故ハルン・ファロキ監督を偲んで (H. Arai)[J]   作成日:2014/11/10
 今年の7月30日ハルン・ファロキ(Harun Farocki)が亡くなった。

 わたしはファロキ監督に会ったことが何度かある。
 2005年春からベルリン自由大学映画学科に留学したわたしは、渡独してまもなく映画専門の書店で、著名な映画学者が編纂したファロキ作品に関する論集に目をひかれた。ドイツ映画を学んでいたが、それまで目にしたことのない名前。それなのに大物たちに論じられている。きっかけは俗っぽい好奇心であった。論集を手に入れて、一通り目を通してみたものの、彼の作品を見る機会はみつからない。当時はまだいまのように彼の作品のDVDは一般には流通しておらず、いつになったら映画館で上映されるのかもわからなかった。
 簡単に見られないとなると、余計に見たくなる。
 インターネットで検索しているうちに、ファロキ自身の事務所で直接作品を販売していることがわかった。ベルリンで映画を学んでいるこちらの素性と購入希望の旨を記したメールを送ると、事務所の管理人からすぐに返信があった。学生なのだから購入する必要はないだろう、一度電話連絡して欲しい。そのようなことがそこには簡潔に書かれていた。電話連絡するのか…、としばらくためらっていたが、ずうずうしくも返信のあった翌日には相手のいうままに電話をかけた。
 彼の事務所兼自宅が、偶然わたしのアパートから数分のところということもあり、トントン拍子で、事務所に伺って直接話をすることになった。とにかく手元にある論集の知識を頭に詰めこみ、数日後事務所を訪ねた。アパートの一階部分に、リモアのスーツケースや書類などが雑然と置かれた、どうみても物置にしかみえない事務所があり、その上階に自宅はあった。
 管理人は女性で、ファロキ監督と一緒に住んでいるようにも感じられたが、メールのやり取りからわかる限り、別姓であった。見たことのない映画への興味を伝えるのはむつかしかった。論集の感想と、そこから理解したファロキ監督の独特のドキュメンタリー的手法の魅力を、自分なりにがむしゃらに伝えた。幸い感心してもらえたのか、あなたの見たい作品をダビングしてあげると、彼女は答えた。
 その会話の間、ファロキ監督は隣室で機材を前にずっと作業をしていたが、帰り際に簡単に挨拶することができた。気になって仕方がなかったが、同居する二人の個人的な関係について聞くことができるほど、わたしは大胆にはなれなかった(この文章を書くにあたり、事務所のホームページを確認したところ、どうも公私を共にするパートナーであったことは間違いがなさそうだ)。
 それからさらに数日後、ダビングされたビデオテープを彼自身の手から受け取ることができた。またそのとき2004年から客員教授をつとめていたウィーン造形美術アカデミーのゼミへの誘いを受けた(2006年から2011年からは教授をつとめた)。

 ハルン・ファロキの活動はいわゆるドキュメンタリー映像作家の枠にはおさまらない。1974年から1984年までは「フィルムクリティーク」誌の記者兼編集者。またウィーン造形美術アカデミーで教鞭をとる以前、1993年から1999年まではカリフォルニア大学バークレー校の客員教授でもあった。その作風と経歴はマルチなうえにとても知的だ。
 彼の創作の出発点は「ベトナム戦争」にある。1944年、当時まだドイツ領であったチェコスロバキア西部の町ノビー・イーチンに生まれたファロキは、創設されたばかりのベルリン・ドイツテレビ・映画アカデミー(DFFB)に学んだ。アカデミーに入学した1968年、世界は学生運動の花盛りであった。ファロキらアカデミーの学生たちもまた、既存の社会秩序や「帝国戦争」への異議申し立てを、自分たちの活動のモチベーションにしていた。こうしたカウンターカルチャー全盛期に制作された『消せない焔Nicht löschbares Feuer』(1969年)のなかにすでに、生涯を通じてさまざまな視点から考察される「見ること」の問題があらわれている。
 ファロキ自身がニュースキャスターのようにカメラに向かって机に座り、次のように語る。「どのようにすればナパームの効力とその傷をあなたがたに見せることができるだろうか。もしナパームによる傷の映像を見せれば、あなたがたは目を閉じてしまうだろう。まずはその映像、そしてその記憶、その現実そしてそのコンテクストに目を閉ざしてしまうだろう」。それから「われわれはあなたがたに、ナパームの威力についての弱々しいイメージを見せることだけはできる」と述べると、彼は自分自身の腕に火のついたタバコを押し付ける。さらにタバコの火が400度であるのに対して、ナパーム弾の焔は3000度であるとナレーションが入る。
 そこで彼は、マス・メディアによって、抽象的、もしくは他人事のようにしか伝達されない爆弾の熱を腕に押し付けられるタバコの火によって置き換え、どうにか「こちら側」の出来事として伝えようとした。
 わたしたちは得てしてマス・メディアを通して流布した映像、とくに報道の映像を「現実」として理解する。だがファロキは、映像をそのまま見るだけではわからない、その背後に隠れた問題を視覚化する。つまりベトナム報道が伝えるベトナム人たちの惨劇の現状と、その映像を遠くのヨーロッパ世界で、対岸の火事のように、消費することとの関係。視点を変えれば、わたしたちはどのようにして映像を使って、そこに映されている現実を共有できるのかという倫理的な問い。
 こうした「見ること」と戦争の問題は『なにかが見えるようになるEtwas wird sichtbar』(1982年)や『世界の映像と戦争の銘Bilder der Welt und Inschrift des Krieges』(1988年)、『アイ/マシーンAuge/Maschine』3部作(2001-2003年)などへと受け継がれる。それらの作品では、戦争と「見ること」の問題はわたしたちの産業社会に偏在している視覚的装置との関わりのなかでさらに批判的に考察される。
 一例をあげると『世界の映像と戦争の銘』で、1944年にアメリカ軍が空撮したドイツ軍の施設の写真が取り上げられる。実はその写真には、意図せず、アウシュヴィッツが写り込んでいた。だが1977年になるまでそのことに気づく者はいなかった。軍事戦略的な分析をする者たちにとって、アウシュヴィッツは関心事ではなかったからだ。観察者は対象のなかに自分の見たいものしか見ない。つまり「見ること」はすでに「どう見るか」を含んでいる。
 代表作はおもに戦争を中心的なテーマにしているが、コマーシャル撮影(『静物Stilleben』1997年)や監視(『わたしは囚人を見たように思ったIch glaubte Gefangene zu sehen』2000年)をテーマにした作品を制作してもいる。いずれにせよファロキの創作は一貫して、ファンド・フッテージと言われる既存の映像もしくは記録写真を再利用しながら、「見ること」とはなにかを検証する作業である。

 ウィーン造形美術アカデミーのファロキゼミには一度だけお邪魔した。(どのようにカリキュラムが運営されていたのか正確にはわからないが、そのゼミは一週間まとめておこなわれていた。)
 アパートのような古びた建物の、使い古されたソファーや椅子が乱雑に置かれた薄暗い一室が教室であった。白い壁をスクリーン代わりに映像を映し、参加者たちが議論をおこなった。とくにオリバー・ストーン監督の映画『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(1994年)を扱ったときのことが、強く記憶に残っている。(彼自身はその作品を選んだ理由を説明してはいなかったが、もしかするとベトナム戦争の映画で知られる社会派のストーン監督に対して、なんらかの共感があったのかもしれない)。ファロキ監督は冒頭の、主人公の連続殺人犯が荒野のなかで馬に乗った保安官に追われる数分のシーンを何度となく繰り返し、参加者の意見をもとに、そのつど違う角度から観察した。わたしたちはカット割りや音楽と編集の関係、映像のリズムなどをそのつど感じとった。上映前にあるテーマを設定したうえで参加者が鑑賞、教師が解説するのではない。ひとつひとつの映像と向き合って、それぞれが自分なりに考え、話し合った。

 ファロキ監督の印象は一言でいってクール。見かけは大柄で「イカツく」、オシャレでシャイ。余計なおしゃべりをしないとてもシャープな語り口であった。にもかかわらず、そのなかになんとなくあたたかさが感じられた。男女を問わず、彼に「ホレて」しまうひとはきっと多かっただろう。
 監督自身に一対一でじっくりお話をうかがう機会は残念ながらなかったが、彼との出会いは、わたしのドイツ留学の最大の成果である。彼の作品を見、それについての知識を得ることができたのだ。だが知識はあくまで知識でしかない。彼の映像に取り組む姿勢、そして、映像に関わるすべての人々にやさしく接する開かれた生き方にじかに触れられた。なによりもそのことを大切にしたい。わたしもそんなふうに生きられたらいい。


荒井 泰(早稲田大学非常勤講師) 
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