『変身』初版本の表紙イラストのこと(T. Kawashima)[J]   作成日:2015/03/06
 ずっと不思議だと思っていた絵がある。カフカ『変身』の初版本の表紙を飾るイラストのことだ。ライプツィヒのクルト・ヴォルフ出版社から出ている「最後の審判」シリーズの一環として1915年末に出版された(表記では1916年となっている)この本の表紙では、ナイトガウンを羽織った黒い髪の男が、いかにも絶望したという風情で両手で顔を覆い、隣室に通じるドアからよろよろと離れようとしている。少しだけ開いたドアからのぞいている隣の部屋は真っ暗で、中の様子は何も見えない。
 ――『変身』を読んだことのある人なら、誰しも一つの疑問を抱くだろう。「これはいったい作中のどの場面を描いたものなのか?」という疑問だ。ナイトガウンの男は黒髪で、まだ若いように見える。この物語には若い男は主人公しか出てこないから、ということは、これはグレーゴル・ザムザその人だろうか。しかし、グレーゴルは物語冒頭の夢から醒める場面で、すでに虫に変身したあとなのだから、人間のままの姿をしたこの男がグレーゴルだというのはおかしい。それとも、これは物語の開始以前の一時点を切り取った前日譚の図なのだろうか。あるいは、やはりここに描かれているのは若い男ではなくて、別の男、たとえばグレーゴルの父親なのか……。一度、授業で『変身』を扱ったときに学生さんたちに訊いてみたところ、「父親だと思った」という人が多かった。息子が巨大な虫に変身してしまってショックを受けている父親。作品内容とイラストを関連づけるなら、たしかにそう受け取るのが一番自然なのかもしれない。『変身』をひもとけば、虫になってしまったグレーゴルが苦労してベッドから起き上がって扉を開けた場面で、息子の姿を目にした父親は「両手で目を覆って、泣いた」とちゃんと書いてある。

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『変身』初版本の表紙(オットマー・シュタルケ画)

 しかし、この絵の絶望した人物はグレーゴル・ザムザに違いないと信じている人もいる。たとえば、カフカ文学の「語り手」の特殊性を論じたフリードリヒ・バイスナー(Friedrich Beißner)がそうだ。カフカ作品では主人公の視点と語り手の視点が完璧に一致している(ことが多い)ことを強調するバイスナーは、『変身』に関してもその特徴があてはまると考える。言い換えれば、この物語に書かれていることはあくまで主人公の主観であって、客観的な現実であるとは限らない、ということだ。ここからバイスナーは、グレーゴル・ザムザはじつは虫に変身していないという結論を導き出す。なるほど、この物語の不条理な設定や荒唐無稽な展開は、いずれも孤独と疎外に苦しむ主人公の妄想だと考えれば、ある意味すべて説明がつく。かくいう私自身は、そんな深読みをしなければならない必然性がいまひとつ感じられないのだが……。ともあれバイスナーは、この「じつは変身していない」説の根拠として、問題のイラストを挙げている。この絵は作者カフカと挿絵画家の綿密な打ち合わせのもとに作品のコンセプトを表現していると考えるバイスナーは、ここに描かれているのは主人公グレーゴル・ザムザだと断定し、この男が人間のままの姿でいることを、自説が正しい証拠と見なしたのだった(邦訳は粉川哲夫、『物語作者フランツ・カフカ』せりか書房1976年、65頁以下を参照)。
 ところが、この解釈に猛反発した人がいる。ほかでもなく、このイラストを描いた挿絵画家オットマー・シュタルケ(Ottomar Starke)だ。バイスナーのカフカ論(1952)が出た翌年の1953年、シュタルケはドイツ言語文化アカデミー(ビュヒナー賞の授与団体)が当時出していた会誌に「カフカとイラスト(Kafka und die Illustration)」と題した文章を寄せ、バイスナーに反論した。

 表紙イラストを描くに際して作者が「介入」した、「要望」を出したなどとフリードリヒ・バイスナーは考えているが、そんなことはなかった。『変身』のときもそうだし、私の40年近くの画家活動において一度もなかったと言うことができる。私がイラストを描いた作家たちはたいてい私の友だちだったが(カフカにはお目にかかったことがないが!)、誰一人としてイラストに「要望」を出してきたりはしなかった。作家たちは自分の文学を完結したものと見なしており、そこに何か付け加える必要があるとは思っていなかったのだ。(Neue literarische Welt 2, H. 9, S. 3)

 つまり、文学作品とイラストは互いに完結した芸術作品であり、必ずしも「イラスト=文学作品の従属物」ではない、ということだ。この考え方からすると、『変身』の表紙イラストがカフカの指示どおりに描かれたならばそれは画家の《表現の自由》が制限された事案ということになるから、バイスナーの解釈はシュタルケの画家としてのプライドを傷つけたのだ。シュタルケはこうも言っている。

 表紙イラストというものは、本の内容をいわばキーワードで要約するような使命を担っている。カフカの『変身』から浮かんだキーワードは「恐怖! 絶望!」だった。あれから37年経った今でも、それ以上にぴったりくる言葉は思いつかない。恐れおののいて逃げようとしている男が黒髪なのは、白地には黒のほうが映えるからという視覚的な理由からだし、ナイトガウンとスリッパ姿なのは、「小市民的」な生活の中に「非日常」が侵入してきたことを表現するためだ。

 ここでシュタルケが、「黒髪=若い男」という見方をはっきり否定していることに注意したい。シュタルケとしては、ここで若い男を描いたつもりは毛頭なくて、要するにグレーゴル・ザムザの年老いた父親を描いたつもりだったのだろう。
 だが、やや腑に落ちない点も残る。シュタルケは、これは父親の絵だと断言していない。バイスナーの解釈を効果的に論駁したいなら、これは父親の絵ですよと言えば済むだけの話だが、そうは言っていないのだ。そもそも、これが父親の絵なのだとすれば、シュタルケはなぜグレーゴル・ザムザを描かなかったのだろうか。この物語を視覚化した最初期の例である、『変身』チェコ語訳(1929)に添えられたオットー・ケスター(Otto Coester)の挿絵から、ごく近年のエリック・コルベラン(Éric Corbeyran)とリチャード・ホーン(Richard Horne)によるグラフィック・ノベル(2010)まで、巨大な虫に変身したグレーゴル・ザムザの姿をグロテスクに描き出した例は数多い。これは、いわば画家にとって腕の見せどころではないのか。
 ちなみにカフカ本人は、虫に変身したグレーゴル・ザムザの絵を絶対に描かないでくれと頼んでいた。クルト・ヴォルフに送った1915年10月25日の手紙でのことだ。

 シュタルケは即物的な画風の人ですし、虫そのものを描きたがるのではという気がします。それはダメです。それだけは! 画家の領分を侵害するつもりはありませんが、この物語については私の方が当然よく分かっているはずではないですか。虫そのものは描かせないでください。遠目に見た姿でもダメです。[…]イラストに関して私自身が提案してよろしければ、私なら両親と業務代理人が閉ざされた扉の前にいる場面を選びます。あるいは、両親と妹が明るい部屋にいて、真っ暗な隣の部屋へのドアが開いている場面の方がいいでしょうか。

 カフカは紛れもなく「要望」を出していたのだった。カフカはかねがね、本を出すにあたっては自分の本が読者にどう見えるかについて強いこだわりを抱いていた。表紙の色から活字のサイズまで、出版社に細かく指示を出していた。この作家にとって文学とは、文章を書いたらそれで終わり、「完結したもの」になる、というわけではなかった。自分が書いたものがどのようにパッケージ化されて読者のもとに届けられるか――そこまで含めて文学だったのだ。
 「真っ暗な隣の部屋へのドアが開いている」というモチーフが実際に絵に反映されている以上、カフカの指示が挿絵画家シュタルケに伝わっていなかったとは考えがたい。クルト・ヴォルフ社の「最後の審判」シリーズに挿絵をつける駆け出しの画家であったシュタルケは、おそらくこの「介入」に何らかの反発を感じながらも、出版社から伝えられた指示を無視することができなかったのだろう。このイラストにカフカの意向が反映されているというバイスナーの推測は、半分は的中していたことになる。しかし、この絵に描かれた男性がグレーゴル・ザムザだという見方は、少なくともカフカの意向という観点からすると的外れだと言うしかない。虫に変身した男の姿は描かず、あくまで「真っ暗な部屋」でもってグレーゴル・ザムザの存在を暗示するというのがカフカの提案だったのだから。
 ただ、シュタルケは完全にカフカの言いなりにはならなかった。虫の姿を描くことなかれ という禁令には逆らうことができなかったにせよ、両親と会社の上司、あるいは両親と妹を描き込むという提案はあえて無視し、その代わりに、絶望しきった様子の一人の男を描いた。それは挿絵画家シュタルケにとって、せめてもの《表現の自由》の行使だったのだろう。その結果としてこのイラストは――何だかよく分からない絵になった。この絵のテーマが「恐怖! 絶望!」なのだとして、それは誰の恐怖であり、誰の絶望なのだろうか。虫に変身した男に恐怖するあまり、絶望した父親の図なのだとしたら、それは小説『変身』の内容をあまり的確に捉えていないような気がする。逆に、小市民的な日常から外部へと突き落とされてしまったサラリーマンの恐怖と絶望を描きたかったのだとすれば、描くのは「真っ暗な部屋」か絶望した男の図か、どちらか一方でよかったのではないか。
 それとも、そんなふうに思うのは、『変身』はグレーゴル・ザムザの視点に寄り添った物語であるという理解の枠組みに囚われすぎているからなのだろうか。そう考えさせられたのは一つには、昨年末にSPAC(静岡県舞台芸術センター)で舞台化された『変身』(演出:小野寺修二)の公演を観たからだ。この劇は基本的には、人間の身体を使って虫の動きを表現するというスティーヴン・バーコフの演出(1969)を踏襲したもののように見えるが、キャストが一人一役に固定されず、たえず複数のグレーゴル・ザムザが舞台に登場する。つまり虫があっちからもこっちからもニョロニョロ這い出してくるせいで、いかにも虫がいるという印象を生理的なレベルで受ける。たえず目移りがするため、主人公の視点の重要性は相対化される。結果として浮かび上がるのは、家族の関係性だ。ここでは、『変身』が「グレーゴル・ザムザの物語」から「家族の物語」へと読み換えられていると言えるだろう。
 そういえば最近、桜壱バーゲンの漫画『変身』(双葉社2009年)を読んだときも、不思議と似たような印象を受けた。これはグレーゴル・ザムザの父親の視点に全力で寄り添った物語だ。いわゆる典型的なエロ親父である父親と、堅物で何を考えているのかよく分からない息子。四六時中、性的な妄想をたくましくするのに忙しい父親が、息子が部屋に引きこもってしまったせいで不満たらたら働きに出た先で味わう悲哀がしつこく描き出される。これもまた、グレーゴル・ザムザの絶望や孤独に焦点化した『変身』の読み方を相対化しようとする企ての一つに相違あるまい。
 そういったことを念頭に置いて、『変身』初版本の表紙イラストをもう一度見直してみると、この絵がまた違ったふうに見えてくる。挿絵画家シュタルケ自身は、これが父親の絵だとは明言しなかった。それは、戦後の実存主義的なカフカ・ブームの流れの中で、この小説をグレーゴル・ザムザの物語として読む以外の読み方が難しくなっていた事情によるのではないだろうか。その流れを一度捨象して眺めるならば、この絵は、家族の物語として『変身』を読む系譜の出発点に位置づけられるかもしれない。


川島隆 (京都大学) 
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2015/07/29
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