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『コーヒーをめぐる冒険』をめぐる連想の冒険―ドイツ映画戦後70年に寄せて (Y. Yamamoto)[J]

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映画批評
  投稿日: 2015-4-9 9:12
山本佳樹(大阪大学)
 2013年のドイツ・アカデミー賞で作品賞・監督賞など6冠に輝き、日本でも昨年公開された『コーヒーをめぐる冒険』Oh Boy(監督ヤン・オーレ・ゲルスター、2012)は、ちょっと引っかかる映画だった。何がどう引っかかったのか明確には自覚できていなかったのだが、戦後70年とドイツ映画というテーマで今回コラムを書かせていただくことになり、はてどうしたものかと思案していたとき、この映画のことが頭に浮かんだ。この映画の「ちょっと引っかかる」ところは、ドイツ映画の戦後史と無関係ではないような気がしたのだ。
 第二次世界大戦後に製作された最初のドイツ映画は、『殺人者はわれわれのなかにいる』Die Mörder sind unter uns(監督ヴォルフガング・シュタウテ、1946)である。この映画はベルリンのソヴィエト占領区で誕生した。連合国は映画産業をナチ・イデオロギーの広告塔と見なし、その代名詞となっていたウーファ(Ufa)の解体に躍起になっていた。とりわけアメリカをはじめとする西側占領国は、ドイツ人はすべて有罪であり、国際社会に復帰する前に国民全員が再教育を受けなければならない、と考えており、ドイツ人に再び映画を作らせることには慎重だった。それに対して、ソヴィエトは、政治的に信用できるドイツ人映画関係者を選んで彼らを新しいドイツ映画産業の指導者にしようという方針をとり、シュタウテに映画製作を認可したのである。1946年5月には、ポツダム=バーベルスベルクにドイツ映画株式会社(後に略称のデーファ(DEFA)が正式名称となり、東ドイツ唯一の映画スタジオとなる)が設立され、『殺人者はわれわれのなかにいる』はそこで撮影された。プレミアは1946年10月15日。ニュルンベルク裁判で下された判決が実行される前夜のことであった。プレミアの会場となったベルリン国立歌劇場には、ドイツ人に再び映画を作らせてよいかどうかを判断する試金石にしようと、占領区を越えて連合国の要人が顔をそろえた。

 『殺人者はわれわれのなかにいる』の舞台は終戦直後のベルリン。廃墟のように破壊された町が、冒頭部から印象的に提示される。この映画は、1948年ごろまで製作される「瓦礫映画」の最初の作品でもあった。従軍中の悪夢のような経験によって精神の平衡を失った外科医メルテンス(エルンスト・ヴィルヘルム・ボルヒェルト)は、幽霊アパートに住みかを見いだし、酒浸りの日を過ごしている。そこにアパートの正当な所有者であるズザンネ(ヒルデガルト・クネフ)が強制収容所から奇蹟的に生還し、ふたりは同居するようになる。メルテンスのトラウマは、1942年のクリスマス・イヴに司令官ブリュックナーの命令で行なわれたポーランドの村での大虐殺であり、それを阻止できなかったことが彼を苦しめていた。ブリュックナーがベルリンに住んでいて、ヘルメットをフライパンに変える工場の社長として裕福で幸福な暮らしをしていることを知ったメルテンスは、激しい怒りを覚え、彼の殺害を2度試みる。2度目は1945年のクリスマス・イヴである。メルテンスの決意を察したズザンネが現場に駆けつけると、メルテンスは拳銃を手から落とし、告発することは個人の義務であるが、正義を行使するのは裁判制度であることを認める。斜めのカメラ・アングル、不安定に傾斜した環境、影の多用など、様式面ではドイツ表現主義の伝統に連なることでナチ映画との差異化を図ろうとしたこの映画は、ナチ時代にかかわる罪の問題と対決した最初のドイツ映画でもあった。『殺人者はわれわれのなかにいる』は、この問題に正面から取り組むことによって連合国を納得させ、戦後ドイツ映画の道を拓くことができたのだ。

 『コーヒーをめぐる冒険』は、1978年生まれのヤン・オーレ・ゲルスター監督のドイツ映画テレビアカデミー・ベルリンでの卒業制作作品であり、長編劇映画デビュー作である。ある日の朝、20代後半の主人公ニコ(トム・シリング)は恋人(カタリーナ・シュットラー)のアパートを去る。このときにコーヒーを断わったことが、ケチのつけはじめとなる。この後、彼は6度もコーヒーを飲もうとするのだが、持ち金が足りなかったり、マシンが故障していたり、ポットが空になっていたり、酒を勧められたり、マシンを片づけた後だったり、自動販売機が故障していたりして、とうとうこの日はコーヒーにありつけないのである。ニコはベルリンをさまよい、奇妙な人物たちと出会う。彼はいつも聞き手であり、彼が口にするほとんど唯一の要求はコーヒーを飲むことなのだが、それがかなえられない。そればかりではなく、この日の彼はさんざんである。意地悪い精神科医は飲酒運転で取りあげられている運転免許証を返してくれないし、キャッシュカードはATMに吸い込まれるし、大学を中退したのが父にばれていたことがわかるし、券売機が故障していたので切符を買わずに乗った電車を降りると、怪しげなふたり組に無賃乗車をとがめられる。人生の方向を見失っている若者の、なにをやってもうまくいかない、笑えるほどついてない一日を描いたコメディ。こんなふうにまとめられそうな映画なのだが、なにか引っかかったのは、このなにげない一日のなかに、ナチ時代にかかわる罪の問題が少なくとも3度出てきたためかもしれない。

 ナチへの言及が最初に現れるのは、ニコが友人である俳優のマッツェ(マルク・ホーゼマン)に連れられて、ある映画の撮影現場を訪れる場面である。ナチの軍服を着た主演男優が彼らを迎え、撮影中の映画のストーリーについて説明する。主人公はユダヤ人と知らずにある女性と恋に落ちるが、開戦でふたりは離れ離れになる。6年後、ナチ将校となった彼は、ユダヤ人を強制送還するためにやってきた家屋で彼女と偶然再会する。党への忠誠を尽くすか、彼女を助けるか、という葛藤に悩んだ末、彼は彼女を助けることを選び、後に自分たちのあいだに子供がいたことを知らされる。自分の役に陶酔し、話しながら感極まるこのスター俳優に対して、ニコは冷ややかな距離をおいている。ニコの態度はラストシーンの撮影に立ち会う際も同じで、この映画のいかがわしさを彼が察知していることが感じられる。このエピソードは、ナチ時代を単なる書き割りに利用して、安易なお涙頂戴ものを量産してきたドイツ映画への批判のように見える。第2の言及は、13年ぶりに再会した同級生ユリカ(フリーデリケ・ケンプター)とニコが性的関係をもとうとする場面である。昔は肥満児でいじめられていたというユリカは、いまではすらりとした女性になっている。ユリカはニコが好きだったと告白し、ふたりは愛撫を始めるのだが、「太った女とやりたい」と唱えながらセックスをするようにユリカが迫ると、ニコは急に冷めてしまい、違和感を口にする。それでは「過去の克服」みたいだ、と。こう言われたユリカは、これほど陳腐な言葉はないかのように「過去の克服ですって?」と反応する。戦後(西)ドイツ最大の課題であった「過去の克服」も、現代の若者には聞き飽きてうんざりするような言葉になってしまっていることを示唆するやりとりだといえようか。第3の言及は、ニコがこの日に出会う最後の主要人物である、夜のバーに現れる老人(ミヒャエル・グヴィスデク)との会話の場面である。60年ぶりにベルリンに戻ってきたという老人は、かつてまさにこの場所で、まだ子供だった自分は、父親に言われるままに、ユダヤ人の店の窓ガラスに石を投げつけたのだ、と語る。1938年11月9日夜から10日未明にかけての「水晶の夜」の加害者であるこの老人は、この告白の直後、発作に倒れ、救急車で運ばれる。ニコはこの身寄りのない老人に付き添い、翌日の早朝に病院でその死を知らされる。ナチの罪に加担したとはいえ、この老人に対するニコのスタンスはけっして冷淡なものではない。子供のころに自分が犯した罪を一生背負って生きてきたであろう老人へのいたわりなのだろうか。

 このようにして、『コーヒーをめぐる冒険』は『殺人者はわれわれのなかにいる』や戦後ドイツ映画史と繋がっている。ドアに左右対称に切り取られた冒頭ショットのフレーミングや陰影豊かなモノクロの映像美が予感させるように、『コーヒーをめぐる冒険』はきわめてフォーマリスティックで知的な作風の映画であり、このほかにもさまざまな映画作品からの引用がちりばめられている。ジーン・セバーグを思わせるセシルカットの恋人―ただし監督の弁によればこの類似は偶然らしい―とのベッドでの冒頭シーンは、ゴダールの『勝手にしやがれ』 À bout de souffle (1960)を想起させる。マッツェの知人の家でおばあさんにテレビ視聴用電動椅子の手ほどきを受ける場面では、タルコフスキーの『惑星ソラリス』Солярис(1972)のテーマ曲として使われたバッハのコラール「我汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」が流れるし、人間関係についてのメランコリックで皮肉な見方とコーヒーとくれば、ジャームッシュの『コーヒー&シガレッツ』Coffee and Cigarettes(2003)―もっともここでは登場人物たちはひっきりなしにコーヒーを飲んでいるのだが―がちょっと似たテイストの作品だったことが思いだされる。明示的に引用されているのは『タクシー・ドライバー』Taxi Driver(監督マーティン・スコセッシ、1976)であり、マッツェがベルリンの町で車を走らせながら、「ここは掃除が必要だ。町を一掃してほしいよ」というセリフを口にすると、ニコが「『タクシー・ドライバー』か?」と応じている。思えば、深夜タクシーの運転手であるロバート・デ・ニーロは、レストランに入るたびにコーヒーを注文していた。

 いま名を挙げたいくつかの映画はたいていの映画評でも触れられているが、それとは別の、ある映画との関係が、私はなんとなく気になっている。それが、『コーヒーをめぐる冒険』を観たときに「ちょっと引っかかる」と感じた、もうひとつの理由だったようにも思える。その映画とは、『ベルリン・天使の詩』Der Himmel über Berlin(監督ヴィム・ヴェンダース、1987)である。両者にはいくつかの共通点がある。まずは、当たり前のようだが、ベルリンを舞台にしていることである。もちろんベルリンほどドイツ映画で特権的に表象されてきた都市はなく、ベルリンを舞台にした映画は数えきれないほど存在する。モノクロで捉えられたベルリン―周知のように『ベルリン・天使の詩』では、天使の視点から見た世界はモノクロで、人間(になった天使)の視点から見た世界はカラーで表現されている―に限定しても、『伯林大都会交響楽』Berlin. Die Sinfonie der Grosstadt(監督ヴァルター・ロトマン、1927)や『日曜日の人々』Menschen am Sonntag(監督ローベルト・ジオトマクほか、1930)といったヴァイマル期の無声映画をはじめとして、枚挙にいとまがない。そのなかでとりわけ『ベルリン・天使の詩』との関係が気になったのは、分断されたベルリンの最も美しい肖像のひとつであるこの映画には、爆撃によって瓦礫となった町並みを映したニュース映像が挿入されており、第二次世界大戦に向けるこうした視線を『コーヒーをめぐる冒険』が引き継いでいるように思われたためである。『殺人者はわれわれのなかにいる』と『コーヒーをめぐる冒険』とのあいだに『ベルリン・天使の詩』というピースを入れることで、瓦礫のベルリンから分断のベルリンを経て再統一ドイツの首都ベルリンへ、という、この都市の戦後史のイメージが完成する。

 もうひとつの重要な共通点は、『ベルリン・天使の詩』のなかでも、映画中映画として、ナチをテーマにした映画が製作されていることである。ピーター・フォークはその撮影のためにベルリンにやってきたのだ。ナチ時代の罪の問題と戦後ドイツ映画史との関連への眼差しという点でも、ふたつの映画には接点があるといえる。さらには、ユリカの演劇パフォーマンスはマリオン(ソルヴェイグ・ドマルタン)のサーカスに、子供のころ「水晶の夜」に参加した老人はクルト・ボアが演じた語り部ホメロスにそれぞれ対応する、といえば、牽強付会に過ぎるだろうか。それから、忘れてはならないのはコーヒーである。ゲルスター監督が『ベルリン・天使の詩』をどれほど意識していたのかはわからないが、連想がおもむくままの関連づけの冒険をさらに続けることを許してもらえるなら、コーヒーの意味についてもちょっとした深読みができそうである。なにしろ人間になったダミエル(ブルーノ・ガンツ)が最初にする行動は、コーヒーを飲むことなのだから。『ベルリン・天使の詩』の天使たちは、太古から人間の歴史を見守っている。彼らは不死であり、人々の心の声を聴くことができるが、言葉を記録するだけの存在であり、形而下的な感覚をもたない。彼らの世界には色彩も匂いも味覚も痛みもない。ある意味では生きていないのだ。ダミエルは、人間の世界の悲惨さと孤独を知りながらも、靴を脱いで足の指を伸ばすときの快感や、歩くと骨が動くような感覚に憧れている。やがてマリオンに恋をしたダミエルに、元天使だったピーター・フォークは人間になることを勧め、タバコを吸ったり、コーヒーを飲んだり、鉛筆を握って絵を書いたりすることの素晴らしさを語る。そして、ついに人間になったダミエルは、何より先に売店でコーヒーを買い求め、香りを胸に吸い込み、体を温め、初めての味覚を堪能するのである。一方、『コーヒーをめぐる冒険』のニコは、ほとんど自分の意見を言わず、人の話に耳を傾けることの多い人物である。人生の方向を見失い、生きている実感を失っている彼も、見方によれば「天使」なのかもしれない。そのニコがやっとコーヒーを飲めるのは、「水晶の夜」に参加した老人を運んだ病院で徹夜し、看護婦に老人の死を知らされた後の、ついてない一日の翌日の早朝である。『ベルリン・天使の詩』ならここでカラーになるかもしれないところだが、『コーヒーをめぐる冒険』の映像はもちろんモノクロのままである。ついてない一日に経験した一連の出来事、とりわけ子供のころにナチの罪に加担した老人の死は、彼のなかの何かを変えるきっかけになったのだろうか。ようやくありついた一杯のコーヒーは、彼にはどのような味がしたのだろうか。


山本佳樹(大阪大学)
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