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第62回ドイツ現代文学ゼミナールに参加して(J. Kim)[J]

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文学コラム
  投稿日: 2014-5-20 13:02
金志成(早稲田大学博士後期課程)
1983年に始まったドイツ現代文学ゼミナール(通称「現文ゼミ」)は、昨年春に記念すべき第60回目を迎え、今回から改まった幹事体制とともに新たなスタートを切りつつある。この節目の威とともにこの場をお借りし、ゼミの周知もかねて、どこまでも一参加者の視点からではあるが、ここ最近の現文ゼミの雰囲気をお伝えできればと思う。
第62回現文ゼミは2014年の3月5日から6日にかけて開催された。本ゼミは春夏と年に二回開催されるため、個人的には三年前の初参加から通算して六度目の参加となり、そろそろ慣れてきてもよいはずだが、いちいち車内アナウンスされる登山鉄道名物の「スイッチバック」や山景色に注意を向ける余裕は依然としてなく、到着ぎりぎりまで共通テクストの残りのページを一心不乱に繰っていた。あと少しというところで読み終わらないまま春の開催地である箱根は強羅に到着、駅前でさっと蕎麦を食べ、少し歩いて会場の静雲荘へと向かう。

プログラム開始時刻の14時になると、縦長の会議室の口の字型に配置された机に着いた参加者たちは、それぞれ自己紹介を行う。人数は平均して30名程度、そのうち大学院生は5、6人。毎回必ず2、3名の初参加者がいる。ゼミの性格上やはり戦後文学の研究者が多くを占めるが、より広く20世紀文学、なかには18世紀文学を専門とする常連参加者もいる。

自己紹介が終わると、そのまま共通テクストについての発表および討論に雪崩れ込む。テクストは原則として公刊から一年以内の長篇小説が一冊選ばれ、二人が代表してレフェラートを行う。新人作家のデビュー作を取り上げることが多いため、報告者にはとりわけ作家の来歴や本国での評判といった一般的な情報の紹介が求められるが、たいていの場合それにとどまらず踏み込んだ作品分析が披露される。他方でほかの参加者もみなテクストを読み込んできているため(そうこうしているうちに私もなんとか読み終えていた)、討論はヒートアップするばかりで用意された時間(17時まで)はいつも足りない。今回の共通テクストであるスイス人作家ヨーナス・リュッシャー(Jonas Lüscher)のデビュー作『蛮人たちの春(Frühling der Barbaren)』(C.H. Beck, 2013)については最後に触れることにしよう。

御膳料理と温泉で疲れを癒したあと(強羅の泉質はかすかに硫黄の香り漂う塩辛い濁り湯で、湯本のあっさりとした湯よりも効く気がする)、20時から参加者のうち一名ないし二名が自身の研究について個別発表を行う。今回は19世紀生まれの作家ハンス・ヘニー・ヤーン(Hans Henny Jahnn)について、戦後の詩人ロルフ・ディーター・ブリンクマン(Rolf Dieter Brinkmann)による受容という観点から発表がなされた。22時になると場所を宴会場に移し、お酒を飲みながらの「別室討論」に花が咲く。

翌日は午前9時から正午にかけて個別発表の第二部が行われる。本ゼミの成果は主に日本独文学会シンポジウムの場で問われ、私が参加した限りではこれまで「ゼロ年代の小説」(2012年秋季大会)および「68年世代を再考する」(2013年秋季大会)に結実するのを見てきたが、今回もこの時間に、来るシンポジウムに向けて、ドイツ書籍賞をとったセルビア系女性作家メリンダ・ナジ・アボニィ(Melinda Nadj Abonji)の自伝的長篇小説『ハトは飛んでいく(Tauben fliegen auf)』(Jung u. Jung, 2010)についての発表がなされた。

以上がプログラムのおおまかな流れである。

共通テクスト・個別発表ともに若手の参加者に機会が与えられることが多いといえる。現文ゼミで口頭発表デビューをしたという人の話もよく耳にする。かくいう私の場合もそうであった。質疑応答の時間はかなり多めに確保されており、それに何といっても泊まり込みのゼミナールであるため、発表に対する忌憚ない意見をとことん聞くことができ、一介の院生にとってはかけがえのない機会であった。

しかし私が現文ゼミに参加し続ける最大のインセンティヴは、やはり共通テクストにある。これに関して私は、率直に言って、ひとつの利点を見出している。つまり、ゼミに毎回参加することで、最新の小説を自動的に年に二冊ずつ追うことができるのである。もしもこれを自力でやるとなると結構大変だ。そもそも毎年数多く出版される小説のなかから読むべきものを選出するだけで相当な時間的コストがかかるし、ましてやその作品を読み込んできた者同士で徹底的に議論するような機会はほとんど望みえない。まだ評価の定まっていない作品を取り上げるため、なかには当然「ハズレ」もある。しかしそんな作品がいつの日か思いもよらぬ観点から評価されるかもしれないし――そのときは同時代的証人を騙ることができるであろう――、たとえ凡庸な作品であったとしても、それもまた今のドイツ文学が成す星座の一部であることに変わりはない。

ちなみにここ数回の共通テクストは、個人的に「アタリ」に恵まれた。第60回で大胆なメタフィクション小説『インディゴ(Indigo)』(Suhrkamp, 2012)を扱ったオーストリア人作家クレメンス・J・ゼッツ(Clemens J. Setz)や、第61回で内容・分量・形式のあらゆる面において型破りなデビュー作『世界に逆らう(Gegen die Welt)』(DuMont, 2011)を取り上げたヤン・ブラント(Jan Brandt)などは、ドイツ現代文学における新たな傾向を持つ作家として今後の活動を見守るに値するであろう。むろんこれも満場一致の見解ではなく、共通テクストの評価はいつも賛否両論である。しかし研究の蓄積がない同時代の文学である以上、参加者のなかに特権的な審級は存在しない。裏を返せば、参加者はそれぞれがみな自らの期待の地平を吟味しつつ、同時代人として作品に対する評価を下すよう求められるのだ。「後世の人々は、忘却するか賞賛するかである。批評家だけが作者の面前で裁きを下すのだ」――こんなベンヤミンの箴言を素朴に想起しつつ、私はひそかに「批評家ごっこ」を楽しんでいる。

今回の共通テクストであるヨーナス・リュッシャーの『蛮人たちの春』も評価が分かれたといえるだろう。幹事体制が改まったこともあり、ここ数回の流れとは異なる新しい試みとして長篇小説ではなく「ノヴェレ」が取り上げられたのだが、個人的にはとても興味深い作品であった。チュニジアのリゾート地を舞台に、かの地で本国の経済破綻を知った金持ちのイギリス人たちが次第に野蛮化していくという荒唐無稽な物語が、精神病院の敷地内と思われる中庭で、その現場に居合わせたと主張する男の口から語られるのを一人称の語り手が間接的に伝えるという(どこかトーマス・ベルンハルトを思わせる)凝った形式を持つこの作品は、「ノヴェレ Novelle」の名にふさわしく、金融グローバル化の問題を題材にした「新しい」物語であり――まさにその点でゲーテ以来の定義を遵守してしまうという、「新しさ」のパラドックスも含めて――、現文ゼミの、それもその新たなスタートにとってうってつけであったことは間違いない。

表題からいやおうなく「アラブの春」が連想されるが、そこでチュニジアという空間はどのように表象されるのか――と、読む前からすでにオリエンタリズム批判の準備をしている論者をあたかも挑発するかのように、小説には「千夜一夜リゾート」なるホテルが登場し、おまけにその支配人は、明らかにエドワード・サイードの名前を捩った「サイーダ」という女性である。このような態度には、あくまでも奇譚として「そこから何ひとつ学ぶことのできない物語」(S. 125)にとどまろうとする本作品の狙いが透けて見えるし、マトリョーシカのように二重三重に媒介された語りのスタイルも、そういった意図に適う形式として選ばれたのだろう。これはいかにも今どきの作家らしいし、リチャード・ローティのネオプラグマティズムについての論文で博士号を取得している著者のことだから、何か哲学的な理屈もあるにちがいない。

ところで『蛮人たちの春』のテクストには、二人称の“Sie”が小文字の“sie”となっていたり、会話文のギュメ(»«)が閉じ忘れられていたりと、なぜか誤植が多い。これらはむろん印刷工程上のミスであろう。しかしたとえば前者は、(物語内でイギリス人が実際に用いているはずの)敬称と親称を区別しない英語を、小説としてドイツ語に変換する際に生じた痼りのようにも見える。この痼りが意識されるやいなや、登場人物たちをあえてイギリス人に設定することで保とうとしたであろう「作者」の非人称性が汚染され始める。

そうなると、会話文の閉じ忘れもまた深読みの対象となる。これも偶然であろうが、誤植がある箇所に限って、作者の詩学的立場の表明と読み替えられうるパッセージが含まれているのだ。あたかも、技巧的に構築された間接的な語りの形式を(文字通り)食い破って、「作者」が顔を出してしまったようである。むろんこのような読み方はあまりに脱構築的にすぎるであろう。しかし批判校訂版などさしあたり望むべくもない同時代のテクストにあっては、些細な印刷ミスも議論の対象となりうる。あるいは私にとっての現文ゼミの魅力は、たとえばこの印刷されたばかりの生々しい誤植にこそ宿っているのかもしれない。


金志成(早稲田大学博士後期課程)
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