Japanische Gesellschaft für Germanistik
 
オンライン状況
10 人のユーザが現在オンラインです。 (2 人のユーザが archiv を参照しています。)

登録ユーザ: 0
ゲスト: 10

もっと...
ログイン
ユーザ名:

パスワード:



パスワード紛失

トップ  >  2003年  >  2003年春季研究発表会の予稿集

日 本 独 文 学 会

2003 年 度 春 季 研 究 発 表 会





研 究 発 表 要 旨


2003年5月31日(土)・6月1日(日)
第1日 午前9時30分より

第2日 午前10時00分より


会場 武蔵大学(8号館)



第1日 5月31日(土)



シンポジウムⅠ(14:30〜17:30)A会場

音楽劇におけるテクストと音楽−ヴァーグナー以前と以後
Zum Verhältnis von Text und Musik beim deutschen Musiktheater
—An Beispielen aus der Zeit vor und nach Richard Wagner

司会:光 野 正 幸  
コメンテーター:長 木 誠 司(東京大学大学院総合文化研究所)  

 Germanistik の領域において,「文学と音楽の関係」にまつわる研究は個別には盛んに行なわれてきたが,それが学会のシンポジウムなどのテーマとして取りあげられることは従来,ほとんどなかったと言ってよい(学会誌『ドイツ文学』107号[2001年秋]の特集は,例外的な試みと言えよう)。本シンポジウムは,とくにヨーロッパ文化史の重要な一端を占める「音楽劇 Musiktheater」のジャンルに焦点をあてた個別研究を,Musikwissenschaft の側からのアプローチもまじえて並べ,そこから浮かびあがるジャンルの時代的変遷の諸相をいわば学際的な「知」として共有しよう,という試みである。
 具体的には,「ヴァーグナーの時代」を前後からはさむゲーテ時代と二十世紀前半というふたつの時期から作品が取りあげられることになる(「ヴァーグナー以後」については,取りあげる対象が学会誌の特集と偶然にも重なることになったが,他意はない)が,各発表はいくつもの具体的論点において相互に連関の糸による繋がりを示すことになろう。 「ヴァーグナー」はそのひとつの(しかし最大の)結節点にすぎない。
 コメンテイターをお願いした長木誠司氏のご発言を含め,各発表の内容を前提として,時代的制約の相違,それぞれの作者の文学観・音楽観の対比,とくにオペラ史上の各作品の位置づけ,またオペラとは異なる可能性をはらむジャンルとしてのメロドラマの再評価などの論点をめぐって,討論の場で刺激的かつ活発なやりとりが実現するよう,模索したい。


<ゲーテ時代のメロドラマ〜『プロゼルピーナ』を中心に〜>

井戸田 総一郎  

 近年,ゲーテ演劇論を総合的な上演芸術論として読み直す作業が進んでおり,たとえばフィッシャー=リヒテは『ドイツ演劇小史』のなかで,ゲーテの「実験舞台」にかなりのスペースをさいて言及している。ゲーテが上演そのものについて具体的な作品に即して記述しているものは極めて少なく,その意味で「プロゼルピーナ,ゲーテ作メロドラマ,音楽エーバーヴァイン」 (Proserpina, Melodram von Goethe, Musik von Eberwein) と題されたゲーテの論説は貴重なものだが,この論説は日本ではこれまでほとんど取りあげられてこなかった。
 今回の発表では,1)まず,この論説のテクストが生成するプロセスをオリジナル資料に基づいて再構成し,テクスト制作の現場感覚を紹介しながら,「ゲーテ工房」とも言うべきものの存在を明らかにする。 2)十八世紀のメロドラマは,ベンダ作曲の『アリアドネ』と『メデイア』が上演された1775年頃が流行の頂点であり,ゲーテの『プロゼルピーナ』もほぼ同時期の1777年にゼッケンドルフの作曲で初演されている。本発表で取りあげるのは1815年に再演されたものであるが,流行期が終結しているこの時期にゲーテが再度,メロドラマのジャンルに強い関心を示したことと,「工房」的制作環境との関連に言及する。 3)ゲーテの上演芸術論のなかで,どのような要素が上演に不可欠のものとされたのか,という点,またそれらの要素が有効に機能するための「付帯音楽」という考えかたが鮮明に打ち出されている点を,具体的に指摘する。 4)以上の考察を踏まえて,オリジナル楽譜を紹介し,CD録音を一部鑑賞しながら,朗誦と音楽の関わりについて考えていく。


<オペラ作曲家としての E. T. A. ホフマン〜『アウローラ』を中心に〜>

光 野 正 幸  

 ホフマン研究において彼の作曲家としての活動が占める比重は,近年とみに増してきているように思われるが,彼が書いた音楽評論および上演批評が従来から重要視されてきたことを考え併せると,それは至極妥当なことだし,マルチ・タレントとしてのホフマンの実像をより精確に把握することにも通じる流れとも評してよいであろう。バンベルク時代に作曲されたオペラ『アウローラ』(1812,台本フランツ・フォン・ホルバイン)も,当時は結局のところ上演に到らなかったゆえか,あるいは友人フケーの台本を得てベルリーンで上演されて好評を博した『ウンディーネ』の陰に隠れ忘れ去られてしまったということか,これまであまり注目されてこなかったが,ようやく1984年に総譜が出版され,95年にはCD録音も発売されて,広く陽の目をみることになった。
 この作品はしかし,ギリシア神話に題材を採りながらも,その反面すでに Große romantische Oper という副題を持つ,という特異な性格を有し,オペラ作曲家としてのホフマンを論じるうえで本来,重要な位置を占めてしかるべきであるように思われる。今回の発表ではこの『アウローラ』に表現されたホフマンのオペラ観をさぐるとともに,その上であらためて彼のグルック評価,コメディア・デラルテ論,スポンティーニ評価などを再確認することにより,モーツァルトからヴァーグナーにいたるドイツ・オペラの自立の過程のなかでの彼の位置づけを考えていく。


ホーフマンスタール『ナクソス島のアリアドネ』〜ポスト・ヴァーグナーのオペラ界と歴史主義〜

関 根 裕 子  

 十九世紀末から二十世紀初頭にかけてのオペラ界は,ヴァーグナーの影から脱出しようと様々な道を模索していた。その中で革新的な活動をしたシェーンベルクらに比べると,ホーフマンスタールとR. シュトラウスの共同作業によるオペラは,シュトラウスの音楽が『ばらの騎士』(1911) 以降,新古典主義の傾向を帯びたせいか保守的と言われている。しかし「まじめな息抜き」とも評される『ナクソス島のアリアドネ』(1912/1916) の二つの版からは,過去に題材や様式を採りながらも,ホーフマンスタールが「新しいジャンル」を求めて構成上の実験を試みていることが読みとれる。第一版ではモリエールの喜劇『町人貴族』の枠組みに,劇中劇としてオペラ『アリアドネ』が挿入され,それをもとに改作した第二版は,十八世紀に流行した楽屋落ちオペラに仕立てられている。また両版に共通して,オペラ・セリアの中へのオペラ・ブッファの混入という奇抜な設定もされている。
 この作品についてホーフマンスタールは,「伝統的なオペラ上演でなく,何かまったくラインハルト的なものを思い描いていなければならない」,とシュトラウスに宛てて書いている。彼は,ラインハルトが好んだモリエールの喜劇やコメディア・デラルテの登場人物を,対極的なオペラ・セリアに織り込んで,十八世紀のセリアとブッファの主権争いとだぶらせながら,十九世紀末のオペラ界をも諷刺している。しかし同時にこのコントラストを,「固持」と「変容」,「高貴」と「卑俗」などといった相対するものの合一,という彼の創作上のテーマの図式化に利用している,とも言えよう。さらに,ゲーテの音楽劇観やモーツァルトのオペラを意識していたホーフマンスタールは,ヴァーグナーが避けたレチタティーヴォの使用などをシュトラウスに対して提案し,テクストと音楽とが互いに自立した関係,というものも模索していた。


<テクストからの解放? 〜シェーンベルク『今日から明日まで』にみる十二音技法〜>

藤 村 晶 子  

 二十世紀初頭における音楽劇創作は,とくにドイツ語圏の作曲家たちにとっては,R. ヴァーグナーの克服を課題とした「ヴァーグナー以後」の状況にあった。それは第一義としては調性システムの弱体化に伴う音楽語法上の問題であったが,いずれ「オペラ」というジャンル自体の再考をも促す。この文脈のなかで1920年代半ばに現われた「時事オペラ Zeitoper」は,時事的な素材を扱い,神格化された旧来のオペラの戯画化をめざす,という点で反ヴァーグナーのベクトルを持っていた。代表作にはヴァイル/ブレヒトの『三文オペラ』,クシェネック『ジョニーは演奏する』,ヒンデミット『今日のニュース』などがある。
 シェーンベルクの『今日から明日まで』(op. 32,1928)は,この『時事オペラ』のスタイルを模しながらも内容は「反・時事オペラ」であり,十二音技法による最初のオペラという点からも,彼の創作上に特異な位置を占める作品といえる。デーメルの詩による初期の歌曲以来,シェーンベルクにとって言葉とは,自らの音楽言語を深化させる重要な媒体であった。とくに『弦楽四重奏曲第2番』(op. 10)の終楽章における,いわゆる無調への突入後は,作曲上重大な局面に突き当たり,この時期(1909-1920)の作品の多くはテクストに依拠することで完成している。調性に代わる新たな構成原理の探求は,一方でテクストに依拠せぬ「自律的」音楽を求める過程でもあった。『架空庭園の書』,『月に憑かれたピエロ』,『期待』,『幸福な手』など多様なテクストを扱うなかで,シェーンベルクはテクストに従属し「歌詞を表現する」音楽ではなく,音楽と言葉が互いに対等にドラマトゥルギーを生み出す可能性を模索する。そしてついに十二音技法へと到達するが,これは新たな作曲システムとしてのみならず,「音列」が音楽と言葉を媒介し,両者の関係を止揚するという意味においても,画期をなすものと考えられたのである。 本発表は,『今日から明日まで』の音列とテクストの諸関係を具体的に見ながら,彼の音楽劇創作における十二音技法の意義を考察する。そこには,シェーンベルクのこの時代に対する「立ち位置」が示されてもいよう。



シンポジウムⅡ<ドイツ語教育部会・西日本支部共同企画>
(14:30〜17:30)B会場

ドイツ語教育:地域からの問題提起
Reform des Deutschunterrichts—Vorschläge und Initiativen aus den Regionen

司会:竹 内   宏・星 井 牧 子  
コメンテーター:平 高 史 也(ドイツ語教育部会長)  
山 原 芳 樹(西日本支部長)  

 ドイツ語教育部会では,現在の日本におけるドイツ語教育・学習・運用の全体像を鳥瞰する目的で,1999年より4回にわたる連続シンポジウム「日本におけるドイツ語教育のランドスケープ」を行い,大学教育の枠組みを越え,地域社会との関連,大学と高校の連携,実務レベルでドイツ語がおかれている状況も含め,日本におけるドイツ語教育の現状と問題点をさまざまな角度からとりあげ議論してきた。また2001年秋季学会のシンポジウム「外国語教授能力の多様性」では教員養成をめぐる諸問題を,さらに2002年春季学会のシンポジウム「日本におけるドイツ語教育の座標軸を考える」では,外国語教育のフレームワークやカリキュラム策定のためのコンテンツを検討し,ドイツ語教育に携わる私たちが直面している現状について,マクロな視点からの問題提起をおこなってきた。
 一方,私たちが日々取り組んでいるドイツ語教育の現場では,各大学のおかれている状況,地域の特殊性など,個別の問題も厳然として存在している。さらに国立大学の独立法人化とそれに伴う変革,大学院化・研究中心大学化を目指しての組織改編,第三者評価や任期制の導入などにも見られるように,大学教育・研究のあり方も大きく変動している今日,21世紀の新しい大学像の中でのドイツ語教育の位置づけについても,改めて考えていかなければならないだろう。
 そこで,今回の教育部会企画シンポジウムでは,もう一度ドイツ語教育の現場そのものにたち返り,個々の現場から浮かび上がる問題点を,これまでのシンポジウムで概観してきた現在の日本におけるドイツ語教育とその周辺領域の全体像(「ドイツ語教育のランドスケープ」)に照らしあわせ,個別の大学の枠組みを越えてドイツ語教育部会およびドイツ語教育界は a) 今,何をすべきか,b) 将来に向けて何を行うべきか,の二つの視点から考えてみたい。これは,新しい大学像の中でのドイツ語教育の位置づけを考えていく上でも,あらためて必要な作業であると考える。
 今回のシンポジウムでは現場での個別の試みや現場からの問題提起を取り上げるにあたり,西日本支部との共催で「地域発」の問題提起をおこなう。ドイツ語教育部会では2002年12月に開催された日本独文学会西日本支部研究発表会にオブザーバーとして参加し,教育部会の活動について報告するとともに,東京以外の地域との連携強化の道を探った。今回のシンポジウムはその成果の一つである。支部全体で教育部会を結成し,早くからドイツ語教育に対して積極的な取り組みを行ってきた西日本地域の活動を取り上げ,そこでの問題点を全国学会の場で議論することにより,ある一地域の特殊性を越えて,日本のドイツ語教育全体が直面している普遍的な問題を浮き彫りにできるものと考える。そして,西日本からの問題提起を他の地域や全国に還元し,日本全体のドイツ語教育を見なおすことを今回のシンポジウムの目的とする。


1.ドイツ語教育に対する地域的取り組みとその問題:西日本支部の場合

中 島 和 男  

 西日本支部におけるドイツ語教育部会主催の研究発表は1977年のドイツ語教授法ゼミナール(Didaktik-Seminar)にまで遡る。九州大学教養部(当時)で行われたこのゼミナールは,ゲーテ・インスティトゥート(現 関西ドイツ文化センター)主導のもとで「いかに教えるか」が主たるテーマであり,学生の学習意欲低下に対峙して当時まだ主流を占めていた文法訳読方式に拘泥しない授業方式の可能性を提示した,地域としての最初の取り組みであった。
 その後,ドイツ語学習者を対象にインターウニ九州(現 インターウニ西日本)を開設するにあたり,この両ゼミナールは,片や理論,片やその実践と硬貨の表裏の関係に捉えられ,その間,教師のドイツ語運用能力の向上のみならず,実践に根ざした若手教員の養成,さらにドイツ(語圏)の文化・社会への理解普及など一定の役割を担ってきている。
 今日,多様化した大学においてわれわれゲルマニストは各専門領域の研究者であると同時に,ドイツ語教師としての一層の「質」を問われている。先に掲げた「いかに教えるか」は,当初は「小さな」問題提起にすぎないものと思われた。しかし,大学を取り巻く環境は大きく変化し,今日この点を看過することは学会自体の衰退にも繋がりかねない。大学という限られた領域から生涯教育にまで視点を広げるべきドイツ語教育のあり方を念頭に置き,西日本地域において,英語のみに偏らない多言語主義の意味を問うていく教育部会の活動を紹介し,議論のための問題提起としたい。


2.「日常カリキュラム」と「地域カリキュラム」の連携

吉 中 幸 平・安 東   清  

 西日本地区ではドイツ語教育に関わる地域的な取り組みとして「インターウニ西日本」や「ドイツ研修旅行」等を行っており,共にドイツ語学習への動機づけや日常のドイツ語授業の活性化に寄与している。前者は「インターウニ九州」として1989年に始まり,1997年からは「インターウニ西日本」と名称変更し,日本独文学会西日本支部の公式事業の一つとして毎年夏,九重で4泊5日の日程で開催されている。「Kommunikativ」 「Informativ」 「Spaßmachend」 をモットーに,参加者の実践的なドイツ語力の向上を目指すとともに,教師側の教授法の向上をも図る企画である。
 「ドイツ研修旅行」は支部の行事ではないが,複数大学の有志ドイツ語教師の協同で行っている。1984年に九州大学(当時)の根本道也氏らによって始められたこの企画は,その後,他の大学にも輪が広がり,現在では5ないし6大学から学部・学年を超えて毎年約60名の学生が参加している。この春20回目を迎えたこの研修旅行には,これまでに全部で約1200人が参加したことになる。参加者の多くが,旅行後いろいろな点で意欲的に活動する様は目を見張るものがあり,ドイツ語学習のみでなく,人間形成(=全人的成長)の上でも大きな効果がある。
 これらの企画については,すでに本学会のシンポジウムやドイツ語教育部会会報で紹介されたことがあるが,ドイツ語教育を取り巻く昨今の厳しい状況の中で,今回改めてその意義,運営上の問題点等について報告し,フロアの参加者と意見交換を行いたい。


3.「ドイツを学ぶ者」としての生涯学習への関わり

今 田   淳  

 我々は大学の内部ではそれなりにその存在を知られていると思う。しかし,その大学を一歩外へ出た場合,我々はどういう存在であるのだろうか,「ドイツを学んでいる者・ドイツと関わっている研究者」としてのその存在は,大学の外の世界に一体どの程度知られているだろうか。最近では「諮問会議」等からの発言も強まり,いわゆる大学人の存在は,地域との関わりを抜きにしては考えられなくなってきている。大学が有する「知的財産」を,それぞれの地域での人材育成に活かしていくことが求められていると思う。
 では,大学において教育と研究に携わりながらドイツについて蓄えてきた知的財産を,我々はどのように地域に還元していけるのだろうか。ドイツに関わっている我々がなし得る地域への関わり・貢献の可能性について,今回は「ドイツ語の読書会」・「ドイツ語圏への旅行」・「ドイツワインの直接購入」を例として取り上げ,その問題点や限界をも含めて紹介したいと思う。ドイツ語圏のことをいろいろな角度から地域の人に知ってもらうという目的で,現在私が取り組んでいる事柄である。


4.学外との連携と教員間のチームワーク

松 尾 博 史  

 地方大学において,一般学生のモチベーションを高め,ドイツ語(圏)への関心と学習意欲を維持するにはどうすればよいのだろうか。教室内でドイツ語教育を充実させる努力はもちろん大切だが,教員個人の努力には限界がある。そこでわれわれはクラス内に学生を囲い込むのではなく,学内外の機関と協力し,大学外でのドイツ語の学習機会を提供することにした。インターウニ西日本, Goethe-Institut Prien での夏期語学研修,海外語学研修のための助成金,姉妹都市間の交換留学,大学間の交換留学等である。これらは1年から4年までほぼ順に挑戦可能なオプションとなっている。学内では上級コースをこれらの準備講座と位置づけ,卒業まで継続的にドイツ語が学習できるようにしている。
 また意欲のある新入生を対象に,各学部に1クラス,一般クラスとは別に少人数の口頭クラスを設けた。口頭クラスは日本人専任教員とネイティブの外国人特別講師がペアで担当し,共通教科書を用い,Klassenbuch を授業のたびに交換し,毎週1時間,担当教員全員でミーティングを行い,共通テストの作成によって,成績評価もかなりの程度平準化している。口頭クラスの学生は学外でのプロジェクトに参加するコア集団を形成している。
 これらのプロジェクトとペア授業の維持には教員間のチームワークが欠かせないが,そこで生じるさまざまな問題についてもシンポジウムの話題としたい。



学会シンポジウムⅢ(14:30〜17:30)C会場

詩人はすべてユダヤ人−詩集『誰でもない者の薔薇』集中討議
„Alle Dichter sind Juden.“
 — Zur Aktualität des Gedichtbande „Die Niemandsrose“ von Paul Celan

司会:北   彰  

 当シンポの発表母体は中央大学人文科学研究所の「パウル・ツェラーン研究」チームである。このチームはツェラーンの第4番目の詩集『誰でもない者の薔薇』の簡潔な全注釈刊行を目指し5年にわたり一篇一篇の詩の注釈を積み重ねてきた。個別詩の注釈過程から浮かび上がってきた詩集全体を貫くモチーフからいくつかを選び,あわせて最近出版された妻ジゼルとの往復書簡集などから明らかになった詩集執筆時期における伝記的事実をも紹介しながら,詩集の全体像の概要を得るべく集中討議をおこないたい。
 シンポジウムのタイトルとした「詩人はすべてユダヤ人」ということばは,詩「そしてタルーサの書を携えて」に添えられたマリーナ・ツヴェターエワの詩句である。ディアスポラのユダヤ人は,自分がユダヤ人であるとの認識に基づきアイデンティティ探索を続ける限り,自己が所属する国家ないし文化的伝統と一体化できず,共同体や社会と切断された孤立感覚と違和感を持ち続ける。一方詩人は自己の感覚を鋭く研ぎ澄まし,その切っ先でことばを触知し,そのことばを詩を書くことで組織化しながら自己の立っている場を認識していく。外部世界に感応する鋭敏な地震計といってもよい。その認識や感応をもたらすのは,逆説的ながらまずは外部世界との対立を孕む自己への集中である。ユダヤ人と詩人とはその行為においてこのように相似形を描く。また言語論的省察を経た上で初めてことばに向かい合わざるを得ない現代詩人の,ことばとの距離は増大している。ことばに対する違和感。それをユダヤ人が現実に対して抱く違和と重ね合わせることもできる。大地から離れ宙を漂いさまようユダヤ人のイメージである。少数者として差別迫害される者が差別する社会に対して試みる「人間としての」抵抗を両者が共有することもあろう。
 以上ひとまず描いた抽象的「ユダヤ性」の輪郭,その内実をツェラーンにおける具体性に則しながら冨岡が論じる。また1963年10月に刊行された全53篇4部構成の詩集『誰でもない者の薔薇』はロシアのユダヤ詩人オシップ・マンデリシュタームに捧げられていた。ツェラーンの詩作品とツェラーンが訳したマンデリュシュタームの詩作品との具体的な比較検討,ツェラーンの詩論とマンデリュシュタームの詩論との関連などを関口が論じる。加えてツェラーンの詩に溢れる名詞とりわけ固有名に着目して,その固有名をいかに読み解くべきかを水上が論じる。また詩集執筆時期は  1959年3月から1963年3月。イヴァン・ゴルの詩をツェラーンが剽窃したとする妻クレールの誹謗キャンペーン,いわゆるゴル事件が最も燃え盛った時期であり,ツェラーンが精神病を発病した時期でもあった。この精神的危機の様相とその克服の努力,その在りようを押さえながら相原が詩集解題をおこない,伝記的事実から作品への照射を北が試みる。 (北 彰)


詩集『誰でもない者の薔薇』解題

相 原   勝  

 詩集『誰でもない者の薔薇』は,ツェラーンの8冊の詩集のうちの第4詩集にあたり,1963年10月末,S. フィッシャー書店より刊行された。53編が収められ,4部構成となっている。それぞれの詩は,第3詩集が出された直後の1959年3月から,その4年後の1963年4月にかけて,パリ,ブルターニュ,ノルマンディーで成立し,詩の配列はほぼ成立順である。多くの詩は,詩にもともと付されていた日付と場所が示す伝記的な事柄と密接に結びついている。
 詩集のタイトルは,早い時期には『ヌーヴォー・ポエム(新詩集)』,『現在地』といったものであったが,最終的に,詩集に収められた詩「讃歌」からの言葉が選ばれた。詩集にはまた,「オシップ・マンデリシュタームの思い出に」という献辞が添えられている。この迫害されたユダヤ詩人マンデリシュタームは,ツェラーンにとっては,同様の運命をになった同時代詩人を代表しており,そしてまた,「思い出に」という言葉は,「すべての詩人はユダヤ人」というこの詩集の中心テーマをも暗示している。
 ツェラーンはこの詩集が成立する時期,ゴル事件(=反ユダヤ主義)によって決定的な精神的危機にみまわれていた。これを克服すべく,詩人は自らのユダヤ人としてのアイデンティティーの問題を,ユダヤ性全般との集中的,批判的な取り組みという形で詩に実現していったのである。


詩集『誰でもない者の薔薇』とマンデリシュターム

関 口 裕 昭  

 『誰でもないものの薔薇』には「オシップ・マンデリシュタームの思い出に」という献辞が添えられている。このように,あるひとりの詩人に詩集全体を捧げるのは,ツェラーンにおいて他に例を見ない。
 詩集の執筆時期とも重なる58年から60年頃にかけて,ツェラーンはブローク,エセーニン,マンデリシュタームらロシアの詩人を精力的に翻訳し,その影響は多くの詩に刻印されている。スターリンを風刺する一篇の詩がもとで逮捕され,ラーゲリで非業な死を遂げたユダヤ系詩人マンデリシュターム(1891〜1931)に対する思い入れが,そのなかで特権的な位置を占めたことは,上述の「献辞」だけでなく,「オシップ・マンデリシュタームの詩」というラジオ放送向けに書かれた詩論からもうかがえる。
 本発表ではマンデリシュタームからの影響を以下の3点から考察する。
 まず,マンデリシュタームが,どのように詩に引用あるいは暗示されているかを,詩集の草稿段階まで遡って検証する。次に本詩集以降ますます顕著となるインターテクスチュアリティを,マンデリシュタームとの関連から解明したい。最後に,「投壜通信」「対話」「出会い」といったツェラーンの詩論の核心をなす概念が,ロシアの詩人との出会いによって生まれたことを示し,後期の詩においてもその影響が様々なイメージに変容しながら受け継がれていったことを,鶴や燕の鳥の形象を用いて新たに提示したい。


詩集『誰でもない者の薔薇』のユダヤ性

冨 岡 悦 子  

 ツェラーンの詩集の中で,第4詩集『誰でもない者の薔薇』ほどユダヤ的なものが明確にあらわれているものは他にないと言われている。そのあらわれ方は,ユダヤ教の宗教儀式に関わる語や伝説が記されている詩から,ユダヤ神秘思想を背景にする詩まで,多様な形をとっている。
 ツェラーンは後にあるインタヴューに答えて「ユダヤ的なものはテーマとなります。けれども,ユダヤ的なものを定義するにはテーマとするだけでは不十分です。ユダヤ的なものとはいわばプノイマ的事柄でもあるのです。」と語っている。難解な撞着話法に聞えるこの発言は,ツェラーンの詩とユダヤ神秘思想のコスモゴニーとの関わりを知るうえで,重要である。
 ここでは,1950年代後半から1963年にいたるツェラーンのユダヤ思想の読書歴とあわせ,必要に応じて伝記的な事柄にも触れながら,詩集『誰でもない者の薔薇』のユダヤ性にせまりたい。


詩集『誰でもない者の薔薇』における固有名の問題について

水 上 藤 悦  

 詩集『誰でもない者の薔薇』はユダヤ的主題が顕著に表れている詩集といえますが,その詩的様式の際立った特徴としては固有名詞の頻出を挙げることができます。この詩集を読もうとする誰でもが,最初にまず途方にくれてしまうような固有名詞,地名,人名,植物名,その他の特殊な語彙がこの詩集には頻出し,しかも中心的な詩的語彙となっています。特殊な「名前」としては例えば宗教,特にユダヤ教関係の語彙,Hawdalah, Kadisch, Rabi, Löw, Mandorla のような言葉を挙げることができます。ツェラーンは固有名に強い関心をもち,それを詩の中で多用した詩人であるということができます。この発表では詩集『誰でもない者の薔薇』の中の二つの詩「冠をかぶらされて引き出され」,「ケルモルヴァン」を取り上げて,ツェラーンの詩における固有名の問題について考えてみたいと思います。固有名とは言語的意味をもたない,したがって翻訳不可能な「名前」であるといえます。「ケルモルヴァン」という地名に端的に示されるようにそれは本来そこに意味を読み込むことのできない言葉です。ツェラーンの詩はしかしまさにそのような固有名を読む可能性,その詩的意味への問を読者に突きつけるものです。


詩集『誰でもない者の薔薇』とツェラーンの手紙

北     彰  

 1959年3月から1963年3月の期間におけるツェラーンの実人生における大きな出来事。それはゴル事件の展開と,ビュヒナー賞受賞,精神病の発病である。1962年12月23日の結婚10周年記念日を,一家でスキーを楽しんでいたサヴォワで迎え,休暇を終えてパリに向かっていた途中,ツェラーンは「ユダヤの黄色の星だ!」と叫びながらジゼルのマフラーを奪い取った。路上で見知らぬ通行人に向かって「おまえもゴル事件の加担者だ!」と叫んで襲いかかったのもそのときである。ジゼルの懇願でツェラーンは精神病院に入院,1963年1月17日に自宅に戻ったが,以後継続的受診が必要となった。
 以上の事実からはゴル事件のツェラーンに与えた打撃がいかに大きく深刻であったかが理解できる。またこの時期に書かれた手紙もその殆どがゴル事件との関わりで書かれたものといってよいものであり,これらの手紙の内容を追いながら,ゴル事件のツェラーンにおける意味を確かめてみたい。
 ビュヒナー賞受賞辞退も考えていた彼は,善意の試みも「善意を装った悪意の試み」と解釈し,次々と人間関係を断って,被害妄想の苦しく孤絶した狭い空間に自らを追い込んでいった。実人生と彼の詩作の短絡を慎みながら,手紙から推測される彼の実人生と詩作品とを互いに照合させる試みもしてみたい。



口頭発表 文学1(14:30〜16:45)D会場

司会:斎 藤 治 之・Angelika Werner  

Fremdheit im 》Tristan《 Gottfrieds von Strassburg

Dagmar Oswald  

 Kaum ein Dichter der Blütezeit beschäftigt sich mit dem Thema der Fremdheit so variantenreich wie Gottfried von Strassburg im 》Tristan《.
Vremede weist in der mittelhochdeutschen Verwendung nicht nur auf nationale Zugehörigkeit „in bgrenzung zu ...“ hin, sondern bezeichnet vor allem den rechtlichen Status, den Personen außerhalb ihres Geburtslandes besitzen. Ellende werden diejenigen genannt, die als Fremde ohne Land und Sippenverband in Erscheinung treten. Das Adjektiv vremede findet darüber hinaus Verwendung, wenn ein mittelalterliches Staunen in der ästhetischen Wahrnehmung durch Auge und Ohr beschrieben wird.
Dem Protagonisten Tristan, in einem den höfischen Normen zuwiderlaufenden Liebesverhältnis gezeugt, wird die Fremdheit bereits in die Wiege gelegt. Seine Geburt im mütterlichen „Exil" initiiert ein Ungleichverhältnis in der Identitätsfrage, das ihn sein Leben lang begleiten wird.
In der sprachlichen Komposition spielt die Fremdheit eine Rolle, wenn das Publikum mit der französischen Sprache konfrontiert und durch den fremden Klang höfisches Ambiente geschaffen wird.
Weibliche Fremdheit und das Reiseverhalten von Frauen unterscheiden sich im 》Tristan《 von männlicher Mobilität, die ihre Motivation durch den Geist der aventiu^re erhält. äußere Zwänge bewegen die weiblichen Protagonisten zum Reisen — es sind dies Reisen, die in weiterer Folge zum Tod und ins Unglück führen.

Wie „sinnvoll“ ist das Nibelungenlied?
Probleme der Textinterpretation im Spannungsfeld zwischen Mündlichkeit und Schriftlichkeit. Ein kurzer Vergleich mit dem japanischen Heike Monogatari 平家物語

Andrea Kuklinski  

 Das Nibelungenlied endet in einem Bild der Utopielosigkeit: daz ist der Nibelunge not, so der lakonische Schluss. Was am Ende der Geschichte bleibt, ist die Frage nach dem Sinn, nach einer Deutungsperspektive, die es dem Publikum erleichterte, das grauenhafte Geschehen zu verstehen. Doch stellt sich der Text des Epos einer solchen „Sinnstiftung“ entgegen, zu sperrig und brüchig präsentiert er sich. Vor allem die Rolle Hagens hat die Interpreten allezeit irritiert: wie ist eine Figur zu deuten, die im ersten Teil mit feigem Meuchelmord, im zweiten mit heroischem Todeskampf assoziiert wird?
 Im Heike Monogatari begegnet uns in dem Krieger Yoshinaka eine ähnlich widersprüchliche Figur: als Karikatur eines Despoten einerseits, als tragischer Held andererseits. Dieser Widerspruch scheint indessen in der Rezeption des Werkes, die nicht durch den Text, sondern durch die Performance gepägt wurde, wenig Kopfzerbrechen verursacht zu haben; hier stand vielmehr das emotionale Miterleben jeder einzelnen Szene im Vordergrund.
 Auch das Nibelungenlied nimmt eine Zwitterstellung zwischen mündlicher Dichtung und Literatur ein. Ausgehend von der These, dass das Epos von den Zeitgenossen nicht als Text, sondern in der Performance wahrgenommen wurde, soll am Beispiel Hagens untersucht werden, wie sich im Kontext oraler Vermittlung in jeder Szene neu ein affektiver Sinn entrollt, der durch den abstrakten Buchstaben des Textes nur unvollkommen repräsentiert werden kann.

rehtiu minne 敗北のドラマー『パルチヴァール』第7巻

泉 谷 千 尋  

 Wolfram von Eschenbach の „Parzival“ に登場する多くの女性像は,男性騎士社会の犠牲として描かれ,その対立者・敵対者としての位置を占める。この点に注目して,彼女らを物語の隠された主人公と見なすならば,本編においては,もっぱら主人公の行程の描出に奉仕するというアルトゥス物語のSchemaにおける伝統が打破されており,より大きな社会的連関の中で主人公を巡る問題性が取り扱われていることが予測される。
 この視座に立って本編の第7巻に新たな解釈の可能性を示すのが,本発表の目的である。筆者はガーヴァーン諸巻の端緒となる本巻を,ガーヴァーンとメルヤンツという表の主役ではなく,二人の女性像(オビーエとオビロート)に焦点を当てて解釈したい。彼女らのハンドゥルングの考察を通して,作者がこれらの女性像がパートナーに対して抱くミンネと,主人公パルチヴァールの妻に対するミンネを „rehtiu minne“, „wâriu triuwe“ という概念で括っており,このことでミンネの点において,彼女らを主人公パルチヴァールと同じ位相に高めていることを示す。その上で,作者が,彼女らとは対照的に造形されている男性側のパートナーによって,これらのキーワードに象徴される,本巻のこの思想的基盤が骨抜きにされていき,結末のオビーエとメルヤンツの「和解」(vgl. 392, 18 suone)及び婚姻の場面が,男性騎士社会の立場からの「和解」であり,むしろ女性像の敗北と言える,祝祭とは正反対の結末となるように構想している点を示す。

食餌療法とアロマセラピーのテクストとして読むフォルスター『世界周航記』

森   貴 史  

 ゲオルク・フォルスター『世界周航記』(1778-80)における<ユートピアとしてのタヒチ>という表象を,味覚と嗅覚というアスペクトか,ら捉え,その視点から『世界周航記』のテクストを分析することが本発表のを目的である。たとえばフーコーが『言葉と物』(1966)で指摘しているが,その当時の感覚論,エドマンド・バーク,ディドロ,カントなどをひもといてみても,味覚や嗅覚という感覚器官はそれほど重要視されていない。しかしこれに反して,フォルスターは『嗜好物について』(1788)というエッセイにおいて,味覚,およびその洗練の重要性を啓蒙主義的視点から主張している(ルソーもまた同様の考え方をしている)。かれの発想は現代の「癒し」一般の考え方に通じるものがあるが,この論文におけるフォルスターの味覚論を基幹として,同時代のコンテクストからも,『世界周航記』における「味」や「におい」に関する記述から照射・分析することによって,この旅行記がもつエキゾティシズム,くわえてそれが嗅覚と味覚を刺激するテクストとなっていることを明らかにしていく。18世紀当時,良い芳香が精神性疾患をもつ患者の回復に役立つと考えられていたという事実もまた,フォルスターの味覚論・嗅覚論に包含されているのを見たり,コルバンの『においの歴史』にみられるような「瘴気 Pesthauch」説との係わり合いから,『世界周航記』というテクストを<食餌療法(ダイエット)とアロマセラピー>の視点から再構築していくことは可能であろう。

口頭発表・文学2/文化・社会(14:30〜17:20)E会場

司会:小 泉   進・三 浦 國 泰  

ヘルダーのアルカディア −ナポリ体験−

岩 崎 大 輔  

 1789年1月から2ヶ月弱にわたるヘルダーのナポリ滞在は,従来イタリア旅行中の単なる幸福なひとときと理解されてきた。しかしナポリ体験は,ヘルダーのイタリア旅行にとって決定的な転換点となった。そのひとつの指標となるのが,ナポリ体験をもとに記された詩『ナポリの思い出』で用いられた「われもまたアルカディアにいた」という表現である。彼は妻カロリーネ宛書簡において,ナポリにおける自分の姿を詩的情景のなかに据えることによって,メランコリー,追憶,失われた土地という要素をも含む,理想郷としてのアルカディアの詩的伝統を暗示した。ここで詩的モティーフとしてのアルカディアと現実のナポリとが重なりを見せる。ヘルダーはナポリにおいて,ようやく現実からの避難所としての憩いの場を見出すとともに,自己の内部に沈潜することにより,息子やハーマンの死による心痛や自らの老いの意識という内的危機を克服したのだ。イタリア旅行以前,「アルカディアにもまた死はある(Et in Arcadia ego.)」と理解されていたこの慣用句は,ナポリ体験を通じて死から生へと力点が移り,甘美な追憶とともに,楽園を享受していたという意味へと変化している。そして,ゲーテもこの意味で『イタリア紀行』の題辞として採択したのであった。

Germanistik と Kulturwissenschaft の間のヘルダー

嶋 田 洋一郎  

 ここで言う Germanistik と Kulturwissenschaft とは,いずれも狭い意味で用いられる。すなわち Germanistik とは,ヤーコプ・グリムの時代から現在にいたる「ドイツ語学・文学研究」を,他方 Kulturwissenschaft とは1980年代以降のドイツおよび近年の日本の独文学界で議論の対象となっている「ドイツ語学・文学研究(およびその方法)」を意味する。次にくる「の間の」という表現は,必ずしも時間的な継起だけを示すものではなく共時的な側面をも含みうるものである。そして最後の「ヘルダー」とは Germanistik と Kulturwissenschaft の間で扱われる「対象」としてのヘルダーを意味する。
 あえて極論を承知のうえで言えば,Germanistik において扱われるヘルダーとは,ヤーコプ・グリムの時代から今日にいたるドイツ国民および国家の形成と変容の過程で読まれてきたヘルダーであり,Kulturwissenschaft において扱われるヘルダーとは,一見したところ前者とは直接には結びつかないように見える「文化」という概念のもとで読まれようとしているヘルダーである。しかしながら重要なのは,ヘルダーに対するこれら二つのアプローチを二律背反的なものとして理解することでもなければ,前者が後者によって克服されるというふうにとらえることでもなく,むしろ緊張を孕んだ補完的な関係としての両者の間でヘルダーを読むことであると思われる。

ロマン派サロン文化と女性達

毛 利 真 実  

 Henriette Herz のサロンと共に1800年頃最盛期を迎える Rahel Levin のサロンは,様々な形で文壇や文化を担う人々を育む重要な場所となったが,概ねフランス軍のベルリン占領とそれに続く解放戦争直後の時期に終焉を迎えている。他のサロンもほぼ同じ様な運命を辿っているが,ヨーロッパに長い歴史を持つサロンが,この時期に衰退したのはなぜだろうか。
 近年において,サロンの持つ機能を分析し研究しようとする試みが,Petra (1989),Habermas (1990), Gaus (1998) ,Fohrmann (1998),等によって活発になされているが,いずれの著書においてもサロンの果たした重要な役割を論じるも衰退の原因に対する追求はあまりなされていない。
 Rahel が,個々の「自己啓発」を目標にサロンを続行し,「人間的社会変革的な潜在能力」を解放することを主たる狙いとしたのに対し,ベルリンでのサロン体験をもとに書かれた Schleiermacher の未完の論文„Versuch einer Theorie des geselligen Betragens“ (1799) において眼目となっているのは,独自の道徳観に基づく自己完成を究極の目標とした「社交性」の問題であり,「社交の美学化」を追求している。この「社交性」概念のずれを分析していくことによってサロン文化衰退の一因を探りたい。

ヴァルター・ベンヤミンにおける世俗の概念

宮 城 保 之  

 ベンヤミンの思想の特質を語る際,常に引き合いに出されるのがその内にあるユダヤ神学と歴史的唯物論との対立である。特に遺稿となった『歴史の概念について』の解釈をめぐる議論などを中心に,この対立はベンヤミン研究の要とみなされてきた。さて,そのベンヤミンがしばしば関心をよせる概念として<世俗性>がある。例えば,『複製技術時代の芸術作品』では有名なアウラという概念が世俗化された儀式として規定される。またシュルレアリスム論では,シュルレアリストたちの方法が宗教的啓示を克服する<世俗的啓示>とよばれる。この世俗性,世俗化という概念は彼の神学と唯物論との境界にたつものとして,先の議論に寄与するところ大きい。もっとも早くこれに着目したアドルノは,ベンヤミンが世俗化のなかに神学的遺産にとってのチャンス,それ自身の救済のための唯一のチャンスを見たとしている。その後これを批判的に継承するかたちで,G. カイザー,U. シュタイナーらの研究でもベンヤミンと世俗性の関係は主題化されている。
 本発表の目的は,このような研究史を参照しつつベンヤミンにおける世俗の概念を追及しその要点を把握することである。その際特に,世俗ないし世俗化論において見られる幾つかの対立,例えばプロテスタント系知識人によるものとユダヤ系知識人によるそれとの対立などに着目してみたい。

1990年代の映像にみるヒトラーとナチス

飯 田 道 子  

 1990年代に撮られた新旧両世代の監督たちによるヒトラーとナチズムの映像からは、それぞれの世代の特徴や、ナチズムの受容および映像表現の変遷の過程をふまえた表現を見ることができる。
 「ドイツ三部作」を発表したクリストフ・シュリンゲンズィーフは、再統一や東西分断の歴史を、血しぶきと肉片が飛び散るスプラッター仕立てのホラー映画にした。残酷な映像をたたみかけていった先に、シュリンゲンズィーフの映画は喜劇に変わる。その毒のある笑いは、ナチズムを「笑い」として表現することの新しい可能性を示唆しているといえる。
 ローランド・ズゾ・リヒターは『トンネル』で東西分断の悲劇を描いているが、そのドラマ作りはハリウッド映画を踏襲しているといえるだろう。アメリカ映画が血肉と化している世代の好例というべき作品である。同テーマを扱ったマルガレーテ・フォン・トロッタの作品と比べてみると、手法の違いが際立つ。
 「旧世代」の代表というべきシュレーンドルフやヘルツォークも、これまでとは異なるアプローチでナチズムに取りくんでいる。『魔王』でシュレーンドルフが映し出したのは「美しく魅惑的なナチズム」だ。ヘルツォークは最新作でナチス台頭の時期を扱い、神話的表現を試みている。これら神話的、美的表現では、受け止める側の成熟に期待がかけられている。ヒトラーとナチスを「過ぎ去った悪」として捉えるのではなく、あれほど大勢の人々を惹きつけた「ナチズムの魅惑」を今日にも継続するものとして見据えようとする姿勢を見ることができる。

口頭発表・語学(14:30〜17:55)F会場

司会:保 阪 靖 人・伊 藤   眞  

品詞間の互換性について−名詞派生の形容詞と名詞の2格の場合−

吉 村 淳 一  

 一つのことがらが表現される場合,さまざまな形態的・統語的手段が用いられる。例えば,ある女性の外見が美しいことを表現しようとした場合,以下のように少なくとも三つの表現の可能性が考えられる。(1)Ihr Aussehen ist schön. (2)Sie sieht schön aus. (3)Ihr schönes Aussehen [fasziniert die Männer]. (1)〜(3)では3つの構成要素,sie, aussehen, schön が形態的・統語的に異なった形で組み合わせられている。人称代名詞 sie には格による曲用が見られるし,分離動詞 aussehen は動詞として用いられたり,不定詞の形で名詞的に用いられたりしている。ある品詞に別の品詞と同じような機能をもたせる形態的手段としては,分詞,不定詞,2格,形容詞の名詞化などのように語形変化によるものや -heit(形容詞派生的),-ung(動詞派生的), -lich(名詞派生的)などのような接尾辞を付加するものがある。
 本発表では,このような品詞間の互換性に着目し,名詞の2格を kindlich, mütterlich, väterlich などのような名詞派生の形容詞と比較しながら考察する。例えば,das väterliche Haus と das Haus des Vaters は偶然にも同じ意味をもつが,必ずしもすべての場合において,このように一致するとは限らない。このような内容的な解釈の問題も取り上げ,それぞれの文法的要素がもつ特性を明らかにしたい。

接頭辞 be-の機能について

野 上 さなみ  

 接頭辞 be-の持つ機能は,名詞や形容詞の動詞化,項構造や Aktionsart の変化,自動詞の他動詞への変換など,多岐にわたっているが,この接頭辞を伴う複合動詞の大部分に共通して見られる機能として「話者の視点の転換」が挙げられる。本発表では接頭辞be-を伴う複合動詞とその基本形式(動詞・名詞・形容詞)の間に起こる Lokativalternation を検証し,しばしば論議されている特定の項の holistische Interpretation, BRINKMANN(1997) による Nonindividuation Hypothesis,be- を伴うことで生じる結果相の解釈,についても言及しながら,接頭辞 be-に関連する話者の視点がどのようなものであるのかを考察していく。
 基本動詞が他動詞である場合,Lokativalternation は出来事全体を時間的に測定するための基準となる項を交替させる作用と捉えることができる。この基準の内容は画一的ではなく,いくつかのヴァリエーションが考えられる。基本動詞が自動詞であるケースのうち,ほとんどの場合には,この接頭辞の付加が他動詞化を起こすが,主語名詞句がその動きや行為をみずから発生させる能力を持つ Protagonist である場合に限ってこの接頭辞が使えるという意味論的な傾向や,基本動詞には欠けている何らかの状態叙述(Zustandsprädikat)が複合動詞の意味構造には含まれていることにも触れる。以上のような項目を通して,接頭辞 be-に伴う話者の視点変換と, Lokativalternation で交替を起こす動詞の項との関係を明らかにしていきたい。

動詞接頭辞の意味機能に関する一考察

阿 部 一 哉  

 接頭辞 er-を持つ動詞は,「獲得・到達」「状態変化」「死ぬ・殺すという意味」を表すものの3つの意味タイプに大別できる。
 これらの意味タイプはそれぞれ独立して存在しているのか,それともきわめて抽象的な形で,ひとつの「er-の意味機能」にまとめることができるのか,本発表ではこの問題提起に対する考察を行う。
 まず,上述のような意味タイプがいかなる要因で決まってくるのかを考える。
 決定要因の一つ目として,語幹に取り込まれている要素を仮説的に想定する。例えば「獲得・到達」という意味タイプに属する erarbeiten の語幹には,arbeit-=「働くという行為を表す形態」が取り込まれている。この語幹の表す意味は「獲得・到達」の「~して手に入れる」という意味的枠組みに一番なじむと感じられる。
 決定要因の二つ目として,er-動詞が結びつく「主語」「目的語」といった名詞的項の種類を想定する。 erdrücken の意味タイプが「死ぬ・殺すという意味」であると解釈できるのは,この動詞が目的語として「人」と結びついているからだろう。
 発表ではこれら「語幹の種類」「名詞的項の種類」に着目して接頭辞 er- を持つ個々の動詞を観察する。その上で上述の3つの意味タイプを捉え直し,er- の意味機能についての考察を行う。

コーパス分析と規範文法−folgen における完了助動詞の使い分けを例に

吉 羽 里 恵  

 自動詞の中には,完了形を形成する際に,完了助動詞(sein/haben)を使い分けるものがある。これに関し,規範文法における記述では,動詞の意味が「移動」を表す場合には sein 支配となり,「行為」を表す場合には haben 支配となる,とされている。自動詞 folgen においても,語義内容の違いによってこの使い分けが存在する。しかし,folgen では,その意味が「移動」というよりはむしろ「行為」を表しているにもかかわらず,sein 支配となる場合(例:einem Befehl folgen<命令に従う>)があり,規範文法における記述が完全には適用できないものが存在する。このことから,folgen における完了助動詞の使い分けには,規範文法上の記述とは若干異なる要因が設定されるのではないか,という問題が提起される。
 そこで,本発表では,IDS Cosmas のテクストコーパスより抽出された,folgen の完了形テクストを対象に,完了助動詞の使い分けの実態を調査し,統語的(与格目的語出現の有無)及び意味的観点(移動性と抽象化)に基づく事例分析から,規範文法における記述とコーパス分析結果との間には,「ずれ」が存在することを示す。加えて,folgen の完了助動詞の使い分けに際して設定される要因間の相関関係を考察することにより,folgen における完了助動詞の使い分けの全体的傾向を実証的に提示する。

完了の助動詞からみた状態変化構文の認知文法的考察

坂 本 真 樹  

 次の異なる文法形式を示す状態変化構文の意味を,主な考察対象とする:
 (1) Die Tur öffnet sich.(haben型状態変化構文)
 (2) Die Vase zerbricht(sein型状態変化構文)
(1)のタイプの状態変化構文は,完了の助動詞としてhabenをとるのに対し,
(2)のタイプの状態変化構文は,完了の助動詞としてseinをとることに着目する。
Langackerが提唱する認知文法では,文法形式は意味(事態解釈)を具現化するものとし,異なる文法形式は異なる意味と結びつくと想定すると同時に,同様の文法形式を示す構文は意味も共通していると想定している。本研究では,認知文法の理論的枠組みに立ち,次の2つの主張を行う。
 主張1:完了の助動詞としてhabenをとる文は,主語の動作主性という観点からの事態解釈(force-dynamic construal)と結びつくのに対し,完了の助動詞として sein をとる文は,動作主性から切り離された事態プロセスという観点からの事態解釈(absolute construal)と結びつく。
 主張2:haben 型状態変化構文には,動作主性とともに,被動作者性があり,動作主と被動作者から構成される他動詞文からの拡張事例として位置付けられる。一つの主体が動作主性と被動作者性をもつ再帰構文と密接な意味的関連性をもつ。それに対し,sein 型状態変化構文は,sein 型自動詞文の中に意味的に位置付けられる。

状態受動に関する一考察

鈴 村 直 樹  

 本発表は現代ドイツ語の状態受動が実際の言語運用において動作受動完了形と混用されるか否かを対照言語学的な環境下で検証するものである。具体的には以下(1a)と(1b)の違い(あるいは類似点)を問題にする。
 (1) a.Die Tür ist geöffnet.
 (1) b.Die Tür ist geöffnet worden.
 この両者が異なる構文であることは歴史的経緯ならびに現代語に観察される諸制約などから明らかである。にもかかわらず文法書の中にはこれらが混用される可能性を指摘するものが少なくない。またこの現象を汎言語的にみると,ドイツ語やデンマーク語のように6時制に対して独立した動作受動と状態受動が存在するタイプから,ノルウェー語のように telisch な動詞の現在形と過去形に限り状態受動が動作受動完了形と同形になってもよいタイプ,さらにオランダ語のように全ての動詞・時制においてそれが義務的であるタイプなどに分かれる。同じゲルマン語に観察されるこのグラデーションは,言語が変遷・発展することを考えれば,ドイツ語の今後の姿を予測するうえで非常に興味深い事実である。
 こうした点をふまえ本発表ではドイツ語の状態受動が動作受動完了形に対していかなる関係にあるかを複数の条件下で検討する。加えて,ドイツ語文に対応するデンマーク語とオランダ語のデータを参考資料として付す。時間的な制約から発表はドイツ語中心になると思われるが,関連言語についてご存知の方がおられれば,あわせてコメントを頂ければ幸いである。

ポスター発表(14:30〜17:30)G1・G2会場

Trauerspiel(Benjamin)としてシェークスピアの戯曲を考える

恒 川 隆 男  

 Trauerspiel とは何かを考えるに当たって,大変大雑把ですが,<あの時あのようなことをしなかったら,お前も死ぬことはなかったろうに>という問題設定に対して,<あの時あのようなことをしなければ,僕は僕でなくなってしまうではないか>と答えるのが実存型悲劇,<あの時あのようなことをしなくても,別の時に別のことをしただろうから,それが死を招くことになっただろう>と答えるのが運命劇と,一応仮説を立てることにします。そして運命劇は,ベンヤミンによれば,『そのシェーマが Trauerspiel と非常な親和性があり,Trauerspiel の一種だと理解されなければならない』(全集 I-1S. 380)というのです。 Trauerspiel のこうした構造は,シェークスピアの戯曲を例にとって考えると割合はっきりするのではないか,同時にまた,シェークスピアの戯曲を Trauerspiel として読むことによって,この戯曲の現在では見えなくなってしまった層も少しは見えてくるのではないかと思われます。また,シェークスピアの戯曲の悪役−リチャード3世や『オテロ』のイヤーゴなど−は,イギリスのミステリー劇の悪魔,道徳劇の<悪のアレゴリー>から来ているのだという  J. L. Klein の説をベンヤミンは援用していますが,彼が「道化としての悪魔」と呼んでいるものの役としての構造も,シェークスピアの具体例を見ると一層はっきりするように思われます。

カンディンスキーの舞台作品

江 口 直 光  

 ヴァシリー・カンディンスキーは,絵画作品製作以外にもさまざまな活動に取り組み,とりわけ演劇には比較的長期にわたって強い関心を示し続けた。だが,この分野における彼の活動は1910年前後の時期に集中している。今回の発表では,1910年前後に成立したカンディンスキーの舞台作品を,主要作である《黄色い響き》を中心に,以下の観点から取り上げる。
1.1910年前後の時期は,カンディンスキーが具象芸術から抽象芸術へ移行した過渡期にあたる。具象性を完全に捨て去っていないこの時期の彼の絵画については,ひとつのモチーフに複数の意味を担わせることによって多義性を意図したことが特徴としてつとに指摘されているが,同様のことが舞台作品にもあてはまるかどうか,先行研究における解釈を参照しながらモチーフの分析を通じて検討する。
2.カンディンスキーは新たな時代の理想的な芸術のあり方として諸芸術の総合を企図し,その理念を舞台作品として実現することを目指した。そこで,彼の舞台作品における芸術諸ジャンルの総合のあり方を,著作『芸術における精神的なものについて』および『舞台コンポジションについて』において彼が提示した総合芸術論に照らしながら分析する。
 これらの点を踏まえ,舞台作品への取り組みがカンディンスキーの具象芸術から抽象芸術への移行において果たした役割についても考察を進めてみたい。

芸術が持つ視点−ウィーン文化史における „WochenKlausur“ の位置付け−

濱 野 英 巳  

 1993年にウィーンにおいてその活動を開始したアーティスト・グループWochenKlausurは,依頼を受けた共同体の内部に入り,一定の期間を共同体の構成員と生活を共にし,その共同体における問題の発見,及び解決のための「具体的提言」を行うことを活動の中心としている。麻薬中毒患者に対する医療問題,過疎地対策,第48回ヴェネツィア・ビエンナーレではコソボ自治州における言語教育問題に取り組んだ。音楽・絵画・建築といった伝統的な意味での芸術活動のみならず,60年代のウィーン・アクショニズム等,現代美術の中心地の一つでもあるウィーンにおいて,彼らの活動を芸術と見るか否かは意見の分かれるところである。しかしながら,彼らの活動は,芸術を追求すると言いながら無自覚に資本経済に組み込まれたある種の芸術活動に対する一つの意図的なアンチテーゼでありながら,とりわけ「芸術が持つ視点」に着目した場合,Stifter や Hebbel といった19世紀オーストリアの文学にも通ずる客観性・普遍性をも有しているように思われる。彼等は特に社会的弱者のための芸術を実践しつつ,人間社会における芸術のあり方,その意義を問う。本発表では,WochenKlausur の中核メンバへのインタビューと併せ,ウィーンにおける様々な「芸術が持つ視点」を比較考察する。

市壁の文化史

中 島 大 輔  

 中世から近世の都市はほぼ例外なく市壁と市門を巡らせていた。市壁は都市の防衛線であり,法的境界であり,市門は関税を徴収する税関の機能や旅行者を審査する検問所の役割も果たした。市壁や市門は都市の自治の前提条件であると同時にその象徴であり,近世に至るまで市民生活のありかたは市域を囲繞する市壁によって決定的に規定されていたのである。
 しかしこのような市壁や市門と市民の関わりについては,これまで必ずしも十分な研究が行われてきたとは言えないようである。多くは個別の都市の市壁に関するモノグラフィーであり,もっぱら美術的・建築史的観点からの考察に留まっている。総論を難しくしている背景には,都市の規模の差に加え,帝国都市,自由都市,地方都市という地位上の相違などもあると考えられる。
 こうしたあらゆるレベルにおける都市ごとの差異を前提にした上で,都市の相貌を決定する市壁や市門について,建築の経緯や歴史を辿り,それが市民生活で果たした機能や,市民のメンタリティーに及ぼした影響を調べることにはどのような意味があるのだろうか。またこのテーマは研究分野においてどのような広がりを持つのだろうか。
 本発表では南ドイツの帝国都市の事例を中心に,不完全ながらおよその文化史的考察の見取図を描いてみたい。

美的記憶のプロセスを表象する芸術形式−ゲルハルト・リヒター『アトラス』およびパウル・ツェラーン『ストレッタ』−

林   志津江  

 文学・芸術は,個別的あるいは集合的な記憶装置のひとつと考えられる。だがそうした機能は,記憶されるものが歴史的クロニクルのそれと異なる限りにおいて意味をもつであろう。文学・芸術作品は,戦後ドイツが対峙し続けてきた「ドイツの過去」についての新たな解釈可能性を呈示することによって初めて,固有の記憶装置として機能しうるのではないだろうか。
 パウル・ツェラーンとゲルハルト・リヒターは,前者は詩,後者が絵画といったように,その制作ジャンルを異にしている。しかし彼らの反省的な創作は,彼らがいわゆる「古典的」モデルネにおける芸術の自律性という原則を批判的に問いつつ独自の形式を模索し,「理解不可能性」を代償として,現代における芸術の自律性を探ってきたという意味で共通点を有している。本質的な意味で一義的に理解することが不可能な社会的事件をテーマとする彼らの抒情詩や絵画の形式は,個別の記憶と集合的な記憶との間を揺れ動き,決してひとつの定まった形姿に固定されない。それ故にそうした動的な形式は,事件にある特定の解釈を施す媒体としてではなく,個別的な事柄と一般性のどちらにも接触可能な記憶の装置として機能する。発表では以上の問いを,リヒターの代表的作品『アトラス』とツェラーンの『ストレッタ』に即して議論を進め,さらに現代芸術一般における「美的記憶装置」としての芸術作品の社会的・歴史的機能を展望したい。

広島大学バーチャルユニバーシティ『オンラインドイツ語講座』の構築

岩 崎 克 己  

 広島大学では,『バーチャルユニバーシティ推進事業』の一環として,2000年11月以来,英語・ドイツ語・フランス語・中国語を中心とする外国語のオンライン学習用教材の開発プロジェクト(http://flare.media.hiroshima-u.ac.jp)に取り組んできた。
 本発表では,そのドイツ語部門である『オンラインドイツ語講座』の構築の進行状況と現在作成中のビデオオンデマンド教材について報告するとともに,大学におけるドイツ語教育全体の中でのオンライン学習の位置づけについて問題提起する。
 ドイツ語教育においても,学習意欲の高い学生に対するインテンシブコースの導入,到達目標型コンセプトによる授業評価,短期語学研修の組織化など,目に見える成果を上げるためのさまざまな取り組みがなされている。学習時間数の少なさによる練習量の不足, 大人数授業による発音の個別指導の難しさなど,具体的に様々な問題を抱えた現行の授業を補完する形で,学生がオンライン上で自学自習できる環境を整備しようとする本プロジェクトもそうした改革の試みの一つである。
 なお,当日会場では,昨年,ハンブルク大学日本語学科の協力も得て作成した20のスキットからなる入門用ビデオ教材『ハンブルクの夏 Ein Sommer in Hamburg』のデモを行うとともにその評価版も配布する予定である。



第2日 6月1日

シンポジウムⅣ(10:00〜13:00)A会場

日本の視点からゲルマニスティクの新しいパラダイムを探る
Zu neuen Paradigmen der Germanistik aus japanischen Perspektiven

司会:松 田 和 夫  

 日本のゲルマニスティクおよびドイツ語教育はグローバリゼーションの進展とともに日本の国内国外でその存在価値が問われている。その端緒は1991年の大綱化にあるというより,むしろポスト冷戦構造,別言すれば,「第三の戦後」を生きる日本の国家戦略にあり,大綱化はその論理的帰結とみなすことができる。「第三の戦後」を迎えて顕在化したのは唯一の超大国アメリカのグローバリズムとアメリカ文化のグローバリゼーションという二つの局面であり,グローバリゼーションの一つが米語帝国主義である。この〈帝国〉(ネグリ&ハート)は遍在しており,日本のみならずドイツ語圏のゲルマニスティクもこの〈帝国〉に対処する方策を模索していると言うことができる。このような状況下で私たちが日本におけるゲルマニスティクとドイツ語教育をいかに活性化できるか,さらにはゲルマニスティクの新しいパラダイムをいかに構築できるかを討議するのが,本シンポジウムの目的である。
 概括的に言えば,ナショナルなレベルとスープラナショナルなレベルに大別できる。両者はお互い密接な関係にあるが,あえて二分化する。ナショナルなレベルでは,日本国内のゲルマニスティク・ドイツ語教育に対する需要の低下である。たしかに,多言語主義という文教政策によってドイツ語が明治以来享受してきた特権的な地位を失っているが,その責めは日本のゲルマニスティクにもあるだろう。日本のゲルマニスティク・ドイツ語教育は果たして現代社会の要求に応えてきたのだろうか?
 スープラナショナルなレベルでは,日本のゲルマニスティクがドイツ語圏のゲルマニスティクの(縮小)再生産にとどまり,日本独自のアプローチが欠如しているのではないか,という疑念を挙げることができる。ドイツ語圏のゲルマニスティクの再生産であるかぎり,日本以外のゲルマニストはそれに耳を傾けず,オリジナルを手に取る。この限界を私たちが克服したとき,世界のゲルマニスティクは日本のゲルマニスティクを初めて必要とするだろう。従来のアプローチを否定するつもりはない。しかし,それだけでは不十分であり,私たちは新たな観点からゲルマニスティクを観ることによって,文化的相互交流が可能になり,日本やドイツ語圏の文化のみならず,世界の文化をより豊かなものにすることに寄与できるのではないか。そのとき日本のゲルマニスティクは世界のゲルマニスティクの新たなパラダイムの構築に貢献できるのではないか。
 各発表者が比較文化,言語研究,言語政策,文化学,受容史,移民文学の観点から論じる。このシンポジウムでは今後の日本のゲルマニスティクのあり方について会場の同僚諸氏と活発に議論することを目指しており,そのため発表時間を極力短くし,討論の時間を多く取っている。活発な Interaktion を期待したい。

日本のゲルマニスティクにおける「パラダイムの転換」は可能か?

高 橋 輝 暁  

 日本の人文科学においても,いわゆる「国際化」が求められる中で,われわれのゲルマニスティクも,「国際的に通用」する研究成果を発信しなければならなくなった。ドイツ語圏の研究者から一方的に学んで,その成果をアレンジし直せば,日本語の世界では大いに意味があるかもしれない。しかし,それをドイツ語に直しても「国際的に通用」はしない。もちろん,ドイツ語でドイツ語圏の名だたる研究者に論争を挑んで,その見解に疑義を呈したり,部分的修正をせまることでも,「国際的に通用」するといえる。未調査の資料はいくらでもあるから,それらを発掘して「研究の穴」を埋めるのもいいだろう。でも,それらはすべてドイツ語圏のゲルマニスティク,ひろくは西洋の人文科学において形成された研究の枠組みの中での話だ。そこでは,われわれは疑似的にドイツ語圏の,あるいは西洋の研究者になろうとしているのだ。そうではなく,ドイツ語圏文化を本気で異文化としてとらえ,非西洋としての日本の立場から,ドイツ語圏の研究者にはまったく思いもよらない,またにわかには同意できない研究が可能にならないだろうか。そのためには,一種の「パラダイムの転換」が必要だろう。そうした研究の可能性と条件について,若干のテーゼを提示し,議論の材料としたい。

21世紀日本におけるドイツ語教育政策とドイツ語教員の役割

三 瓶 愼 一  

1.社会的共有財としての言語能力
 Germanistik とドイツ語教育の没交渉状態を見直し,ドイツ語が必要な現場の認知と開拓,到達点を示すカリキュラム構築とコンテンツの整理が急務だ。言語能力を,個人資産と同時に社会的共有財とも捉えることを提案する。通貨統合にも匹敵する試みである欧州の共通評価枠組みや言語プロフィールにも示唆を得られよう。
2.発信能力の養成とアジアとの交流
 統合欧州内のドイツ語圏に対してアジア圏内の日本の事情を説明する視座構築が必要だ。アジア内での日本の位置づけを,ドイツ語教育のコンテンツにも含めることが有効だ。 Germanistik とは協働しつつ,旧来の人文科学からは距離を置いて,他分野の諸科学との協力によるドイツ語教育体制の構築が求められる。アジア圏の教員や学習者に関する実態調査,人的交流,アジア諸国の同僚に劣らぬ運用能力養成のための集中的教育も重点の1つだろう。
3.グローバリゼイションの中での価値観の転換
 日本と逆に,中国では「グローバリゼイションゆえにドイツ語を」である。日本国内では,ドイツ語需要の喚起に努め,地球規模化と多言語主義についての啓蒙,非英語外国語教育の復権を求めて,理論武装が必要だ。英語教育開始以前の小学生に,地球上には各種の自然言語が存在し,英語もその1つに過ぎないことを意識させることが重要だ。

言語文化研究−時空を行きつ戻りつ縫うように

高 田 博 行  

 ドイツ文学研究者の目から見れば,ドイツ語学研究者とは「言語学プロパー」という名のもとに形態論,統語論,意味論などという言語内的視点でドイツ語を「どこか機械的に」分析する技術者集団であると映っているかもしれない。発表者は,従来のドイツ語学を補完する重要な視座として,言語を日独の文化・社会という言語外的視点で考察する「言語文化」研究を提唱したい。ここでいう言語文化研究は,真正面から日本(語)との比較・対照を行うものであるよりはむしろ,日独の文化や社会の間を行きつ戻りつしながら,時空にまたがる形で眺望するような研究である。具体的には例えば,ライプニッツが科学術語を自国語化するよう提案したプログラムが,明治期の日本で科学術語が漢語化されるさいに影響を与えていると(つまりドイツ語史を論じているうちに,それが日本語史に収斂してゆくように)捉える視点や,心態詞の辞書記述史を200年間追ううちに,日本の独和辞典での記述の世界的意義に気づくという認識や,はたまた近年日本からマンガ文化を輸入しているドイツを,そこに頻出するオノマトペ(擬音語,擬態語)の「輸出」「輸入」という観点で眺めてみる発想がそうである。すなわち,日独対照自体を研究目的とするのではなくて,ドイツの土俵で十分に通用する研究内実に,時空を行きつ戻りつ縫うような視座が織り込まれているとき,本国ゲルマニスティクを「うならせる」研究が誕生する。

文化学の観点から

神 尾 達 之  

 閉塞しつつあった学問領域を再編成するという制度内の要請と,社会の多文化化およびボーダーレス化の波を受けつつ,90年代のドイツでは, Kulturwissenschaft を標榜する学科や研究所が立ち上がっていった。それは,伝統的な学問領域を〈統合〉するための立脚点を〈過去〉の理論枠に求めた点で,特殊ドイツ的な試みだったが,伝統の上に立ちつつ体系化するというこの知のフォーマットは,文化研究が制度として確立するためにとらざるをえなかった戦略でもあった。 Kulturwissenschaft が cultural studies とは異なり単数形をとるのは,後者が志向するイデオロギー批判に前者が,一定の距離をとっているからだけではなく,後者が必ずしも志向しない制度化が前者にとって重要な課題でもあるからだろう。本発表では, cultural studies と Kulturwissenschaft のこのような差異を踏まえつつ,日本の Germanistik に散在している文化学のいくつかの試みを紹介したいが,あらかじめ予告しておけば,このような制度としての Germanistik サバイバル作戦そのものも,文化学の対象たりうるだろう。

受容と主体性−受容史の側面から

中   直 一  

 日本でドイツ文学・ドイツ文化の受容が本格的に始まった明治前半の翻訳や概説本を読むと,かなり自由な解釈や読み込みが為されていたことが分かる。このような翻訳や概説は,今日の視点からするときわめて非学問的なものとも考え得るが,他方,当該の時代の日本におけるドイツへの関心の在り方が非常によく分かる実例を示すものともなっている。またこうした翻訳・解説本を書いた人々の中には,ゲルマニスティクを専門としない人々も多くいた。日本におけるドイツ文化受容の問題を考える際には,ゲルマニスト以外の人々の営為を考慮に入れる必要があると考えられる。すなわちドイツ文学のみに領域を限定せずに,むしろ幅広くドイツ文化受容に関与した人々の発言・営為をも視野に収めると,意外な人々がドイツ文化受容の意義を考えていたことが分かる。明治初期の文教政策に関与した人々の中には,イギリス文化との対比においてドイツ文化を把握した上で,ドイツの学問を積極的に日本に広めようとした人々がいた。
 このように,必ずしも学問的とは言えない翻訳や概説本に見られるドイツ文化の「受容」および,ゲルマニスト以外の人々が示すドイツ文化「受容」の中に,むしろ受容の中の主体性が見えてくるのではないかと考えられる。

ドイツ語圏移民文学について外側から論じるということ

濱 崎 桂 子  

 ドイツ語圏における移民文学という現象は,いうまでもなく,ドイツ語文学が,もはや母語話者の占有物ではないことの証左である。ドイツ語圏ゲルマニスティクにおいては,ドイツ社会の文化的多様性を反映するテクストとして,あるいはドイツ語文学に多様性を与えるものとして評価されてきた。英米のドイツ文化研究においては,カルチュラル・スタディーズの文脈において,文化的また社会的な周縁から発信された,この文学テクストの可能性が議論されている。越境の時代,先進国に共通に見られる現象としてのこれらのテクストを論じるとき,私もひとりの「当事者」として論じることになるだろう。
 無論,「移民文学」という一つのジャンルが実体として存在するわけではない。いわゆる「外国人」が書くテクストを,母語話者による「ドイツ文学」の対立項として扱い続けるならば,むしろ「中心」の言説を再生産する危険性を抱えている。書き手の位置がたえず問題になるこのテクスト群を扱うとき,必然的に,読み手の位置も問題となるのである。
 トルコ出身の女性作家エズダマル(Emine Sevgi Özdamar)のテクストは,「中心」と「周縁」とは,複雑に錯綜する関係軸の一つに過ぎないことを示している。私は,ドイツ語という言語に対しても,また,ドイツ社会における移民という立場に対しても外部にある位置から,さらにいえば,女性という立場から,彼女のテクストに向かい合うことになる。そこで見えてくるのは,たとえば「ドイツ」対「トルコ」という関係軸で,このテクストの本質的なテーマは把握できないということなのである。



シンポジウムⅤ(10:20〜13:00)B会場

ドイツ語史研究の新展開
(Neue Ansätze der Erforschung der deutschen Sprachgeschichte)

司会:新 田 春 夫  

 これまで一般言語学の主たる関心がほとんどもっぱら現代語の共時的研究であったのに伴って,長い間,ドイツ語を始めとする個別言語の通時的・歴史的研究はかなりないがしろにされてきた感は否めない。しかし,近年に至って,以下の2つの点で新しい展開が見られると考えられる。そのひとつは,一般言語学の研究領域が形態論,統語論,意味論などの,言語の構造やシステムそのものの研究に留まらず,社会言語学,テクスト言語学,語用論など,言語とそれを取り囲む社会,テクスト,言語使用などとの関わりを研究する,といったふうに新しくその研究領域を拡大したこと,また2つは,認知言語学などによって,共時的のみならず通時的視点の重要性が再認識されるようになったことである。
 このような一般言語学の領域での変化に伴って,近年になってドイツ語史を始めとする個別言語学の史的研究分野でも,従来のようなドイツ語などの個別言語そのものの史的変化に限定された文献学的研究ではなくて,社会言語学,テクスト言語学,語用論などの視点からの新しい研究成果が生まれている。
 本シンポジウムでは,中世から18・19世紀にいたるドイツ語史の各領域において,ドイツ語の歴史的変化を,社会,文化,伝統,慣用,修辞学,方言,言語変種,書記,メディア,コミュニケーションなどとのさまざまな関わりにおいて捉えなおそうとする近年の方法論やそれによる自らの研究成果を各発表者に紹介してもらった後,今後の展望について論じたい。

書記変異をめぐるアプローチのあり方について

河 崎   靖  

 ある一人の言語使用者が,ある形態的単位に対しどのような語形を用いるかという問題設定に関し,いくつか段階を設けて考察する必要があろうことが考えられる。その個人の属する言語集団から受ける制約,すなわち,言語の体系性という社会的な制約から,方言レベルと言える言語共同体的なものを経て,比較的,個人に帰する性質のもの(例:Schreibfehler)まで多様である。
本報告では,主に『ヘーリアント』(Heliand)に基づき,古ザクセン語において書記法上見られる揺れの現象を,type-tokenの枠組みを用いて,実際の写本を網羅的に統計調査することを通して,ゲルマン語史の中で捉え直す。すなわち,本報告では,広くゲルマン語全体の立場から,その音・書記の相互的な影響関係およびその傾向性を明らかにし,書記法上の揺れを,その背後にある音変化との連関で捉えることを目指す。その際,diatopisch, diachronisch な観点のみならず,diastratisch な考察を通して,社会言語学あるいは言語地理学的に総合的な立場から写本異同の問題点の所在を明確にすることを目標とする。

事物と論理の整理秩序−中高ドイツ語におけるトピックと思考の展開

井 出 万 秀  

 現代ドイツ語における文体慣習には,同じ表現を繰り返さない,という原則がある。このため同一の対象や人物であっても表現は異なることが少なくない。この文体慣習は特に新聞テキストで顕著に見られる。
 本報告では,第1に,人物を表現する際の表現ヴァリエーションにおいて,どのような観点からある呼び方がなされるのか,その観点の体系化を試みる。その際,修辞学におけるトピック論(Topik)の伝統とアリストテレスのカテゴリー論を援用する。第2に,この検索カテゴリー体系を用いて,中世ドイツ語『ニーベルンゲンの詩』と『トリスタン』を例に,登場人物がどの検索カテゴリーから表現されているかを分析する。例えばクリームヒルトには juncvrouwe, maget, vrouwe, die schoene, die valandinne といった呼び方のヴァリエーションが見られる。これらの表現ヴァリエーションを検索カテゴリー体系一覧表に分布させると,中世ドイツ語宮廷文学テキストではどのようなカテゴリーからある人物が見られているかが現代ドイツ語との比較から浮かび上がると同時に,中世ドイツ語宮廷文学テキスト相互においても明らかな相違が見られる。最後第3に,表現ヴァリエーションには,形式上いくつかの手段が存在するが,その中でも,接尾辞 -aere(mhd.)/-er(nhd.) と過去分詞・現在分詞からの名詞派生に注目し,それぞれの生産性推移と意味変化について考察する。

ドイツ語現在分詞の歴史と現在

重 藤   実  

 ドイツ語の現在分詞は,英語の現在分詞などと比べても,使用範囲が狭い。現代ドイツ語においては,分詞構文を除けば,現在分詞には動詞用法はない。
 品詞分類とは,単語のレベルで行うのが普通である。しかし動詞の変化形の一種である分詞類も,同じような分類が可能である。分類においては,離散的な性質のみではなく,連続的な性質にも注目する必要がある。現代ドイツ語の現在分詞は,動詞的性質を失って名詞に近づき,形容詞に非常に近い位置を占めている。
 しかし歴史的には,アスペクトなどを表現するために,現在分詞を動詞領域で助動詞とともに用いる用法が試みられた時期があった。しかしそれは広く受け入れられることはなく,現在では,現在分詞は名詞領域での使用が主となっている。
 本報告では,用例をもとにドイツ語現在分詞の用法の歴史をたどり,ドイツ語の現在分詞にも動詞領域での用法を発展させる可能性があったことを示す。また,現在の状況を言語理論の観点から説明する可能性を考察する。

近世ドイツ語の話し言葉性

新 田 春 夫  

 音声と文字は異なったメディアであるから,その性質の違いによって,話し言葉と書き言葉はそれぞれ独自の構造を発展させることになる。話し言葉はコンテクストに依存することが多い。また,耳で聞いて理解されなければならない。それに対し,書き言葉は読み返すことができる。また,コンテクストに依存せずに,情報はすべて言語化しようとする。このようなことから,それぞれ文法形式や文構造などが異なってくる。
近世社会では,その地域的・社会的流動化にともなって,文書によるコミュニケーションの重要性が高まり,ドイツ語は書き言葉的性格を強めたと考えられる。このことは逆に,15,16世紀のドイツ語は,現代ドイツ語に比して,まだ話し言葉的性格を濃く残していることをもって証することができる。
 本報告では,近世ドイツ語の代表例としてのルターのドイツ語を材料に,上述のような話し言葉と書き言葉の違いに照らし合わせて,その具体的な反映としてのさまざまな言語現象を検証し,それによって逆に現代ドイツ語が文法家などによって規範的,人為的に整備され,形成されたものであることを明らかにしたい。

18世紀以降の辞書記述に見る「歴史的慣用句研究とことわざ研究」−社会を映す鏡としての慣用句とことわざ

渡 辺   学  

 一般に慣用句研究は,その構成要素の統語的・意味的振る舞いに焦点を当てて分析されるか,最近では認知的視点から推進されることが多い。また,ことわざ研究(俚諺学)は,文学作品などのテクストを解釈するための一手段として分析される傾向にある。また,これまで慣用句・ことわざは言語表現や言語研究の周縁部に位置づけられてきた。
 その一方で,19世紀の後半をはじめとして,ことわざを「民族の知恵」の結晶として収集する試みがしばしばなされた。慣用句に関しても,19世紀末にさまざまな用例集が公刊されたほか,たとえば,1970年代に起こり,今日でもその利用価値を減じていない,個々の句の成立背景の詳細な記述を中心とする Röhrich の試みなどがある。これらは一般に狭義の言語学の枠を離れ,民俗学的な研究成果という評価を受けている。
 本報告では,慣用句辞典,ことわざ辞典などを素材とし,また,慣用句の通時研究の成果を振り返りつつ,18世紀以降,とりわけ19世紀のドイツ語圏において,①慣用句・ことわざが言語表現全体のなかでどんな位置づけをされていたか,②慣用句・ことわざの成立背景を知ることが,その時代の社会状況を知るよすがになりうるのかを探り,③変種言語学的視座から,慣用句・ことわざの歴史的・通時的研究の意義と可能性を問い直したい。



口頭発表・文学3(10:00〜12:15)D会場

司会:高 橋 慎 也・広沢絵里子  

ヨーロッパ市民社会における「飲食儀礼」−エスノグラフィーとしてのトーマス・マン『魔の山』−

柏 木 貴久子  

 トーマス・マンの小説『魔の山』において,語り手は,「われわれが記しているのは日常的なことである。だが日常的なことも特別な基盤の上で起これば特別なものになる」という。世間から隔絶された高地での,対外的には単調な療養生活,そのなかでの限られた社交範囲から形成されるサナトリウムの小さな社会を舞台として,構成員間の社会的相関作用がとりわけ鮮明に浮き彫りになる。そしてこの作用は,意味と象徴の秩序体系を媒介として生ずるものである。C. ギアーツは民族学の立場から「日常的なものが特別な形態であらわれる場において,日常的に起こるものに目を向ける」ことが文化の分析に有効であると提唱した。この視点を背景にすると,『魔の山』は「意味の網」としての文化そのものを対象とした作品であり,第一次世界大戦前のヨーロッパ市民社会に関する一種のエスノグラフィーの試論とみることができよう。
 文化的にかたちづけられた儀礼的行為は,物語の進行において変速・駆動装置としての役割を担っている。一日の日程が食事により細分化され,食堂がコミュニケーションの主要な場所をなす療養施設での生活において,飲食儀礼はサナトリウムの住人の振る舞いを構築している。作品は重要な「文化的身振り」を数多く含み,特に登場人物ペーパーコルンの行動に反映されている。
 本発表では,マンによる『文化のシナリオ』ともいえるこの物語を,飲食儀礼に焦点を絞って読み解く可能性を示したい。

Kurt Tucholsky und die Fotografie: Deutschland, Deutschland �[ber alles (1929)

山 口 祐 子  

Bereits vor dem ersten Weltkrieg hatte Tucholsky auf die agitatorische Funktion der Fotografie im Gegensatz zur Malerei hingewiesen, wobei er besonders ihre Wirklichkeitsnähe und persuative Prägnanz der Darstellung betonte. Da Tucholsky seine Ansichten zur Fotografie als Material der Massenpresse meistens in politisch-engagierten Zeitschriften veröffentlichte, wurde bisher seine Auseinandersetzung mit dem Medium Fotografie in „Deutschland, Deutschland über alles"(1929) eher im Problemhorizont der ,Gebrauchsliteratur' untersucht.
Demgegenüber geht es mir um die kommunikative Wahrnehmungsproblematik des Autors. Tucholsky will nicht nur eine bestimmte Realität der Gesellschaft vermitteln, sondern auch ihre Wahrnehmbarkeit selberüberprüfen, und zwar mit Rücksicht auf die jeweiligen Medien. Wichtig ist auch das Erkenntnisvermögen der Adressaten, die in der bestehenden Medien- und Massengesellschaft keine homogene Öffentlichkeit bilden. Darauf konzentriert sich meine Untersuchung. Sie geht davon aus, dass Tucholskys Deutschland-Buch einen kommunikativen Zugang zur sich ver-ändernden Leserschaft sucht. Zu fragen ist deswegen: Worauf beruft sich die Auseinandersetzung Tucholskys mit der Fotografie bei der Kombination von Text und Bild, wenn es um die Wahrnehmungsproblematik eines Massenmediums geht? Hierzu sollen die aus Text (Wort) und Bild (Foto) bestehenden Darstellungsverfahren Tucholskys analysiert werden. Dabei ergänzt die funktionale Bewertung der Schreibweise auf verschiedene Weise die Bildbetrachtung.

エルンスト・シュナーベルの『沈黙の村』−「リディツェ事件」をテーマとするフィーチャー

渡 辺 徳 美  

 1942年6月10日,チェコの Lidice という小さな村は,ナチによりラインハルト・ハイドリッヒ暗殺の報復を受け,一夜の内に地図上から抹消された。ただ黙して抗うしかなかった村人たちは,汚名を着せられてプロパガンダの生贄となった。エルンスト・シュナーベル(Ernst Schnabel, 1913-1986)は,このナチの犯罪を主題とするフィーチャー(Feature)『沈黙の村(Das schweigende Dorf)』(1961年1月29日,NDR より初放送)を制作した。本発表では,オリジナルのドキュメントを手掛かりにこのラジオ作品を検討し,シュナーベルのフィーチャー制作の手法を解明する。
 『沈黙の村』という題名は,ウェールズの村人が事件を即興で演じたイギリス映画 《The Silent Village》 (1943年)のタイトルの翻訳である。作家は,この映像メディアを巧みに利用して,聴取者に事件を伝えていく。また,ナチが事件を記録した映像,ドキュメントや写真なども事件の全貌を詳らかにする。さらに,ジョン・ダンの詩が,映画に登場するウェールズの人々とリディツェの村人を時間と空間を越え結びつけている。ラジオというメディアのあらゆる形式と技術を駆使しながら,様々な方向からテーマに光を当て,真実を照らし出すことがフィーチャーというジャンルの真髄であるが,『沈黙の村』においては,様々な要素が芸術的にモンタージュされていることにより,それが成功している。

引き裂かれた故郷 −Joseph Zodererと南チロル−

今 井   敦  

 昨年発表された Joseph Zoderer の長編『慣れることの苦しみ』(Der Schmerz der Gewöhnung)は,この作家の総決算ともいえる作である。1935年に南チロルの古都メラーンに生まれた Zoderer は,ファシズム・イタリアとナチス・ドイツの間で結ばれたベルリーン協定(1939)の犠牲者である。ドイツ国籍を選んだ多くの南チロル人同様,彼の一家は故郷を捨て,グラーツに移住した。戦後彼は,スイスの寄宿学校に入ったあと,両親と共にイタリア国籍を得て南チロルに帰った。自伝的色彩の濃い彼のこれまでの作品はそれゆえ,辺境地帯に生きる人々の精神的・文化的軋轢を背景にしている。空襲の続くグラーツで過ごした少年時代,厳しい規律の支配する寄宿学校での生活,帰郷した南チロルでの自我の目覚め − 主人公の視点から,意識に浮かぶ過去と現在の表象を幾重にも紡ぎ合わせて語られた『手を洗うときの幸福』(Das Glück beim Händewaschen. 1976)は,故郷を失い,自らのアイデンティティーを見出せぬまま多文化社会に生きる若者の精神の遍歴を描いている。ドイツ語圏以上にイタリアでベストセラーとなった『イタリア女』(Die Walsche. 1982)も,ドイツ語文化とイタリア文化の衝突する南チロルを舞台として,イタリア人を夫とするがゆえに村人から「イタリア女」と罵られる南チロル人の自己探求の物語であった。『慣れることの苦しみ』もまた,ファシストの娘と結婚した南チロル人を主人公としている。Zoderer の特質は,身近な人間関係を問題とし,主人公の内的遍歴を描いているのに,その背後に大きな歴史的・社会的問題が感じ取られることである。92年に自治権問題が解決し,ドイツ語系住民とイタリア人とが平穏に共生しているかに見える南チロルだが,この本が示すのは,文化的軋轢が一人一人の内側で依然として生きた問題であり続けているということであり,同時にまた,他者を理解するという一見いかにも素朴で身近な問題の,気の遠くなる程やるせない深淵であると思われる。



口頭発表・文学4(10:00〜12:15)E会場

司会:浅 野   洋・若 林   恵  

ヘルダーリンの後期讃歌と抽象名詞

畠 山   寛  

 今は「乏しい時代」である,とヘルダーリンは『パンと葡萄酒』のなかで書いている。神々が去り,いまだ再来していないこの谷間の時代を,ヘルダーリンはこう呼んだ。この時代認識は,ヘルダーリンの後期の作品にはっきりとした陰影を与えている。それは,詩で語られている内容のみに言えることではない。一つ一つの言葉に「乏しい時代」の刻印が押されているのである。とりわけ,抽象名詞にそれを見て取ることができよう。
 ヘルダーリンの後期讃歌で使われている抽象名詞は,解釈を必要としているかのようである。「時は/長い,しかし 生じるのだ/真実のことは「(『ムネモシュネー』)の「真実のこと(Das Wahre)「はその一例である。しかし,この言葉が具体的に何を指しているのか示すことはできない。このヘルダーリンの抽象名詞は,ある特定の対象から抽象されてできた言葉ではないからである。還元すべき対象が存在していない言葉をどのように言い換えてみても,それは空々しいものとなってしまうだろう。そういう意味で,このような抽象名詞は,「乏しい」言葉である。現実の世界と言葉は,互いの歴史的状態を反映しあっているのである。
 だがこの乏しさは,否定的な側面をもつばかりではない。このような抽象名詞は,ヘルダーリンのいう,未来における「祝祭」とも係わっているからである。内実を持たない言葉は,自らの内実を待ち望んでいる。この言葉が内実を獲得するときが,「祝祭」の時なのである。

レトリックとディコンストラクション−ニーチェ『悲劇の誕生』

清 水 紀 子  

 P・ド・マンは論文「生成と系譜」の中で,『悲劇の誕生』におけるアポロとディオニュソスの二項対立的生成パターンの本質に「ロゴス中心主義」を指摘し,しかもテクスト自身がそれを「ディコンストラクト」するという新たな読みの可能性を提示した。論点は主に「ディオニュソス的なもの」をめぐるニーチェの発言の矛盾と,陳述と一致しないナラティブのレトリック性に向けられている。その後のニーチェの思想的展開を見ても,「真理」や「現前」を前提とする「ロゴス中心主義」という観点から『悲劇の誕生』を考察し,そこに二項対立の「解体」の契機を探る意義は大きい。本発表ではド・マンの論考の問題点を踏まえ,まずはディオニュソスとアポロの関係を再考し,そしてテクストにおいてレトリックが文彩のレベルにとどまらず,思考の核心にまで入り込んでいることを論証する。とくに生成パターンのあらゆる局面に潜在するメタファー的「転用(Übertragung)」に着目する。「真理」との関係ではもともと距離的な差異しかない「本質の仮象」であるディオニュソスと「本質の仮象の仮象」であるアポロの対立関係は,「転用」と「転化」の無限の繰り返しという「生成」過程の中で「無意味化」し「解体」されるのであり,ここに「ディコンストラクション」の契機を指摘することができる。最終的にディコンストラクション理論におけるレトリック(メタファー)の意義を導き出したい。

形式としての<散歩>−ローベルト・ヴァルザー「散歩/散文」論

新 本 史 斉  

「散歩」を叙述する形式を確立すること−これがビール時代(1913-1921)のヴァルザーに課せられた真の課題である。むろん,ベルリン時代以来,表向きの課題は「長編小説」を刊行すること以外の何者でもない。しかし,その「長編小説」に繰り返し「失敗」する過程においてこそ,「時代の大形式」に抵抗しないではいない「叙述対象/叙述形式」としての「散歩/散文」は,それそのものとして露出してくるのである。「長編小説」でもなければ,「短編小説」にも分類し難い中篇『散歩(Der Spaziergang)』(1917) がこの時期一冊の書物として刊行されているのは偶然ではない。ベルリン時代初期の「長編小説」において「主題」の合間に散発的に書きこまれていた,より自然でより再現的,そしてたんに幸福感に満たされていた散歩の場面とは異なり,この作品においては,「室内を出て散歩をすること/紙の上において散歩を構成的に叙述すること/散歩をする・書くことを職業らしきものとすること…」と多層にわたる形で,「散歩/散文」は,<幸福>と乖離することなき「知」をもたらしうる能動的行為の可能性として反省されている。それだけではない。ミクログラムによる草稿作成がはじまる前夜に書かれたこの作品には,なぜ晩年のヴァルザーは鉛筆で極小文字で書かなければならなかったのかという,いまだ十分に答えられてはいない問いについて考察するためのヒントもまた書きこまれているのである。

現代のワーグナー上演における諸問題

吉 田   真  

 現代のドイツにおけるオペラ上演は,演出がその主たる関心事となって久しい。関心の対象が作品そのものから,歌手や指揮者といった演奏家へと移行し,ついにオペラは音楽を「聴く」のではなく,演出によって「見る」芸術となった。オペラの作品解釈の幅を際限なく広げていった結果,オペラが単なる音楽作品ではなく,演劇の一ジャンルでもあるということを改めて認識させる演出が出現してきたのである。この現象は,演出という行為において保守的な時代が長く続いていた歌劇場の歴史にあって革命的な役割を果たし,一種の自由化の時代を迎えたが,その先鞭をつけたのは,皮肉なことに,かつての東ドイツにおける社会主義イデオロギーに基づく批判的なワーグナー演出だった。1970年代になると,そうした環境で育った東ドイツの新進演出家が西ドイツの歌劇場に登場してメッセージ性の強い政治演劇的なワーグナー演出を始める。さらに,演劇畑の演出家がオペラに関心を抱き始め,競うようにオペラ演出を手がけるようになり,現在のオペラ演出はワーグナー作品に限らず,いかに作品を解体し,現代的に再構築するか,という傾向にある。しかし,一見生産的であるように見えるさまざまな新演出も,実は古典の権威を隠れ蓑にした,創作の代償行為をしているだけではないか,との疑問は残る。相変わらず新作が生み出されない芸術ジャンルは,やはり真に生きているとは言い難いのではないか。



ポスター発表(10:00〜13:00)G1会場

『かまどの火』とナチスの文化政策

竹 岡 健 一  

 「ドイツ家庭文庫」の雑誌『かまどの火』(Herdfeuer)と言っても,ほとんど知る人はいないであろう。筆者もまた,現在携わっているルイーゼ・リンザー研究の過程で,偶然その存在を知ったに過ぎない。ところが,詳しく調べてみたところ,主に主婦を対象としていたと思われるこの雑誌は,第三帝国時代,読者にナチスのイデオロギーを浸透させる役割をも担っており,したがって,ナチスの文化政策という見地から見たとき,この雑誌自体が十分研究に値するものであると感じられた。そこで,本発表では,特に次の四つの観点から,この雑誌のナチ的特性を紹介したい。すなわち,(1)「雑誌の構成」,(2)「記事内容」(反ユダヤ主義,戦争肯定,母性の強調など),(3)「主な執筆陣」,(4)「書評で取り上げられた作家」である。また,補足的に,「リンザーとこの雑誌の関わり」についても,これまでの研究結果を紹介したい。なお,これらの内容が特に典型的に表れた紙面をコピーで示し,参加者の目に触れるようにすることで,議論がより活性化するよう配慮したいと考えている。以上により,雑誌『かまどの火』がナチスの世界観の普及という意味で重要な役割を担っていたこと,ならびにナチスによる大衆把握の戦略と文学の関わりを探る上で,この雑誌が有益な資料であることを明らかにしたい。

ドイツ語教育の先駆者たち

上 村 直 己  

 これまで独語教師は功績が顕著であっても,多くは世を去ると急速に忘れられて来た。だが日本の近代化にドイツ語やドイツ学術文化が果たした重大な役割を思うと,彼らの存在はもっと知られてよい筈だ。こうした思いから,人々がドイツ語を真剣に学んだ明治大正期の独語教師のうち10人を取り上げ,その生涯と業績を概観することにした。現在,日本ではドイツ語学習熱の衰退(これは多分に英語偏重教育が影響している)が見られる時だけに,ドイツ語が元気だった頃の先人たちを回顧するのは意義あることではあるまいか。10人の教師は次の通り。藤山治一(駒場農学校出身,陸大独語教官,留学中に修得した語学力により通訳としてメッケル少佐らの活動を支えた。早大初代独語科教授),山口小太郎(旧東京外語卒,独語界三太郎の一人,東京外語初代独語科教授),藤代禎輔(東大独文科第一回卒業生,一高教授兼東大文科大講師,山口とともに独語研究の文部省留学生の第一号,京大独文科教授,漱石の友人),水野繁太郎(旧東京外語中退後,宣教師に師事,米国留学,東京外語教授を経て上智大初代独語科教授),青木昌吉(東大独文科卒,旧五高,二高教授を経て東大独文科教授),大津康(東京外語教授,一高教授兼東大講師,天才ドイツ語学者),権田保之助(東京外語卒,独語私学経営,民衆娯楽研究家),Adolf Groth(東大医学部予科教師で入澤達吉,藤代禎輔らの師),Emil Junker (明治19年来日,旧四高,一高,独逸学協会学校で教鞭を執り,「独逸語学雑誌」主要寄稿者),Sophie Büttner(高等学校最初の女性独語教師 ,旧七高と五高で教鞭を執ったほか,ベルリンで日本人留学生に独語を教えた)。

「Struwwelpeter の父」ハインリヒ・ホフマンの生涯と作品

大 谷 美 奈  

 ハインリヒ・ホフマン(1809-1894)は,フランクフルト・アム・マインで生まれて活動した精神科医ですが,髪や爪を伸ばし放題の少年の絵で有名な Struwwelpeter の作者でもあります。
 Struwwelpeter は独和辞典の見出し語にもなっているほど知られていますが,その作品を書いて絵も描いているのがハインリヒ・ホフマンであること,彼がその他にも子どもの本や風刺作品を書いていること,そして19世紀のドイツでどのような生涯を送ったかに関しては,まだ十分認識されていないように思われます。
 本発表では,「子どもの本」,「改革的精神科医」,「1848年の三月革命」というハインリヒ・ホフマンを論じる際に必ず登場するキーワードを手がかりに,彼の生涯と作品について紹介します。
 彼が子ども向けに書いた本は,「Struwwelpeter」所収の話に見られるような残酷さのため,現代の幼児教育の場などで忌避する向きもありますが,19世紀の市民社会の中で患者と共に暮らして近代的療法を施した精神科医としての実際の経験を踏まえて,「治療より予防」という観点で子どもたちに人生の知恵を与えたのではないでしょうか。
 いろいろなご助言を賜りたいと希望しております。

ローベルト・シューマンの「幻想曲」をめぐって

佐 藤   英  

 シューマンは,ボンのベートーヴェン記念碑設立の資金集めのためにピアノ・ソナタを出版することを計画した。ベートーヴェンをドイツ音楽の絶頂とみなし,これを克服することで新たな規範を得ようとするシューマンは,当時,作曲家の能力を計るための物差しと化していた「ソナタ」の実状を批判的にとらえていた。その一方で彼は,このような「ソナタ」の社会的影響力を認識し,逆にこれを利用しようと密かに考えていたようである。ベートーヴェン記念碑設立に際し,ちょうどその頃書いていた「ある作品」を「ソナタ」に書き換えて出版するということは,「ソナタ」の大家ベートーヴェンへ捧げものをするという意味ゆえに,彼の虚栄心を大いに満たすはずであった。けれどもこの作品は,出版社の拒絶にあってすぐには出版されず,度重なるタイトルの変更と改訂を経て,最終的に「幻想曲」として世に出された。この作品が厳格な作風を要求する「ソナタ」としての性格を持ちながらも,「幻想曲」という比較的自由な作風を許容する名称へと移行した理由は何なのか。本発表ではこの点について,シューマンの手紙や音楽作品の例などを示しながら詳述する予定である。

海への逃走 −1997年の2本の映画,Bandits と Knockin' on heaven's door

木 本   伸  

 ドイツ映画にとって1997年は2本のヒットによって記憶される年となった。Bandits と Knockin' on heaven's door がそれである。この2本は,どちらも最近のドイツ映画のハリウッド化を象徴するような作品だった。そのため少なからぬ批評は Bandits は Thelma and Louise の模倣であり,Knockin' on はタランティーノ映画のドイツ版にすぎないと指摘している。たしかに英語の表題を冠し,英語のポップスで彩られた2本の映画は German Road Movie そのものだった。しかし,これらの映画にはアメリカの先行作品にはない共通のモティーフがある。それは海だ。Bandits の主人公である4人の囚人は,同名のロックバンドを形成し,コンサートの機会を利用して脱獄に成功する。彼女たちの旅が北海へと近づくにつれて,その自由を求める歌のCD は飛ぶように売れる。そして4人は出港直前の船まで辿りつくが,そこで,ついに警官隊に包囲されて映画は終わる。Knockin' on の主人公マルティンとルディは,それぞれ頭部と骨髄に末期のガンをわずらっている。ある日2人は海を見るために病室を抜け出し,盗んだクルマで海へと走り出す。そしてこの映画も2人が海辺で最期を迎える場面で幕を下ろす。これらの映画で登場する病院,監獄,警察,メディアなどの要素は,現代社会の管理体制の象徴である。そして海は,この管理体制によって歪められない直接的な体験を意味しているのだろう。ここには現代社会の閉塞感と,そこからの逃走の夢が表現されているのではないだろうか。


プリンタ用画面
友達に伝える
投票数:32 平均点:5.31
前
2003年日本独文学会春季研究発表会プログラム
カテゴリートップ
2003年
次
2003年秋季研究発表会のプログラム
Japanische Gesellschaft für Germanistik © 2005-2009