惑を示しはしたものの、意外にも適切な地質学的定義を口にする。彼は「岩」を知る者なのである。いずれにせよこの岩、そしてこの言葉の切っ先を受け止めた彼は程なくニューヨークから姿を消してしまう。その後の経緯については触れずにおく。岩とおのれのexistenziellな差異、ないし「生と死」の問いに、「私」の父親たちとは全く異なってはいるが、しかし同様に「身を以て」、すなわちおのれに唯一残された徒手空拳で答えようとしたのだ、とだけ言えば十分であろう。

 今日この問いへの回答の試みは、技術と身体という、実は錯綜する二つの極を無理に引き裂いて対立のみを見ようとしているのではないか。そして、「私」がそうであるように、思考しつつも行為には消極的な世代が、演出された対立の間にはまり込んで右往左往を強いられているというべきだろうか。そんな「私」であれば、「己の所爲ぢゃない」と言い逃れることはできまい。筆者にはこの両極性に、ドイツ的、とまで言い切るのは憚られるが、どこかしら既視感いや既読感を覚える。そのドイツの新聞・雑誌の書評などで、もっぱら生命倫理がどうのとか資本主義がこうのとか、出来合えの対抗的構図ばかりが目立つのには、已んぬる哉、と呟くほかない。見かけの賑わいとは裏腹に実のところはtrostlos sauber und gekehrtだというのは、「生と死」を語る言葉の世界にはよくあることだが、デリーロの描く世界の格差や対立は、表向きのものでしかないのである。「私」も施設を頼む富裕者たちも、生と死の間の道草=suspensionに存在を賭しているという点では同様なのだが、他方、それを耐えがたく感じる者の耳には、いつ何時彼岸の囁きが聞こえてきても不思議ではない。「私」のStakへの語りかけは、さしたる信条からでもなく、また不意になされるが、この偶発性がメディア的現実なのである。筆者はといえば、やはり畳の上で – などと、ほとんど畳もないような家で思っているのだけれど。

 最終場面は心動かされる。友人だというポール・オースターの出世作 „Moon Palace“ の結末を思わせもし、また、グリューネヴァルトの „Isenheimer Altar“ の最後の一枚のようでもあるが、これは気のせいかもしれない。さらに憶測を許してもらえば、施設の人工庭園で老賢者めいた人物が十七世紀イングランドの医師トーマス・ブラウンに言及するが、その元はゼーバルトの „Die Ringe des Saturn“ ではなかろうか。

 「私」の歩みは言うなれば巨大な道草を知るための、やはり大掛かりな道草であり、かくいう筆者も道草としてそれに付き合ったのだが、思いがけず本筋めいたものをwitternしたような気がする。あるいは、ドイツ語やドイツ文学に携わる者にとっては道草こそが本筋なのかもしれない。日本語と英語だけでは道草さえできないことに誰も思い致さないご時世であれば、尚更である。
 まだ中々片付きやしないよ−

大宮 勘一郎 (東京大学)