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2000年度秋季研究発表会予稿集

 


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宇宙のリズム--グリム童話『歌う骨』(KHM28)と日本昔話『唄い骸骨』--の位相について  

梅内幸信     鹿児島大学  


 ドイツと日本において互いに類似している2つの童話が存在する。それは、『グリム童話集』における28番目の童話『歌う骨』と、鹿児島県甑島から採集され、『日本昔話大成』に収められている『唄い骸骨』である。この2つの童話に見いだされる共通点と相違点に基づいて、この2つの童話の位相について考察する。
 主として「死と復活」という象徴的意味をもつ「骨」は、日本においては「仏舎崇拝」と、ヨーロッパにおいては「聖遺物崇拝」と歴史的に密接な関連をもっている。この関連において両者を比較してみると、4つの類似点と相違点が見いだされる。最終的には、「骨」の概念に関して、1.前者の骨が骨そのものであるのに反し、後者の骨は殺害された者その人を代表している、2.前者には世界の必然的掟が存在するのに反し、後者にはこれが存在しない、という2つの本質的な相違点が見いだされる。髑髏(骸骨)は、魂が宿る「器」であり、その本人の意志を現世で発現させるための「媒体」である。これに反して、『歌う骨』における骨は、勧善懲悪の倫理と、世界の掟を遵守させる「道具の役割」によって特徴づけられている。ここにおいて、死者の骨は、個人の意志からはほど遠く、それは宇宙のリズムを伝える「楽器」となっている。これは、世界の掟に逆らった犯罪者によって殺害され、骨となることで、宇宙のリズムと同調し、宇宙の秩序を回復することによって聖性を獲得する。

 

 


シンポジウム

<ドイツ語教育部会企画>


日本におけるドイツ語教育のランドスケープ(終)---それでもドイツ語教育は必要か?
Bildungslandschaft "Deutsch in Japan" (Finale)--- Plaedoyer fuer die Pflege des Deutschen in Lehre und Forschung

司会: 三瓶 愼一,平高 史也

1. 学問分野でのドイツ語の必要性---法学研究の視点から 加藤 克佳(愛知大教授 [刑事法])
2. 日本企業もドイツ語人材を求めている! 持田 侑宏((株)富士通研究所)
3. Global German Player --- Deutsch in der Selbsteinschaetzung deutschkapitalisierter Unternehmen in Japan    (Dr. Heinrich Menkhaus [Deutsche Industrie- und Handelskammer Tokyo])
4. ドイツ語に対する社会的ニーズに,ドイツ語教育はどう答えるのか? 相澤 啓一

コメンテーター: Gebhard Hielscher(神奈川大学),保坂 一夫

 ドイツ語教育部会企画で1999年春に始まった,総合テーマ「日本におけるドイツ語教育のランドスケープ」による連続シンポジウムは,日本におけるドイツ語の学習・教育・研究・運用の総体を「ドイツ語(教育)のランドスケープ」と捉えて鳥瞰し,「ドイツ語のマーケットリサーチ」を試みるものであった。毎回,教育部会が行ったドイツ語教育全般や大学入試に関するアンケート調査の結果を参照しながら,大学カリキュラムの問題はもちろん,生涯学習・生涯教育も含めた大学に限定されない教育現場に焦点をあてるとともに,高等学校でのドイツ語教育の現状,大学入試,大学での既習者受け入れ体制など,従来あまり触れられずにいた問題を扱った。
 また並行して,内容的に連動する2回の講演会を行った。大学審議会委員の戸田修三氏を招いての講演会(1999年春)は,大学設置基準改訂と外国語教育の改革の方向性の関連を考える契機となり,言語社会学者の鈴木孝夫氏を招いての講演会(2000年春)は,明治以来のドイツ語とフランス語の教育は現状のままでは規模縮小しかあり得ないという,現実直視のための契機となった。
 今回のシンポジウムは,こうした流れの線上にあって,このランドスケープシリーズの最終回,集大成となるべきものである。
 モティベーション喚起の問題,教育現場での実践報告など,従来の議論の多くは,ドイツ語教育の存在意義や必要性を不問に付し,それを自明の前提とする,いわばドイツ語教育の「入口論」にすぎなかった。しかし21世紀を目前に控え,周辺状況がすでに激変したにもかかわらず,すでに存在しない同じ条件を前提とし続けることはできないはずである。ドイツ語教育が言語政策的にそもそも必要なのか,またその目標は何なのか,大学でのドイツ語教育は社会とどう関わるのかなど,ドイツ語教育の「目的論」または「出口論」に関する議論はこれまで皆無であった。
 ドイツ語による実務経験を持たない大学教員が教育現場の大半を占める以上,教育理念と社会的意義との乖離が時代を経て拡大していくことは致し方ない。ここで理念と現実のギャップを直視し,両者の調整,融和を図ることは焦眉の急だろう。社会が求める実務能力の一部にドイツ語のスキルを盛り込むことは果たして可能か,どのような成果を上げれば,すなわちどのような人材を育成して送り出せばドイツ語教育が社会から認知されるのか,強大な英語支配を前にしていま日本でドイツ語を学ばせることの意義はあるのか,その点についての正確な情報や建設的な議論が欠如したままで,従来と変わらぬ教育を従来変わらぬ規模で行い続けることは合理性を欠く。
 ドツ語教育が質的な変化を遂げつつ存続するには,社会との接点を探ることが必要だが,それは必ずしも産業界への迎合,実利教育への堕落を意味しない。ドイツ語教育を,大学でのみ可能な職業教育の一環として捉え直すことが必要なのである。このことは大学教育の根本的意義の再考にも通じる。18歳人口の激減により大学再編論が激化しつつあるが,これに備えるために不可避の理論武装の方策であると考える。
 このシンポジウムでは,ドイツ語教育の専門家ではないが,日々ドイツ語と密接な関わりを持つ外部の方々を招き,外から見たドイツ語教育を語ってもらう。学問分野での必要性,日本企業側からの見方,ドイツ企業側からの見方という3つの方向から,ドイツ語教育の存在意義を洗い直した上で,ドイツ語教育の当事者が何を為すべきなのか,ドイツ語教育界のあるべき方向について内発的な提言をしたい。


1. 学問分野でのドイツ語の必要性---法学研究の視点から   加藤 克佳(愛知大教授 [刑事法])

 わが国の法学分野では,第2次大戦後英米法の影響力が強まっている。しかし,たとえば刑法学を始めとして,大陸法の主砲であるドイツ法学は,妥当な問題解決能力とそれを支える論理的思考力という点で今でも諸外国のモデルとなっている。そして,その支柱を担っているのがドイツ語である。
 仮にドイツ語学習の持つ実用的な意味は一応埒外においたとしても,ドイツ語が,法的な思考力やその根底となるべき思想的・哲学的素養を培うのに適した言葉であることは,多くの法学者の認めるところであり,わが国で,法学者としての能力がドイツ語の能力と正比例することが多いといわれるのには,理由がある。そのことは,程度の差こ そあれ,他の社会科学系の学問分野にも妥当する面があると思われる。したがって,少なくとも法学を始めとする社会科学系の学問研究の基礎力を鍛錬するため,次代を担う若者達が,今後もドイツ語を学ぶ意味はきわめて大きいと考える。
 一方,実用性については,地方自治体レベルではゴミ処理問題,環境保護対策などの具体的案件でドイツの地方都市を参考にするケースも多々あり,法学部を始めとする社会科学系学部の卒業生がドイツ語能力を活用する場面も少なくない。また,社会科学系の研究者としては,留学や論文執筆,学会発表等で実践的な発受信能力が必要とされることは明らかなので,ドイツ語の修得には実用性も十分認められるといえよう。

2. 日本企業もドイツ語人材を求めている!          持田 侑宏((株)
富士通研究所)

 IT産業では米国とのビジネス関係が最も密接であるとはいえ,EUとして一体化しつつある欧州との連携も重要である。情報通信分野では「技術標準」面で北米と欧州が世界を二分して鎬を削っている。米国流が唯一のソリューションではなく,欧州と日本が協力してより良い解を提案しようと努力している。
 そうした中で,独語独文学科卒業生は決して多くないが,優れた活躍を続けている。当社では,1960年代まではシーメンス社の技術指導で通信機器を開発製造していたので,資料も打合せ言語もドイツ語が多く使われていた。70年代からはコンピュータビジネスが急成長し,同社との関係も師弟から対等なパートナーとなってきた。打合せ言語や資料も完全に英語となり,ドイツの当社事業所内の公用語も英語である。
 こうした中での独語独文学科教育への期待は,
(1)語学や文学の専門家になるか,ドイツ語を利用する職業に就くかの選択を早期に個人毎に行う。
(2)利用する立場に進む学生には,社会での活躍の基礎となるドイツ語と英語を徹底的に訓練する。(最も基礎的な道具。IT分野の用語ではハードウェアに相当)
(3)ドイツ語圏の文化,歴史,地理などに加えて,ドイツ(または欧州)の経営・財務・人事システムに関する知識を獲得する。(共通基盤であるミドルウェアに相当)
(4)ドイツ企業や日本の欧州系企業での研修・実習や学生自らの調査研究を通して,ドイツ語または英語での特定分野に関する経験を得る。(アプリケーションに相当)

3. Global German Player --- Deutsch in der Selbsteinschaetzung deutschkapitalisierter Unternehmen in Japan    (Dr. Heinrich Menkhaus [Deutsche Industrie- und Handelskammer in Japan])

Viele transnational operierende Unternehmen, die ihren Stammsitz in der Bundesepublik Deutschland haben, bezeichnen sich selber als "Global Player", ordnen fuer die unternehmensinterne Kommunikation den Gebrauch der englischen Sprache an und fuehren als Grund fuer die Beibehaltung des Stammsitzes in Deutschland allenfalls die historische Zufaelligkeit der dortigen Gruendung an. Das klingt, als haetten sie bewusst Abschied genommen von der deutschen Kultur und der sie repraesentierenden deutschen Sprache.
Ist dieser Eindruck richtig? Der Referent will versuchen anhand einiger Indizien, die er im Laufe seiner nunmehr fuenfjaehrigen Taetigkeit als Leiter der Abteilung Recht und Steuern der Deutschen Industrie- und Handelskammer, deren Aufgabe es vor allem ist, die deutschkapitalisierten Unternehmen in Japangeschaeft zu betreuen, identifiziert hat, dieses Bild zu korrigieren und deutlich zu machen, welche enorme Bedeutung auch heute noch die deutsche Kultur im Tagesgeschaeft dieser Unternehmen hat.

4. ドイツ語に対する社会的ニーズに,ドイツ語教育はどう答えるのか?      
 相澤 啓一

 ドイツ語教育の現場と,職業的にドイツ語を使用する現場とは,現在ほとんど互いに没交渉になっているようだが,両者は実際にはどう関係すべきだろうか? それが教える側にも学ぶ側にもほとんど見えなくなっているところに,現在のドイツ語教育の危機の大きな理由があるように思われる。日本社会の中でどのような局面でなおドイツ語が 必要とされるのか,そのためには具体的にどのようなドイツ語能力養成が必要なのか,本当に使い物になるドイツ語のレベルがどの程度のものであり,どうすればそうしたレベルに到達できるようなカリキュラムが組めるのか? --- これらはいずれも容易に答えが見えてくる問題ではないが,ドイツ語教育の現場と,ドイツ語に対する社会的ニーズとの間の大きな溝をどうすれば少しでも埋められるか,エリート主義との批判も覚悟の上で,検討を加えてみたい。


 これら4つの発表に対し,2人のコメンテーターから自由な立場での建設的意見を述べてもらい,フロアとも活発な議論を交わすことで,ドイツ語教育のあり方を考える4回の連続シンポジウムを総括し,今後に向けての提言をして締めくくりたいと考えている。
 こうした継続的・集中的な議論を踏まえた上で,最大多数のドイツ語教育・研究関係者の集合体である日本独文学会での議論が,日本におけるドイツ語教育のマーケットの活性化につながることを期待している。

 


 

シンポジウム

「メディア技術と言語表現」
Medientechniken und sprachliche Ausdrucksformen

司会:土屋勝彦


 電子メディア時代を迎えた現在、さまざまの分野でメディアをめぐり活発な議論が行われている。たとえば英語圏でのマクルーハンやオングら、ドイツ語圏におけるベンヤミン、フルッサー、キットラー、ボルツ、ヘーリッシュらのメディア論が注目を集め、その一部は近年日本でも相次いで翻訳紹介されてきた。本シンポジウムは、これら一連の仕事から刺激を受け、ドイツ文学ないし文化現象への新たなアプローチの一端を示そうとする試みである。図式化すれば、口承文化、筆記文化、活字・文書文 化、アナログ・メディア、デジタル・メディア(コンピューター)へと展開してきたメディア文化の史的展開を視野に入れながら、とりわけ19世紀から現代に至る個々の文学者や文化現象をメディア論的ないしメディア技術史的な方向から検討しようとするものである。従ってこの場合の「メディア」とは、マスメディアを指すのではなく、情報を伝達、処理、保存する装置という意味でおおよそ理解しておきたい。
 具体的には、まず19世紀前半のロマン派作家たちにおける視覚メディアへの志向と主体の崩壊状況を検討し、とくにホフマンの後期作品を具体例として、当時の活字・書物文化の成熟の結果、非物質的幻想へと向かう在り方を光学器械と言説との関連から考察する。次に1920年代の無声映画にみられる活字メディアからの解放や、映像と文字の交錯する場の意味を検討する一方、20世紀転換期に起こった「声の書き込み」たるグラモフォンの発明とその文化思想史的な問題を「痕跡学」的に究明し、最後にベンヤミンのメディアをめぐる思考をハイパーテクストとの関連において考察する。
 こうした一連の試論は、従来おもに個別研究として行われてきたドイツ文学・文化研究を、閉じられたテクスト研究や作家研究の視座から解放し、メディア技術という外的要因から読み直すことによって、各文化現象に共通する問題系を素描するものである。従って各論の視点は、必ずしも統一的なメディア文化史論を確立しようとするものではなく、コラージュ風のトピック論として相互に照射しあう開かれた構成となっている。ここに共有される問題意識は、いわば「テクスト絶対主義」への疑念ないし挑発、さらに言えば、旧来のゲルマニスティクの学問言説への批判とも呼べるだろう。しかし、他方こうした認識もとりわけ若い世代には浸透してきており、この際、共通した認識を持つ者同士、メディアと文学の関わりに関心を持つ者同士で、専門的な議論を交わし合う場ともしたい。そしてこれが、文学研究においてともすれば傍流とみなされてきた文化史的、学際的文化学研究の独創性や発展性を再確認する機会となり、さらにこのようなテーマが、今後もシンポジウム形式で取り上げられていくことを私たちは願っている。

1. 目の〈前の〉メディア     神尾達之
                               
 18世紀末から19世紀初頭にかけて、世界をあまねく照らすとされた光は、「眼というかぼそい燈火」(フーコー)にとってかわられる。クライストが、人間と世界との間には、感性的直観と思惟の形式が介在するというカントの認識論を、観察主体がはずすことのできない「緑色の眼鏡」として表象し、目がメディアと化したのはこの時期である。しかしゲーテにおいては、外部=世界と内部=主体との区別が否定されるので、目はメディアとはならず、視覚メディアは相対化されてしまう。ホフマンの『砂男』の主人公ナタナエルは、自分で記録した自分の欲望を享受するために、視覚メディアを装着することでヴァーチャル・リアリティの閉域に入る。目の〈前の〉空間は、視覚メディアが裸眼を相手に覇権を争う現場となったのである。このことと重なるように、眼鏡の歴史にもまた、切断線が刻み込まれた。眼鏡をかけていることにともなう不快感が減り、視覚メディアを通して世界を見ているということが意識されなくなっていった。目の中から視覚メディアを摘出すべきことを説くアンデルセンの『雪の女王』と、〈現実〉に到達しているために視覚メディアを装着しつづけよという教えで結ばれるポーの『眼鏡』は、目の〈前の〉メディアをめぐる争いの記録として読むことができる。

2.E. T. A. ホフマン作"Meister Floh"における光学器械     縄田雄二    
                               
 顕微鏡史の大立て者、レーウェンフックとスワンメルダムが登場人物として登場し、いくつかの光学器械が中心的な役割を果たす、ホフマン最晩年の小説を取り上げる。光学器械の周囲にいかなる言説が形成されているか、訴訟の言説がいかなる取り込まれかたをしているか、製本職人の登場にはいかなる意味があるか、といったことを総合的に理解するならば、この作品が、言語や光学器械の持つ物質性を忘却しつつ、言語や光学器械の呼びさます非物質的幻想に浸る、という原理に貫かれていることが分かる。相接する前後の時代において、光学器械と言説とがいかなる関係を結ぶかを比較考察しつつ、ホフマンの小説ないしその時代の特性をより明瞭に浮かび上がらせたい。発表では、登場する光学器械が実際どのようなものであったか、その器械の機能が小説の内容といかに絡んでいるかをも明らかにしつつ、科学史ないしメディア史と文学史との複層的な記述を試みる。

3.黒と白のKonstellation        山本順子             
                               
 表現主義映画に頻出するデモーニッシュな存在の中で、特に人造人間モチーフを、映画の揺籃期を特徴づけるものとする。そこでは、死せる物質と生命を持った人間存在との断絶を越える契機が、表象像の問題となって現れているのだ。この、生と死のディスクールが標す境界溝の深みに、それを支えるメディアの断層面が顕わになる。
『ゴーレム』(1920)で同名の土人形が蘇生する時、この断層は三段階の痕跡学的表象配置として現れている:最古層に星の配置(占星術─黒地に白)という魔術的画像、第二層にアルファベットのカバラ呪文(emeth〈真理〉─白地に黒)という概念的記号性の示す生命の「真理」配置、最表層は、映画という装置による、感光された白黒画像の動的配置。白/黒という痕跡学的にも、ゲーテ色彩論的にも、現象と消滅の根源にある色彩なき差異化が諸メディアの横断面を貫き、古層を呼び活けているのだ。ゴーレムがstummであることや、その動力たる胸の六茫星(神の創造/光/モーター回転)が、ゴーレムがStummfilmの自己言及形であることを示している。芸術家小説における作品とそのモデルの混交は、ピュグマリオンモチーフのロマン派的変形であるが、これをメディアと人間の混交と捉えてみれば、『ゴーレム』を延長上に据えることができる。ユダヤの伝説的救済者、魔物ゴーレムは先行メディアの亡霊を背に姿を現すアンチ・クリストなのである。
 
4.グラモフォンについて     大宮勘一郎
                              
 音声の書き込み及び再生装置としての蓄音機においては、語ることと書き込むこと、読み取ることと語ることは共起的なものである。自らを書き込む「声」というメディア機構は、同時代の哲学や精神分析にも構造的相関物を認めることができる。蓄音盤の音溝はこの「声」とその書き込みの物質性をも可視的なものとするが、それは可視性の痕跡/痕跡としての可視性である。この両義性において蓄音機は、「声」の超越性の伝達機構としての神学的モデルを「再生」させる。それは、「読む=語る」仮象的主体(再生装置)の根源に、「声が語る=書き込む」という撤回不能な出来事性を痕跡として留保する。蓄音機が反復するのはこの出来事であって、録音から独立した発話や演奏ではない。聴取者が再生音の背後に発話や演奏さらにはその主体を専ら没メディア的に想像すれば、この装置が媒介する運動は、運動そのものの結果では消えてしまう。しかし、装置そのものの端緒に残る力学的・道具的機構のゆえに、失われた声/声の喪失の痕跡は目を凝らせば見えるのである。ただしそれは、解読不可能な篆刻なのであって、これを真剣に見つめた作家(例えばカフカ)は、レコード針のように読み(損ない)また書き(損ない)続ける。彼らにとり読み、書くとは書き込まれた「声=書字」の痕跡をたどることであるが、しかし、仮象の意味を泡沫のように浮かべては消し去る「声=書字」の間隙に、もし「声ならぬ声」が聞き取られるならば、そこでは既に今日的なメディア論が始まっているのである。

5.ベンヤミンのメディア論思考とハイパーテクスト     山口裕之
                               
 ベンヤミンのメディアをめぐる思考は、<言語的メディア>と<画像的メディア>という二つの系列の並列的展開において考えるべきだろう。「グーテンベルクの銀河系の終焉」と呼ばれるような知覚・認識・思考のあり方の転換をベンヤミンにも認めることができるが、この転換はメディアの技術的展開にともなって二つのメディア系列が一元化し、全体として画像的特質によってより強く規定されるメディアが生じるプロセスのうちにとらえることができる。こういったメディアの展開の把握の根底にあるのが、技術的展開にともなうメディアの「世俗化」(最終的には非アウラ化)とアレゴリー的思考である。メディアの展開は、技術そのものの展開というよりもむしろ人間の感覚性との界面であるインターフェースの展開としてとらえるべきだが、「あらゆる生活諸関係の文書化」と言い表されるような二つのメディア系列の一元化は、「非電子的ハイパーテクスト」と呼べるインターフェースの段階にあるものと位置づけることができる。そこで問題となるのは、このインターフェースに接続する人間の知覚・認識・思考のあり方である。このようにベンヤミンのモザイク的思考とハイパーテクストとの親近性を指摘することは、ベンヤミンの思考全般をとらえる上での一つの決定的な枠組みをもたらすと同時に、メディア理論のコンテクストにおけるハイパーテクストの位置づけに対しても重要な視点を与えるものとなりうる。

コメンテーター:島田了

 


 

 シンポジウム

             

<喪失をめぐって> - 1989年以降のドイツ文学
Zum Verlorengegangenen ― Deutschsprachige Literatur nach 1989

 

司会:中島裕昭

 

 東ドイツが西ドイツに吸収・合併されるかたちでドイツ統一がなされて10年以上が経ている。西ドイツの基本法を中心とした政治・経済界と同じく、ドイツ文芸界やマスメディアも西側が優先であり、指導権を持っている。統一の過程を目の前で体験し、すでに旧西ドイツのメディアで活躍していたドイツ語圏の作家たちは、ある時期は激しく、ある時は微妙に変化していく社会的精神風土を敏感に感じとり、決してドイツの過去(歴史)を振り切ることはしていない。これらの89年以前から文学活動を続けていた作家たちに、89年の出来事はどのような影響をあたえたのか、与えなかったのか。また、統一以後、初めて作品が出版された若い世代は、どのような「新しさ」をもたらしたのか。このような問題点に関して、5人の報告者が下記のように報告する。

 

1. 90年代の抒情詩 - ドゥルス・グリューンバインを中心にして   関口裕昭

 

 ドイツ統一は文学界にも深刻な影響を与えたが、とりわけ抒情詩の分野で多くの問 題作が生まれた。グラス、ヒルビヒ、ヴォルフ、ブラウンら長編小説やドラマを本領とする作家たちが、この頃競い合うようにして詩を発表したのは注目に値する。それらの詩には、ビューヒナーやヘルダーリンなどの古典文学の引用、国歌をはじめとした歌の借用などいくつかの特徴が見られるが、東側の詩人たちはアイデンティティの危機と戦いながら、新しい言語を模索していたように思われる。 こうした流れの中で、ライン河畔ビンゲンで生まれたトーマス・クリング(1957~ )やドレスデン生まれのグリューンバイン(1962~ )ら若い詩人たちも斬新な作品を発表し始めている。33歳でビューヒナー賞を受賞したグリューンバインは、政治的イデオロギーとは無縁の、現代社会の矛盾を照らし出すレントゲンのような硬質な言語の詩を書いている。身体論や自然科学からの影響も強い彼の詩は、現代ドイツ詩への起爆剤として作用しつつあり、今後の展開が大きく注目される。 本発表では、ドイツ統一が詩的言語にどのような変革をもたらしたかを、グリューンバインを中心において、先行する世代の詩人と比較しながら考察する。

 

2.ドイツ系ユダヤ人の文学 ―「解放」「同化」「文化の変容」を経て   西谷頼子

  

 最近10年間、ドイツ系ユダヤ人の文学が際立ち、強制収容所体験者や亡命者、その子孫たちの「自伝文学」が夥しく出版されている。作者はかならずしもドイツを定住の地としていないが、母語としてドイツ語で書き綴っている。、真情を吐露するのに50年をついやしたアシュケナージの自伝文学には、ドイツ人側から想像もできなかった真の告白がなされている。その一つは、逆説的に「アウシュビッツ」にユダヤ民族のアイデンティティが存在すると誇り、また18世紀以来、ユダヤ教の生活習慣から自己を「Emanzipation」し、ドイツ人へ「Assimilation」してキリスト教文化へ「Akkulturation」しなければ、存在価値がないとされたユダヤ民族の、隠忍自重の生きざまが率直に描かれている。このように、ユダヤ人側から真実が暴露されるなか、文学全般に渡って盛んに歴史的な見直しがなされている。特に「同化主義」へ男性より賛同しやすかった歴史上の女性たちに注目されて、とりわけ18世紀以来の「ベルリン・サロン」の役割は大きく、数々の研究がなされている。また、現在、過去にとらわれることなく新しい視点で創作文学も誕生している。例えばラーエル・ゼーリヒマン(1947 ~ )である。 このように統一後の「自伝文学」の台頭、それを受容するドイツ社会とドイツ系ユダヤ人文学全般の歴史的見直し、さらに新しい創作文学の試みへと、一つの流れを追って報告する。

 

3. ボートー・シュトラウスの創世記『ロートファンタジー』 ― 不在の叙述としての神話的世界  大塚 直

 

  昨年ウイーンで初演された『ロートファンタジー』(1999)は、90年代シュトラウスの試行錯誤に一定の<かたち>を与えたものとして興味深い。終末論的思考を深める彼が、創世記ロートの物語を下敷きに、現代史における「終焉」と「始まり」を考察している。それは同時に世代間の「言葉」の問題でもある。すなわち、ソドムとゴモラ滅亡以後、なお神を信じる最後の人間ロートは抑圧的な男根原理、いわばロゴスによって導かれ、父親を酒に酔わせ、誘惑し、臥所を共にする娘たちアビアとツィビアはすでにシュトラウスのいう「人間モドキたち (Menschenahnliche) 」である。今日の若者たちを思わせるアビアたちはしかし豊饒な子宮原理のミュートスとして、近親相姦の後に来るべき種族、新たな歴史を生む役割を担う。さらに現在では不在であるはずの天使が夥しい書物とともに現れて「アブラムは生きている」と叫ぶ。これは「神は死んだ」とするニーチェ以降の世界観に対する強烈なアンチ・テーゼであろう。また、ここで唐突に経験される出来事はいかに歴史として記述さるのか、問われていよう。統一以後のメディア社会に対して、人間存在の歴史のなかで繰り返されたある神話的世界、現代では不在であるはずの様々な「言葉」が作品のなかに溢れる。シュトラウスは現代史の踏み出す「始まり」に一面的な解釈は避け、むしろ彼の創世期のなかで時代の現象がはらむ問題性そのものを「言葉」の問題として提示する。

 

4.反「戦後文学」から脱「戦後文学」へ ― ペーター・ハントケとルート・シュヴァイカート、クリストフ・ペータースの場合   狩野智洋

 

 グルッペ47を厳しく批判した当時のハントケは自分の見た現実を提示すべきと考えていた。政治的な言葉に違和感を持っていた彼は、従って政治的な内容を持つ作品を書くことは出来なかった。彼は誰もが持っている「極めて個人的な欲求」を表現したいと思っていた。後に彼は更にこれを進め、平凡な日常と生活の繰り返しの中に見いだされる「共通の存在形」を表現しようとする。従ってそこには「特別な事件」は起こらず、日常的な事柄が「日常の冒険」として淡々と語られる。スタイルとしては単一もしくは平行する複数の筋を追う書き方ではなく、数多くのエピソードが断片的に不器用に語られる。(このスタイルが意図的なものではないことをハントケは明言している。)これらの不器用に並べられた断片をつなぐものが「共通の存在形」でもある。89年以降に登場した二人の作

家、Ruth Schweikert (1965~ "Augen zu",1998)やChristoph Peters(1966~ "Stadt Land Fluss",1999)も異なる時間や場所に於ける事柄や記憶を断片的に記述し、繰り返されるパターンが全体をつないでいる。この両者にも社会より個人、社会的な大きなテーマより個人的な小さなテーマを重視する立場が見られる。このような表現法やテーマ設定は確固とした共同体を形成しがたい、断片化された時間しか持ち得ない現代人の意識を映し出し、読者の共感を得るのに有効な方法であり、読者の孤独を癒す可能性を持つ。「戦後文学」に反感を抱いていたハントケと「戦後文学」に対し何のこだわりも持たないと思われる二人の現代作家の共通点(と相違点)に注目し、現代ドイツ文学の一つの可能性を探りたいと思う。

 

5. 89年以降のギュンター・グラス-「喪失」からの可能性  依岡 隆児

 

 89年以降のグラスには、経済至上主義や公的言説の弱体化、マスメディアの支配に対する「悲観」がベースにあると考えられる。このような対抗勢力を失いモノローグ化し現実感覚を希薄にしていく状況において、彼はまず、その喪失感自体を唯一の拠り所とするしかなかった。『十一月の国』の短詩では形式性が憤りの激しさを引き出し、『はてしなき荒野』や『私の百年』などでは別の時代からの視点の導入が試みられた。そこでは、作者は忘れられていた私的な世界や社会的マイノリティーの周縁からの視野に反時代的にこだわり、戦後の左翼的言説の制度化に批判的距離をとろうともしていた。失われた故郷や政治文化、あるいは今はなきDDRの歴史と文化を内面化し、それら歴史の表層からこぼれ落ち、「メディア」をなくしたものを記録・保管する場として、グラスは文学を位置づけているといえる。画一化へと突き進むこの時代のスピードに対して、彼はこのように歴史を丹念に拾い上げ、創作を意図的に緩やかに展開することによって、一義的な生の空間につながりを持とうとする。リアリズムの観点からすれば批判を受けるとしても、最近の彼の作品群における複数の時代の並列記述や生硬な形式主義、不確かな視点にこだわることで「異質なもの」を歴史の「確かさ」に対置させる傾向は、むしろその違和感によって文学独自の「立場」を主張しており、彼なりの新しい文学の模索とみることもできる。


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