2001年度季春研究発表会予稿集

 


研究発表会での討論をより活発なものにするために、学会ホームページに予稿集のページを設け、発表要旨を前もって掲載いたします。広報委員会では、要旨原稿を受け取り次第、本ページに掲載したします。

 なお、各発表者には通知済みですが、まだ、発表要旨をお送りいただいていない発表者は、e-mail にて、広報委員会までお寄せ下さい。


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一般研究発表・文学

Zeit bei Benjamin und Heidegger

Rainer Habermeier

Simmel, Weber und Lukacs beleuchten den modernen Gegensatz der formal-ope-rationalen Zeitanschauung und der Selbstverabsolutierung des endlichen Subjekts in ästhetischen Lebensstrukturen oder ekstatischen Weltnegationen.

Benjamin deutet eine Schichtung der Zeitanschauungen an: die Idee jeder Ära gipfelt zwar im Zeitumschlag in eine Offenbarung, dennoch bewegt sich die Geschichte zu höherrangigen Ideen.  Er modernisiert die Heilsgeschichte, indem die modernitätsadäquate Offenbarung dem kritisch die Ideen Gottes aus Geschichtsphänomenen konstruierenden Kunstphilosophen und dann dem historischen Materialisten zufällt, der die mimetischen Anrufe des unterdrückten Vergangenen in schockhaften dialektischen Bildern darstellt, die zum revolutionären Spontanhandeln erwecken. Anstelle des Propheten tritt das ästhetisch-wissenschaftliche und dann das theoretisch-politische Genie-Subjekt der Modernität. Auch die formal-operationale Zeitanschauung der Naturwissenschaften und technisch-organisatorischen Funktionalsysteme taucht in der anarchokommunistischen Assoziation der technischen Grossprojekte a la Scheerbarts ‘Lesabendio’ wieder auf und die Selbstverabsolutierung des Subjekts im ewigen Naturuntergang durch den (allerdings kommunistisch-kollektiven) Glücksrausch der Menschheit.    Benjamin unterwirft zwiefach das Reich Gottes dieser Dialektik der Immanenz .

Heideggers gleichzeitiges Hauptwerk ‘Sein und Zeit’ versucht den modernen Zeitgegensatz zu sprengen, indem es aus jenem protestantischen Glaubensdrama des Individuums schöpft, das nach Nietzsche ohne Gott auskommt. Aus den uneigentlichen Zeitformen des Alltags und Mans, der theoretischen Richtigkeit und der technischen Effizienz kehrt der eigentliche Mensch zur Existenz in die ursprünglichen Zeitekstasen zurück. Er läuft entschlossen zum Todesbewusstsein vor, was die eigentliche Zukunft ist und die eigentliche Gegenwart ermöglicht, d.i.einen Augenblick des Entschlusses, ein Geschichtliches als Möglichkeit zu ergreifen und als Schicksal aufzunehmen. Darin ist der Mensch in die ursprüngliche Zeitlichkeit zurückgekehrt und hat ein echtes Ganzsein errungen.

Heidegger sieht zwar diesen Prozess der Entfremdung und Umkehr als existenzialontologisch invariant. Aber es verbirgt sich darin doch das moderne Subjekt, und die Modernität soll, ähnlich wie bei Benjamin, durch die Selbstverabsolutierung des Subjekts in freien Dezisionen überwunden werden. 

 

ザクセン喜劇に照らしてみたクリストロープ・ミュリウスの喜劇における風刺と医学

小林英起子

  ヨハン・クリストーフ・ゴットシェートの演劇改革に沿って1740年代、ライプツィヒを中心に書かれた一群の喜劇は、ザクセン喜劇とも呼ばれている。ゴットシェートの妻ルイーゼ・A・V・ゴットシェートの喜劇を始め、クヴィストルプ、クリューガーなど『ドイツ戯曲集』に代表作品が収められている。少なくないザクセン喜劇の作者の中で、レッシングの従兄で、自然科学と医学をライプツィヒで学び、ベルリンのジャーナリストとして活躍しながら惜しくも夭折したクリストロープ・ミュリウス(1722-1754)の喜劇を中心に、そこに見られる風刺の構造と医学について考察する。

  ザクセン喜劇では特定の職業につく、偏った性質を持つ主人公がカリカチュア化されて描かれ、悪徳を暴かれ、嘲笑の対象となることが多い。ミュリウスの喜劇『医者』(1745)も、題目のごとく医者の世界を描く。富裕な商人宅に居候する二人の医者の怪しい診察と処方が、患者の病状を一層悪化させ、治療費はかさむばかりとなる。Vielgut家の娘Luisgenと恋人Damisの恋も、主治医の悪徳を解明するためなかなか進展を見せない。喜劇の結末にDamis青年自身、密かに医学を学び、恋人の目を憚るあまり、口外できなかったというおちがある。

  ミュリウスの場合、彼自身のジャーナリスト的性格から喜劇における風刺的描写が辛辣である。診察場面で交わされる真に迫る医者同志のラテン語を交えた密談と、彼らの正体をつきとめようとする恋人達の冷静な姿勢は、医学の専門知識なくしては描写しえなかった。一方、クヴィストルプの喜劇『心気症の男』(1745)では患者の側に主体が置かれている。心気症に悩むErnst青年の憂鬱な病状が、陽気な娘との出会いで快方へ向う兆しが克明に描かれている。

  ミュリウスの喜劇でも人物はカリカチュア化された名前を持ち、表題の職業の人物が焦点となる。若者がポジティヴに描かれるのに対し、両親を始めとする大人達は騙され易く、ネガティヴな面を持つという人物構成の図式を示す。この点にコメディア・デラルテの影響が見て取れる。作品は5幕構成であるが、つめこまれた長いセリフが多く、劇的緊張が少ない。

  さらに同時代の喜劇と比較すると、ゴットシェート夫人の『身分違いの結婚』(1743)でもミュリウスとの共通点が見られる。ここでは誇り高い斜陽貴族の娘と富裕商人の息子の身分違いの政略結婚が主題である。貴族の娘の欺瞞が明らかになると、縁組話は進展しない。ウールリッヒの『怠惰な農夫』(1747)は、怠け者の農民青年の夢想を嘲笑する。怠惰な戯言が笑われる時、悪事が暴露される時、恋の進展よりも悪徳の描写の方が優先されている。

 

A.ボイムラー『ロマン派の神話学者バハオーフェン』
再検討の試み-歴史と観念論の狭間の神話

 新 町 貢 司

 1926年に出版されたM.シュレーター編『東洋と西洋の神話』は、1861年初版のJ.J.バハオーフェンの著作『母権制』の再編集版である。『東洋と西洋の神話』の巻頭には、A.ボイムラーによるバハオーフェン論『ロマン派の神話学者バハオーフェン』が序文として付されていた。本発表では、否定的な評価がされがちなそのバハオーフェン論に改めて光を当て、ドイツロマン派に関する神話学説史として位置付けたい。

 今日、このバハオーフェン論には主にトーマス・マンとの関連でしか考察の目が注がれないといってよい。加えて従来の研究では、マンがそれを批判している文脈に従って、否定的な見方がされてきた。マンはボイムラーが非合理的な夜・死の崇拝を掲げる母権制を称揚しているとして「煽動的な反啓蒙主義」だと非難したが、それがかならずしも的を射ていないことは既に指摘されている。

 ボイムラーは、ロマン派のさまざまな神話論に検討を加えた上で、ロマン派をイェーナ派とハイデルベルク派とに区別し、後者こそ真のロマン派だとしている。バハオーフェンもその後者に属するという。ボイムラーは単にロマン派をいわゆる前期・後期とにわけているのではなく、神話の解釈に対する基本的姿勢の違いを問題にしている。つまり、神話を非歴史的観点から考察するか、あるいは現実の歴史の証左と見るかの違いである。

 歴史的観点からの神話解釈は、進歩史観に彩られたものであり、オリエントの母権制を西洋的父権制より低い位置におくものであった。ボイムラーが、バハオーフェンの『母権制』の進化論的図式を高く評価し、アーリア神話観形成につなげようとした点は無論批判されてしかるべきである。

 しかし現代的観点に立った場合一顧の価値があるのは、ボイムラーが非歴史的神話解釈を「心理主義」、「主観主義」だとして批判している点である。主観―客観の認識論的図式から神話を解釈し、古代の神話のうちに近代的主体性の原初の姿を求めるような方法は、ロマン派に限らず20世紀前半までの神話研究の大きな流れであった。それが自文化中心主義的志向にとらわれている先入見的な方法と考えられるということは、最近の神話研究でも問題となっているのである。

 

情報伝達システムとしての夢遊病、司法制度 ― ハインリヒ・フォン・クライスト『ハイルブロンのケートヒェン』

 眞 鍋 正 紀

「火の試練」という副題を持つ本戯曲は、読了後に激昂したゲーテによって燃え盛る暖炉の火にくべられたという。ゲーテには耐えがたい不協和がこの戯曲の根幹にあるからだ。確かに数多くの矛盾する要素がこの戯曲には組み込まれているが、当時個々の演出家が上演のさいテキストを断片化し都合よく加工して舞台上に提供したため、それらの不協和は隠蔽され、民衆的で愛国的、国民的なメルヒェンとして、クライストの生前唯一成功した作品となった。それら不協和のひとつを形成しているのが、「アナクロニズム、時間軸(と空間軸)における不協和」、言い換えれば異質な要素同士の結合である。

あれほど嫌悪していた大衆的、通俗的な「(中世)騎士物語」ジャンルをクライストは戯曲化し、1)聖フェーメ団の秘密地下裁判(十三世紀中盤以降)、2)守護天使、3)神聖ローマ帝国皇帝、4)神明裁判といった数々の騎士物語ジャンルに特徴的ともいえる時代的、歴史的な要素と幻想的、非現実的な要素を登場させた。これらの要素は同一の時代の要素が選別されて、厳密な歴史的内容として配置されているのではない。時間的空間的に断片化された諸要素が、「騎士物語」ジャンルの空想や幻想を許す枠組みの中で緩やかに組み合わされてアナクロニズムとして成立している。また「夢遊状態・催眠状態」における半覚醒状態でのケートヒェンの行動や、その状態での彼女の「尋問、治療」は、「魔術」や「ニワトコの茂み(中世の催眠薬もしくは性交渉の隠喩)」という中世的形式で表現されるが、実は十八世紀後半にウィーンの医師A・メスマーが開発してヨーロッパ全域に大きな影響力をもっていたメスメリズム・動物磁気説を背景としていた。「夢遊状態・催眠状態」は時間軸・空間軸そして記憶において隔離され断片化された不可知な情報、つまり「真実」を明らかにする手段として機能している。秘密結社聖フェーメ団、そして神明裁判の「裁判形式」も同様に、「真実」という絶対的な情報の探求を(神の秩序、天使組織の先触れとして)目指す組織である。「守護天使」は主人公たちの「夢」に現れて彼らの出会いを運命的に媒介し、また「天使」概念自体が伝統的に「(絶対的に不可知な一神教の神の)使者(その媒介者)」、情報伝達、郵便システムそのものを体現している。一見不協和に見えるこれらの諸要素は、実は非常に緻密で複雑なその配置において、一貫した「(情報・郵便)伝達作用」という文脈を有している。本発表では戯曲における情報(郵便)伝達の作用の可否とその意味、伝達形式の複雑な交錯が前景化する問題について考察する。

 


一般研究発表・ドイツ語教育 

 

Konversationsunterricht für grammatikmüde Studierende

Bertlinde Vögel

An vielen Universitäten müssen Lerngruppen mit vierzig bis sechzig Studierenden unterrichtet werden. Die große HörerInnenzahl stellt besonders beim Konversationsunterricht ein Problem dar.

Im Vortrag soll ein Modell vorgestellt werden, wie mit dieser Situation für alle Beteiligten einigermaßen befriedigend umgegangen werden kann.

In diesem Konversationsunterricht werden die Merkmale der natürlichen Kommunikation so gut wie möglich in die Unterrichtssituation übernommen.

Die Gespräche finden im privaten Raum zwischen den Studierenden und der Lehrperson statt; die jeweils eigene Lebenssituation, Meinungen und die Interessen sind Gegenstand der Kommunikation. Metasprachliche Ausdrücke werden von Anfang an unterrichtet und von den Studierenden verwendet. Die Fremdsprache wird im lebendigen Gebrauch erlebt.  Interkulturelle Unterschiede beim Kommunikationsverhalten können von den Studierenden während der Gespräche erfahren werden.

Um zu verdeutlichen, wie der Unterricht selbst funktioniert, soll eine seltsame Fremdsprache (nicht Deutsch oder Englisch) unterrichtet werden. Die ZuhörerInnen können dann an sich selbst als Lernende beobachten, wie sie in ihrem Kopf das Wissen über die Sprache konstruieren, ob sie sich motiviert fühlen, ob es Ihnen schwer fällt, die wesentlichen Inhalte zu verstehen usw.

Einige allgemeine theoretische Bemerkungen und die deutschen Arbeitsblätter, die im Unterricht verwendet werden, sind im Handout zu finden.

Die eigenen Erfahrungen beim Lernen und die Verständlichkeit der Präsentation des Lernstoffes auf den Arbeitsblättern soll Gegenstand der Diskussion sein. Mich persönlich interessiert besonders, ob japanische DeutschlehrerInnen glauben, dass sie mit den Blättern unterrichten könnten.

Das Ziel des Vortrages ist es, ohne viele theoretische Worte den HörerInnen einen lebendigen Eindruck vom Unterrichtsgeschehen zu vermitteln.

 


シンポジウムI

 

<壁>の崩壊とDDR文学--1989年以降のドイツ文学(3)
Fall der >Mauer< und die DDR-Literatur
--Deutschsprachige Literatur nach 1989 (3)

司会:藤井 啓司

  DDR(旧ドイツ民主共和国)の文学とは,単にDDRで発表された文学,あるいはその地域出身の作家によって産み出された文学というだけにとどまらない,ある内実と姿勢にむすびついていた。その内実とは,社会主義社会の建設を目標とする国での生活において体験されたさまざまな矛盾であり,姿勢とは,肯定的にせよ否定的にせよ,その国家が掲げた社会主義理念と対峙するなかでの作家としての態度である。DDRのドイツ連邦共和国への統合は,このような内実と姿勢の前提となるものを失わせた。

 しかし,DDR文学を,DDR社会での生活体験を素材とし,DDRという国家と向き合ってきた作家たちが,その葛藤のなかから産み出した文学と規定するならば,そこには,<壁>崩壊以前にDDR文学を代表していると考えられた作家たちばかりでなく,<壁>崩壊以降に注目された,あるいは初めて作品を発表した作家たちも含まれることになる。そのような意味でのDDR文学はなお書き続けられていると言えるだろう。また一方で,<壁>の崩壊は彼らの文学創作のための経験の基盤だけでなく,作品受容の条件をも大幅に変化させた。その変化は,<壁>崩壊以降の社会のなかで,作家・知識人がどのような役割を果たすべきなのか,という議論ともつながっている。

 本シンポジウムでは,<壁>崩壊以降も書かれているDDR文学が,それ以前のDDR文学とどう変わったのか,どのような点において断絶しているか,もしそこにDDR文学としての継続性が認められるならば,それはどのようなものであり,またどう評価すべきものなのかを,ブルマイスター,ハイン,ジルグル,ヒルビヒなどの作品を手がかりに論ずる。また,DDR社会において大きな影響力を持っていた作家・知識人の役割が,<壁>の崩壊でどう変化したか,その作家・知識人の役割の変化は,統合後のドイツ社会においてどのような意味を持つのか,について考えたい。

 

 

.<壁>の崩壊とDDR知識人

國 重  裕 

  東西両ドイツが統一を果たしてから10年余が経過した。しかし「統一」とは名ばかりで,現実には「東」が「西」に吸収・合併されたことは周知のとおりである。旧DDRは二級市民扱いに甘んじ,「西」の価値観が「東」を席捲した。「西」のディスクールに従うことなしに「東」について語ることは難しくなった。

 多くのDDRの知識人は,良くも悪くも大衆を代表する(repräsentieren)存在と自らを位置付けてきた。そうした知識人のあり方は,事実上の一党独裁体制下では機能したかもしれないが,統一後の価値観の多様化/拡散のなかでは成り立たなくなった。「反体制」の名のもとにある理念を掲げつつ,そこに自己の理想を投影する態度は,もはや胡散臭いものでしかなくなった。しかし今,いわば「西」の価値観によって自らの「語り」を奪われた旧DDR市民をもう一度表象すること,皮肉にもそれがDDR出身の作家に期待されるようになったといえよう。

 一般大衆(の声)を表象することは可能か? いかにして進行形の歴史/物語(Geschichte)を語ることができるのか? 「歴史」がまさに生成しようとする現場に身を置いて「物語」を語ろうとするDDR知識人。今回の口頭発表では,彼(女)らの試みを検討する。

 Brigitte Burmeister(1941‐)は >Unter dem Namen Norma<(1994) において,まさに旧DDRの市井の生活を描いている。第一部「6月17日」では東ベルリン・ミッテにあるアパートの日常を描く。第二部「7月14日」では,先に「西」に出た夫を訪ねた主人公が,パーティーの席上,人々の好奇のまなざしに晒されるまま,思わず自分が「ノルマ」という暗号名でシュタージのIM(非公式協力員)であったとの偽りの告白をしてしまう。

 ブルマイスターは,いかに「東」の人間が「西」のコードに絡みとられ,組み敷かれていくかを描きつつ,「東」の人間が自らの歴史/物語を獲得しようとする営みを,抑制の効いた文体で書いている。声を奪われたDDR市民。しかし同時に,「DDR市民」をあたかも一つの実体として顕在化することは,注意深く避けられている。「西」に対して,あらためて「東」を対置させようというのではない。支配的語りからこぼれ落ちていく従属的存在(subaltern)を,語りそのものが孕む暴力性に包摂されることなく,いかに掬いあげることができるのか? 知識人である以前にDDRの一市民として自らを眺めるブルマイスターの作品のテーマはここにあるとぼくは考える。

「証言するとは何をいうのか。純粋な傍観者となることはできない。それは共に生きることだ。観察するのではなく,分かち合うことだ。歴史が決定される高みに立つのではなく,歴史が耐えられている低さに身を置くこと。低く,どこまでも低く,受容性という言葉がもはや駄弁ではなく,現に生きる行為そのものとなるような,そうした低さに身を置くこと。」(ルネ・シェレール『歓待のユートピア』)

 

 

.知識人と年代記作家――クリストフ・ハインについて

坂 本 典 子

 クリストフ・ハインは,80年代から一貫して自らを年代記作家(Chronist)として規定している。彼の作品においては,「大きな歴史」があたかも再現されているかのように描かれることはなく,ある時代における平凡な個人に焦点が絞られる。とはいえその描かれ方は,ある人物の心理が動き変化する過程が詳細に綴られる,つまり,ある個人を深く描き出すことでその時代状況の本質を捉えるというものではない。また,確かに,「大きな歴史」からこぼれおちる個人の「小さな歴史」を拾い集め記録していると読めなくもないが,むしろ,「大きな歴史」に「小さな歴史」を対置し,後者をより重要だとすること自体を疑問視するような「小さな歴史」が拾い集められ記録されているといったほうがいいように思える。このようなハインの年代記作家という自己規定は,「歴史の意味」を問う「歴史家」や,隠されているとされた「真実」を語り人々を導く「知識人」の姿勢に距離をとったものであると考られるのではないだろうか。

 ハインは,自分の年代記にとっては「無慈悲なる精密さ」が重要であると述べる。彼のいう「精密さ」は,彼のどの作品にも見られる特徴,登場人物達が対立するどちらの側から見ても一見どうでもいいようなことにこだわるという特徴に関わっていると思われる。そして,そのことによって,そのような問題の設定自体がずらされていく。しかしそれは,単に些細なこと(どうでもいいこと)の積み重ねが重要だということを意味しない。ハインの作品においては,「重要なこと」に,より重要であるとされた「些細なこと」を対置してしまうような構えの解体が目指されているように思える。また登場人物達は,様々な文脈が重なり合う接合点として描き出され,受けとめる文脈の違いによって自分自身が否定していたような行動にも導かれる。すなわち,ある事柄に対する真偽,あるいは意味が問われるのではなく,その事柄が様々な文脈においていかなる意味を持ち,いかに作用するのかが「精密に」描き出されているのではないだろうか。

 こうしたハインの作品に対して,89年以降の継続性あるいは断絶性の有無を問うことはできない。年代記作家という彼の姿勢が,「継続性」と「断絶性」という問いの立て方自体に疑問を投げかけていると考えるからである。本発表では,2000年に出された小説>Willenbrock< を以上の観点から考察し,年代記作家の意味するところを明らかにしたい。

 

 

.黒の対位法──ラインハルト・ジルグルの>Abschied von den Feinden< をめぐって

四ッ谷 亮 子

  本報告では,90年代に入って〈壁〉の崩壊と旧東ドイツ市民の破滅的な生をめぐる長編小説を刊行し続ける旧東ドイツ出身のReinhard Jirgl(1953‐)を取り上げ,フーコーの影響を伺わせる社会システム論をも含む,彼の先行作品の集大成ともいうべき作品『敵との別れ』(>Abschiedvon den Feinden<, 1995年)に即して,同時代文学の「素材」として東ドイツが今なお孕む可能性について考察を試みる。『敵との別れ』では,固有名詞を欠き自らを語らぬ「兄」「弟」「我々」の三様の語り手が,ときには〈他者〉の意識を侵蝕する饒舌な「声」となり遍在するなかで,神話の位相をも召喚しつつ,死へと至る複数の対立,絶望と忘却の反復が重ね合わされて,戦後の(東)ドイツの重厚な叙事詩を形成する。報告に当たっては,1)W. FaulknerやA. Schmidtの流れを汲むJirglの斬新な構成・正書法が,形式を凌駕し独自の作品ジャンルを拓く新たな「対位法」として同時代文学に一石を投じうるのか,2)U. Johnsonがすでに50年代末に精緻に描き出した東ドイツの閉塞感,さらにH. Müllerが60年代末より先鋭化させた,暴力,嘔吐を日常とする東ドイツの「黒さ」と,Jirglのテクストにみる類稀に〈リアル〉な局所性,すなわち東ドイツにおける生活の暗部の細かな描写と,そこから無限に派生するイメージ・妄想の強靭さがどのように連続しているのかという点をとくに重視したい。

 

 

4.W.ヒルビヒの >Das Provisorium< について

--<壁>の崩壊と<自我>の問題

中 島 裕 昭

  書くことはヒルビヒにとって自我を形成し,人間存在の根拠を与えてくれる唯一の方法である。そこにはほとんど自己保存本能と言ってもよいような,強い衝動が感じられる。それはまた,実人生において生きることの意味が感じられないこと,とりわけDDRという抑圧的な社会のなかで生きる場が奪われてきたことを表わしている。DDRに暮らす者にとって,社会やそのなかで暮らす個人についての公的な言説は,現実から離反したものだった。生活実態において西側の商業主義が仮想的な規範となってしまい,実際,その財貨を獲得するルートも認められていながら,公的な議論においては社会主義理念が全体をコントロールし,個々人の欲求を無視していた。このような実態を否定し続ける社会の中で,単純労働に従事しながらきわめて偏狭な生活領域において書き続けるという態度は,抵抗のひとつのあり方だったと言えるだろう。

 しかしどのような自我も,他者とのコミュニケーションの結果である。書くという作業をつうじて作家としての自我を懸命に維持しようとする,ヒルビヒ作品の主人公たちも例外ではない。先行する二つの長編においても,主人公の作家は人的権力ネットワークがすべてを覆っていたDDRという社会のなかで,あえて孤立する労働者として書き続けながら,そこに介入する公安担当者との関係をつうじて作品を成立させようとする。つまりこの国家権力は,拒否すべき他者であると同時に,書いたものを作品として認知してもらうべき「父親」でもあった。

 しかし >DasProvisorium<(2000年)においては,このような権力は消失し,主人公は「書けない」という問題に直面する。東西ドイツを根無し草のように往復する作家は,東でも西でも,誰に対しても,中途半端な関係しか築けない。あらゆるものが商品情報として等価となり,すべてのコミュニケーションが偶然的であり,仮定的なものになってしまった以上,彼の自我も,作家という身振りによって暫定的に偽装された,無根拠なものでしかない。書き連ねられるさまざまな社会批判(消費文明や環境破壊に対する批判)も,その拠って立つ基盤が曖昧である以上,決定的な力は持ち得ない。確実なのは,このような欺瞞的な自我しか築けない自分自身と社会に対する怒りだけである。内面に大きな空虚しかないことを感じている主人公は,書いたものすべてが,すなわち作家としての自分自身が,何らの真実性も持たないことを身にしみて知っていた。だからこそ,彼の「嘘」を承認してくれる<神>を求める叫びは,哀れなほど切実に聞こえるのだろう。

 


シンポジウムIII

 

コーパスによる構文分析の可能性
Moeglichkeiten korpusbasierter Untersuchungen zur Syntax

司会:井口 靖 inokuchi@human.mie-u.ac.jp

  1998年度日本独文学会春季研究発表会においてシンポジウム「コーパスを用いた新しいドイツ語研究の方向性」が開催された。それを踏まえ、このシンポジウムは、コーパスを用いてドイツ語の構文分析を行い、21世紀のドイツ語学の方向性を探ろうとするものである。

前記のシンポジウムではコーパスの利用方法として、「用例検索」と「頻度調査」の2つがあげられた。今回のシンポジウムではコーパスを出発点にし、かつ積極的に利用するという観点から「頻度調査」を中心に置くが、単に語の頻度調査を行うのではなく、コーパスを用いて構文を分析することを試みる。ただし、構文そのものをコーパスから抜き出すことはできないため、ある特定の動詞あるいは動詞のグループについてコーパスを検索し、それら動詞について構文を分析することになる。具体的なテーマとしては、移動動詞の構文、心理動詞の構文、bekommen受動文、不定詞付き対格構文をとりあげる。すでにコーパスに構文情報を入れようというプロジェクトもあるが、このシンポジウムのような試みを通してこそ、どのような情報を加えるべきかが明らかになってくるものと思われる。

 近年「コーパス言語学」という言い方が多く用いられているが、コーパス分析は理論ではなく、研究手段にすぎない。よって、コーパス分析自体が生成文法や認知言語学にとってかわるような新しい研究のパラダイムを成すものではないが、言語資料を必要としない言語研究はありえないので、むしろコーパスを軸としてさまざまな立場を越えた研究を行うことが可能になると言えるだろう。

 方法論としてコーパス分析が対立するのは生成文法などで主流であった内省とかインフォーマントテストという方法である。内省やインフォーマントによる調査が物理や化学の実験のようなものだとしたら、コーパス分析はフィールドワークと言えるだろう。インフォーマントに尋ねる文は、言語内外の考察対象としない要素をできるだけ取り除いた純粋培養的な文が望ましいが、コーパスは必然的に現実の状況の中に存在するさまざまな条件を背負っている。そこでふつうコーパスによって出てくる結果は、いわゆる「文法性」よりも「容認性」が問題になり、文法的と考えられる文が実際の現れ方では制限を受けるという例が見られる。たとえば、藤縄氏の調査によると、scheinenに関して、Er scheint [mir] Maria zu lieben. のようなzu不定詞をとる文に比べて Es scheint [mir], dass er Maria liebt. のようにdass文をとるものはきわめて頻度が低く、しかも後者では与格の人物は1人称で、scheinenは直接法・現在に限られていたということである。あるいは、日本語で「ぜひ」という副詞が「私のぜひ行ってみたい国はアフガニスタンです」のような連体節に使われた例は1億1500万字のデータベースの中にまったくなかったという報告もある(森山卓郎・仁田義雄・工藤浩著『日本語の文法3 モダリティ』岩波書店)。パーソナルコンピュータが進歩し、大量のデータの処理が可能となったことで、このような用いられ方のちがいを明らかにすることができるようになったが、それが何を意味しているかという研究が今後進められなければならないだろう。今回のシンポジウムでは、三宅発表、大薗発表が構文の現実での用いられ方に注目している。

 しかし、人間はコーパスのような現実の文を聞くことによって、自らの頭脳の中に規則体系を作り上げていくのであるから、コーパスがドイツ語の「質的全体性」(上記シンポジウム要旨)および「量的全体性」(同上)を備えたものならば、コーパスの分析によって私たちは「言語内の規則性」(同上)に近づくことも可能なはずである。たとえば、藤縄発表の中で言及されるlassenの自動詞の意味上の主語と他動詞の意味上の目的語が共通項となっている文などはふつう思いつかないが、実際のコーパス分析の過程で「発見」されたものである。このような「発見」により新たな言語の規則性が明らかにされることもあるだろう。今回の中では渡辺発表や藤縄発表が、構文の用いられ方から言語内にあるメカニズムの解明に迫ろうとするものである。 身近になったコンピュータとインターネットにより、今後のドイツ語学のあり方も変わらざるをえないが、コンピュータを用いた資料分析によるグループでの規模の大きな総合的研究が求められるようになり、それは必然的にインターネットによる成果の公表へとつながっていくべきだろう。今回も、このシンポジウムのためにまずメーリングリストを立ち上げ、各地に在住する参加者40名の中でさまざまな討論を1年以上にわたって続け、3月にはネットワーク上でシンポジウムも行った。また、独自のホームページを立ち上げ、シンポジウムの発表要旨だけではなく、関係する資料も公開している。また、ネットワーク・シンポジウムの発表と討論も閲覧できるようにしてある。その試みはこのシンポジウムで完結するのではなく、今後もネットワークを通じて討論を続けていく予定である。

ホームページ:  http://german.human.mie-u.ac.jp/~symposium/

 

1.コーパスによる移動動詞分析

渡辺伸治 shinji@jupiter.lang.osaka-u.ac.jp

 gehenは、意味的、認知的な観点からは、「出発」に焦点がある用法(以下、用法1:例aber schon als sie "geh" zu mir sagte, und nicht "gehen Sie", war die Sache entschieden)、「方向性がない移動」に焦点がある用法(以下、用法2:例sie hatte diese Maedchengruppe schon ein paar Jahre und war immer mit der Prozession gegangen)、「方向性がある移動」に焦点がある用法(以下、用法3:例und manchmal ging ich abends zum Sportplatz)に分類することが可能である。(もっとも、この分類は意味的、認知的な分類である点でどの用法に分類するか判断が難しい場合がある。) また、gehenは、von、ausによって起点が、durch、ueberによって経過点が、zu、nach、4格支配のin、aufなどによって着点が表示されるが、起点、経過点、着点は様々な組み合わせでgehenと共起可能である。

 以上、gehenの用法の三分類と、起点、経過点、着点との共起パターンは互いに独立した概念であるが、関連する部分もある。例えば、着点が共起しているgehenは用法3、起点のみが共起しているgehenは用法1である。特定の共起パターンは特定の用法と結びつく場合があることになる。

 本発表は、gehenに関する以上の二つの観察を、Mannheimer Kopusを用いた頻度調査の観点から考察している。なお、起点、経過点、着点との共起パターンに関しては、いずれも共起していない場合をも考察対象とし、それらの場合がどの用法として用いられているかの頻度調査もおこなっている。

 頻度調査の主たる結果は、1)起点、経過点、着点のいずれか一つが最低限共起する場合には、着点が共起する場合が大多数を占めている、従って、この場合には用法3が大多数を占めている、2)逆に、起点、経過点、着点のいずれも共起していない場合には、用法1の場合が多く、用法3は極めて少ない、というものである。

 この結果に与えられえる解釈としては、用法1の場合には起点の情報が背景化される傾向がある一方で、用法3の場合には着点の情報が焦点化される傾向があるといったものが考えられよう。

 なお、本発表では、同様の頻度調査をschwimmenに関してもおこない、gehenの場合と比較対照している。その主たる結果は、1)schwimmenの場合には用法1は存在せず、用法2が多数を占める、2)起点、経過点、着点は、いずれも共起していない場合が多い、というものである。以上の結果の理由としては、schwimmenは移動の様態がgehenよりも特殊化するため、移動の様態が焦点化されるためであると考えられる。

 

 

2.コーパスによる心理動詞分析

三宅洋子 yokomiyake@excite.co.jp

  ドイツ語において、人間の心情を表す動詞には次の二つの統語形式をとるものが多い。

(1)a. Das freut mich.

   b.Ich freue mich darueber.

(1a.)は心情の原因を主格として、心情の担い手である人を対格目的語として表す他動詞文である。これに対し、(1b.)ではこの心情の担い手を主格として表す再帰文が用いられている。二つの文は意味内容的に見てほぼ同じである。本発表では、このように心情を表現する際に競合する二つの構文がどのような環境で使われ、また、そこにはどのような傾向が認められるのかをMannheimer Korpus1の調査結果に基いて報告する。その際、話し手(ドイツ語話者)がある心情をどのように述べるかという発話態度と構文選択の関連に注目しつつ調査を進める。

 はじめに、調査の内容とその結果を報告する。使用頻度の高い動詞aergern、freuen、kuemmern、wundernについて、両構文の頻度を、動詞の時制や心情の担い手にあたる項の人称との関連で調査した。この結果、明らかとなったのは以下のような点である。1)全用例における両構文の割合は、平均して再帰文が約8割、他動詞文が約2割である。2)再帰文は3人称と共に現れやすい (Er freute sich darueber)。3)他動詞文はaergernを除き、1人称・現在と用いられやすい(Das freut mich.)。4)他動詞文が3人称と現れる場合には、それが関係代名詞であるなど、なんらかの特別なコンテクストがある。

 この調査結果に基くと、以下のようなことが言える:他動詞文で表される事態は、ほぼ話し手自身の現在における心情に限られる。これに対し、再帰文は他者の心情を表すことをもっとも一般的な用法としている。こうした各構文における使用上の特色から、両構文は単なるパラフレーズでなく、機能的にも使い分けられていると考えられる。つまり、他動詞文では話し手が、自ら直感する心情を直接表明していると考えられる。一方、再帰文を用いる話し手は、他者の心情ならば普通、直接感知できないものとして表現すると考えられる。ところで、話し手は表現対象(ここでは心情)が自分にどう認知されるかという「主観的」な立場から表現するばかりでなく、いったんその立場を離れ、聞き手にとってどうかという「客観的」な立場からも表現できると考えられる。再帰文でも1人称・現在の用例が見られるのは、再帰文の使用がこうした対外的な機能に基いており、聞き手が直感できない他者(聞き手にとっての他者には話し手も含まれる)の心情を説明的に述べているからではないだろうか。

 

3.コーパスによるbekommen受動分析

大薗正彦 ozono@soc.shimane-u.ac.jp

   本発表では,ドイツ語のいわゆるbekommen受動を調査対象とし,この受動文の定着の仕方についてコーパスを用いて考察する。

  能動文における3格を主語とするこの受動文は,4格を主語とするwerden受動に比べ,一般に口語的であるとされ,馴染みも薄いものと思われる。ただし,単に「言えるか言えないか」のレベルであれば,その適用範囲は意外に広く,いわゆる目的語の3格の他に,所有の3格,利害の3格なども主語とすることができる。それに対応する形で,この受動文は様々な意味内容を持つ (例:Er bekommt ein Buch geschenkt.<物の授受>,Er bekommt ein Maerchen vorgelesen. <伝達物の授受>,Er bekommt das Auto repariert. <(所有物に対する)行為の授受> など)。

  しかしながら,これらの表現を単に可能な表現であるとして記述し,すべて同列に扱ってしまっては,明らかに不十分で,この受動文についての本質的な点を捉えていないことになるだろう。bekommen受動の用いられ方――すなわち,この受動文が,ドイツ語の話者によってどの程度,どのように利用されるか――に関して著しい偏りがあるということが,直観的にも十分予想されるからである。

  この調査では,実際にどのような例が,どのような頻度で現れるのかを確認していくが,とりわけこの受動文がどのような「意味」でよく用いられるのかという点について詳しく見ていく。

  分析・考察の結果をまとめると次の通りである。bekommen受動は,授与動詞を中心とした受動表現であり,「主語による具体的対象物の授受」という状況を中心に表わす(例:Vor zwei Jahren hatte Wolfgang den Pudel von seinen Eltern geschenktbekommen)。その際,対象物の到達点が明示されることがあり,その到達点が主語の近辺に拡張される場合が認められる(例:[...] alle Blumen [...], die ich auf die Buehne gereicht bekam[...])。このような拡張が可能であるのは,人間が自らの周囲に及んだ影響を感じ取ることができる「有情」の存在であるという認識に基づくものであると考えることができるが,このような要因を介して,bekommen受動がさらに「(ある対象に及んだ)行為の授受」という状況の表現にまで拡張される場合がある(例:Man bekommt den Schlips unversehens abgeschnitten[...])。しかしながら,このような拡張は実際にはかなり稀であると言える。一方で,(広義の)授与動詞が用いられたbekommen受動については,ある程度ドイツ語に定着した表現様式である――動詞bekommenに関して言えば,12~13回に1回がbekommen受動としての使用――とも言える。

 

4.コーパスによる不定詞付き対格構文分析

藤縄康弘 fujinawa@ll.ehime-u.ac.jp

  不定詞付き対格構文(以下ACIと略記)は、現代ドイツ語においては事実上、使役のlassen、及び直接知覚を表すsehenとhoerenの補文にのみ可能なものだが、不定詞の論理的主語をめぐり、いまだ興味の尽きない統語論の研究対象である。

 本発表では、Mannheimer Korpus 1の実例調査をもとに、ACIの根幹にあると思われる統語的原理の解明を目指したい。圧倒的な事例数を誇るlassenのもとでのACIを取り上げ、そこに現れる自動詞の論理的主語(以下「自主」と略記)と他動詞の論理的主語(「他主」)、および他動詞の論理的目的語(「他目」)の3項について4つの観点で比較を行う。これにより、以下の事実が判明する:

 ①項の表示形態:自主は他目同様、常に対格で示されるのに対し(例:[…] dass Sie Ihre Kinder nackt umherlaufen lassen)、他主は示されない、ないしは、示されるにしてもvonやdurchによることが多い(例:der Saegemueller laesst seine Koffer von einem Gepaecktraeger auf den Bahnsteig schleppen)。

 ②再帰代名詞の分布:自主には他目同様、上位文主語を先行詞とする再帰代名詞の来ることが珍しくないが(例:[…] wenn man sichgehen laesst; Bullert liess sich belehren)、他主にはそうした再帰代名詞は立たない。 ③関係詞の分布:関係詞は自主や他目に現れるほど頻繁に他主には現れない(diesen grossen Mann, den er doch denFrevel […] buessen lassen mussは稀)。

 ④不定詞の並列:自主と他目が同一対象を表すときにも、一方が省略され得る(例:[er] liess Wodka kommen und in die leeren Kaffeetassen eingiessen)。

 ところで、ドイツ語文には基本的に統語上の主語があると考えられ、これに目的語や付加語など、斜格の文肢が対置される。つまり通常の文では、自主及び他主が「主語」の名の下、他目より優位な項として扱われていることになる。

 ところがACIの補文では、この認識は妥当しない。上述の結果から明らかなように、ここでは他主が自主とは統語上ことごとく一線を画す。そればかりか、自主の振舞いは他目のそれとほとんど軌を一にしている。確かに、他主が自主と同様の対格で示される例は少なくない。しかし、そうした事例も、注意深く観察すると、動作相や人称、定・不定の別など、叙述(プレディケーション)外の条件に起因することが分かる:ACIにおける叙述そのものは、自主と他目が同等視され、他主が疎外されるという、通常の統語法とは対照的なカテゴリー分けに則っている。

 以上の考察から、現代ドイツ語のACIは、機能的類型論でいうところの能格的統語法に依拠すると考えられよう。

 


シンポジウムⅣ

大学におけるドイツ語の授業を考える
― 学生のモチベーションを高めるいくつかの方法 ―
Diskussion über den Deutschunterricht an der Universität ― Methoden zur Motivierung der Studenten ―

 司会:神谷善弘,黒澤優子

コメンテーター:田島信元(東京外国語大学教授,教育心理学)

 

 1988年春季独文学会において,理事会企画のシンポジウム「ドイツ語教育の将来を考える」が開かれ,1991年の大学設置基準の大綱化を意識した議論が行われた。

1990年代に入り,「異文化理解」「学習者中心」「カリキュラム改革」等をキーワードとしたシンポジウムが,ドイツ語教育部会の企画を中心に毎年開かれるようになった。

また,1992年には第1回教授法ゼミナールが開催され,さらに1993年度秋季学会から,「文学」「語学」だけであった一般研究発表に「語学教育」という枠組みが認められるようになった。

1996年と1997年の春季学会では,2年連続で理事会企画のシンポジウムが,「教養部解体とドイツ語教育担当者の諸問題」と「大学改革の進行とドイツ語教育の諸問題」というタイトルで開かれた。

1990年代中頃からは,「異文化間コミュニケーション」「ランデスクンデ」「コミュニカティブ・アプローチ」「認知科学」「コンピュータ」等に関連したシンポジウムや一般研究発表が,主に理論的な側面から数多く行われるようになった。

最近では,ドイツ語教育部会が,1999年春季学会から2000年秋季学会までの4回連続の企画として,「日本におけるドイツ語教育のランドスケープ」という総合タイトルの下で,「日本におけるドイツ語教育のランドスケープと大学教員の社会的責任-アンケート調査の結果から」「大学カリキュラムはどこへ向かうのか」「大学と高校の連携へ向けて」「それでもドイツ語教育は必要か」というサブタイトルのシンポジウムが行われ,ドイツ語教育の目的,目標を定めることの必要性が確認されている。

 このような経緯において,ドイツ語教授法の理論やドイツ語教育の目的論が重要視されてきた点は評価されるものだが,それだけではまだ不充分ではないだろうか。つまり,それらの底辺を支える日々の授業研究こそ最も大切であり,学会のシンポジウムや一般発表の場でも大いに議論されるべきではないだろうか。そのような視点から,ドイツ語の授業そのものをテーマとするシンポジウムを企画することにした。

 私達は,1996年6月から2001年9月までの約5年間の予定で,「ドイツ語の授業を考える会」という名称の授業研究会を行っている。会員は原則として固定されており,男性7名,女性5名の合計12名である。年齢についても,20歳代から50歳代までの各世代が揃っている。なお,専任教員と非常勤教員の比率は1対2で,一人を除いて,会員の専門分野はドイツ文学もしくはドイツ語学である。

会における具体的な活動としては,原則として2ヶ月に1回のペースで例会を行っている。そこでの議論は,授業にまつわる多岐のテーマで展開されるが,とりわけ「自分の授業の良い点を報告する」「学生のやる気を引き出す方法」「試験問題」「自主教材(プリント)」等について,授業における実践を中心に据えながら,情報交換を行うとともに,徹底的な議論を戦わせている。

本シンポジウムでは,「ドイツ語の授業を考える会」における5年間の成果を踏まえて,各発表者が,誰にでもできる授業方法として,「学生のモチベーションを高めるいくつかの方法」を提示する。これまでも,日本独文学会,ドイツ語教授法ゼミナール,各種の研究会等において,ドイツ語の授業の実践報告は行われている。しかしながら,発表を聞いている側が授業の成功の理由を,発表者が名教師であることに求めてしまったり,大学のレベルやカリキュラムの独自性に求めてしまうという悪循環が繰り返されているように見受けられる。このシンポジウムは,それらを断ち切り,どの大学でも,どの教員でも,どんな教室環境でも,どんな学生が対象でも,比較的簡単に実践できる教え方を提示することを目指すものである。

最後に,コメンテーターの田島信元氏に,教育心理学的な立場から各発表者の提案について論評を述べてもらうと同時に,大学の非外国語教員の立場からも大学の 外国語教育に関しての見解を示してもらう。それらも踏まえて,教師と学生によって作られる授業という場におけるモチベーションの問題について,会場全体との議論を深めたい。

 

1.第二外国語としてのドイツ語教育の活かし方

松 岡 幸 司 

 高校までで六年間英語を学んだ後に大学に入ってきた学生にとって第二外国語の持つ意味は,「英語から他の外国語への発展」及び「英語 -外国語―恐怖症の再来」の二つに大別できるだろう。つまり外国語に対して「積極的な意味付けを持つ学生」と「消極的な意味付けしか持ち得ない学生」の二通りが考えられるという事である。この両者に対して我々ドイツ語教師はどのような姿勢で接していくべきなのであろうか?

授業を展開する上で,ドイツ語教師に要求されるものを考えた場合,「ドイツ語力」「教授法」「授業におけるパフォーマンス」という三つの要素が,まず挙げられるだろう。最後については,奇異に思われるかもしれないが,特に上記の消極的な学生に対して授業を展開する際には,見過ごせない要素である。

授業におけるパフォーマンスの持つ意味の最大のものは,「ドイツ語やドイツ語圏文化」に対してだけではなく,「ドイツ語の授業に対する学生のモチベーションづけ」である。従来の教え方では,現在の学生はなかなか授業についてこない。仮についてきたとしても,彼らにとってのドイツ語は,「学習して修得した単位の一つ」で終わってしまう可能性がある。さらに「外国語恐怖症」を持った学生にとっては,苦痛以外の何物でもない。そのような学生にとって,授業におけるパフォーマンスは,外国語学習に対する「脱不安」を計るだけでなく,「外国語を学ぶ楽しさを知る」機会を提供するものである。

しかし,それだけでは教育としては不充分である。そのパフォーマンスに不可欠なものが,学生に「現実感覚」を持たせる事である。ドイツ語に対して,ドイツ語圏に対して,そして何よりも授業あるいは教師に対して,それらが自分にとって現実的なものであり,積極的に関わっていく(いける)ものである事を気づかせる事が重要なのである。

以上のような視点から,本報告では,いくつかの大学で年度の始めと終わりに大学1年生を対象にして実施した共通アンケートをもとにして,第二外国語としてのドイツ語の役割,そしてそれを教える側の姿勢などについて考察を行う。

 

2.授業改善の道具

内 村 國 臣 

50歳代というのは,ドイツ語教員として経験も豊富であり,専任であれば生活の心配もない。特に授業改善の必要性もないようにも思える。しかし,本当にそれでよいのだろうか。

大学設置基準改定後,全国的に始まったカリキュラム改編,少子化,定員割れ,大学の倒産という危機感と,「もっと良い授業はできないか」という欲求から,本報告者は「ドイツ語の授業を考える会」へ参加した。

「ドイツ語の授業を考える会」のメンバーの年齢層は,20歳代~50歳代と様々であるが,私自身は,必ずしも若い人の教授法をすべて採り入れてきたというわけではない。「ドイツ語の授業を考える会」の中で自分に合った道具を授業改善のために採り入れてきた。

本報告では,過去5年間に「ドイツ語の授業を考える会」で学んだことと,その授業実践において用いたひとつの道具 -「ドイツ語教師○○に対する質問」- を紹介する。

われわれ教員と学生の年齢差はますます大きくなっていく。学生の年齢は18歳~22歳と不変であるが,教員の側,自分はどんどん年をとっていき,同時に両者の間に生じる生活全般に関する感覚,興味・関心,価値観等の違いは,時とともに大きくなっていく。結果としてこのギャップは,教員・学生双方の緊張感・不安感を増大させてしまう。

そこで初回の授業において,ガイダンスを兼ねて「ドイツ語教師○○に対する質問」を行う。これは,短時間に両者の距離を縮め,学生の不安感を取り除き,両者の間に信頼関係を築くための即効性のある道具である。ところで,「学生の質問」の中には,「ドイツ語」「授業」「試験」「成績評価」といった一般的内容の比較的答え易い質問から,時にはプライベートな点についての答え難い質問もあるが,出来るだけ誠実に答えるように心がけている。学生との信頼関係を築き上げられるかどうかは,回答内容よりも,そのときの回答姿勢によるからである。

1年間の授業の最後に行った「アンケート」結果を分析すると,この「ドイツ語教師○○に対する質問」は,きわめて満足できる効果を上げていると評価できよう。

 

3.されど教科書 ― 手作り教科書の試み

(前置詞は3格支配でいいか)

森 川 元 之 

  大学設置基準の改定からすでに10年余を経過し,ドイツ語教育に関して,その理念的な意義や制度のあり方をめぐって各種の報告や議論に接する機会は多い。大学における外国語教育の改善は,カリキュラムの改編という形をとり,様々な問題と多様な方向性を孕みながら,不透明な未来に向かって流動しつつあるかの如くである。カリキュラムの概念は,教育科目や単位設定といった狭い範囲に限定されず,教材の内容やその使用法をも含むという。であるなら,改革・改善の動きが教育現場における主要なツールである教科書のあり方にも及ぶのは自然の成り行きであろう。最近刊行されるドイツ語教科書からも,変容の兆しはうかがえる。

 当発表では,先ず上記の流れを評価しながらもなお市販されている教科書に飽き足りないものを感じているひとりの教師が,素人の立場であえて私家版の文法用教科書を作成した経緯に簡単に触れる。従来型の教科書に対する不満は,「学生の学力に対する配慮に欠ける」「学生の興味や関心に直に訴える話題が乏しい」「文法が自己目的化する傾向にある」「例文に味気ない(なかんずくユーモアに乏しい)」「文法の項目のまとめ方が総花的でバラストが多い」「教育目標が明確でない」といったものである。こうした難点を反転させて陽画を作ればよい教科書の条件が揃うであろうが,理想の実現は容易ではない。

 次に,教科書(教養課程で使用する初学者用の文法教本)を作成するにあたって,私が心掛けた改善点のうち着手の比較的容易だった「バラストの解消の試み」を,前置詞の解説の場合を取り上げて紹介する。具体的には,前置詞の使用頻度を調査して統計を作成し,格支配ごとの優先順位を設け,前置詞を使用頻度によって分類したものである。今回調べた前置詞の内約7割が3格支配であった。残り3割の大部分は4格支配であり,2格支配前置詞が使用される割合は予想以上に少ない。

これを参考にすれば,学生にとっては段階的,選択的な学習が可能になるであろうし,教師にとっても導入に弾みがつくことになる。「前置詞の格支配はとりあえず3格と思え」というアドバイスは,新出語彙の海に戸惑いがちな初学者にとって心理的な負担を減じてくれるささやかな福音であろう。

4.ドイツ語教育を底辺から考える

神 谷 善 弘 

  ドイツ語教育の発展と振興を目指すときに,ドイツ語教授法の理論やドイツ語教育の目的論の重要性は疑わないが,それ以上に,その底辺を支える日々の授業研究こそ一番の基本になる事ではないだろうか。本発表では,ドイツ語教育の底辺を支える授業そのものを改善するための特効薬を求めて,「名人芸を科学すること」の必要性を確認しつつ,五つの意見を主張する。

まず,「理論は実践から生まれる」という点である。ドイツ語教授法関係のゼミナールや研究会に数多く参加して感じることは,理論と実践の遊離である。確かに理論が実践の前提となることについては否定できないが,実践に即した理論でなければ,実際の授業に取り入れることはできないのではないだろうか。

次に,ある英語教育学者の意見を引用して,「教わったように教えてはいけない」を主張したい。例えば,教師自身が教わった学習法,教授法がすべての学生に適しているわけではない。ドイツ語教師の多くが教育を受けてきた専門教育におけるドイツ語教育とそれ以外のドイツ語教育を同一視してはならないことは自明のことである。しかも,現在私達ドイツ語教師が担当している授業の大部分は,ドイツ語を専門とはしていない学生のための授業なのである。実際の授業においては,担当クラスの実情に合わせて,教わったように教える部分と教わったように教えない部分を組み合わせていくことも必要である。

そして,「教科書を教えるのではなく,教科書で教える」ことである。教科書の内容の全てを順序通りに教えていると,無味乾燥な授業になってしまったという経験は誰にでもあるはずである。教科書のどの部分が重要で,どの部分が重要でないかを学習者に明示しながら,あくまでも教科書で教えるようにしなければならない。

さらに,「ドイツ語の授業における長期的な目標と短期的な目標」について述べる。ここでは,1年間もしくは1学期におけるカリキュラム,個々の授業のシラバス,宿題,小テスト,定期試験等をどのように構成するべきなのかについての提案を行う。

最後に,授業見学や授業に関する情報交換を行うことの重要性を訴える。それにより授業の成功例を数多く収集していくことが急務である。

 


一般研究発表・ 文学2

ヘルマン・ヘッセのフィーアヴァルトシュテッターゼー体験

高 橋   修

  嵐のような青春を送ったヘッセが、漸く静かに自分の将来を見据え、テュービンゲンで書店の見習い店員として歩み始めたのは1895年、18歳の時だった。以来4年間のテュービンゲンでの生活は、ヘッセが自分の創作の最初の土台を据えた時期だといえる。両親の敬虔主義の信仰に対し、美神への祈りを中核とした求道に自らの足場を確保しようとする、究めて耽美的な色彩の強い文学だった。しかもその求道は性急であり、焦燥感・絶望感が基調をなしている。

 『ロマン的な歌』(1898年)でも『真夜中後一時間』(1899年)でも、彼はこの閉塞した耽美的世界に終止符を打とうとしていた。しかしその目的は達成されない。 新境地を開くきっかけはバーゼルへの移住(1899年)とともに訪れた。幾つかの要因が考えられるが、中でも最も重要なのはフィーアヴァルトシュテッターゼーとの出会いだったのではないかと私は考える。1900年の春から、彼は執拗にこの湖に通い続ける。そして晩夏には、2週間もの間、東岸の小村フィッツナウに留まり、ある種の体験を終わりまで貫徹しようとするのである。

 ヘッセは作品の中で、この湖での体験を2様に造形している。一つは『ヘルマン・ラウシャー』(1900年末刊)中の『1900年の日記』(この『日記』はフィッツナウでの記述をその頂点とする)、もう一つは『ペーター・カーメンツィント』(1904年刊)におけるペーターの故郷である。前者はいわば、湖の観察において唯美主義を徹底することによって、それを内側から打破しようとする試み、後者は歪んだ内面性を広い自然の懐に包んで、外側から治癒しようとする試みであったと言える。いずれにせよ、一見全く違う色合いを持つこの2作品は、同じ一つの湖畔体験に触発されて形成された双生児なのである。

 ところで、後年のヘッセが自らの文学の中でより重要な位置を占めると考えたのは、作家としての成功をもたらした『カーメンツィント』ではなく『ラウシャー』の方だった。フィーアヴァルトシュテッターゼーはヘッセに、自然への憧れと精神的真理の追求、外面への自己拡大と内面への自己深化が、相互に共振し合う2つの極であることを教えてくれた。そしてそのような運動の初動の力は後者にあり、そういう意味で『ラウシャー』は、その後のヘッセ文学の世界全体の初動力をも秘めていたのである。

 

ヘルマン・ヘッセと民族的思想

竹岡 健 一

ヘルマン・ヘッセの反戦・平和主義は夙に有名である。ナチス時代にそのヘッセとの交友を断っておきながら、戦後一転して彼に非ナチ証明書を求めた無節操な人々に対する不満を吐露した公開書簡「ドイツへの手紙」などは、今日、ヘッセ研究という枠を越えて広く知られているほどである。だが、ナチスに対するヘッセの抵抗は、果たしてそうした人々を糾弾しうるほど確たるものだったのだろうか。本発表では、とりわけ下記の四つの観点から、ドイツの民族的思想とヘッセのかかわりについて批判的検討を加えたい。

第一に、第一次世界大戦から第二次世界大戦終結にいたるまでのドイツにおける民族的思想とヘッセの関係である。ここでは、第一次世界大戦に対するヘッセの対応や、ナチスとヘッセが必ずしも敵対的な関係にはなく、第三者からはヘッセがナチスに与していると見られる場合もあったことなどを論じたい。

第二に、ヘッセ文学自体の持つ特性を問題にしたい。すなわち郷土文学に対する偏愛や反都会的・反文明的・反市民的傾向が、本質的に民族的思想と結びつきやすいものであることなどである。そのさい、とりわけエーミール・シュトラウスとの親交に焦点をあてたい。

第三に、ヘッセ受容の問題である。戦前のわが国におけるヘッセ文学の国家主義的な受容は、これまでごく一部の例外とみなされてきた。しかし、同様の解釈は、戦前・戦後のドイツにおいても見られるものである。したがって、ナチス・ドイツを代表する作家とみなされたという事実は、ヘッセ文学の保守的傾向の反映として、もっと真剣に受けとめられる必要があると思われる。

第四に、青年運動へのヘッセの影響である。これについては、とりわけ『デーミアン』と『荒野の狼』が、エリート意識、非理性的運命愛、戦争肯定、反市民的感情などを通じて、ナチス学生同盟の思想とも共鳴する部分を有していた点を主として取り上げたい。

以上により、ヘッセのナチスへの抵抗が徹底したものではなかったこと、ヘッセ文学が民族的思想と近親性を有することなどを指摘し、ヘッセとナチズムの関係については、今後いっそう詳しい考察が望まれる旨問題提起したい。

 

ムージルと〈Bild〉

布川 恭 子  

 「パースペクティヴ」は「遠近法,透視図法」等と訳される,絵画の奥行きをあらわす表現だ.この語をローベルト・ムージルはニーチェの影響下,数学的厳密さと神秘主義的なものを併せ持つ透徹した眼差し,可能性を不断に捨象することによって成立つ現実の欺瞞や矛盾を仮借なく分析し解体するもの,と理解した.そしてそれは,〈絵画〉を意味する〈Bild〉という語を用いていてしばしば表現されている.曰く,はじめは違和感を覚えさせる「壁にかけられたBild」が「慣れ」によって目に付かなくなる経緯について,あるいは逆に「習慣の織物が破れる」とは「Bildが破れる」ことである,等々.

 『魔法にかけられた家(Das verzauberte Haus)』(1908年),ある奇妙な牽引力を秘めた伯爵家を舞台とする,一種の枠構造をなす小品を,本発表では分析の対象とする.『寄宿生テルレスの惑乱』(1906年)に次ぐ二作目となるこの小品が成立するのは,ムージルが『特性のない男』に関わる構想に取り組みはじめた,「リアリズムの真実」ではない彼独自の「真実」の描出を模索しはじめた,注目に値する時期である.彼が意図した「真実」の描写とは,個々ばらばらにある事物を,平面的な「広がり(Breite)」において因果性のもとに解釈するのではなく,「奥行き(Tiefe)」において追っていくことだという.

 磁場が狂っているかに見える不可解な「魔法にかけられた家」に寄寓している中尉は,この館とその権化ともいえる,「das Unpersoenliche」と称される娘ヴィクトリアを前にして惑乱を覚える.混沌とした様相を呈するこの作品に対して読者が抱く惑乱と,これは同質である.ムージルは自らを画家に模して,「Malerが目にしたものすべてをBildの中に描き込むわけにはいかない」と記している.こういったムージルの作品は,彼自身の「パースペクティヴ」観をもって描かれた〈絵画〉として捉えることができるのではないか.またその手法は作品の構造そのものとも密接に関連しているのではないか.そしてこの〈絵画〉の表面ではなく「奥行き」で,あるいは存在するのならばその消尽点において,ムージルが描こうと欲していたものは何なのか.彼の他の諸作品でも見受けられる「パースペクティヴ」に従いつつこれらの問いを検証することが,本発表の主旨となる.

 

歯科医とネズミと二つのモニター
― ギュンター・グラス作品における映像コミュニケーション

杵 渕 博 樹

 ギュンター・グラスの『局部麻酔をかけられて』(1969)における歯科医の診察室の場面における語りの構図と、『雌ネズミ』(1986)における宇宙カプセルの場面のそれには、顕著な類似性が見られる。どちらの場合も、そこにはひとつの映像モニター画面があり、そこに語り手は自分の想念を映し出し、その映像を介在させつつ、対話の相手とコミュニケーションを行っている。

 しかし、『局部麻酔』におけるこの場面でのモニター上の映像は、語り手の私的な願望の反映である一方、この作品全編を通して見られる、雑誌やテレビなどマス・メディア情報形式のパロディの一環としての性格を持つのに対して、『雌ネズミ』におけるモニター上の映像にはそのような性格はなく、その映像と語り手との距離は限りなく近い。つまり、前者において一定の疎外をもたらすものとして機能していた映像メディアが、後者では一種の自己実現の手段となっている。

 また、『局部麻酔』における語り手の対話相手である歯科医が、語り手と空間を共有しているのに対して、『雌ネズミ』における対話相手であるネズミは、画面上にしか現れない。さらに、歯科医が歯の治療を行うことで、語り手と身体的・物理的・直接的接触を持っているのに対して、『雌ネズミ』の語り手は、ただ一人、地球を巡る軌道上の宇宙カプセルに閉じ込められており、何物とも身体的接触をもっておらず、設定上その可能性すらない。前者の構図は、同じマスコミ情報を前にしながら、その情報に関して直接意見を交わす視聴者同士の関係の、後者の構図は、インタラクティヴな映像メディアを介在させてコミュニケーションをはかりながら、直接出会うことのない通信者同士の関係のアナロジーを示している。

 物語構造に応用された映像メディアを巡る構図における、このような重心の変化は、60年代と80年代のメディア状況一般の変化を反映している。それぞれの時代において象徴的な「情報」としての「ベトナム戦争」と「核戦争」・「東西冷戦」は、二つの作品のテーマ形成に重要な役割を果たすと共に、メディア状況を反映したリアリティのモデルとしての機能を果たしている。二人の語り手は、どちらも自分自身にとっての「現実」を巡る闘争の場に置かれているのだが、『局部麻酔』における「痛み」、すなわち身体レベル、体験レベルでの「現実」が自明であったのに対し、『雌ネズミ』ではそのようなよりどころはもはや存在せず、語り手は否応なく映像メディア的「現実」に取り込まれつつ、「文学的」想像力だけをたよりに、自分の「現実」を確保しようとしている。

 


一般研究発表・語学・文学3

「青」と blau と日独の色彩語の違いについて

城岡啓二

 日本語とドイツ語の色彩語の意味の違いについては,色彩語それぞれの意味範囲などに違いがあることは予想されても,それが実際どのように違うのかこれまで十分に記述されてこなかったと言えよう.

本発表では,「青」と blauを中心に,色彩語の指し示す領域の違いやイメージの違いなどの意味論的な違いについて述べたい.また,複合色彩語の考察から彩度や明度の両言語の扱い方の違いについても論じたい.

Ⅰ.色相の違い
単刀直入に結論を述べれば,blau は「青」とことなり紫色の領域にまで指示対象をひろげる基本的色彩語であり,violett や lilaは「紫」とことなり基本的色彩語の資格は疑わしい,ということになる.色彩語としての使用頻度や歴史の違い,動植物の色彩記述における違い,動植物名での色彩語の使われ方の違いなど,様々な点でこのような違いが確認できる.

Ⅱ.彩度表現としての違い
blaugrau や graublau などの grauを含む複合色彩語は彩度の表現として重要である.ドイツ語ではこの種の複合色彩語は特殊な専門語ではなく,一般的にも比較的よく使われているようだ.一方,日本語では,JISの規定(Z8102-1985)で「明るい灰青(はいあお)」などの系統色名を使うことになっているし,教育用色彩用語として灰青色(はいあおいろ)などの言い方を定着させようという試みが過去にあったようだが,この種の複合色彩語は日常ほとんど使われていないようで,低彩度の色彩に対する日本語の表現能力は低いと言わざるを得ない.

Ⅲ.色彩語のイメージの違い
たとえば「遠く」というイメージと blauは結びついているが,日本語の「青」は「遠く」とほとんど無関係である.この種のイメージの違いはあいまいな場合もあるが,顕著なものは語の意味にまで関わっているように思われる.das entfernte Blau der Schweizergebirge や in blauer Ferneというような表現がドイツ語の文学作品で使われたりしているが,これを日本語にそのまま置き換えて,「スイスの山々の遠くの青」とか「青い遠いところに」などとしても日本語では意味がピンと来ないであろう.

 

J. G.ハーマンの『二枚の銅貨』における音声と文字―18世紀ドイツ語正書法論議の一隅

宮谷 尚実

 プロイセンのケーニヒスベルクで著作活動を行ったハーマン(1730-88)は,彼の著作『当世ドイツ文学へ捧げる二枚の銅貨』("ZweyScherflein zur neusten Deutschen Litteratur", 1780)において,クロップシュトックが断片『ドイツ語正書法について』(1778)で提案した正書法改革案を批判している.クロップシュトックは,「話すように書け」というモットーのもとに音声中心主義の正書法を推し進めようとした.この音声中心主義と,その原理としての理性を規範とした純粋主義とに対する反論が,ハーマンによる批判の要点である.クロップシュトックは,音声が聞こえるとおりに文字化することを彼の改革案における柱とし,従来の正書法に手を加えようと試みた.その結果,発音されない文字は書かない,など,文字レヴェルでの「余剰は切り捨てる」ということになる.

 音声を基準として文字における余剰を切り捨てようとする傾向は,クロップシュトックの正書法改革案に始まったことではない.クリスティアン・トビアス・ダムによる『宗教に関する諸考察』(1773)では,既に発音されない字母 h は書かれる必要がないとされた.同年,『字母 h の新たな弁明』でこのダムの著作を批判したハーマンは,クロップシュトックの断片をきっかけに再び文字の持つ意義を問い直すのである.しかし,その際,文字と音声,視覚と聴覚との二項対立が単純に解消されるのではない.彼にとって文字とは,プラトン的伝統とは異なり,精神の領域と切り離しがたく結びついたものなのである.それゆえハーマンは,文字と音声との有機的関連に着目しつつ,理性の名によって音声を判断基準とするために文字を余剰として切り捨ててしまうことを疑問に付すのだ.

 ハーマンの小品『二枚の銅貨』は,国内外の研究において,これまで注目されることが少なかった.殊にクロップシュトック批判となっているその第二部を,こうした観点から読み直すことによって,18世紀における音声中心主義に基づいて文字化を考えるという主潮とは違う,ハーマン独自の文字論が浮かび上がってくるはずである.そこから18世紀のドイツ語圏における音声と文字との相剋の歴史を研究するにあたっての新たな視座を示すことが,本発表の目指すところである.

 

Zeit und Form. Zwei Gedichte von Eduard Mörike

Michael Mandelartz

Mörikes Gedicht "Um Mitternacht" gilt als unzugänglich. Die Interpreten kommen selten zu ähnlichen und kaum zu überzeugenden Ergebnissen. Insbesondere ist es bislang nicht gelungen, den Bildzusammenhang aufzuklären. Renate von Heydebrand nimmt daher an, Mörike habe es "ohne Rücksicht auf Allgemeinverständlichkeit" geschaf-fen und ordnet es in eine Gruppe schwerverständlicher Gedichte ein. Die Rezep-tions-geschichte gibt also Anlaß, das Gedicht noch einmal vorzunehmen.

Der Zusammenhang der Bilder ist in einem einfachen physikalisch-astronomischen Vorgang zu finden: dem Phänomen des wachsenden Schattens beim Sonnenuntergang. Die "Nacht" des Gedichts ist dieser Schatten selbst, der "um Mitternacht" auf dem Land liegt. Nach oben gewahrt die liegende Göttin den Umschwung der Gestirne, von unten singen ihr die den Berg hinabrinnenden Quellen "vom heute gewesenen Tage" ins Ohr. Sie erscheint damit als vermittelnde Instanz zwischen der wechselnden, durch die Quellen repräsentierten Tageswirklichkeit, und dem ewigen Gleichmaß des Kosmos, und hebt in der "Übersetzung" der einen in das andere die Zeit auf. Eben dies aber ist auch die Funktion der (Mörikeschen) Lyrik. Mit der Transformation der empirischen in die kosmische Zeit vollzieht das Gedicht nicht nur ein Naturphänomen nach, sondern gibt sich selbst als Naturphänomen zu erkennen. Die Dichtung entsteht hier unbewußt, träumenderweise. Ein lyrisches Ich ist nicht erkennbar.

Im Gegensatz dazu wird der Leser in "Am Rheinfall" vom lyrischen Ich als "Wanderer" angesprochen und dem Wasserfall als Betrachter gegenübergestellt. Der reißende Sturz des Wassers und die mitgemeinte Geschichte (der Wasserfall als Meta-pher für Zeit) erscheinen von diesem Standpunkt aus als "lebende Gestalt", d.h. als schön. Ein Standpunkt außerhalb der Zeit läßt sich jedoch nur fiktiverweise einnehmen. Tatsächlich stürzt der Betrachter in der Zeit, mit dem Wasser, nach unten, dem Aufprall entgegen. Das Schöne, die Literatur, das Gedicht erweisen sich mithin als bloß zeitweise aufrechterhaltener Schein, der in die Wirklichkeit hinübergerissen wird, sobald sich die Reflexion diesem Sachverhalt stellt.

 


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