トーマス・マン没後60年によせて (M. Chida)[J]   作成日:2015/02/26
 教室いっぱいの新入生を前にIch lerne fleißig Deutsch. Deutsch lerne ich fleißig. Fleißig lerne ich Deutsch.と縦に並べて板書し、発音や語順、動詞の語尾に注意を促す時、「また新学期が巡ってきたなあ」と思う。 そして、Wenn ich fleißiger Deutsch gelernt hätte, hätte ich die Prüfung bestanden.と書いて、接続法というラスボスと対面する頃には、1年近くが経っている。その時点で教室に残っている学生たちは、例文のichとは違って十分fleißigな勇者であるから、ほぼ全員が及第する。このお決まりの儀式を長年繰り返してきた私にとって、fleißigという単語には、『魔の山』の永遠のスープのイメージがある――などと書ければカッコイイのだろうが、正直に言うと、この単語には、毎年同じ例文を使い、成長なく1年を過ごした自分の手垢がこびりついているような気がする。
 ところが先日、この単語が、心からの感謝と賞賛を込めて使われているのを見た。 „An Klaus Jonas, meinen bienenfleißigen Bibliographen.“ 1952年6月、77歳のトーマス・マンが、アメリカ合衆国に別れを告げてヨーロッパに旅立つ直前、見送りに来たKlaus W. Jonas、Ilsedore K. Jonas夫妻の労をねぎらって、自分の写真を手渡す際に書き添えた言葉である。
 マン研究者は世代国籍を問わずbienenfleißigな人が多い。その中でもKlaus W. Jonasはbienenfleißigstという最上級の形容詞がふさわしい人である。昨年、Dirk Heißerer の編集で、Klaus W. Jonas: Drei Generationen Familie Thomas Mannが、Thomas-Mann-Schriftenreiheの第10巻として出版された。1949年にはじまるマンとの交流、1957年にチューリヒのトーマス・マン・アルヒーフ最初の利用者となってからの調査研究、1955年から1997年の間に出された、英語版2冊、独語版3冊の文献目録(そこには1896年から1994年の98年間に出版されたマンに関する研究論文の一覧が収められている)。さらに、彼が所属するピッツバーグ大学と、Helmut Koopmannが所属するアウクスブルク大学の1974年からの交流事業、3才で渡米、35才でグリーンカード取得、41才で市民権取得ののち、1989年に66年ぶりのドイツへの帰郷、所蔵文献のアウクスブルク大学への寄贈等々、この本を見れば、彼の生涯と業績を概観することが出来る。さらに、彼とマン家の人々の間で交わされた書簡とその注釈、マンの孫Frido MannとKoopmannの寄稿文からは、マン家の人々と研究者たちの関係や、マン研究の拠点が、アメリカ(イェール大学)、スイス(チューリヒ)、ドイツ(リューベック、ミュンヘン、デュッセルドルフ、アウクスブルク)に広がりつつ集約されていくプロセスも垣間見ることが出来る。
 JonasはMarcel Reich-Ranicki と同じ1920年生まれである。1890年代生まれのKäte Hamburger (独→瑞典→独)、Ida Herz (独)、Jonas Lesser (墺→英)、Caroline Newton (米)、Hermann J.Weigand (米)、1900年代生まれのBernhard Blume (独→米)、Hans Otto Mayer (独)、Hans Mayer (独→スイス→独)、Peter de Mendelssohn (独→英→独)、1911年生まれのErich Heller (独→英)などが彼の先達である。Jonasと同じ20年代生まれの著名なマン研究者としては、Eckhard Heftrich (独)、Inge Jens (独)、Walter Jens (独)、Herbert Lehnert (米)、Hans Wysling (スイス)の名が挙げられる。彼の後には1930年代生まれのManfred Dierks (独)、Helmut Koopmann (独)、 Peter Pütz (独)、Terence J. Reed (英)、Hans Rudolf Vaget (米)、1940年代生まれのHermann Kurzke (独)、Ruprecht Wimmer (独)、Hans Wißkirchen (独)が続く。こうして書き並べてみると、高齢にもかかわらず現在でも精力的に活躍している研究者が少なくないことに改めて驚かされる (それは日本でも同じである)。だが、その中でもJonasの研究歴は特に長い。彼はFrido Mannに「生まれてこのかた、自分は常に最年少のつもりだったが、いつの間にか最年長になっていた」と語ったという。
 マンに初めて手紙を送ったとき、まだ20代であった彼は、マン研究の土台となるテキストや文献の収集管理に文字通り生涯を捧げ、マンの息子Goloにも協力した。最近も、2004年にHolger R.Stunzと共著でGolo Mann. Leben und Werk. Chronik und Bibliographie (1929-2004) の改訂版、2011年にThomas-Mann-Studienの43巻目、Die Internationalität der Brüder Mann. 100 Jahre Rezeption auf fünf Kontinenten (1907-2008) を出している。後者は文献リストではなく、シンポジウムや学会の概要、発表者と題目を、時系列で並べたもので、101年分をカバーしている。ただし、マン生誕100年にあたる1975年を除き、1990年代前半までの記述は少なめである。ところが1990年代後半から、毎年記述量が激増する。上に挙げた、アメリカとヨーロッパの複数のマン研究の拠点の協力のもと、学会やシンポジウムや記念行事が組織化されたためであろう。その成果はチューリヒのThomas-Mann-Archivが出すThomas Mann Studien (1967-)やリューベックのDeutsche-Thomas-Mann-Gesellschaftが出すThomas Mann Jahrbuch (1988 -)に収録され、Jahrbuch巻末には、出版された主要論文の一覧が掲載されるようになった。 
 マンのテキストに関しては、これまで営々と収集され、大切に保存されていたものが、編集され刊行される時期に入ったといえる。現在刊行中の新しい全集Große Kommentierte Frankfurter Ausgabe(2002-)には、かつては限られた研究者しか見ることができなかった手稿の書き直し部分や、版による異同、詳細な注、主要文献リストが収録されている。
 生前、マンは、Jonasの最初の文献集成Fifty Years of Thomas Mann Studies (1955)を受け取り、自作が「ライプツィヒから東京、ベネズエラ」、「モスクワ、オーストラリア」で研究対象となっていること、またそれをJonasが持ち前のBienenfleißでもって1冊の本にまとめたことを素直に喜んで、Ein Wort hierzuという序言を寄せた。妻Katjaは1972年11月16日付のJonas宛の手紙の中で、「彼(トーマス)自身は自作の後世への影響については実は懐疑的で、これほどの文学的な影響力を亡くなってから持つことになろうとは、夢にも思わなかったでしょう」と書いている。さらにその43年後の現在、マン研究に携わる人々の働きぶりとその膨大な成果を知ったら、マン夫妻はなんと言うだろう。
 マン研究者の国際的なネットワークのもと、組織的に生み出され集められたマン研究は、上記のように着々と目録化されているのであるが、実は大きな宝の山が抜け落ちている。アジア圏におけるマン研究である。Jonasが編集したThomas-Mann-Literatur. Bibliographie der Kritikの1巻目(1896-1955)と2巻目(1956-1975)には、1931年の秋山英夫氏の論文から、1975年の青柳謙二氏の論文まで、『ドイツ文學(学)』(1947-)に掲載されたドイツ語レジュメ付きの論文を中心に、日本語のものも一部は収録されているのだが、Jonasが Koopmannと共に編集した3巻目(1976-1994)に掲載されているのは古市みゆき氏, 小崎順氏、田村和彦氏の欧文の論文にとどまる。序文の中でJonasは、Thomas Mann Jahrbuch創刊号(1988)巻頭のHeftrichとWyslingの「トーマス・マン文献は、過去何十年かの間に、専門家ですら把握しきれないほど膨大な数になってしまった」という言葉を引き、中国、日本、韓国の論文を、その数の多さのゆえに割愛せざるを得なかった、と残念そうに語っている。Thomas Mann Handbuch (1990)を見ると、Dierksが「深層心理学」の章で池田紘一氏の論文を挙げているが、「研究史」の章でKoopmannはアジア圏を完全に度外視している。
 この欠落を日本側から補う偉業として、『ドイツ文学』国際版Bd.4.Heft4.(2004)に掲載された小黒康正氏の労作Thomas Mann in Japan. Rezeption und neuere ForschungとThomas Mann in Japan. Neue Bibliographieがある。1976年から2003年までの日本語の著書・論文リストと、1901年から2003年までの翻訳、さらに1925年からのマン受容史・研究史が、国外の読者にもわかるように明快かつ簡潔にまとめられている。氏のJonasに劣らぬBienenfleißには脱帽するほかない。しかもJonasはBibliographに徹しているが、小黒氏は一流のBibliographであると同時に一流のForscherでもある。小黒氏の紹介文の後を引き継ぐかたちで、下程息氏とEberhard Scheiffele氏の共著 Bemerkungen zur Thomas-Mann-Rezeption in Japan. Am Beispiel literarischer und wissenschaftlicher Publikationen seit dem Zweiten WeltkriegがThomas Mann Jahrbuch Bd.22 (2009)に収録された。小黒論文は、全体に偏りなく目配りを効かせ、下程・Scheiffele論文は、著書限定で個別のテーマを論じ、両者協力して日本のマン研究の多様さと深さを伝えようとしているという印象を受けた。下程・Scheiffele論文から小黒論文、翻訳・文献リストへと逆に辿れば、少なくとも日本にある宝の山のおおよその姿と規模の大きさだけは、欧米の研究者にも見えるようになった。
 小黒論文にも紹介されているが、欧文で書かれた戦前、戦時中のマン研究史としては、『ドイツ文學』24号(1960)のトーマス・マン特集の村田経和氏の論文Thomas Mann in Japan.Eine bibliographische Skizzeがある。1904年から1959年までの翻訳や専門誌掲載論文の統計的な調査結果から、初期短編小説の主人公トニオ・クレーゲルの生き方に共感し憧れる一般読者と、後期長編小説『ファウストゥス博士』、『ヨゼフとその兄弟たち』を好んで論じる研究者、両方が好む『魔の山』、というマン受容の傾向が示されている。戦後しばらくの間、若手研究者の多くが一度はマンをかじる(そして捨てるか、のめりこむ)という時期があったようである。先達の皆様には、当時の思い出を何か書いていただけないかと切に願う次第である。
 Thomas Mann Jahrbuch(1988 -)巻末の主要論文リストには、これまでに上述の小黒論文、下程・Scheiffele論文のほか、住大恭康氏、田村和彦氏、高橋輝暁氏、坂本彩希絵氏の論文が入っている。私などが改めて言うまでもなく、日本のマン研究は、歴史が長く水準も高く、欧米の研究者に新しい視界を開く力を持っている。こちらから日本語という壁を崩すよう心がければ、世界のマン研究はさらに実り多きものとなるだろう。
 かく言う私は、新しい全集の既刊分を早くも持て余し(はたしてコンプリートできるのか? 狭い仕事場のどこに置くのか?)、未読の研究書の山にため息をつき(同じものを2冊買っていたりもする)、先行研究の肝心なものを見落とし、日本語の論文を書くのすら青息吐息である。だが、マンのテキストと向き合うと、必ず何かしら新たなテーマが見つかる。たとえ亀の歩みでも、自分の問題意識を大切にして一歩一歩進むしかない。新しい全集の活字が老眼に優しいのだけが救いである。

千田まや(和歌山大学) 
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