カネッティの贈りもの(H. Suto)[J]   作成日:2014/11/12
 チューリヒ中央図書館一階の小ぎれいなカフェテリアで、わたしはヨハンナさんとお茶を飲もうとしていた。気もそぞろのわたしは財布を忘れ、初対面の彼女に紅茶と「ショコクス」をご馳走してもらうことになった。彼女の名はヨハンナ・カネッティ。今は亡きノーベル文学賞作家の一人娘である。わたしは調査に訪れた町でいきなりエリアス・カネッティ(1905-1994)に借りができてしまった。
 スイスの都市チューリヒ。ゲーテが友人ラヴァーターを訪れ、若きケラーが住み、ビューヒナーが息を引き取り、フリッシュが活動し、ジョイスが眠る場所。そこはカネッティにとって生涯「楽園」でありつづけた。チューリヒ中央駅を降りて駅前広場をぬけると、リマト川東岸には旧市街が広がり、賑わいを見せている。喧騒から少しはなれたところにバロック様式のプレディガー教会が佇む。1887年に火災に見舞われた付属修道院は、再建後チューリヒ中央図書館となった。ここに、カネッティの遺稿、手紙、二万冊におよぶ蔵書が保管されている。没後20年目にあたる2014年、わたしはその遺稿と蔵書の調査に訪れた。
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【写真1】ラヴァーターの住居(右側建物)   
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【写真2】リマト川
 1916年から1921年まで、少年時代の五年間をカネッティはチューリヒですごしている。最初の二年半はオーバーシュトラス北側の丘陵に広がる瀟洒な住宅地、ショイヒツァー通りに母親と弟二人の四人家族で住んだ。1919年からはチューリヒ湖畔のティーフェンブルンネンにある旧女子寄宿学校「ヤルタ邸」で世界中からきた20人ほどの良家の子女に囲まれ、ひとりで寄宿した。家族と離れ、レーミー通りの州立学校に通う日々。文学や歴史を思う存分吸収したのもこの時期である。校内で反ユダヤ主義的な嫌がらせをひとしきり受けたが、チューリヒがカネッティにとって「青春時代の楽園」1) であることに変わりはなかった。
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【写真3】現在のショイヒツァー通り
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【写真4】最初に住んだ68番地
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【写真5】しばらくして斜め前の73番地に移る
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【写真6】旧州立学校、レーミー通り
 イギリスでの亡命時代をへて、彼は再びこの「楽園」に戻る。チューリヒは1970年代から生涯を閉じる1994年までの四半世紀近く、第二の人生を家族とともにすごした場所でもあった。2) クンストハウスの修復技術者であったヘーラと再婚し、愛娘ヨハンナも生まれた。三人家族の住居はクロースバッハ通り88番地にある、邸宅が立ちならぶチューリヒにしては簡素な建物の四階で、書斎の窓からは立派なプラタナスを眺めることができた。ささやかな親子水入らずの生活のかたわら、各地で朗読会を精力的にこなし、『耳証人』、自伝三部作、膨大な断想も生まれ、1981年にはノーベル文学賞を受賞している。
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【写真7】クンストハウス
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【写真8】カネッティの住居とプラタナス(右) クロースバッハ通りにはトラムが走る
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【写真9】金色のプレート(住居正面)
 「あらゆる町のなかでいちばん好きなこの町に、骨を埋められれば」3) という晩年のカネッティの願いを叶えようと、チューリヒの出版社主ダーニエール・ボードマーは本人には内緒で、特別な功労者に無償かつ永久に提供される名誉墓地に関してチューリヒ市に問い合わせた。「死に抵抗する戦い」をしつづけたカネッティと、本人の墓地について話すのは、さぞかし気が重かったにちがいない。ボードマーは切り出すまでに三年を要している。カネッティは、市街地と湖を見おろすようにチューリヒ山の南斜面に横たわるフルンテルン墓地を希望した。墓地の背後に広がる動物園から聞こえてくる動物の声に喜んだという。1992年5月、ジェイムズ・ジョイスの隣にカネッティは自らの墓所を定めた。
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【写真10】カネッティ墓碑
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【写真11】ジョイス墓碑
 彼は自身の遺稿についても整理を始めていた。当初はヘルベルト・G・ゲプフェルトが館長を務めるマールバッハのドイツ文学資料館と契約を交わしていたが、署名の段になって、できればチューリヒがいいと本心を打ち明けた。カネッティが最終的に契約したのはチューリヒ中央図書館である。遺稿と蔵書の引き渡しは1994年5月に完了した。「遺稿と蔵書がチューリヒにあると思うと、わたしは嬉しい」4) と、カネッティはのべている。これまでも中央図書館は、チューリヒにゆかりのある著名人、たとえばゴットフリート・ケラー、コンラート・フェルディナント・マイヤー、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーなどの遺稿を州都の記憶として保管してきており、5) カネッティの二万冊におよぶ個人蔵書も、重複本をのぞかずに引き取った。彼のロンドンの蔵書とチューリヒの蔵書は別々に、閲覧用図書として図書館地下の蔵書部門に保管されている。遺稿資料は、A3版の明るいグレーの150箱に時代と作品別に分類された。そのうちの約20箱には手紙や日記がおさめられ、生存する関係者への配慮から、没後30年にあたる2024年の夏まで非公開のままだ。その他の箱はすべて、没後8年にあたる2002年の夏以来閲覧できる。

 厖大な遺稿と蔵書のなかで、今回わたしがチューリヒ中央図書館で手にしたのは、主に広島の原爆に関する1940年代と『耳証人』に関する1970年代の資料だった。手稿部門の閲覧室は施錠されており、ブザーを押して中にいる司書に入れてもらう。原則的に筆記用具しか持ちこめない。入ると正面は一面の明かり窓で、旧市街が見渡せる。受付で、事前に閲覧予約をしておいたカネッティの遺稿を一箱単位で受けとり、使いこまれた木製の長机に向かう。司書が箱からとり出したのはクリーム色の紙のフォルダーで、表紙にカネッティの直筆でタイトルと執筆時期が書かれており、遺稿がひとまとまりになって挟まっている。
 カネッティは妻や娘にタイプさせることはあったが、原稿は手書きを常とした。遺稿をみると、語彙の変更や推敲の痕跡も確認できるし、あとから本人が書きたしたコメントや、色鉛筆でつけた出版の可否を示す数種類の記号も余白にみられる。はじめて目にする断想は数知れず、そのなかからなじみのある断想が時おり見つかり、発表された断想がいかに選りすぐりのものであったかがわかる。わたしは、遺稿をじかに手にとることができる喜びと同時に、その紙面に言葉を書きつけたカネッティを思って緊張する。縦にのびる彼独特の繊細な筆致も、勢いがつくとにわかに判読できなくなってしまう。そのうえに速記術を用いられたら歯が立たない。遺稿を前に四苦八苦していると、背後で司書のガブリエレ・ヴォールゲムートさんの声がした。「フラウ・ストウ、あなたに紹介したい方がいます」。ふり向いて立ちあがると、ヴォールゲムートさんの右側で、わたしと同じ年頃の、金髪の小柄な女性がめがね越しににっこりとほほ笑んだ。「ヨハンナ・カネッティさんです」。

 ヴォールゲムートさんは好意から、手稿部門にきていたヨハンナさんとわたしを引き合わせてくれたのだ。ヨハンナさんは父親の遺稿を管理していて、必要に応じて手稿部門を訪れる。彼女の手を握って知り合えて光栄ですと伝えながら、まったく予想外の、それも願ってもない邂逅に、わたしは思いがあふれて泣けてしまった。「この機会にヨハンナさんに何か聞きたいことがあれば」とヴォールゲムートさんが促してくれた。そこでヨハンナさんに、遺稿を読むのに難儀していること、そして、もしよければカネッティ自身のことについてもたずねたいと伝えると、「それならお茶でも飲みながら伺いましょう」と快諾してくれた。

 翌日、お茶をしながらヨハンナさんはわたしの問いに答えてくれた。出版に際して、カネッティが原稿に数種類の記号を目印としてつけていたこと、出版された断想は、書いた年はそのままだが、掲載の順番を時系列ではなく内容によってかえていること。草稿では「わたし」と書いていて発表時に「彼」に変えるなど、人称で戯れることがよくあったが、その理由はわからないそうだ。また、2002年の夏以来閲覧可能な遺稿であっても、日記と切り離せない極めて個人的な内容のものに関しては、ヨハンナさんの判断で非公開にしている。
 遺稿についていくつか質問をしたのち、今度は娘からみたカネッティの父親像についてたずねた。愛情深く忍耐強い人、モラルを非常に重んじた父親だったという。家ではいつも書斎でひとり机に向かい、書いたり読んだりしていた―父親が家にいる日常が、彼女には当たり前だった。そして、カネッティは豊かな世界が頭の中にあればそれで十分だったようだ。本で読み、興味をもっていた場所、たとえば中国やスペインには、それゆえに行かなかった印象があるという。一つの宗教―ユダヤ教―に自らを限定するような信仰もないため、イスラエルにも行かなかった。父には「コスモポリタンという言葉がぴったりです」と、ヨハンナさんは言った。
 最後に、ヨハンナさんの思い出の場所について聞いてみた。家族ですごしたクロースバッハ通り88番地の家。そして何にも増して好きなのは、夏ごとに訪れたエンガディーン6) 。家族そろってよくハイキングをしたそうだ。

 マンチェスターで父親が急逝し、母親と弟二人とでウィーンへ向かう途上でエリアス・カネッティが初めてチューリヒに立ち寄ったのは、太陽が光り輝く1913年8月17日のことだった。その日彼は母親と二人きりでリーギーブリック山のケーブルカーに乗り、目前に広がるチューリヒの町並みを一望している。以来、この町が彼の心から離れることは二度となかった。7) カネッティがフルンテルンに埋葬されたのは滝のような雨の降る1994年8月17日、それからちょうど81年後のことである。

須藤温子(日本大学)


1) Elias Canetti: Die gerettete Zunge. Geschichte einer Jugend. München (Hanser) 1977/1994, S. 95.
2) エリアス・カネッティがロンドンからチューリヒに公的に住所を移したのは1988年、妻ヘーラ・カネッティの死後のことであった。Vgl. Helmut Göbel: Elias Canetti. Hamburg (Rowohlt) 2005, S. 125.
3) Sven Hanuschek: Elias Canetti. Biographie. München (Hanser) 2005, S. 660. およびスヴェン・ハヌシェク(北島玲子/黒田晴之/宍戸節太郎/須藤温子/古矢晋一訳)『エリアス・カネッティ 伝記』下巻(SUP上智大学出版)2013年、442頁。
4) A. a. O., S. 683. および『エリアス・カネッティ 伝記』下巻、473頁。なお、本文の太字はカネッティによって強調されている部分である。
5) Vgl. Reiner Diederichs: Wie der Canetti-Nachlass in die Zentralbibliothek Zürich kam. In: Canetti in Zürich. Erinnerungen und Gespräche. Hrsg. von Werner Morlang. München (Nagel & Kimche) 2005, S. 215-225, hier S. 215.
6) スイス、グラウビュンデン州にあるイン川の渓谷地帯。
7) Vgl. Canetti: Die gerettete Zunge. S. 94f. 
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