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50の坂を越して、8月の砲声を遥かに聞く ――マックス・ヴェーバー生誕150年と第一次世界大戦開戦100年に寄せて(N. Yamamuro)[J]

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文化コラム
  投稿日: 2014-11-11 13:28
山室信高(一橋大学)

 1914年4月12日、マックス・ヴェーバーは旅先のアスコナ(スイス南部ティチーノ州)から、70歳の誕生日を迎える母親に長文の手紙を書き送った。自分自身も間もなく(4月21日)50歳の節目を迎えるにあたって、これまでの人生を母親との関係を軸に振り返り、母にかけた数々の苦労にいたわりの言葉をかけて、こう結んでいる。「ここはすべてが非常に緑豊かで花盛りです。なんで僕は南国の春がこんなに好きなのか、以前マリアンネ[妻]に書いたことがあります。ここの春は野と森を駆けずり回り、あらゆるものを狂喜乱舞させ、奔流の堰を切り、あらゆる衝動を新たに目覚めさせるやんちゃ坊主(der tolle Knabe)ではありません。それは厳格な形式を備えて様式化された風景のなかにやってきては、そこの新緑と花々にもたらすものは、まるで何者かが成熟した女性の頭にふんわりとした冠を被せるような具合です。それはまた――僕もそうであるように――半世紀を背に負う人間、あるいは母さんのようにもうちょっと多くの歳月[…]を背に負う人間が心のうちに持つことができる春なのです。それをいつも心に持てることを思って、大切な母さんに僕の心の底から力強い親愛の情をこめて祝福の言葉を贈ります。」南国の春の風情に寄せた、ある種の老境の自覚が読みとれようか。しかしその数ヶ月後、いわば遅れ馳せに、あの「やんちゃ坊主」がドイツとわが身を襲うことになるとは、この時ヴェーバーはまるで予想していなかった。
     **写真右:ハイデルベルク大学マックス・ヴェーバー社会学研究科の図書館にあるヴェーバーの胸像(レプリカ)
 1914年8月1日、ドイツがロシアに宣戦布告、全土に総動員令が下ると、翌2日にヴェーバーはすぐさま予備役中尉としてハイデルベルクの駐屯地司令部に志願し、野戦病院委員会に加入して、病院の設立・管理と院内の軍規の取り締まりに当たることになる。日に13時間も働き、42もの病院を司り、大尉にも昇進し、そうして一年余りにわたって続けたこの後方勤務はしかしヴェーバーにとってはやむを得ない代替措置でしかなく、できれば兵士として前線に出征したいと思っていた。その悔しさを彼はいくつもの手紙に記している。「行軍することが私には残念ながらかなわないし、それゆえ前線では使いものにならない――このことはやはり非常につらいことだ。というのも戦果などどうでもよく、この戦争は偉大ですばらしいのだから。」(8月28日付)「私の弟たちはみな[…]敵前にいます。私もそこに行けたなら。というのも戦果はどうあろうとも、この戦争は偉大ですばらしいからです。」(同日付)「偉大ですばらしい(groß und wunderbar)」――開戦時の国民的熱狂にヴェーバーも浮かされたことは確かだ。だがそれはほんの一時の気の迷いだったのだろうか。開戦から二ヶ月以上を経て、当初の短期決戦の見込みが揺らぎだし、軍部や外交の不手際が明らかになり、身近な人たちの戦死の報が伝えられてもなお、「この戦争はどんなに忌まわしいところがあろうとやはり偉大ですばらしい、それは体験するに値しますし、戦場に出ることはなおいっそうやりがいがあるでしょうに。しかし残念ながら戦場では私は使いものになりません云々」と同僚のフェルディナント・テニエスに書いている。

 1914年8月26日、末の妹リリーの夫、ヘルマン・シェーファーが東部戦線のタンネンベルク近傍で戦死する。その報に接して、ヴェーバーは妹に弔文をしたためる(9月8日付)。「彼は君といっしょにもっと生きたかったにちがいない。けれども僕らはみんないつかは死なねばならないのだから、この戦死は彼としてはできれば免れたかったものではない。というのもこの戦争は――結末はどうあれ――予想をはるかに超えて実に偉大ですばらしいのだから。兵士たちの戦功ではなく、そこ[ヘルマンの戦死]に見てとれた、そして日々野戦病院で目にしている彼らの『精神』はあらゆる予想を上回るものだ。そしてまた、少なくともここでは、総じて住民たちの精神もそうだ。一度たりとも僕はこんなことを望みはしなかっただろう。そして何が起ころうとも、このことは忘れられることはないだろう。この戦場で斃れたことはまた美しく豊かな生の賞賛に値する。このようには考えることだろう。それからもちろん彼は君と子どもたちのことを考えるだろう[…]。」義弟の死を悼むはずの手紙でありながら、ヴェーバーは彼が死んだことを生きることよりも有意に捉えている。この戦争が「偉大ですばらしい」のはそこで死ぬことができるからだと言わんばかりである。

 1914年のクリスマス、ヴェーバーは野戦病院に入院中の兵士たちの前でスピーチを行った。その様子をマリアンネが伝えている。「彼が高いクリスマスツリーの前に立ち、自分に向けられたまなざしを見やったとき、彼の抑えた物腰には内心の感動がかすかに現れていた。彼ら兵士たちがもう一度戦火の中に赴かねばならないことを彼は知っていた。彼の声はオルガンの響きがした。彼は戦場での死の偉大さについてこう語った。日常生活では死は不可解なものとして、何の意味も見てとれない理不尽な運命としてわれわれのもとを訪れる。われわれは死をとにかく受け容れるより他はない。しかし諸君はみな、運命が自己を見舞うとき、何ゆえに、何のために死ぬのか知っている。戦地にある者は未来の種子である。われわれの民族の自由と名誉のための戦死(Heldentod)は子々孫々にまで影響を与える、最高度の達成である。そのように死ぬこと以上に偉大な栄誉、威厳ある最後はない。そのような死は多くの者たちに生が拒んでしまった完成を贈るのである。」クリスマスの厳かでかつ和やかな雰囲気に触発されたのかもしれないが、しかしこれも一過性の発言ではない。野戦病院の勤務を辞して、久しぶりに宗教社会学の研究を再開したヴェーバーは『中間考察』という救済宗教と世俗の諸領域との緊張相剋を描出する論考にこう書き留めている。「[…]戦争は戦士(Krieger)自身にその具体的な意味合いにおいて独自なものを与えることができる。すなわち死の意味とその聖化という戦士だけに固有な感情である。[…]ただ単に人間に共通の運命であり、それ以上の何ものでもない死、なぜまさに自分なのか、なぜまた今なのかわからないままに、誰しもが襲われる[…]運命である死――このように単に不可避的な死と戦場での死が区別されるのは、そこでは、そしてその大量さにおいてはそこにおいてのみ、一人一人が何かの『ために』死ぬということを知っていると信じることができる、という点にある。」
     **写真右:ネッカー川沿いのヴェーバー邸(中央の白い家)

 前置きが長くなってしまったが、マックス・ヴェーバー生誕150年と第一次世界大戦開戦100年のめぐり合わせを捉えて、1914年のヴェーバーの生活と思想をスケッチしてみた次第である。そこであらためて思うのはこの100年の時の隔たりである。ヴェーバーの好戦的なナショナリストぶりを強調しようというのではない。それに対してはいくらでも弁明が可能である。「1914年の理念」を吹聴する文士連を容赦なく批判する「リアリスト」ヴェーバーも知られていれば、ベルギー併合を唱える強硬な「勝利の講和」論に断固反対する「協調の講和」論者ヴェーバーもよく知られるところである。しかしそれにしてもヴェーバーの戦争そのものに対するナイーヴな態度は、二度の世界大戦を通じて前線も銃後もない全面戦争を経験し、また冷戦下にあって人類を無差別に滅ぼしうる核戦争を想定し、さらに9・11以後は平時と戦時の区別すらないテロの脅威に曝されている今日にあって、いかにも遠いと感じざるをえない。ヴェーバーもやはり時代に制約された存在ということだろうか。


 マックス・ヴェーバー生誕150年を記念して、ドイツではこの春から夏にかけてシンポジウム、連続講演会、研究会合等がヴェーバーゆかりのハイデルベルク、エアフルト、ベルリン、ミュンヘンで相次いで開催された。報道・出版の方面では、主要紙の学芸欄には少なからず記事が掲載され、またヴェーバーその人への関心から社会学者ディルク・ケスラーと新聞編集者ユルゲン・カウベ各氏による本格的な伝記2冊、メッツラー社から『マックス・ヴェーバー・ハンドブック』、そしてヴェーバーの著作を扱うジーベック社からは『マックス・ヴェーバー全集』の『経済と社会』の研究版全6巻が特価で出されるなど、こちらも盛況といっていい。もう一つおもしろいところでは、連邦財務省からヴェーバーの記念切手が発行されるほどだった(現財務大臣ヴォルフガング・ショイブレがヴェーバーの愛読者である由)。こうした状況を見渡してみて、この種の記念事業の常として古典的大家(Klassiker)としてのヴェーバー像の確定と顕揚という面は明らかだが、その一方でヴェーバーの今日的意義という点となると必ずしも分明でないように思われる。ドイツ社会科学界の威信を懸けた『マックス・ヴェーバー全集』が完結間近となり、世界規模でのヴェーバー受容が今なお進行中である現在にあって、ヴェーバーのアクチュアリティーがいま一つはっきりしないのはどうしたわけだろうか。   
     **写真右:ヴェーバー生誕150年の記念切手

 これに関して興味深かったのは、ミュンヘンのバイエルン科学アカデミーで開かれた講演シリーズの最終回、「合理化のプロセスにおける中間考察」と題された対談である。対談者は、ハイデルベルク大学名誉教授で『マックス・ヴェーバー全集』の編集主幹の一人であるM・ライナー・レプシウスと先のヴェーバーの伝記の著者で『フランクフルター・アルゲマイネ新聞』の学芸欄編集長ユルゲン・カウベの両氏である(ARDの番組 „Denkzeit“ で放映され、ネットでも視聴できる。http://www.br.de/mediathek/video/sendungen/denkzeit/denkzeit-126.html )。そこでレプシウスは「いくぶん誇張かもしれないが」と断わりながら、ヴェーバーを「ドイツ連邦共和国の精神的な祖」として賞揚した。運命としての資本主義を引き受けながらも、ナショナリズムに走らずに、いかにデモクラシーを実現するかという連邦共和国が当面し続けてきた課題にヴェーバーは先駆的に取り組んでいたという。西側へのオリエンテーション、世界権力としてよりも世界市場としての発展、労働者層を統合した社会政策の推進など、ヴェーバーの一連の基本的立場はその後の連邦共和国の自己了解の基礎を成している。ゆえにわれわれはドイツの歴史に対して疚しさを覚えることなくヴェーバーを連邦共和国のアイデンティティの拠り所とすることができる、とレプシウスは言う。これに対してカウベは「ぞんざいな言い方をするならば」ヴェーバーは連邦共和国にとって一種の「トーテムの動物」のような存在で、「真の」ヴェーバーをめぐって一方でマルクスと並べたり、他方でカール・シュミットと結びつけたりするのには、どこか占いや呪いじみたところがあるのではないかと述べる。そうでもない限り、ルターに匹敵するほどのヴェーバーの学問上だけでなく人格的にも広汎で深甚な影響力は説明しがたいとする――今日その影響力にはやや陰りが見えるにしても。次にレプシウスはハイデルベルク大学の社会学者、そして『マックス・ヴェーバー全集』の編集に長く携わってきた者として、ヴェーバーの尽きせぬ「分析的ポテンシャル」を強調する。その一例は、ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で模範を示したように、社会科学と文化科学の架橋を図ったことにあり、彼の概念枠組にはこれら――現代ではほぼ没交渉な――二つの学問領域を横断する志向性が内在している。その際レプシウスはハイデルベルクを拠点に進められている「ヴェーバー・パラダイム」と呼ばれる一般理論の試みに言及する。伝記作者カウベはこうしたヴェーバーの一般理論化に懐疑的である。というのもヴェーバーの諸概念には抜きがたく彼の時代の刻印が押されており、もっと言えば彼の情熱の痕跡がしるされているからで、それらを現代に適用するには多少なりとも無理が生ずるはずだからである。「カリスマ」は言わずもがな、「個人」ないし「人格」という概念一つとっても、ヴェーバーはそこに人格的に統一のとれた自由な個人という市民的理想を投影している(その理想が失われつつあることを自覚しながらではあるが)。この対談を聞いていて、私にはどちらの言い分にも納得するところがあった。一般理論としてではないが、社会科学と人文科学の間隙を縫うような仕事を志向している私にとってレプシウスの発言には意を強くしたし、またカウベがヴェーバーの人生と学問を特徴づける情熱のありように当時と今時との埋めがたい懸隔を見出すとき、その情熱に惹かれもする私は思わずため息が出そうになった。「中間考察」というタイトルにふさわしく、ヴェーバーの今日性は昨日と明日の間を揺れ動いているような気がした。
  
     **写真右:『マックス・ヴェーバー全集』の編集所が入っているバイエルン科学アカデミー(ミュンヘン)

 もう一度1914年のヴェーバーに戻ろう。50歳になってそれなりに落ち着いた初老の時を迎えるかに見えたヴェーバーだったが、突如遅れ馳せに「春の目覚め」に見舞われることになる。野戦病院で日々の務めに仕えては遠くの戦場に思いを馳せ、生の高揚とともに死を身近に感じる。遺族に向かって、また傷痍兵の前で、戦死の意味を切々と語るヴェーバーにはたしかにあの独特な情熱が息衝いている。この情熱をそのままわがものとすることはその後の歴史の経験が阻むのだが、しかしこの情熱がなければ『中間考察』をはじめ戦中から戦後のヴェーバーの思想的・学問的達成もなかったことを思うと、思いは複雑である。ところで先のヴェーバーの記念切手に刷られてある „Der Einfall ersetzt nicht die Arbeit“(「閃きは労苦の代わりとはならない」)という言葉は第一次大戦中の講演『職業としての学問』からの引用で、いかにもヴェーバーらしい禁欲的職業人の相貌を伝えていそうだが、実はその続きにはこうある。「そして労苦は労苦で閃きにとって代わったり、閃きを力ずくで手に入れたりすることはできないし、情熱にもそれはできない。労苦と情熱の二つ――何よりもこの二つが相俟ってはじめて閃きを呼び寄せるのである。」生誕150年、そして来たる2020年には没後100年を迎えることになるヴェーバーの今日性が奈辺にあるか、いま私には確答できないが、その間にヴェーバーの「労苦と情熱」の行方、彼のパトスのこもった仕事の果ての「閃き」をしかと見届けたいという思いに駆られる。「というのも人間が人間である限り、情熱をもってできないことは何の価値もないからである。」


付記 このコラムを執筆するにあたり、ハイデルベルク大学名誉教授のヴォルフガング・シュルフター氏、秘書のハネローネ・シャルッパ氏、バイエルン科学アカデミーのエーディト・ハンケ氏から多くの教示と資料をご提供いただいた。記して感謝申し上げる。なお、つい先頃(10月2日)上述のM・ライナー・レプシウス氏が急逝された。心よりご冥福をお祈りする。



山室信高 (一橋大学)
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