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トーマス・マン研究会の人々(S. Sakamoto)[J]

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文学コラム
  投稿日: 2014-10-14 10:14
坂本彩希絵(長崎外国語大学)
「九州トーマス・マン研究会」は2014年1月に第100回を迎えた。会の発足は平成元年。以来年に4回ほどのペースで26年続いている。会場は当番制で、現在では九州大学箱崎キャンパス、同伊都キャンパス、西南学院大学、福岡大学、2周に1回長崎外国語大学で催される。週末の昼下がりに学生のいない静まり返った大学の一室で、論文発表のほか、国内外の重要文献の紹介・批評や、若手会員による学位論文の中間発表などが行われる。また、近年では会員の近況報告も兼ねて、トーマス・マン以外の作家や思想家に関する発表が行なわれることもある。その場合も、リルケ、カフカ、ユンガー兄弟、ブレヒト、バッハマン、バッハオーフェン、カスナー、ボイムラー、ケレーニイ、フェヒナーなど、トーマス・マンに影響を与えた思想家や、同じ時代を生きた作家が扱われることが多い。若手会員が真正面からマン作品を研究する一方で、重鎮は、トーマス・マンが生き、そしてその作品が育まれた土壌を掘り下げることによって、研究会に奥行きを与える、というのが近年の傾向だと言える。つい先日行なわれた第102回研究会でも、第1発表が「『業績の倫理家』トーマス・ブッデンブロークの没落」、第2発表が「エッセイの射程――ルードルフ・カスナー『アベ・ガリアーニ』をめぐって――」であった。
 会員紹介。要職にありながら、ほぼ2回に1回のペースで研究報告をされるK・F先生、ご自身の研究もさることながら、他の会員の研究を的確に分析し、進むべき道を示されるY・O先生、マン研究と平行して、環境文学にも造詣が深く、人間と自然の共生を切々と論じられるK・N先生、音楽に通暁され、独特のセンスで作品を斬るY・A先生、黙然端座されているかと思えば、議論の終盤に一転、鋭い眼光で場をさらう問いを投げかけられるM・S先生。そして一昨年、それまで激務という名の魔法の山に、まさに7年閉じ込められていたK・I先生とM・S先生が帰還された。以上の「ゴールドメンバー」に加えて、不定期ではあるが遠方より参加される方が数名。私はといえば、ほとんど永遠のハンス・カストルプである。修士課程の学生として末席に加えさせていただいてから9年が経ったが、未だにセテムブリーニとナフタの間を右往左往している気がしてならない。もっとも、あの名高い論争家たちとは違って、先生方は皆穏やかだ。それとも私の知らない17年の間には、決闘めいた一齣もあったのか。そのような思い出について、耳にしたことがないではないが、いずれにせよ、今の研究会の雰囲気からは想像できない。最近では、九州大学の独文の院生が新たに入会し、名簿の上では私は最若年ではなくなった。しかし、彼は留学に行ってしまったし、また本質的には私はいまなお研究会の「厄介娘」である。
 記念すべき第100回研究会では、会の頭領であるK・I先生の記念講演会が催され、『魔の山』の第1章から第4章における錬金術的物語術についての確信が示された。この講演会は盛況で、首都圏および関西で活躍中の九大独文OB、会場となった福岡大学の先生方や、同じく福岡大学の名誉教授M・I先生も見えられた。その日の夕方、いつもの数倍賑やかな懇親会で、宴もたけなわになった頃、80余歳におなりのM・I先生が、「ずっと気になっていたんだけどね」と、記念講演に関連しておそらくは極めて核心的なことをのんびりと口にされた。詳しい内容はここでは秘すが、この小柄なおじいさまの目が、かなり聞こし召された後であったにも拘らず、その瞬間ピカリと光ったのを見て、私は畏怖の念を掻き立てられた。M・I先生は研究会の会員ではないが、この出来事は私の中でトーマス・マン研究会の性格と奇妙な結びつきを持ったのである。
 トーマス・マン研究会は「ずっと気になって」いる人々の集いなのだ。トーマス・マンの作品への尽きせぬ関心が、四半世紀もの間会を持続させている。しかも言わずもがなであるが、トーマス・マン研究自体に既に100年に及ぶ歴史がある。私たちの持つ関心は、100年来の先行研究との対話でもあるのだから、その「ずっと」たるや、ある意味1世紀間の持続を意味することになる。(もちろん聖書解釈の歴史と比べれば、吹けば飛ぶような歳月だが、それでも100年は短くはない。) 変化が未曾有の速度で押し寄せる現代にあって、結論や解決をすぐには求めず、また、他人が出した結論にやすやすと納得しないという知的態度は、極めて貴重であるし、何らかの救いであるとも思う。もしかすると、私たちも「霹靂」に撃たれる日が来るかもしれない。――経済効果の上がらない研究をする方には辞めていただきます。――それで? 結論は? 対策は?―― しかし、そのような日が来ても、戦場の混乱の中で歌を歌ったハンス・カストルプのように、私たちは「ずっと気になって」いる事柄について「呆然と口ずさむ」のではないだろうか。

                              *   *   *

 現代は短文の時代である。1つの文は45~80字程度、論理はできるかぎり明快に、重複文は避けること、1段落2~4分程度、スライドの場合、文章は6行まで、1行あたり18字が限度、複数行にまたがらないこと。―― 初年次教育や文章表現の科目では、私もこのようなルールを教えている。それが現代の職業人生で役立つ汎用的な形式であるとなれば、教えるのもまた仕事であろう。講義でも可能な限り簡潔な言葉で語り、授業以外の時間でも学生とはそういう具合に会話をする。そして夜、帰宅してようやく『魔の山』を開く。すると、そこには何と複雑で、何と長大な文章が現われることか。

 ここで物語ろうとするハンス・カストルプの話――これはハンス・カストルプのためにするのではなくて(やがて読者もおわかりになるであろうが、彼は人好きはするが単純な青年にすぎない)、ごく話し甲斐のありそうな話そのもののためにするのである(もっとも、これが彼の話であること、そして誰にでもそれぞれの人なりの面白い話がもちあがるわけのものではないということ、これはやはりハンス・カストルプのためにいっておかなければなるまい)。(『魔の山』高橋義孝訳、新潮社、上巻、冒頭より)

このあまりの違いに私はしばし呆然とする。トーマス・マンの作品からの引用が、1枚のスライドに程よく収まることなどほとんどない。何より、1つの事象の説明が対立や補足、譲歩などの複雑な論理構造によってなされる文章を、いったいどれだけの現代人が受け入れるだろう。学生たちは2ページ目をめくる気になってくれるだろうか?―― 芳しい答えは正直あまり期待できない。しかし、いくら時代の要請とはいっても、そしてその要請に確かに理があるといっても、だからといって、複雑に表現する必要がまったくなくなったわけではない。「ハンス・カストルプの話」はただ話し甲斐があるのではなく、主人公自身は特筆すべき人間ではないにも拘らず話し甲斐があるのである。ハンス・カストルプはできるかぎり明快に言えば「単純な青年」であるが、やはりただ単純なのではなく、「彼は人好きはするが単純な青年」なのである。この「~にも拘わらず」、「~だが」はトーマス・マン文学には欠かせない。
 たとえ1枚のスライドに適度に収まらなくても、複雑に表現することそのものに意味がある思考というものがある。この短文の時代に、複雑な論理の重要性を伝えていくことは、トーマス・マン研究会の一員としての使命であろうと思うのだが、まだまだ、道のりは長い。


坂本彩希絵(長崎外国語大学)


〈トーマス・マン研究会〉
事務局: 〒812-8581 福岡市東区箱崎6-19-1
      九州大学大学院人文科学研究院 小黒康正 気付
      トーマス・マン研究会事務局
      E-mail: oguro[at-mark]lit.kyushu-u.ac.jp
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