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トップ  >  2001年  >  2001年度秋季研究発表会予稿集

第1日 10月20日(土)

 

一般研究発表・文学1 (10:05~12:05)       A会場

司会:横谷 文孝、黒澤 優子

 

1.フランツ・カフカの宗教的思索について - 輪廻転生と救済への道

高橋哲也

日記や遺稿中の八ツ折版ノートにおいて、カフカは必ずしも一つの体系に収まらない、時に矛盾に満ちた宗教的思索を展開している。しかし彼の幾つかの宗教的言及を繋ぎあわせていく時、彼の宗教的な思索の糸が仄かに浮かび上がってくる。ドイッチャーの言う「非ユダヤ的ユダヤ人」であったカフカは、ユダヤの精神文化という失われたものへの遡行を試みる。楽園追放、知識の木と生命の木、善と悪、この世と別の世などの宗教的テーマを繰り返しながら、彼はその救済論にユダヤ神秘主義の装いを纏わせている。例えばカフカは魂の転生について語る。このインド的テーマはカバリストたちの中でルーリア派が特に重視したものであり、18世紀には東欧に広く流布していた。プラハはゴーレム伝説の街としても知られているが、この伝説は民間に流布したユダヤ神秘思想そのものであった。

一神教において、転生はインド思想のように永遠に繰り返される時間の循環の内にあるのではない。それは何らかの形で神性との合一を、つまり救済を目指している。カフカは魂の救済について二つの可能性を、或いは不可能性を述べている。一つは魂の根源たる天上への帰還・上昇であり、もう一つは観想的・冥想的な一種の静寂主義である。カフカは一神教の伝統的な宗教的テーマを用いながら、達せられぬ救済の可能性を逆説的な梃子として、西欧近代が築きあげてきた知的パラダイムを大きく転換している。

 

2.カフカの『判決』―「手紙」を手がかりに

中野有希子

 ゲオルク・ベンデマンが幼なじみの友人に手紙を書き終わった場面で始まった物語は、ゲオルクの自殺で幕を閉じる。彼がポケットに入れていた手紙は、ゲオルクと共に消滅してしまう。終始ゲオルクと共に在り、運命を共にする手紙は、物語の展開を導くものであると同時に、ゲオルクと友人を関係づける役割も担っている。互いが関係づけられ、接触して初めて、二人の対照的な在り方とその差異が提示されることになる。作品において両者を媒介し、二人の接触を可能にしているのが、手紙であり、文通関係なのである。

 本発表では、作品の中で手紙に与えられた働きと意味を検討したい。まずゲオルクが自分の婚約を告げている部分を中心に、手紙の内容を分析する。婚約という幸福を告白し、友人に自分の結婚を機会として帰郷を勧めるゲオルクの手紙には、その言葉とは裏腹に、友人の不在を願っている主人公の不安や曖昧な感情が見え隠れしている。その手紙を持って父の部屋へ赴くゲオルクは、自分の手によって書かれた手紙に操られて、判決の下される場に足を運ぶ。まるで自らの言葉によって、判決の場へと導かれているようである。父親による現実の暴露は、判決に至るプロセスを示しており、それによってゲオルクは、それまで手紙による偽りのゆえに見えなかった世界、つまり真実に目を向け、滅んでいくのである。

 

3.「言語の不可能性」からの脱却をめざして - プラハ・ドイツ語作家   ルドルフ・フックスによるチェコ文学のドイツ語訳

青木亮子

20世紀初頭のプラハは、多くのドイツ語作家を輩出した都市だった。しかしカフカによれば、ドイツ語作家としてプラハで生きることは、幾重もの「言語の不可能性」の中で生きることであった。作家活動と同時に翻訳活動にも取り組んだフックスは、ベルリンやライプチヒなどの表現主義雑誌に、チェコ詩人ペトル・ベズルチの作品のドイツ語訳を数多く発表する。しかしその背景には、ドイツでチェコ詩を求める要請が強かったというよりも、プラハでドイツ語作家が充分な読者や出版社を確保できないという状況があった。「ドイツ語で書くことの不可能性」を克服するには、まず他のドイツ語圏都市に文学的基盤を求めざるをえなかった。

フックスはベズルチの詩集『シレジアの歌』を1917年に翻訳する。しかし、その翻訳も出版も困難を極めた。戦時中、反オーストリア的チェコ文学をドイツ語に翻訳することは、文化的仲介の役割を越えて、政治的関与をも意味したのだ。けれども、オリジナルのチェコ語版が発禁になったこともあり、この翻訳はチェコ人やドイツ人という民族の枠を越え、その詩に共感した多くの人々に読まれた。ドイツ語を通してチェコ語の文学を表象することで「言語の不可能性」を乗り越えた一例として、フックスのこうした翻訳活動に光をあててみたい。

 

4.エルンスト・ブロッホにおける「疎外」への批判と「異化」の模索

吉田治代

 「旅」というテーマは、ワイマール共和国時代の文芸欄寄稿者エルンスト・ブロッホのエッセイにおいて大きな位置を占めている。「旅」のモチーフを主にユートピアと関連づける後期ブロッホに対し、中期では、「旅」の意味は両義的である。ブロッホは、当時の旅行文化を、資本主義社会における「疎外」状況から帰結される「文明からの逃避」として批判すると同時に、「異質なもの」を認識するメディア、「異化」という「驚きの美学」への足がかりとなるべきものとしての「旅」の意義を認めている。本発表では、ブロッホの旅行エッセイを異文化論として読むことにより、以下の二点を明らかにする。1)ブロッホのオリエント論は、ヨーロッパ人が自らの文明と対照的な世界として非西洋を表象することを指摘し、サイード以降の「オリエンタリズム」批判を先取りしている。ブロッホの求める「驚き」は、自文化と、その願望の投影板としての異文化という固定したパースペクティブを揺るがすものである。2)「ヨーロッパ」対「オリエント」という対立と並んでブロッホが問題化するのは、「文明」・「都市」と「田舎」・「故郷」という当時のドイツに顕著な対立である。「故郷」をドイツ性の体現と喧伝するフェルキッシュ・イデオロギーに対し、「故郷」の中にある「異質なもの」に視線を向けるブロッホの旅行エッセイは、ファシズムという全体主義的均質化に対する<書きかえし>として読むことができる。

 

 

一般研究発表・語学 (10:05~13:05)   B会場

司会:橘 好碩、田中一嘉

 

1.初期新高ドイツ語・日本語小辞典作成における問題点 - 見出し語の選択について

工藤康弘

 本発表では初期新高ドイツ語・日本語小辞典を作るにあたって、どのような語を見出し語として選ぶべきかを考察する。

 初期新高ドイツ語のテキストを読む際、たとえ意味が現代語と同じでも、表記があまりにも違うために、対応する現代語を推し量れない場合がある。たとえばgelibt (= Gelübte)。こうした語に対しては意味を説明するのではなく、= nhd.Gelübteのような記述が必要になる。これらの語のうち、意味も記述しなければならないものに関しては指示見出し語(Verweisstichwort)を用いて基本形を参照させ(たとえばgerete → geräte)、そこで意味の記述をする(geräte1. 序言. 2.たくわえ)。現代語辞典において古語、雅語、方言とされている語がある。たとえばlugen(見る)、begreifen(つかむ)。これらも初期新高ドイツ語辞典の見出し語として採用する。新しい意味と古い意味が併存している場合、現代語にある新しい意味は載せない。たとえばlehrenの意味としては「習う」を挙げ、「教える」は省く。現代語と語法が違う場合も見出し語として採用し、その語法を記述する。たとえば2格目的語をとるvergessen、sein動詞で完了形を作るsitzen、中性名詞としてのOrt。ただしschentlichen(恥ずべきことに)のように副詞の語尾を持つ語は数多くあり、辞書では処理しきれない。

 発表では以上のような問題を検討し、その解決法を探る。

 

2.機能動詞と統語構造のタイプ

納谷昌宏  

 本来の具体的意味を失い文法的機能だけを有する動詞を機能動詞、機能動詞と動作名詞が用いられた表現形式を機能動詞構造と呼ぶ。こうした機能動詞構造の統語構造には次の3つのタイプが認められる。

A 機能動詞+4格+前置詞句(動作名詞)z.B. Er bringt ihn zum Arbeiten.

B 機能動詞+前置詞句(動作名詞)z.B. Das Gesetz kommt in Anwendung.  

C 機能動詞+4格(動作名詞)z.B. Er macht einen Spaziergang.

 本報告ではこれら3つのタイプの統語構造について、次の3点を明らかにする。

1. 如何なる動作名詞がそれぞれの統語構造に挿入可能なのか。

2. 動作名詞と統語構造がどのように相互に働き合って、文意味を表すのか。

3. 動詞を用いた表現と動詞的意味を名詞に委ねた機能動詞構造による表現とでは、如何なる表現上の相違があるのか。

 本報告では動作名詞の意味構造の分析に際して、語彙概念構造(LCS)の考え方を援用する。特定の動詞的意味を有する動作名詞が、機能動詞を含む統語構造の中で用いられることにより生み出されるのが機能動詞構造である。語彙概念構造を手がかりとして、機能動詞構造のメカニズムを解明するのが本報告の目的である。

 

3.Der Präsident selbst hat selbst schon mal die Lösungnicht selbst gefunden: ニュアンス詞としてのselbstについて

田中 愼

本発表では、不変化詞selbstのいわゆるニュアンス詞(Abtönungspartikel)的な用法を類似の不変化詞auchと比較対照し、また日本語の類似する現象と対照することによって、1.不変化詞selbstもある種のニュアンス詞的用法をもつこと、2.不変化詞selbst, auchはその際も、焦点詞としての意味を保持すること、の2点を示しながら、ニュアンス詞の成立のプロセスの記述を試みたい。

不変化詞 selbstauchの意味的、統語的な共通性はしばしば指摘されるところである。

  1. Selbst/ auchRIESEN haben einmal klein angefangen.

一方で、これらの語の違いの一つとして、auchにおけるニュアンス詞用法が挙げられ、selbstにはそれが欠けていることが指摘される。

  1. A: Gerhard hat sichvon seiner Frau scheiden lassen.

B: Sie war aber auch schlecht zu ihm.

B': *Sie war aber selbst schlecht zu ihr.

上例が示すように、ニュアンス詞的用法のauchは単純にselbstとは置き換えることはできない。一方、角度を変えた見方においては、selbstauchと類似した用いられかたがされうる。

  1. B'': Er war aber selbstschlecht zu ihm.

本発表では、「角度を変えた見方」ということはどういうこと意味するのか、どこからその「見方」が生じるのかついての考察をおこないたい。その際、日本語の対応する語である「も」や「じぶん」についても類似した現象が観察されることを指摘し、ニュアンス詞や助詞・副詞で表れられる「ニュアンス」の成立プロセスについての言及を試みたい。

 

4.herausの意味構造について

瀧田恵巳

 本研究発表の対象とするherausの用法は多岐にわたる。

herausの典型的用法としては、ich sah ihn aus dem Haus herausgehen のように、ある領域の中から領域の外へ、かつ話し手へ向かう空間的な移動の方向を表す用法である。しかし一方、wir müssen möglichst schnell hier heraus のように、話者への方向を示さない用例も見受けられる。こうした用例については指示理論の立場から、さらなる考察が必要である。さらにherausには、Habt ihr schon herausgefunden, wie der neue Laserdrucker funktioniert? のような非空間的用法がある。また、形態論・統語論の観点から、動詞の接頭辞すなわち分離前綴りとしての用法とそうとはいえないものがある。例えば先に挙げた例文:Habt ihr schon herausgefunden, wie der neue Laserdrucker funktioniert? の場合、herausはherausfindenという分離動詞の前綴りと見なされるが、Aus dem Saal heraus hörte man laute Stimmenという文においてherausはむしろ前置詞句aus dem Saalに結びつく副詞と見なすことができる。

 本研究発表の目標は、以上のようなherausの意味構造を、空間的用法の内部構造の分析、空間的用法と非空間的用法との区別、そして分離前綴りとしての用法と副詞としての用法との区別により、できる限り明らかにすることにある。

 

5.動詞前綴りの分離・非分離をめぐって

成田 節

 複合動詞の前綴り durch-, um-, über-, unter- などの分離・非分離については、動詞の意味が「具体的・空間的」ならば分離し、「抽象的・比喩的」ならば分離しないと説明されることが多いが、実際にはこの観点からでは前綴りの分離・非分離をうまく説明できないケースが少なくない。橋本文夫(「前づづりdurchとumの分離・非分離について」『ドイツ語と人生』三修社、1980 所収、および『詳解ドイツ大文法』S. 323ff.)は、前綴りを「前置詞」と見なすことができるか「副詞」と見なすことができるかという観点から前綴りの分離・非分離を説明している。たとえば、前綴り durch- が分離しない(1)では、動詞の4格目的語と前綴りとの間に durch die feindliche Linie(「敵の戦列を破って」)という「前置詞+名詞」の関係が見て取れるのに対して、durch- が分離する(2)では durch が bis zum Ende hindurch(「最後まで通して」)という副詞句に相当するとしている。

(1) Er durchbricht die feindliche Linie. 彼は敵の戦列を突破する。(非分離動詞)

(2) Er setzte seinen Plan durch. 彼は計画を貫徹した。(分離動詞)

この発表ではDuden Universalwörterbuchなどの辞書記述を主な資料として、この説明原理の有効性ならびに限界を再確認し、ドイツ語文法記述への一つの貢献としたい。

 

6.不変化詞動詞とその構文: Usage-Based Modelからの展望

岡本順治

 不変化詞動詞(Partikelverben)は、接辞動詞(Präfixverben)と並んでその基礎動詞からの構文拡張が広く一般的に観察される。Wunderlich (1983) 以来、ドイツ語圏では二層意味論(Zwei-Ebenen Semantik)から盛んに研究対象として取り挙げられるようになった。本発表では、このような従来のアプローチとは異なり、Usage-Based Modelという新たな枠組みからこれらの構文拡張を捉えることを提案する。

 Barlow & Kemmer (eds.) (2000) に紹介されているように、Usage-Based Modelは、現在のところ単一の理論的枠組みというよりは、言語データに対しての一定の見方を支持する多様なモデルでしかない。その基本的考え方は、以下の5点に集約される。

言語構造と言語使用の例証(instances)には緊密な関係がある。

言語データの頻度は、それ自体有意義な研究対象となる。

言語理解と言語産出は、全体をなすのに不可欠な部分を構成している。

言語習得における学習と経験に焦点をあてている。

言語構造表示は、固定的な情報として脳内に蓄積されているのではなく、特定の条件のもとに出現するものである。

 一言でまとめてしまえば、コーパスの重要性と認知言語学的視点を組み合わせたアプローチであるが、これまでの生成文法的発想と真っ向から対立する視点を提供していると言える。

 当発表では、以下の3点に絞って不変化詞動詞の構文とその拡張を議論する。

(Ⅰ)語彙概念構造(LCS)に基づく従来の分析と比べて、Usage-Based Modelではどのようにことなった説明が可能なのか?

(Ⅱ)不変化詞動詞の構文と日本語の補助動詞を使った構文の比較をどのように説明できるか?

(Ⅲ)Usage-Based Modelの限界。

 

 

一般研究発表・文学2・ドイツ語教育 (10:05~12:05)  C会場

司会:八木 博、松岡幸司

 

1.「堀辰雄とリルケの文学における<死>の受容 ― 『風立ちぬ』と『レクイエム』を中心に」

小高康正

 堀辰雄がリルケ文学から受けた影響のひとつに、死についての考え方がある。特に『風立ちぬ』にかんしては、最終章「死のかげの谷」がリルケの『レクイエム』(Requiem,1909)の1節を引用していることや、堀自身のことばで、リルケの『レクイエム』を読んでいて作品の構想が浮かんできたと述べているように、深い影響を受けていることは明らかである。

 堀辰雄は1935年に婚約者の矢野綾子を結核で失い、その体験をもとに断続的に『風立ちぬ』の各章を発表した。中でも「死のかげの谷」の発表までには3年間の年月がかかっていた。実際の体験が作品創作という芸術の力によって浄化されるということが言われるが、堀辰雄の場合、矢野綾子との体験をもとに『風立ちぬ』の作品を創作し、それによって婚約者の死を受けとめ、その哀しみから立ち直ることができたと考えられよう。その際、リルケの死の考え方がどのように作用したか。その点について、まず『風立ちぬ』のヒロイン節子の死あるいは死の予感がどのように描かれているかという面から、作者における死の体験と受容のあり方を考察する。次に、『レクイエム』を中心に、リルケの死の考え方を確認して、その影響を考えてみたい。

 最後に、私たちが体験する身近な者の死を受けとめる際に、堀辰雄やリルケの文学作品は大きな意味を持っているのではないかという点についても考えてみたい。

 

2.,,Das Erhabene“ に関する比較文学的考察 ― レッシングと近松門左衛門の戯曲に於ける ,,erhaben“解釈上の相違に関する試論

渡辺知也

 18世紀になるとDasErhabeneと云う言葉が眼に着く様になる。Haben「持つ」と云う動詞に対してerhabenは「超越している」、「崇高な」と云う意味の形容詞である。この言葉を当時台頭し始めた市民階層が啓蒙思想の潮流の中で意識的に使用する。貴族階級に固有なvornehm、edelと云った言葉が市民階級に使われることは極めて稀である。

 Erhabenとは日常生活に於て何らかの行為の結果初めて認識可能になる概念である。世襲制度下にある貴族階級は生来それだけでvornehm、edelで有り得たが、市民階級は行動を通じてのみerhabenを顕在化することが出来る。その意味でこの言葉は啓蒙主義時代の市民階級の精神的支柱ともなるべき言葉として理解されるべきである。元禄時代の日本にも意味上同じ様な概念が存在した。啓蒙時代のレッシングと元禄時代の近松は彼等が持てる広大無辺にして深遠なる教養と云うMediumを駆使して市民生活に於るerhabenの何たるかを示そうとした。そこに見る歴史的、文化的相違を検証することでその後の両国の意識の展開について考える。

 

3.Die Romananfänge bei Thomas Manns ,,Buddenbrooks“ und Tanizaki Junichirôs ,,Sasame Yuki (Die Schwestern Makioka)“ - Ein Vergleich

Stefan Buchenberger

Der Verfall zweier Familien, der Buddenbrooks und der Makiokas, steht im Mittelpunkt von Thomas Manns gleichnamigem Roman und Tanizaki Junichirôs Sasame Yuki. Dass diese beiden wohl bedeutendsten Autoren des 20. Jahrhunderts in Deutschland und Japan sich in teilweise stark ähnelnder Form mit diesem Thema, das symbolisch für den jeweiligen Verfall eines Zeitalters und einer Kultur steht, befasst haben, mag Zufall sein. Einen klaren Beweis, daß Tanizaki, dessen Sasame Yuki gut 40 Jahre nach Buddenbrooks erscheint, Thomas Mann gelesen hat, scheint es nicht zu geben. Jedoch lässt die Nobelpreisverleihung an Mann, 1929, und die erste japanische Übersetzung der Buddenbrooks, 1932, dies als durchaus möglich erscheinen.

Im Rahmen einer breit angelegten Vergleichsstudie der beiden Romane sollen die Anfangskapitel der beiden Werke näher untersucht und miteinander verglichen werden, wobei vor allem zwei Fragenkomplexe im Vordergrund stehen sollen.

1. Wie sieht die Funktion der beiden Anfangskapitel als Exposition aus? Wie wird die erzählte Welt aufgebaut? Wie werden Zeit, Raum und Figurenkonstellation eingeführt und etabliert?

2. Wie sieht die Funktion der beiden Anfangskapitels als Ouvertüre aus?

Welche zentralen Themen, Strukturen und Leitmotive werden hier bereits angedeutet, etabliert und damit schon zum Teil vorweggenommen? Inwieweit antizipieren die ersten Kapitel den Verlauf der beiden Romane, und inwieweit werden die Romane vorausgedeutet und erlangen dadurch epischen Charakter?

Die Beantwortung dieser beiden Fragen soll zeigen, dass bereits in den beiden Anfangskapiteln eine erstaunliche Menge an Ähnlichkeiten, was den Aufbau an sich, aber auch die Technik, die Geschichte ins Rollen zu bringen, betrifft.

 

4.Ursachen und Wirkung: Die Oberstufenreform der 70er Jahre und die Entstehung der Waldorfschulen

Wolf-Uwe Ostermann

Seit den siebziger Jahren konnten sich die Waldorfschulen mit geradezu wundersamen Wachstumsraten nicht nur als Privatschulen sondern als alternativer Schultypus zu den staatlichen Schulen (Gymnasium, Gesamtschule) profilieren. Von der Gründung der ersten Waldorfschule im Jahre 1919 bis Anfang der siebziger Jahre hatten die Waldorfschulen in einer Art Dornröschenschlaf gelegen: in diesen fünfzig Jahren entstanden nur zehn neue Schulen, d.h. alle fünf Jahre eine Schule. Von 1970 bis 1999, in knapp dreißig Jahren, kam 160 ( ! ) neue Schulen dazu, also alle fünf Jahre acht Schulen. Wie ist nun diese explosive Vermehrung der Waldorfschulen zu erklären? Im Vortrag wird der Zusammenhang zwischen der staatlichen Oberstufenreform zu Beginn der siebziger Jahre und dem Phänomen der Waldorfschulen hergestellt. Enttäuscht von den politischen Maßnahmen der Regierung in Sachen Bildung, die menschliche Bildung durch seelenlose Wissensvermittlung ersetzten, machten sich viele erziehungsbewußte Eltern auf die Suche nach einer Alternative und fanden sie in der Waldorfschule. Das pädagogische Konzept der Waldorfschule basiert ausschließlich auf den Lehren (bekannt unter dem Begriff Anthroposophie) ihres Gründers, Rudolf Steiner.

 

 

一般研究発表・文学3 (10:05~12:05)   D会場

司会:馬場 義彦、高橋 由美子

 

1.ディルタイのヘルダーリン解釈

海老坂 高

 ヴィルヘルム・ディルタイ(Wilhelm Dilthey1833-1911)が晩年に発表した『体験と文学』(1905年)には四本の論文が収められているが、新たに書き下ろされたものは「フリードリヒ・ヘルダーリン」だけである。この作品は老大家の円熟した筆になる評伝とみなされることが多いが、晩年のディルタイ哲学を語る上でゆるがせにできぬ論文である。本発表では、ディルタイ哲学の歩みの中に位置づけ、その解釈の特徴を明らかにしたい。この論文は類型論の視点に立ち、ゲーテ時代の精神史において屹立する詩人像を提示する。ヘルダーリンという詩人類型の特異性は狂気にある。ディルタイは早くからこのテーマを温めていたようだが、その解明には人間の心の構造と認識の仕組みに関する多年にわたる研究を必要とした。彼は『体験と文学』において、いわば満を持した形でこのテーマを取り上げた。その考察の中心にあるのは詩的想像力と狂気の協働の問題である。ディルタイによれば、ヘルダーリンの本領は現実認識の新たな獲得にあるのではなく、すでに獲得された連関の新たなる想起――追想にある。ディルタイはかつて詩的想像力の認識論的基礎づけに集中していた1880年代に、詩的想像力を狂気から切り離した。この点を考慮するならば、「フリードリヒ・ヘルダーリン」はディルタイ哲学の新たな展開を告知する作品といってよいだろう。

 

2.記憶媒体による形式の伝承 ― シュティフターの『晩夏』

磯崎康太郎

 「祖先の住居に滞在し、彼らの言葉や行為をあれこれと思いめぐらしながら考察するのは楽しいことだ。エゲシップス」という引用句が『曽祖父の書類鞄』冒頭のエピグラフとして掲げられており、これには別な箇所でシュティフターが「過去に携わること、過去へ遡ることは全く大きな魅力です」という言葉を添えている。シュティフターはその後、長編小説『晩夏』において、『曽祖父の書類鞄』における「日記」のような個人性の強い記憶媒体ではなく、芸術と自然をより文化的に保存する「薔薇の家」という記憶媒体を描き、主人公ハインリヒの人間形成の過程における記憶像の獲得とその想起という行為に重要な役割を与えている。したがって、『晩夏』においてこそ、記憶の問題がより多角的に検討されていると考えられる。例えば、知覚可能な情報の根源をつくるものを美の世界とみなすリーザッハの世界観には、プラトンの想起説との対応を指摘できる。また、ハインリヒの記憶術は、古代や中世の記憶訓練法における必須条件を踏まえたものである。さらにこうした方策は、「薔薇の家」の記憶保管術として考案された多様な規則のなかにも活用されている。過去・現在・未来という時間的連続性のなかで、いかなる形式で記憶を伝承していくかという点に留意し、取捨選択による記憶保存システムとしての機能を果たす組織こそが「薔薇の家」であり、伝統の保持・育成に努めた芸術こそが『晩夏』である。

 

3.ギュンター・グラスの『賤民が暴動の稽古をする』について ― 知識人としての自己反省の問題

岡山具隆

 ギュンター・グラスの戯曲『賤民が暴動の稽古をする』(1966)は、社会の変革を自らの芸術の一つの目標として掲げながらも実際に変革を求める運動が起こると行動できない主人公の内面の葛藤を描いている。この作品が発表、上演された当初「6月17日事件」という題材、そしてブレヒトを思わせる主人公の設定も手伝って関心は政治的な側面に集中した。その中で目立ったのはグラスの当時の政治活動と彼の作品とをあまりにも短絡的に結び付けて、これを知識人に政治参加を呼びかける政治パンフレットとする見方であった。

 本発表ではこうした見方に対してグラスの政治との関わりに重点をおきながらも今日の視点からこの戯曲の再評価を試みる。中心となるのは主人公シェフの描写であり、その姿にはグラス自身の知識人としての難しい立場が投影され、自己反省が行われているのではないかという観点から考察を行う。自己反省を強いる文学作品が、グラスがもっとも活発にSPDのための選挙応援活動を展開していた真っ只中に書かれていることは興味深く、そこには直接的な政治参加とは異なる機能をグラスが文学に託していたことが伺われる。

 

4.Porträt des Künstlers als Misanthrop. Über Thomas Bernhards theatra-li-sche Poetik

Frank Schwamborn

Die Theatralität der Schriften Thomas Bernhards stellt neben ihrer Musikalität und ihrer Intertextualität einen der interessantesten Aspekte in der Forschung zu diesem Autor dar. Sie betrifft keineswegs nur die Bühnenwerke (die ,,Metadramen“ sind, insofern sich in ihnen das Theater selber reflektiert) sondern gleichermaßen auch die ,,Rollenprosa“ der Romane und der autobiographischen Pentalogie. Sie ist ebensowohl Denkmodell wie Formgesetz, und sie hat in der fortgesetzten Diskussionen der Beziehungen von Wissenschaft und Bühne, von Schriftsteller und Schauspieler ihre poetologischen Dimensionen. In meinen Büchern ist alles künstlich, das heißt alle Figuren, Ereignisse, Vorkommnisse spielen sich auf einer Bühne ab, und der Bühnenraum ist total finster - so lautet eine vielzitierte Formel. Die Theatralität der Texte Bernhards ist diesen selbst ein Thema. Das Thema Künstlichkeit/Verlogenheit ist seine eigene Ausdrucksform. Die Kunstverfallenheit ist ihre Inszenierung. Der Einsame, der ,,Geistesmensch“, wie er in vielen dieser Texte ,,auftritt“, kann sich nur durch Chiffren, abgesichert-indirekt, dem Leser/Hörer offenbaren. Insofern ,,authentische Mitteilung“ nur durch das totale Geistesprodukt möglich erscheint, gerade dieses aber denjenigen, der an ihm arbeitet, aus der Gesellschaft ausschließt, hat Theatralität zu tun mit dem ,,Mitteilungsproblem“, dem Gesellschaftsbezug der Kunstprojekt. Dem Außenseiter wird das Sein zum Schauspiel, doch auch sein eigenes ,,Gedanken-Sprechen“ gerät zum theatralen Sprech-Akt.

 

 

シンポジウムⅠ<ドイツ語教育部会企画>(14:30~17:30)  A会場

 

外国語教授能力の多様性 - 多言語化の進展とドイツ語教育の活性化を求めて

Sprachlehrkompetenz - Vielfalt und Entwicklungsmöglichkeiten des

Deutsch-unterrichts im Zeitalter der Mehrsprachigkeit

 

司会:平高史也、三瓶愼一

 

 21世紀を迎え、政治・経済、科学研究の相互交流・相互依存の進展や情報技術の発展は日本社会にも大きな影響を与えつつある。その影響を最も被っている領域の一つが外国語教育であり、その社会的環境が国際的に変動しているといえよう。特に一般教育における外国語教育は、その開始以来、学習対象とされた/されている語種、(中等教育や高等教育段階での)学校や学習者の選択動機、教材作成、そして(主観的)教授理論など様々な次元で、社会的変化と直接・間接に深く関わっている。このような認識のもとにドイツ語教育部会は「日本におけるドイツ語教育のランドスケープ」という連続シンポジウムを実施し、多様化するドイツ語教育の実態を確認しつつ、今後への展望を探ってきた。その最終回のテーマにはいみじくも「それでもドイツ語教育は必要か?」という副題がつけられている。この背景には、昨今のドイツ語教育をめぐる困難な状況、英語一極集中などの実態が反映されているだろう。

 他方で、急速に進展する国際化・国際的な相互依存により、従来の語学・文学を越えた専門領域や社会生活の諸領域において外国語での伝達能力や異文化対応能力の必要性が認識されるに至っている。学習目標の多様化は種々の課題を含んでいるが、そこから例えば「言語知識の音声化」の次元を越えた包括的な対人コミュニケーション能力や行動力の育成、(複数)外国語学習や継続学習への動機づけの重要性、及びその動機づけに深く関わる教授・学習行動やその過程という「媒介過程」自体に含まれる問題に対する批判的な考察、さらには言語運用力の個別・統合的な指導方法や言語教育における「文化」の扱い、教材開発・研究など多様な教授能力の育成が重要な課題として帰結されよう。

 今回のシンポジウムでは「ランドスケープ」の連続企画を受け、個人や社会の多言語化の進行という言語環境の変化を見据えつつ、ドイツ語教育の活性化を目指し、教授能力の多様化を図るための可能性を探ることを目的とする。そのために、既に開始されているドイツ語教員研修の諸事例、フランス語や日本語における改革構想や教員養成の新シラバス、ドイツでの中等教育段階でみられる多言語化社会への対応の試みに関する発表をもとに、多言語化社会の進展という新しい枠組みにおいて求められるドイツ語教授能力の方向性を議論していく。以下、5人の発表者とその要旨を紹介する。

 

1.ドイツ語教員研修 ― 東京ゲーテ・インスティトウートにおける試みと将来計画

吉島 茂

 吉島をオーガナイザーとして昨年9月末より大学院生と大学・高等専門学校・高等学校などの若手を主な対象として1年2学期制(各15回)のドイツ語教授法入門コースをGoethe-Institut Tokyo(PV) の協力を得て開設し、22名の現役学生、ドイツ語講師の参加が得られた。授業は吉島、野口薫(中央大学)、境一三(慶應義塾大学)、保阪良子(学習院大学)がTeam-Teachingの形式をとり交替で担当した。客員講演も二度依頼した。内容的には、理論学習(文献講読または講義)、Goethe-Institut Tokyo での授業参観(ヴィデオでの検討)、授業計画の作成と模擬授業の3段階方式をとり、2000年冬には、Deutsch als Fremdspracheの歴史、初級者対象のコース教授の方法、中級学習者を対象とした4言語技能の指導、2001年の夏はさらに、文学テクストや試験問題の作成のテーマを取り上げた。この秋学期は、中級学習者を念頭において、MediaとTextsorten、授業形態、教師の指導態度、コンピュータなどの機器の利用法など、積み残した課題を取り上げる。2002年度はGoethe-Institut Tokyo側の都合によりコースは休みとなるが、2003年に向けてInternet化を計画中である。そのために、授業参観、スクーリングを引き受けてくれる大学・教育機関の協力者を募集中である。

 

2.コミュニカティブ・アプローチからトランスカルチャーへ

堀 茂樹(慶應義塾大学、フランス語教育)

 フランス語はドイツ語同様、英語にあらざる欧州言語である。それゆえ今日の日本におけるフランス語のポジションには、ドイツ語のそれと共通するところが多い。独仏語の教員は程度の差こそあれ同じ性質の困難に直面しているのではないか。ここ10数年来、フランス語教育界では、コミュニカティブ・アプローチを部分的にであれ取り入れる授業が主流を占めるようになってきた。そうした授業のワークショップや研修会も回を重ねてすでに定着した。ところが、この間に、日本の外国語教育一般を取り巻く環境も激変した。その結果近年、英語万能主義の圧倒的な圧力のもとで、「使えるフランス語」というコミュニカティブの目標それ自体の相対的価値下落が痛切に意識され始めた。そしてフランス語教育学会では最近、「フランス語圏の文化をどう教えるか」といったテーマがしばしば取り上げられている。ところで、かつての訳読中心の授業も、その後のコミュニカティブ・アプローチも、外国語学習の必要性を外在的目的(知識の獲得、意思の疎通)によって説明する点においては共通していた。今またドイツ語やフランス語を、異文化理解や地域研究のためのツールとして提示すべきであろうか。無論それも必要かつ妥当なことではあるが、同時に、外国語の学習と運用に内在する人間的経験の意味に改めて着眼するならば、初級から上級にいたるまでの独語・仏語の教育を新たな展望のもとに位置付けることができるのではないだろうか。そこで浮かび上がるのが、インターカルチャーともマルチカルチャーとも異なる「トランスカルチャー」の観点である。

 

3.「語際的」なドイツ語教授能力育成の試み

杉谷眞佐子

 ヨーロッパでは2001年を「欧州言語年」とし、外国語教育促進や教員研修の諸プログラムが開発・実施されている。基本構想の一つ「英語プラス」は、欧州市民が「母語、英語プラス1外国語」の3言語を(程度の差はあれ)使用できる状態を理想とするもので、一般教育での外国語教育の方法が多様化している。共通言語としての英語のみではなく、複数言語能力の育成という敢えて困難な課題へ取り組む背景には「ヨーロッパは言語や文化の小集団のあつまりである。統合は言語と文化の多様性を維持して初めて可能である」(A.Raasch)という趣旨の、多様性維持への強い政治的意思と外国語教育政策がある。「言語と文化の多様性維持」はヨーロッパのみの課題であろうか?日本では今日、第2外国語教育、特にヨーロッパ系語種の教育が危機にあると言われているが、他方で、国際化コースの設立や英語・日本語教員養成の専門化が進んでいる。日本でも「外国語教育の専門化」は今後の課題ではないだろうか。そのように考えると、ドイツ語教育では、従来の語学・文学を中心としたカリキュラムに対し、どのような補完・多様化が可能であろうか。また外国語教員養成の領域では歴史を有する「英語」とどのような協力関係があり得るのか。本報告では、関西大学・大学院「外国語教育専攻」(修士課程)での具体的な経験に基づき、英語教育との協力関係で明らかになった可能性と問題点、今後の課題を論じる。

 

4.言語文化能力育成のための新しい教員養成シラバス

尾崎明人(名古屋大学、日本語教育)

日本国内における日本語教育が制度的に整備されたのは1980年代のことである。この教育体制の柱の一つとして文部省は1985年に「日本語教員の養成等について」と題する報告の中で「日本語教員養成のための標準的な教育内容」(いわゆるガイドライン)を示した。これにより大学の学部、大学院および民間の日本語教員養成機関で教えるべき標準的な教育内容と授業時間数(単位数)が指定されることになった。その後、1990年代に日本国内の日本語教育を取り囲む社会環境は大きく変化し、言語教育に対する考え方と方法にも大きな変化が見られた。このような変化に対応する必要が認識され、1999年3月に新しい日本語教育の体制作りの指針となる報告書が文化庁から公にされた。この基本方針の中には当然ながら日本語教員養成課程の見直しも含まれており、2000年3月に「日本語教育のための教員養成について」という報告書が出され、その中で「日本語教員養成において必要とされる教育内容」いわゆる「新シラバス」が公表された。この「新シラバス」では、教授内容を「社会・文化・地域」「言語と社会」「言語と心理」「言語と教育」「言語」の5つに区分して提示している。今回のシンポジウムではこの新シラバスの趣旨と概要を紹介し、日本語教授能力がどのように捉えられているかを報告する。

 

5.Content based language learning ― ein Konzept und seine Anwendung im Rahmen der Förderung von Mehrsprachigkeit in einer multilingualen Welt

Michael Müller-Verweyen

Unter dem Etikett ,,kommunikativ` lässt sich eine Sprache strategisch nur positionieren, sofern diese Sprache Weltkommunikationssprache ist wie Englisch (oder regionale Kommunikationssprache wie Spanisch in der spanischsprachigen Welt, vielleicht Deutsch in Osteuropa ...). Die Konsequenz, die daraus für das Deutsche in Japan (möglicherweise in Ostasien) zu ziehen ist, ist, dass die Aufgabe der Verbindung zu den kulturellen Inhalten nicht gangbar ist.

Überlässt man Englisch das Feld, Weltkommunikationssprache zu sein, so bleibt für die euro-päischen Sprachen (wie auch vielleicht gleichermassen für Japanisch als Fremdsprache) das Feld des content based language learnig. Dieser Ansatz wird in seinem Konzept im Rückgriff auf das European Framework des Council of Europe und seinen Realisierungen in Deutschland, z. B. im bilingualen Unterricht, skizziert. Prinzipiell sind dabei zwei Richtungen zu verfolgen: Exportiert man den Sprachausbildung in die Fachwissenschaften oder - umgekehrt - importiert man die Inhalte in den Sprachunterricht und erhält so einen erweiterten Sprachunterricht. Dabei hat dieser Ansatz in seiner praktischen Realisierung in Deutschland einen weiteren sprachenfördernden Aspekt: Er führt Studierende der Fremdsprache dazu, die Fachrichtungen jenseits der philologischen Fächern zu verfolgen.

 

 

シンポジウムⅡ(14:30~17:30)       B会場

 

新しいドイツ語文法構築への試み ― 命題の成立条件とその周辺

Zur Aufstellung einer neuen deutschen Grammatik ― Proposition und

ihre Peripherie

司会: 在間 進 s.zaima@tfs.ac.jp井口 靖 inokuchi@human.mie-u.ac.jp

 1.日本のドイツ語研究においては地道な努力が続けられており、今日までにすでにかなりの成果をあげてきている。しかし、現状では、残念ながら、これらの成果が相互に結びつき合いながらより高次の目標に収斂していく感じもない--それらの成果がまとまった形で手に取ることができる状態にさえない。したがって、これらの成果を体系的組織的に教科書・参考書などに取り入れようとする実用的応用の動きも皆無である。極言すれば、今までの成果が粗「小」ゴミとしてこの世から消え去るか、「役立つ製品の優れた部品」として活用されるかどうかの分かれ目にあると言っても過言ではないであろう。

 2.研究において未知の知見を獲得することはたしかに価値あることであろうが、従来の知見を集大成することもそれに勝るとも劣らない作業と言えよう(なお、ドイツ語研究の場合、未知の知見たるものが本当に「知見」なのかを検証する手段はあるのだろうか)。日本のドイツ語研究の集大成が成功するとするならば、それは、日本のドイツ語研究の大きな財産になるばかりでなく、日本のドイツ語教育へのドイツ語研究の本格的応用を可能にするものであろう。ドイツ語を母語としない研究者のドイツ語研究として、新たな地平を開くことも夢物語ではない。

 3.現在、研究者が自分のためだけの研究をしていても許される時代は終わった。ドイツ語研究および言語研究一般の現状(およびこれまでの経緯)を眺めた場合、これまでになされた研究成果を整理し、それを広く利用できる形にまとめあげるべき時期に来ていると言える。特に、ドイツ語教育のコンテンツ(もちろん学生から授業料をとって与えるにふさわしいコンテンツ)の「なさ」が露呈しつつある(あるいはした)現在、このような集大成の試みはドイツ語研究者の急を要する不可避な課題とも言える。私たちも社会的流れを無視することは許されないのである。


 4.今回のシンポジウムは、以上のような認識のもとで計画された。個々の発表者は、名詞と動詞の関係、命題の成立条件、時制、話し手の立場など、個別の現象を扱い、相互に脈絡があるようには見えないかも知れないが、それらの発表の根底には、ドイツ語研究の様々な成果を新しい(できる限り)統一した視点から整理・集大成しようとした場合、どこにどのような問題点があり、また、今後、何がどのような形で明らかにされなければならないかなどというような問題提起がある。私たちの最終的な夢は、ドイツ人によるこれまでのドイツ語文法とは異なる、日本におけるドイツ語教育にも応用可能な新しいドイツ語文法を構築することである。みなさんの積極的な討論への参加を希望したい。私たちは今後も、様々な機会を利用し、このような試みを続ける予定である。

シンポジウムのホームページ:http://german.human.mie-u.ac.jp/~symposium2/index.html

 

1.格研究の歴史と今後の展開

清野智昭 seinotom@cfl.f.chiba-u.ac.jp

 格は、形態的範疇であると同時に、統語的、さらには、意味的範疇としても捉えられる。格の研究は長い歴史を持つものの、「格とは何か」についてさえ、いまだ一致を見ていない。格に固有の意味を認めるJakobsonのような立場がある一方で、主格と対格は構造格であるが、その他の格は内在格であるという生成文法に代表される立場がある。また、結合価理論では動詞が補足成分の格形を定めるとしている。これらの見解に対して、特定の格形と意味機能を持つ成分が組合わさってできる統語構造(もしくは「格枠組み」)が特定の意味構造を有するとの考えが有力になっている。これは、他動詞構文など特定の構文の中でも典型的な成員と周辺的な成員があるとする認知言語学的なアプローチにも通じていく。本報告では、特にドイツ語の4格がどのように記述されてきたかを概観し、4格が1格や3格と作る統語構造が持つ意味機能を論ずる。1格と4格が作る典型的構造は、動作主と被動作主を含む他動構文であることは当然であるが、どんな事象ならば(またはどんな事象まで)この1格―4格の構造で表現されるかの条件を提示したい。そして、この考察を土台として、これからの我々の格研究が何を目指すべきかを提示したい。

 

2.構文の成立と意味の相補性

湯淺英男 yuasah@kobe-u.ac.jp

 構文の成立には、文成分相互の、ある種調和的な ? いわばcompatible(池上1999)な ?統語論的意味論的関係が必要である。例えば、Er geht zur Schule/hin/??なし. Er setzt sich auf dieBank/hin/xなし. では、動詞と方向規定詞の間のcompatibleな関係が、構文成立の要件となっている。また逆に、文成分相互の関係が、構文成立の阻害要因になる場合もある。本報告では、主に終結相、結果相などのアスペクトに注目し、文成分相互の意味論的相補性と構文成立の関わりを考えてみたい。以下が考察の対象:(1)ein-, aus-がつく複合動詞では、傾向として、着点・起点の前置詞句が生起しにくく、単一動詞ではそれらが現れるのはなぜか?(亀ヶ谷(1998)参照)(2)den Saft aus der Zitrone pressen/den Saft [aus einer Zitrone] auspressen のように、aus- が付加されると前置詞句が随意的になるのはなぜか?また、das Baby ins Laufgitter stellen/Waren im Schaufenster ausstellen のように、aus-が単一動詞に付加すると、方向規定詞ではなく場所規定詞になるのはなぜか?(3)binden, kratzenのように「所有の3格+4格目的語」をとる動詞は「4格目的語+場所の前置詞句」をとり、前者の述語構造をとれないbeißen, schlagenのような動詞は「所有の3(4)格+方向の前置詞句」をとるのはなぜか?(4)Sie hat sich müde gearbeitetのような結果構文に、なぜbearbeitenのような複合動詞は使えないのか?

 

3.時 制

嶋﨑 啓 Satoru.Shimazaki@ma9.seikyou.ne.jp

 ドイツ語の時制研究においては依然として何を「時制」Tempusと呼ぶのかという問題が未解決である。学校文法などで時制が六つであるのは、ラテン語の文法記述をドイツ語に当てはめた結果であるが、ここから形式と意味の関係が常に問題にされた。形式を重視してラテン語のように単一動詞内の変化にのみ時制を認めれば、ドイツ語の時制は現在形と過去形の二つしかないという考えが成り立つ(vgl. Engel 1988)。意味を重視すれば、未来形・未来完了形は「未来」を表さないがゆえに時制には数えないという考えも可能である(vgl. Vater1975)。この場合、時制は過去・現在・未来という時間を表示するということが前提であり、その意味で過去形は「過去」を表すのではなく、「語りの世界」を作る形式であるという考えも現れた(vgl. Weinrich 1964)。

 時制研究におけるこれまでの混乱の一因は形式から出発したということにある。完了形等はもはや語彙的意味に還元できず、意味が形式から乖離していることを考えれば、形式を出発点とするやり方は有効ではない。まず時制は「時間」を表すという「意味」に基づいて、その「形式」を確定し、そこから今度はそれらの形式における時間以外の意味(Aspekt, Modalität,Stilistik等)を時間との関連で探ることが、今後の時制研究の有効な方法であると思われる。

 

4.言語と言語外世界

渡辺伸治 shinji@lang.osaka-u.ac.jp

 言語と言語外世界の関係の研究は様々な観点から可能であるが、本報告は言語外世界の対象を言語に取り込む働きとされる「指示」について主に考察するものである。

 まず最初に、指示の全体像を簡単に概観しながら、指示にはどの様なタイプがあり、どの様な分類が可能であるかを考察する。続いて、特に指示の一つの下位分類であるダイクシスを取り上げ、その性質について考察する。その際、シンボル、インデックスという記号論的な概念との関係についても言及する。また、中でもダイクシスの重要な要素である次元を取り上げ、どの次元を設定するのが妥当か検討する。一般的には、人称、時間、空間の次元が設定される場合が多いが、本報告では、人称の次元は空間の次元に含まれるとし、基本的次元としては時間と空間の二つの次元のみを設定する。また、次元としては他に、社会的次元、テキスト的次元などが設定される場合があるが、これらは次元とは無関係であることも述べる。

 最後に、ダイクシスに関連すると考えられている視点、エンパシーという概念を簡単に考察する。視点はその概念規定が曖昧な場合が多く、循環論になっている場合が多いと思われるが、本報告では視点という名称を持つ説明原理には、ダイクシス的性質を持つものがあることを述べる。また、エンパシーはダイクシスの関連で言及される場合があるが、エンパシーはダイクシスとは異なることを述べる。

 

 

シンポジウムⅢ(14:30~17:30)       C会場

 

オイディプースをめぐる悲劇作品と伝説 ― 運命論の展開

Tragödien und Sagen um Ödipus - verschiedene Auffassungen von Schicksal

司会:古澤ゆう子

 

シンポジウムの目的:                   

 父を殺し母と結婚したテーバイの王オイディプースをめぐる伝説とこの伝説にもとづいて書かれたギリシア悲劇は、ドイツ語圏の作家や哲学者や心理学者に見過ごしにできない影響を与えている。オイディプースの特異な生き方が、運命論とのかかわりで人々に衝撃をあたえ、思考をうながしてきたからであると言える。ヘルダーリン、ヘーゲル、クライスト、フロイト、ヴァルター・ベンヤミン、ハイナー・ミュラー等の名前があげられるであろう。彼らがオイディプース像をいかに解釈し発展させていったかを、比較検討するのは興味深いことである。しかしながら本シンポジウムでは、近代の受容および解釈のみでなく、古代のオイディプースに焦点をあてソポクレースの悲劇『オイディプース王』および『コローノスのオイディプース』を論議の対象とする。古代ギリシアに関する古典学の専門家を講演者に迎え、古典学界において現在まさに激しい議論を巻き起こしているソポクレースのオイディプース解釈について討論をおこなう。独語文学および独語圏の思想にかかわりの深いオイディプースの人物像と悲劇を、少しばかり専門領域を越えて古典学の面から考察することには、意義があると考えるからである。

 この悲劇では伝説の英雄の運命が、神アポローンの神託と複雑にからみあう。オイディプースの父ライオスが神託によって息子を山に捨てたために他国で育った息子に殺される。息子オイディプースも神託を聞いて父殺しを避けようとしたがために、父との衝突の場に来あわせる羽目になる。さらにスフィンクスの謎を解いて、母と結婚する運命に陥るのである。しかし、テーバイに蔓延する疫病を除くために再び神託をうかがい、疫病の原因とされるライオスの殺人犯を追求するうちに、自分が犯人で父殺しで母の夫であることが判明し、自ら目を潰して放浪の旅に出る。こうした神託に示されるはずの神の意図(もしくは<運命>)と、神託を受けた人間の思惑や行動選択とのからみあいは、ソポクレースの創作だと考えられる。しかし、解釈は一様ではなく、犯人探索の際にオイディプースが真実追求者として描かれているのか、あるいはむしろ真理から逃避する者と描かれているのか、またアポローンの神託と人間自身の運命の選択のかかわりが、いかに解されるべきであるかは多様に論じられている。

 さらにオイディプース伝説は母との結婚という点で、中世のグレゴリウス伝説等の聖人伝とつながる面を持つ。また親を破滅させる子に関する民話研究から興味深い共通点と具体的関連も指摘されている。しかしながら、ここでも<宿命>を負った人間に残された行動選択の自由という点で、ソポクレースの悲劇には民話と異なる創意があると考えられる。父のみならずオイディプース自身に父殺しと母との結婚の神託が、事前に告げ知らされているからである。このことは彼に悲劇的行動を回避する可能性があったかもしれないと示唆するようである。この神託は警告であったのに、オイディプースは熟慮する慎重さを持たなかったと解する研究者もいるが、それに対する反論もある。このような意味で、伝説と悲劇の比較から、悲劇作品の特異性と「悲劇的なるもの」が浮かび上がると言えよう。

 さまざまな所見が主張されるなかで、容易に結論は出ないが、古代悲劇から中世・近代の文学と思想にかかわるオイディプースをめぐる運命論の問題点の所在を明確にして論点を整理する作業の試みのひとつとして、本シンポジウムを考える。

 

1.『オイディプース王』における真理(アレーテイア)と仮象(テュケー)

川島重成 

 『オイディプース王』は主人公オイディプースの自己<発見>を主題とする。それは同時にアポローンの予言がすでに成就していたことの<発見>であった。この<発見>に至るまでオイディプースは自己の恐るべき素性についてまったく無知であった。<真理>が彼の目にはあるがままに見えていなかったのである。(他方、それをそのままに見ている目もあった。予言者テイレシアースの盲目の目であり、観客の目である。)

 ソポクレースはこの<仮象性>をこの悲劇において<テュケー>という語で示唆している。<テュケー>とは「できごと」「成り行き」「幸運」「不運」等々、さまざまに訳されるが、つまりは「人の目に捉えられた限りでの<運命>」と定義できよう。

 もしこの世界を動かすものが<テュケー>ならば、<運命>とは畢竟<偶然>の謂いにすぎない。しかし詩人はこの悲劇において、<テュケー>はアポローンの存在の装い(<仮象>)であったことを、オイディプースの<発見>を通じて開示する。オイディプースの<運命>とは、その意味で、アポローンの<真理>の別名であり、その存在証明に他ならなかったのである。

 

2.目を潰すオイディプース ― ソポクレース『オイディプース王』解釈の一側面

丹下和彦

 オイディプースは自分の過去の秘密がすべて明らかになったとき、我と我が手で我が目を潰す。それは自分の蒙った災難、自分の犯した悪業を見ることの無いように、また今後は見るべきでなかった人を見るのも、見分けたいと願っていた人を見分けないのも闇の中でやるようにとの意を込めての行為であった。アイスキュロス『テーバイ攻めの七将』にもオイディプースが目を潰す件があるが、そこでは「狂った心の赴くままに」なされた行為であるとされている。またエウリピデース『オイディプース』(断片)では、ラーイオスの従者たちが無理矢理オイディプースから視力を奪ったことになっている。ソポクレースはオイディプースにそれと意識して目を潰させた。そこには、見分けたいと願っていた人すなわち両親をそれと見分けられなかったことに対する苦く深い悔恨の情を読み取ることができる。それは正しく自らの知性の未熟さに対する悔恨に外ならない。このことは、しかし己が知性への絶望を示すものではない。逆にここにわたしたちは、知こそ人間の依って立つところという、知への絶対的信頼を窺い知るべきなのである。目を潰す行為に至る過程を読み解きながら、<知の人オイディプース>像の確立を試みる。

 

3.オイディプースと「宿命の子」の民話

小川正廣

 運命のドラマともいわれるソポクレースの『オイディプース王』は、同じくテーバイ王家の破滅を主題にしたギリシア悲劇作家アイスキュロスやエウリーピデースの作品と大きく異なる点がある。それは、子供が肉親を殺害するとの神の予言(神託)が、父親ライオス王のみならず、その子オイディプースにも明確な形で下されることである。

 ところで、子供の誕生のとき、将来その子が親を破滅させるという運命が告げられ、そのため親は子を捨てて恐ろしい運命を避けようとするが、その甲斐もなく結局予言が成就してしまうという話は、キリストを裏切るユダの物語や中世の聖人伝にも見いだされ、また他にもそれに類した民間伝承が世界中に多く存在する。おそらく古代ギリシアでも、古くから類似の民話が語られていて、ソポクレースはそれを前提にして物語を構想したと推測できる。

 しかし今、そうした「宿命の子」の民話と『オイディプース王』を詳しく比較した場合、やはり子供(オイディプース)自身にも運命が告げられるという点で、ソポクレースの作品には根本的な違いがある。ソポクレースは、親への予言によって一見民話的な物語展開を設定しながら、じつは「予言」を二重化して、新たな構造の作品を創ったのである。その結果、「宿命の子」オイディプースは民話の枠組を逸脱し、悲劇的主人公として再創造された。そうした文学的創意に焦点をあててみる。

 

4.伝説のオイディプースとソポクレースのオイディプース

橋本隆夫

 ソポクレースの『オイディプース王』と伝説のオイディプースのちがいはオイディプースが自分の素性を知る過程が描かれているか否かにある。ホメーロスをはじめとして伝説では、あるなんらかの理由または原因でその真実を知って自分の運命の恐ろしさを身をもって体験するということにとどまっていた。それだけでも彼の運命の悲劇性は十分に理解できるのではあるが、伝説でのオイディプースはその話を聞く者にも話す者にも第三者の存在でしかなかった。ソポクレースは「知る」という局面にしぼってオイディプースの新しい悲劇性を提示した。「知る」ことに向かう様子が舞台で演じられることによって、オイディプースは普遍的な存在として内面化された。このようなオイディプース像を創造する契機となったことについて伝説素材と作品のなかから検討したい。以下の3点について考える。

1) 神託と目つぶしの2点から見るソポクレースの独自性。

2) 神託と「知る」ことのかかわり。

3) 予言者テイレシアースから神託と同じ内容を突きつけられたときに、これを理解しようとしないにもかかわらず、事態の進展にともなって真相に直面せざるをえなくなる作品の構造。

 

 

第2日 10月21日(日)

 

シンポジウムⅣ(10:00~13:00)       A会場

 

森林・文化・人間

Wälder・Kultur・Menschen

司会:松岡幸司

 

 ドイツは、言わずと知れた森林国である。人々は森を愛し、その生活の中における森林の存在が大きなものである事は、わが国でも周知の事実である。そのドイツ人と森林との関係史については、『森が語るドイツの歴史』(K. ハーゼル著.山縣光晶訳.築地書館.1996年.原題,,Forstgeschichte: Ein Grundriß für Studium und Praxis“)に、訳者のことばとして、次のようなことが書かれている。

 私たちは近代的な森林管理の発祥の地であるドイツから、明治以降、多くのことを学んできた。しかしそれは、ある歴史的な断面やある一面だけを取り入れてきたのではないか。もっぱら技術やこれに立脚した諸制度を学ぶことに励むあまり、その基盤となる森と人びととのさまざまなかかわり合い、すなわち文化を知るのをなおざりにしてきたのではないか。日本の森のあり方が大きな転換点に立つ今日、ここにあらためて森と人びとのかかわり合いの歴史が総合的に描かれた本書を出すことは、きわめて有意義なことと思うのである。

 日本も、ドイツと同じく森林国と言われているが、林業離れが進み、森林は荒廃している。林学の輸入元であるドイツとは、その現状はあまりにもかけ離れている。その理由の一つとして、上記の指摘が挙げられよう。

 これは、日本においてこの分野の研究が成されていない、という事を意味するものではない。もちろんドイツ文学においても、グリムのメルヒェンやロマン派の諸作品をはじめとする作品の内に現れる森の姿は、多くの文学研究者の研究対象となってきた。しかしそれらの多くは、「作品解釈」という枠をなかなか越え出ずにいたのではないだろうか?森は、作品の舞台や象徴的な役割を担うもの、つまり作品における一要素として扱われることは多かったが、作品の書かれた背景、文化的背景の一コマとして扱われるような視点は、今まであまりなかったのではないだろうか?

 そこで、本シンポジウムでは、文学作品の中に描かれている森に対する視点を、「作家が扱った森」から「作品に現象してきた森」へと変えた報告を行なう。この視点の根底にあるのは、今回企画しているシンポジウムにおいて基調講演を担当する菅原氏の論である。信州大学農学部において「森林意識」に関する研究を続けてきた氏の主張は、「森林は、自然条件の所産というよりも、むしろ文化的創造物として位置付けるべきである」という見解である。つまり、本シンポジウムにおいては、「文化的創造物である森林がいかに文学作品に現象してきているか」、そして「それを通して、我々は何を知りうるか」という点がテーマとなる。この見解に基づき、菅原氏の基調講演に続いて、三つの視点から各報告者が「森林(自然)と文学」について報告を行う。再び菅原氏によるまとめの後、会場と討論の時間を持ちたいと思う。

 

1.基調講演:「森林をみる心」

菅原 聰 (信州大学農学部名誉教授)

 国境を越えると、その国特有の風景が現れてきて、違った国に入ったという感じを受けることが多い。それを感じさせてくれるのは、森林や耕地、建物などが一体となった全体の風景なのであるが、そのうちでも、森林のたたずまいの差異が特に大きく、それぞれの国の特性を明確に示してくれている。

 森林風景には、気象や地形や地質などの土地の自然条件が大きな影響を与えるので、国によって森林風景が異なるのは当然だ、と言う人もいる。しかし、人間に役立つ森林を積極的につくり上げてきたドイツの森林風景にしても、自然を生かしながら人手を加えてきたわが国の森林風景にしても、自然条件の影響を受けながら、そこで生活してきた人たちとの関わりのなかでつくり上げられてきている。そのため、それぞれの国の森林風景は、自然条件の差異以上の違いを見せているのだ。

 すなわち、森林風景は、単なる自然条件による所産なのではなくて、人間がつくり、関わってきた文化的創造物・文化的所産なのである。そこで、森林風景をつくり上げてきた人たちの「森林をみる心」についてみていくことにした。「森林をみる心」なるものは、歴史的集積性のきわめて高いものであり、それぞれの時代の時代精神や社会状況によって変容してきている。つまり、各時代の森林の姿と当時の文化的状況や人々の意識の間には、密接な関係があり、森林を通して、時代精神や社会状況を推察することも可能なのである。

 

2.文学と森林 ― シュティフターの作品を例に

松岡幸司

 まず、「文学と森林」というテーマに対する二つの視点を明らかにする。一つ目は「作家が扱った対象としての森林」である。文学研究において、これは「作品 → 森林」という視線の向きを表す。二つ目は、「作品に現象してくる森林」である。この視点で作品を扱う場合、研究者の視点は、「森林 (→作者)→ 作品」という流れをたどって作品にアプローチすることになる。

 上記の対比を明確にするために、一つの作品に対して、上記二つのアプローチを行った研究結果を報告する。扱う作品は、シュティフターの『森ゆく人,,Der Waldgänger“(1847)』である。作品の冒頭に精密画のような自然描写が見られるのは、シュティフター作品の典型的な特徴と言えるのだが、『森ゆく人』においてもそれは同様である。その自然(森林)描写について、次のような二つの解釈をおこなう。

 作品の構造から見た森林の意味について(作品から森林を見る)

 この作品の構造と、作品の舞台となっている森林の描写との関係を分析することにより、それらが作品内容とその展開に対して、多層的な関係を持っていることを報告する。

 作品の土台となっている森林描写について(森林から作品を見る)

 作品冒頭の地誌描写における森林描写が、作品の展開の上で「前提条件」となっていることに着目し、森林がシュティフターを通して現象することによって作品が成立している、という視点を報告する。

 

 

3.日本文学における森林

内なる自然を観てみよう ― 深沢七郎『楢山節考』から

中島賢介

 深沢七郎が鮮烈なデビューを飾った『楢山節考』は、当時の文壇にまことに大きな波紋を呼んだ。それらの多くは、伊藤整のコメントに代表されるように「日本人が何千年もの間続けてきた生き方」への共鳴であった。そしてその後も作品研究の力点は、台詞回しやストーリーの展開、土着性や民話性、死生観だけに置かれてきた。しかし、残念なことに登場人物(あるいは作者)にとって不可欠な存在である「楢山」が森であるという認識がなされてこなかった。というより、森が生活の場であるという認識を研究者が持てなかったがゆえに、「楢山」を遠い世界としてしか捉えきれなかった言う方が適切であろう。

 本報告では、「楢山」を「人間の『外なる世界』から『内なる世界』へと続く臨界」として位置付けた上で、この作品を読むことにする。つまり、森林が自然の背景として切り離されて遠くに存在しているのではなく、むしろ人間が積極的に関わってきたにもかかわらずその未知性に対して畏敬の念を抱かざるを得ない、いわば「内面への旅路」へと通過する場として考えてみる。自然観察に際してゲーテは、「『一と全』とに目を注げ 内にあるものもなければ 外にあるものもない 内がそのまま外なのだ さあ ためらわず掴みとれ 広く知られた聖き神秘を」と述べている。本報告では、登場人物の「楢山」観から、「大いなる自然」と、我々一人一人が持つ「内なる自然」との両方に焦点を当てて作品を論じる。

 

4.ヘルマン・ヘッセの自然観 ― 木や森の視点から

茅野嘉司郎

 ヘッセを一躍人気作家にした作品『ペーター・カーメンツィント』に関しては、主人公の恋愛や友情の物語と見るのがふつうかも知れないが、そこにはまた溢れるほどの自然への賛歌を読み取ることもできる。ヘッセは初期の作品からすでに、故郷の自然や旅で出会った自然を多く取り上げている。しかしとりわけ、第一次大戦中に起きた身辺の不幸や、心労が重なって神経症が高じ、精神分析を受けた結果生まれた作品『デーミアン』以降の作品には、ヘッセと自然との結びつきを強く感じさせるものが如実に現れている。ドイツでは「森林が最も純粋な自然の形態」と思われているようだが、ヘッセの作品においても木や森はきわめて重要な役割を担っている。

 本報告では、主に『放浪』(1920)、『絵本』(1926)、『無為の術』(1973、遺稿からの短い散文)、『小さな喜び』(1977、遺稿からの短い散文)、『晩年の散文』(1951)といった作品の中から、ヘッセが木や森について語ったエッセイを取り上げ、その自然観を考察する。その際、身近な自然としての木や森と、大いなる自然 -たとえば高山や広大な湖など -に、ヘッセがどのような視点をおいているかに注目し、またヘッセの中で、木や森と人間の関係、大いなる自然と人間の関係がどのように捉えられているかを探る。

 

 

シンポジウムⅤ(10:00~13:00)       B会場

 

中世初期および盛期の超地域語生成のあらわれ ― 高地・低地ドイツ語において

Ansätze zu überregionalen Tendenzen im Früh- und hochmittelalterlichen Deutschen

司会:須澤 通、檜枝 陽一郎

 

 当シンポジウムでは、これまでのドイツ語史研究では大きな関心を向けられることのなかった「中世盛期以前の高地・低地ドイツ語諸方言」の超地域語化(Überregionalisierung)の現象について、その諸相に注目し、その性格と特徴を考察してみたい。新高ドイツ語の文章語成立過程について、これをカロリング朝宮廷語からシュタウフェン朝宮廷語、プラハのルクセンブルク家の官庁語を経て、ハプスブルク家のウィーン官庁語とヴェティーン家のマイセン官庁語に至る歴代皇帝庁書房の伝統の中で連続的に描こうとした K. Müllenhoff (1863)の試みが挫折して以来、標準語化の問題を古高ドイツ語から中高、初期新高ドイツ語、そして新高ドイツ語への連続性の視点で考察しようとする研究姿勢も意味を失ったように考えられている。その後の K. Burdach (1893)および、これら二人の社会的上層から下層への発展方向に対して、東部開拓地における移住者の方言の混淆と言語平均化という下層から上層への発展方向を説いた Th. Frings (1936)のテーゼも説得力を持つことが出来ず、加えて、新高ドイツ語文章語発展過程における言語平均化(Sprachausgleich)の現象が、広範囲なドイツ語地域にわたって見られることが確認されたことによって、今日では、新高ドイツ語標準語成立に至る「一つの方向性 (eine Richtung)」 および新高ドイツ語標準語の単一の「揺籃の地」は存在しなかったとの考えが一般的である。こうした研究動向を踏まえると、標準語形成の中核となる強力な地域とその言語を持たなかったドイツ語の標準語の成立には多くのドイツ語の地域的共通語が関与した超地域語化、超地域的言語平均化の過程を前提とすることが可能であり、これが標準語形成の重要な契機となったとも考えられよう。

 今回のシンポジウムでは、それゆえ、新高ドイツ語標準語に至る「多様な方向性(verschiedene Richtungen)」を前提にし、「超地域語化」のコンセプトに本来の多様で複雑な概念を含ませて、ドイツ中世の初期および盛期の各方言あるいは地域語における超地域語化現象について考えてみる。ドイツ中世盛期以前の言語状況を概観すると、社会的上層では、ラテン語との対決、ラテン語からの復権闘争(Emanzipation)の中で、交易性のある言語を目指し、各Regiolektを平均化する動きとともに、文章語(Literatursprache)生成の多様な試みがうかがえ、またその他の社会層でも Regiolektからの脱却に向かう、自然発生的なVerkehrssprache的言語の芽生えが生じていた。これらの動きは必ずしも新高ドイツ語文章語成立へと向かう道筋を直接的に辿るものではない。しかし、各時代・各方言群における多様な方向性を持ったInterregionalisierungからÜberregionalisierungへと向かううねりこそが、ドイツ語標準語形成に至る基本的方向とは言えないであろうか。ここでは、各発表者が、中世初期、盛期の高地および低地ドイツ語について、当時の方言群のあり方を探る上での伝統的な区分法に則り、それぞれの地域語、方言における「超地域語化的現象」の契機、特徴を、基層語であるRegiolektが置かれた地域層、社会層を考慮に入れ、diatopischおよびdiastratischな観点から考察することとする。

 

1.Mhd. のいわゆる宮廷詩人語の超地域語的性格について

須澤 通

 Mhd. のいわゆる宮廷詩人語について、今日までの研究は、これを、negative Ausleseにより成立したKunstsprache、特定社会層における文学的コミュニケーション手段のためのFunktiolekt等と性格づけ、ここにシュタウフェン家のアレマン方言のPrestigeに依拠した一定の超地域語的文章語、もしくは文学的共通語への傾向を認めている。本報告ではHartmann, Gottfried, Wolframを中心に、彼らの言語を以下の5項目において検討することで、この言語の超地域語的性格について考察する。

 1)押韻語について見ると、各詩人自分の方言を使用しながら、Gottfried以外はそれぞれ他の方言圏を意識した押韻形を用いている。低地ライン方言圏出身のVeldekeのEneitは、彼の方言および、後援者の中部ドイツ語的特徴を有した押韻形を取っている。2)民衆叙事詩で広く用いられた古風な語彙については、Hartmann, Gottfriedはその使用を避けたが、Wolframはこれを積極的に利用した。3)フランス語からの借用語は、洗練された宮廷的言語様式形成の手段として積極的に用いられた。しかし、その用法および内容は彼らの言語様式同様、それぞれ個性的であり、特徴的である。4)特定のドイツ語語彙は、新しいethischな内容を獲得し、宮廷社会層における理想概念を示すLeitwörterとして用いられた。しかしこの語彙に関しても各詩人が理想としてここに求めた概念は決して一様ではない。5)ドイツ宮廷詩人には詩学、修辞学に基づいた表現様式の統一性が見られる。特にAntithese, Oxymoron はChrestienやThomasには見られない独特の用法となっている。

 以上の考察から次の結論を得ることができる。ドイツ中世盛期の宮廷詩人たちは、自分もしくは後援者の方言を用いて詩作し、押韻形もそれに従った。しかし彼らは、他の言語地域あるいはその言語を意識し、また自身の宮廷的言語芸術を完成させるため、同時代の詩人の言語、言語様式には強い対抗意識を抱いた。詩人たちの言語に対するこのような姿勢と、これによって創出された宮廷的なStil, Wortfeld、特にここにおけるEthosに、diastratischな超地域的共通性を見ることができる。

 

2.Althochdeutsch における Überregionalisierung

四反田 想

 宮廷詩人語、Inter-, Überregionalisierung, Schreibdialekt, Schreibtradition概念を中心にAhd. の言語状況を扱う。1)統一的Ahd. は存在しないという説が一般的だがüberregional にはahd.音韻推移、二重母音化・単母音化・Umlaut等の音韻的・形態論的変化が各方言境界を越えて生じていた。8-10世紀にNd.,Niederfränkisch-Niederländisch方言が切り離され、Obd., Md.間の差異が減少し緊密に合流する傾向が貫徹し、フランク王国内で次第にその後の「(高地)ドイツ語」の基礎が作られる(InterregionalisierungからÜberregionalisierungへ向かう言語変遷の一過程)。そこから,Ahd.'概念はmd., obd. Varietätenの統合としてのみ正当化される。2)統一的なahd.書き言葉も形成されなかったとされるが、Rheinfränkischに基づく`karolingische Hofsprache'の仮説(Müllenhoff)や修正仮説から “Ludwigslied” におけるNiederfränkisch, Mittelfränkisch, Rheinfränkisch方言要素の共存を説明するSchützeichelらの説もある。ロマンス語基層地域に居住したフランク族の上層言語Westfränkischは統一語だったのか、幾つかの方言に分かれていたのか。8-10世紀のフランク王国内での「(高地)ドイツ語」の基礎形成はカロリング朝時代の民衆語文学をaltsächsisch文学とahd. 文学へと二分化する萌芽でもあった。Ahd.に見られる文学語の統一化傾向は認められるが、個々のSchreibdialektの大きな差異を平均化するまでには至らなかった。

 

3.中世初期低独語地域でのAltsächsischの位置づけについて

河崎 靖

 本報告が対象とするのは、中世初期のAltniederdeutsch域の言語状況であり、必ずしも、近現代のドイツ標準語の問題に直結するものではない。また、発表者の分担区分も、当時の方言群のあり方を探る上で妥当と考えられる伝統的な区分法をとってAltsächsischのみを考察しており、担当領域(=Altniederdeutsch)全般を扱うのではない。しかしながら、こうした地域的方言圏のうねりを、InterregionalisierungからÜberregionalisierungへと続く、その芽生え、あるいは萌芽的状態とみなせないであろうかというのが本発表の狙いである。Altsächsischは、その実体がいわゆる系統樹に示される如くに単一的な言語共同体の様相を示すものではなく、diatopisch, diachronischそしてdiastratischな観点からすると、隣接する諸方言群とかなりの程度、相互的な影響関係にある。例えば、Altsächsischの時代に西側に位置しAltsächsisch諸文献に多大な影響を及ぼしたフランク方言、あるいは、書記法上、一種の規範的役割を果たした高地ドイツ語、といったAltsächsischに関わるダイナミックな相互関係の諸相を個々の具体的事象を通して明らかにしたい。その際、Echtsächsischという考え方を導入することによって、広くIngwäonisch内の一方言としてAltsächsischを位置づけ、diastratischな見地からAltsächsischに関わる Überregionalisierungの問題とは一体どのようなものとして提起できるのかを問うてみたい。

 

4.中低ドイツ語初期におけるWestfalenおよびそれ以西の影響について ― Ostfrieslandを例として

檜枝陽一郎

 13世紀前半からはじまる中低ドイツ語の歴史では、14世紀後半にある程度規範的でüberregionalな文章語がLübeckに出現したとされる。それ以前は、Nd. の言語域に若干のregionale Schreibsprachenが存在し、いわば14世紀後半を時間的な区切りとしてregional/überregionalの関係が規定されている。Regionale Schreibsprachenのうちで影響力があったのは、Westfalenやそれ以西の地域、すなわち現在のオランダ語などの方言ないし言語であった。他方、Nd.の言語域の北西にあるOstfrieslandでは、ほぼおなじ時期にUrkundenspracheがラテン語からフリジア語を経ずに直接 Nd.へ転換しており、Ostfrieslandは新たにNd.の言語域に組み込まれることになった。地理的にWestfalenの北部にあり、またオランダのGroningenとも密接な関係にあったOstfrieslandにおけるNd. には、当然ながらWestfalenやそれ以西の言語特徴(lief, vrientetc.)が見られ、それらは規範的なLübeckの文章語に通じる言語特徴(lêf, vruntetc.)と併存している。そうした言語状況ではregional/überregionalの関係はLübeckの場合とは別様に捉えるべき問題であり、それはまたオランダの西部方言と低地ドイツ語の区分という難題とも無縁ではない。

 

 

一般研究発表・文学4(10:05~12:30)      C会場

司会:宮永 義夫、川嶋 正幸

 

1.中世の習慣論 ― ハビトゥスの復権と個の覚醒

香田芳樹

 近年、習慣論はブルデューやドゥルーズといった様々な分野の研究者によって取り上げられ、その現代的意義が論じられるようになった。我々にも馴染みの深い「習慣は第二の天性である」というアリストテレスの言葉は、しかしキリスト教世界に受け容れられるまでには長い紆余曲折を経ている。12世紀後半から習慣論はヨーロッパ思想界でにわかに注目を集めるが、これは神を最高善とした神学大系と人間学的世界観との関係に変化が生じたことを示している。自然本性を克服し、徳ある行いを恒常的に可能にするものが、個人の主体性と努力であり、その結果生まれる習慣であるとする見解は、最高善である神の恩寵の権威を限定し、人間中心主義への移行を宣言したものと解されるからである。それゆえ、精神史上最初期に習慣の神学的位置づけを行ったのが、思想界の異端児アベラールであったことは偶然ではないし、また中世ヒューマニズムの代表者ソールズベリーのジョンも中世スコラ神学の泰斗トマス・アクイナスも新しい倫理学構築のための重要な要素として習慣を理論化しようとしたのである。本発表では中世の習慣論を紹介しつつ、習慣のもつ恒常性、完全性といった特質が、倫理的人間形成にどのように寄与するものと捉えられているかを、ハルトマンやゴットフリートの作品、また神秘思想を例に考察したい。これにより習慣論の復権が、中世後期に芽生えた「個」の自覚と密接に関連することが理解されるであろう。

 

2.レンツの言語政策論 ― 18世紀アルザスにおけるドイツ語純化運動

今村 武

 J.M. R.レンツのシュトラスブルク滞在時代(1772-1776)の活動は、戯曲『家庭教師』に代表される文学的創作に限定されるものではない。同地の裁判所書記官J. D. ザルツマンにより創設された「ドイツ文芸協会」にも参加して、シュトラスブルクの協会を「ドイツ協会」に組織変更する。

 1)フランス語とフランス語文化が優位を占めていた中で、ドイツ語文化も並存したシュトラスブルクにおける1772年頃の特異な文化的言語的状況を概観する。

 2)「シュトラスブルク・ドイツ協会」の目的と活動を考察する。とりわけレンツが定例集会で読み上げた講演『新しいシュトラスブルクの協会の目的について』を取り上げる。今日の意味での民主的なあり方をめざした協会の運営方法、会員共同の図書購入計画、そしてフランス語文化圏へのドイツ文化の仲介役としての協会の活動を明らかにする。

 3)レンツのドイツ語分析、ドイツ語政策論を、「ドイツ協会」における二つの講演『ドイツ語の優れた諸点について』及び『アルザス、ブライスガウ、及び近隣地方におけるドイツ語の純化について』を手がかりに詳らかにする。レンツによる当時のドイツ語の分析とドイツ語観、ドイツ語の純化の必要性、「標準ドイツ語」の構想とそれを決定する手順の重要性について説明する。

 

3.ノヴァーリスの「化学」をめぐるエクリチュール ―『化学ノート』と断章における「化学」について

平井敏晴

 「化学(Chemie)は分析と綜合からなる」。ノヴァーリスの『化学ノート』に書き込まれたこのメモは、その前後のコンテクストから、彼の「化学」に三つの要素があることを示唆しているように見える。その一つは、このメモの少し前に記載された「錬金術」(Alchemie)との関係であり、第二に、「分析」や「綜合」という言葉が示す哲学的な側面である。そして、第三の要素とは、物質の反応について観察・考察する化学である。

 ノヴァーリスが「化学」について触れる頻度が多くなるのは、1798年に『化学ノート』が書かれてからである。『化学ノート』とは、フライベルクの鉱山アカデミーで自然科学を学んだときの、研究ノートであるが、18世紀後半における化学をめぐる議論を見ると、ロマン派成立の前夜に、化学の射程が広範囲に及んでいたことは、すぐに察しがつく。

 それならば、ノヴァーリスが受容した「化学」に、上記三要素がもともとあるとしても、それは特異なことではあるまい。そこで、本研究では、彼が「化学」を受容しながら上記三要素をどれだけ区別していたかを、まずは明らかにしたい。そして、ノヴァーリスは化学受容の過程で「化学」の再編成を試みたのであるが、そのプロセスを、『化学ノート』と断章をテクストとして、上記三要素に着目しつつ追ってみたい。

 

4.,,Autorschaft“ の弁証法 ― E. T. A. ホフマンにおける記譜および書字メディアの競合

嶋田由紀

 『クライスレリアーナ』に描かれている楽長クライスラーは、楽長を経験し自ら作曲も行ったE. T. A.ホフマンの分身だとされている。この作品には、教養として音楽を享受・消費し、オリジナルの楽想からほど遠い演奏をたれ流す小市民的人々がイロニーたっぷりに描写されている。音楽に対するこのような教養主義を成り立たせている背景には、上流階級を中心とした当時の楽譜の普及が考えられる。音楽家ホフマンは、楽譜が作曲家の ,,Autorschaft“をこのような形で失墜させると同時に、作曲家の楽想を保存・再生するのに必要不可欠なメディアでもあることを認識していた。

 そこで作家ホフマンは、この二律背反を、音楽においてではなく、文学作品において解決しようとする。楽長クライスラーは、自分の作曲を楽譜には残さず、かわりに五線紙の裏に鉛筆で走り書きしたフモールあふれる手記を残して、突然失踪する。これによってクライスラーの楽曲は、到達不可能性を獲得し、また、彼岸へと飛び去ってしまった彼の存在は、手記の印刷という形で再構成される。

 このような、楽譜という音楽記録・再生メディアを書字のうえで消去することで、作曲家の,,Autrorschaft“を弁証法的に確立しようとするホフマンの試みは、同時代における作曲家の著作権獲得への動きに対応している。

 

5.ヘルマン・シフのユダヤ観 ― シフ生誕200年に寄せて

池永麻美子

 ヘルマン・シフ(1801-1867)生誕200年に寄せて当発表において、ハイネのまた従兄弟であるシフを、彼のユダヤ観を中心に紹介したいと思う。

 ハンブルクの裕福なユダヤ商家出身のシフは、ベルリン大学で法学を学んだ後、イェーナ大学で哲学博士の学位を取得した。1830年から35年までベルリンで新聞雑誌に書評その他多数の原稿を書き、文学界では多少名が通っていたが、1835年突然ベルリンから姿を消し、以後シフの名も人々の記憶から薄れていった。

 ベルリン時代まではシフがユダヤ人とユダヤの伝統、さらに自分のユダヤ出生について特に深く取り組んだ形跡は見られない。ベルリンを去った後シフの人生と作品に、当時ドイツ・ユダヤ人が程度の差はあれ直面せざるを得なかったドイツ・ユダヤアイデンティティ問題が浮き彫りになってくる。それは特に、1841年のキリスト教プロテスタントへの改宗以後、1840年代のゲットー小説に顕著に現われる。

 これらの作品から、シフが、キリスト教に改宗した後もユダヤ人としての自覚を失うことがなかったことがうかがわれる。ユダヤ民族に属するという自覚と、ドイツに生まれ育ちヨーロッパ人文主義教育をうけドイツ語作家であるという意識、このふたつの意識の間をシフも揺れ動いたのではないだろうか。

 

 

一般研究発表・文学5(10:05~12:00)      D会場

司会:近藤 弘、神谷 善弘

 

1.『ベルリンの幼年時代』をめぐるベンヤミンとショーレムの見解の相違について

尾張 睦

 後にユダヤ人として亡命の途上で命を絶つことになるヴァルター・ベンヤミン(1982-1940)は、ドイツ語を話しドイツ社会で経済的に成功した、いわゆる同化ユダヤ人の子弟としてベルリンに育った。彼が幼年時代の記憶を綴ったエッセイ集『1900年頃のベルリンの幼年時代』は、目につきやすい第一の意味の層として、ドイツの伝統に由来するモチーフを多く含んでいる。当初ベンヤミンの友人ショーレムは、この書物に「ある種のユダヤ的側面」があることを認めなかったが、ベンヤミンの死後は逆に、ユダヤの聖典に擬した意味づけを施している。この第二の意味の層によってショーレムは、第一の意味をくつがえし排除しているように見えるが、そのような読み方はおそらくベンヤミンの本意ではなかった。ドイツ的・ユダヤ的伝統の対立や、ブルジョワ階級の没落は、ベンヤミンの幼年時代にはまだ被い隠されていた。後年の認識によって解読された諸々の意味のせめぎ合いは、『ベルリンの幼年時代』に書き込まれたイメージの数々に緊張感を与えている。しかし最終的に全体を貫くのは、静的な死や、書かれ得ない忘却されたものの重みである。もはやどのような意味も人生の生気ある中心になれないということを語り手が悟るとき、語られたものは世界の歴史と同様、瓦礫の集積として読まれ得る。そのような視点のもとに、ユダヤ神学の核心としての、メシアニズムとの関連を考える余地が生まれる。

 

2.ベンヤミンのカント時代と近代 ― 近代把握の前提

南 剛

 ベンヤミンは「ゲーテの『親和力』」の冒頭で、有名な、事象内実と真理内実のちがいについて説明するが、その少しあとのカントとモーツァルトに言及している部分では、事象内実への洞察が完全なものになるとそれは真理内実への洞察と一致すると述べる。冒頭での事象内実、真理内実は、作品の事象内実、真理内実であり、あとのは、事象の事象内実、真理内実であるが、そこではそれにとどまらずじつはさらに、事象、事象内実、真理内実の三項の関連が、カントとモーツァルトの例にぴたりと即応しつつ提示されている。

 ここでは、まず、その事象、事象内実、真理内実の三項の関連を、ベンヤミンの当該箇所にあたりつつ、ていねいに確認する。

 つぎに、それに応じてその部分から見てとれる、ベンヤミンのカントゲーテ時代理解としての啓蒙主義・シュトゥルムウントドラング・古典主義・ロマン派理解をとりあげる。

 さいごに、ことカントにかんしてはベンヤミンによる直接の理解内容にはまた限界があるが、しかも同時に、ベンヤミンのカントゲーテ時代理解はそこでも根本的に有効であることを考察する。ベンヤミンにあってこのカントゲーテ時代理解は、同時代より前の段階における、近代把握の前提をなす。われわれにとってもそこに、カントの近代とベンヤミンの近代が、別々の層をなして見えてくる。

 

3.アウシュヴィッツ以後、詩を書くことだけが野蛮なのか?

藤野 寛

 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」・・1949年に書かれた「文化批判と社会」の末尾に置かれたこの発言のもともとの意図は、時事的違和感の表明にあった。同年の講演「復活した文化」の中でツァラトゥストラになぞらえて言われるように、「伝統的な意味での文化は死んだ」ということが人々にはまだ伝わっていないのか、という驚き。「文明の亀裂」とも言われるような、強烈な断絶の認識がそこにはある。

 しかし他方で、アドルノは、この発言の直前で「文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している」とも言う。どうして、「新たな段階に突入した」ではないのか。このエッセイの議論の筋道を追うことなくアドルノの意図を理解することは不可能だろう。さらに、『否定的弁証法』(1966年)の最終章でアドルノは自らの発言を撤回ないし修正した、とする解釈の真偽を吟味するという課題も避けて通れない。

 挑発的なこの発言は、激しい反応を呼び起こし、アドルノの意図を越えて新たな文脈を形成することになった。「観照と実践」「表現と道徳的禁止」「美的表現による意味付けと不条理」「モデルネをめぐる歴史哲学」といった問題が、この発言との関連で論じられることになる。この発言をその重層的な可能性に向けて理解するために、「アウシュヴィッツ」「以後」「詩を書くこと」「野蛮」という四つの部分に分析して考察してみたい。

 

4.「ドイツの画家」ゲルハルト・リヒターの連作『1977年10月18日』における記憶と表象の可能性

林 志津江

 ゲルハルト・リヒター(1932-)の連作『1977年10月18日』は、バーダー・マインホーフ・グループをめぐる作品だ。この過激派グループも、ベトナム戦争への反戦運動などに根ざす点では、70年代世界各国の赤軍派と軌を一にする。だが彼らには、ナチス戦犯が今だ国内政治の主要勢力を占めるというドイツ固有の問題もあった。その意味で『1977年10月18日』は、「アウシュヴィッツ」という過去をも描く。

 この連作でリヒターは、写真を絵筆でキャンバスに写しとるフォト・ペインティングの手法によって、しかも焦点がぼけた写真のように描くことで、忌まわしい過去をテーマとする芸術に成功している。そもそもピンぼけ写真とは、撮影者の「認識」ではなく、カメラレンズの「見」たままが偶然に映った写真と言える。わざと焦点の定まらないように描かれた絵画とは、我々の明確な「認識」を提示するのではなく、目に「見」えるままを写し、我々の「現実」こそが実はピンぼけ写真のようにぼんやりしているという事実を露呈させる。リヒターの絵画は、我々が日常的に意識している「現実」を描くというより、むしろ我々が普段は気づかないことへの眼差なのだ。絵画のこの手法が、「アウシュヴィッツ」を芸術において表象可能にする。『1977年10月18日』が提示する記憶と表象可能性の問題を、ドイツにおける過去の克服という観点から、リヒターの芸術観と芸術的手法の分析によって考察したい。

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