1999年度秋季研究発表会予稿集   参照数:8365

1999年度秋季研究発表会予稿集


 1999年度春季研究発表会に引き続き、研究発表会での討論をより活発なものにするために、学会ホームページに予稿集のページを設け、発表要旨を前もって掲載いたします。データベース委員会では、要旨原稿を受け取り次第、本ページに掲載したします。

 なお、各発表者には通知済みですが、まだ、発表要旨をお送りいただいていない発表者は、e-mail にて、データベース委員会までお寄せ下さい。


秋季研究発表会プログラム


10月16日(土)

 

シンポジウムI

ゲーテと古典古代  ―彫琢された形式、かつ生ける自己形成―

Goethe und die Antike ―Gepragte Form, die lebend sich entwickelt

 

趣旨:日本ゲーテ協会との共催のもとに、ゲーテ生誕250周年に際し、ゲーテと古典古代について考える。

要旨

  司会:喜多村 得也

「人間とは何者か。この半神と讃えられる者は!かれがもろもろの力を最も必要とする、その時に、その力は欠けるではないか。」(『若きウェルテルの悩み』(1774年)と青年ゲーテは近代人としての苦悩を表白する。自らの無限の充実を欲することによって必然の限界に衝突する人間を近代人の性格であるとゲーテは捉える。その分裂の克服される時を、彼岸のかなたに夢みながら、シュトルム・ウント・ドラングの申し子たる主人公は死ぬ。しかし、作者ゲーテはまさにゲーテ自身として、「生誕と墓、永遠の海の満干」(『ファウスト』)たる地靈の支配する地上の「灼熱する生」の側に踏みとどまる。しかも「自分の手にすることができ」しかもその本質について「適切な理念を形成することを望みうる物の観察に自分の全生涯を捧げる」(1786年ヤコービ宛て書簡)として、「物」の世界の僕としての低みより、より純粋な人間性の世界に基づく創造行為をもって、ワイマル古典主義の時期へと、巨歩を進めたと考えられる。そして混沌とみえる現実界のなかにあって、自然界の秩序を形成する「二大動輪」である「極性」と「高昇」の法則的顕現を発見し、人間界においては、生成と破壊のうちにある生そのものの自己をめぐる純粋な運動のなかに神的なものの啓示を観、神的なものを基とし生きることを目指すことによって啓蒙的思想を超える面を持つ。

 ゲーテの詩『根源語、オルペウス風』(1820年)における「彫琢された形式、かつ生ける自己形成」とは、理念即現象から発したゲーテに啓示された世界認識の方法であるとともに、それは、人間的意欲の底に厳しい運命(アナンケー)を認める「古代的なもの」の思考と感性の復活であるとも考えられる。

ゲーテの文学世界は、自然科学的、道義的、また神話的世界把握をも包含する多面的、立体的な、深淵にして広大な象徴世界である。イタリア旅行がその生成の重要な契機となったが、古代人のごとく「心眼に安らう光」(『色彩論』)を信じていた彼にとり、「古代芸術」および古代人の存在形式が、そこにおいて時代の可変的相対価値を評価・形成する人間性の「根源現象」として顕れたと考えられる。イデアを含む人間の相として、彼にあって「たましひをもって」(『イフィゲーニエ』)探求されたこの「ギリシア古典古代」の内容は,その影響圏に属する近代人たる創造的諸人格に、肯定と否定の様々の距離をとらせて、自己形成を促した。このシンポジウムにおいては、それぞれの研究者の研究的角度と問題意識から、その自己形成が、近代の人間たる創造的人格にどのようにあらわれているのか、近代社会の関わりにおいていかに「古代」が作用してゆくのか、などを検証することによって、メタモルフォーゼしてゆくゲーテ的存在性の一端を垣間みることを目標とするものである。

 

1.ゲーテの『キリスト教の啓示の友プラトーン』(1796年)

─ シュトルベルクの『精選プラトーン対話編』(1795年-1796年) を考慮して     高橋克己

  1773 年24歳頃より1832年に没するまでゲーテが生涯をかけた大作『ファウスト』では、悪魔メフィストーフェレスの分別知Verstand とファウストの純粋で愚かな情熱Pathosとの両方により、見事な明暗を織りなすのに詩人は成功した。この際彼は悪魔の分別知が踏みこめぬ聖域ギリシアを、溢れる光の神秘の下につかみ、この光明界を目指す美しき魂にプラトーン風エロースの化身をみてこれを救済に結びつけた。同様シュトルベルク弟も『精選プラトーン対話編』の「序言」(1795年)で溢れる光の神秘に焦点をあて、光明を求める不立文字と以心伝心の二点に古代ギリシアに「範例」をとる「美しき人間」の礎を見いだし、ゲーテと通底する面を示した。

ところが、『キリスト教の啓示の友プラトーン』(1796年)において、極めて強い敵意を抱いてゲーテが、シュトルベルクの「序言」を酷評する時、彼ら天才時代の教養人に共通な礎ギリシアが、もはや光明界として彼らを引き上げず、むしろ情熱と分別知の両極に分解してしまう。事の一因は1788年に詩歌『ギリシアの神々』でシラーが示した鋭い知性Verstandにこころを掻き乱され、シュトルベルクが激怒して情熱にまかせ当詩歌を酷評したことにある。たしかにこうした確執する力もギリシアの知性ヌースと響きあう共鳴弦ではある。しかし同時に対立の諸相の下で、つい隠れてしまい易い、いわば空気のごとき、彼らの精神世界ギリシアの光明も、ここでは留意したい。

 

2.K.Ph.モーリッツの『神話論』とゲーテ─「想像力の言語」とメタモルフォーゼ─    山本 惇二

 モーリッツの『神話論あるいは古代人の神話文学』(1791年)は、ドイツ古典主義期のギリシア観を表す重要な証言の一つとみなされる。この書の基本思想は、「神話は想像力の言語であり、高い人間性の感情を映し出すこと」にあるが、著者のローマ滞在中の友ゲーテの影響を強く反映している。モーリッツは、芸術作品に「美的自律性」を要求したが、詩的想像力の所産である「神話文学」も芸術作品としてあるがままに受容し、これに宗教的・道徳的な解釈を加え、現実世界との関連性を探ることを拒否する。そしてこの象徴的解釈の観点からヴィンケルマンの『アレゴリー試論』(1766年)におけるアレゴリー解釈を厳しく批判する。モーリッツの『神話論』では、明るい創造的な神々の世界のみではなく、破壊的な混沌たる闇の世界がこれに対置され、神話的世界は、この「造形」と「破壊」の対立とその統一への展開、無形態の世界から形象をもつ世界へと変転する形成過程をその対象とするが、この変転の考え方にはゲーテのメタモルフォーゼの思想が窺われる。またこの著作では、『プロメテウス』等ゲーテの詩的作品が頻繁に引用されるが、それはゲーテとモーリッツの神話理解の近接性を示している。この『神話論』はその後シラーの詩作品、シュレーゲル兄弟、シェリングの「新しい神話」の考えにも影響を及ぼしている。発表では、この著作の考察をとおしてゲーテ、モーリッツの芸術観・ギリシア観を検討する。

 

3.ゲーテ、シラー、ヘルダーリン、Fr.シュレーゲルにおける古典的「完成」の概念     田中 周一

「永遠に生成するのみで決して完成することがない」芸術であるロマン主義文学を掲げるFr.シュレーゲルのマニフェストは、美的近代がその固有の特質をそこなうことなしに自らの価値を自己承認した証として画期的なものであった。しかし、こうした認識にいたる過程は、ゲーテからシュレーゲルへとつらなる紆余曲折の道のりを示している。

表題に掲げた四人はいずれも、古典古代との抜き差しならない関係のなかで自己の芸術を模索し、築きあげていった。

ゲーテ、シラー、ヘルダーリンは芸術という美的領域に道徳的価値を付与し、芸術によって「完成」へと導かれる人間性という構想をうちたてる。美の領域は他のいかなる価値によっても冒されるものではないとしつつ、道徳の領域と交感する芸術を模索し、創作として実践した。そして、人間を「完成」へと導く機能をもつものとしての芸術創造に向きあうに際し、芸術作品それ自体もまたひとつの「完成」を目指すものとして企図され、彫琢されていった。

これに対し、「完成」のモメントをはじめから放棄したシュレーゲルのロマン主義文学は、芸術の徹底した自律性を原理とする新しい時代の文芸のありかたを主張するものである。この発表では、美的近代の自己理解を、「完成」ということばを鍵として、芸術の自律性と社会的機能の問題を視座に考察することとしたい。

 

4.プラーテンのピンダロス風韻律形式     石橋道大

古典古代の韻文は、複雑で多様な豊かな韻律形式の宝庫である。

 個性的な詩想を比較的自由な形式で歌う近代詩と異なり、それは教え、学びうる一種の職人芸的な堅実な技術(ヘルダーリンの言葉で言えばμηχα-

νη)の世界である。ホラーチウスが、ギリシア抒情詩をローマ文学に導入した自分の功績を語る時、まず念頭にあったのは、アルカイオスやサッポーなどの韻律形式の導入のことであったのも、不思議ではない。

プラーテンが古典古代の文学と取り組んだ時、そうした形式の豊かな世界は、当然目に入った。若い頃から、たゆむことのない訓練によって、韻文の技術を習得してきたプラーテンは、最後に習得し残した、抒情詩における最も複雑な韻律形式ともいえる、ピンダロスの形式を自家薬籠に加えようと試みる。この形式はクロプシュトックや若いゲーテの時代には、自由律と誤解されたが、その後古典文献学によって、韻律構造が解明されていく。そうした成果をプラーテンは利用して、ピンダロス風のヒュムネを創作した。

 それはピンダロスの複雑な韻律を、出来るかぎり厳密に模倣しようとする試みであった。その限りで、我々は何か詩想・表現を縛りつけるような固いものを、想像するかもしれない。しかし詩人が真に目指したのは、実はそれを基盤とした、高潮と陶酔のリズムだった。

 


シンポジウムII

「コンピュータ支援ドイツ語学習(CALL)の現状と展望」  

Computergestuztes Deutschlernen - heute und in Zukunft

 

司 会: 境一三,吉田光演

発表者: 吉田光演,岩居弘樹,桂修治,岩崎克己,細谷行輝,境一三


 数年前までCALL(コンピュータ支援外国語学習)は,コンピュータLL教室が設置された一部の大学でプログラムと情報機器に詳しい一部の教員によって行われる小規模の実験にとどまっていた。しかしCALLを取り巻く環境は一変した。ワープロソフトで論文を作成し,国内外の人々と毎日Eメールを交換し,WWW上でドイツ語圏の情報を収集するといった作業は研究上のありふれた光景であり,又,大学生の多くもレポートの資料収集や就職活動でインターネットを積極活用する時代である。ドイツ語コミュニケーション能力の習得を目標とするドイツ語教育がコミュニケーションの便利なツールとして普及したコンピュータやインターネットを活用しない手はない。本シンポジウムでは,各地の大学で試みられているCALLの形態と内容を報告しつつ,情報化社会の中でのドイツ語CALLの現状と展望を考察し,今後のドイツ語教育への帰結について議論する。
 今日のCALLは旧来のCAIドリル学習とは根本的に異なる特徴を備えている:

1) マルチメディア環境(テクスト・音声・画像・動画による状況学習)。
2) インタラクティヴ性(学習者が自分の視点から内容を選択できる)。
3) リアルで多様な情報(WWW利用によるドイツ語圏の情報の収集)。
4) コミュニケーションの拡大(EメールやWWW上の掲示板を活用して,教室の枠を超えて学習者が他の人々にメッセージを発信することができる)。
5) 時空間を越えた学習(インターネットを利用して教室外から教材にアクセスし自習できる。一般市民もドイツ語学習に参加できる)。

特に3)-5)のネットワークの普及により,大規模コンピュータ教室はCALLの必要条件ではなくなった。普通教室での通常授業に,課外の宿題としてホームページ上の教材練習・WWWによる情報収集・掲示板への書き込み等の活動を組み合わせた学習も立派なCALL実践である。広い意味で情報ネットワークの利用をCALLに含むことで,CALL教室での本格的なメディア利用から補助ツールとしての利用,グループ作業によるプロジェクト学習,自主学習のためのオンライン学習システムに至るまで幅広い応用が可能になる。これによってCALLの敷居が低くなり,ドイツ語教員による広範な活用・ドイツ語学習の関心の向上が期待できる。CALLのこの多様性が第1のポイントであり,各発表者の報告によってそれぞれの利点と問題を明らかにすることが本シンポジウムの課題である。
 メディアは道具であり,万能薬ではない。CALLを有効活用する方法論,教授法的な基礎づけの作業は始まったばかりであるが,本シンポジウムでは先行する英語CALLの現状の紹介と検討,DaFにおけるCALLの位置づけに関する報告によって教授法とCALLの関連を議論する。これが第2のポイントであり,ドイツ語教授法に関心のある多くの方々の参加と助言を期待する次第である。

 

1. 「ドイツ語CALLの新段階」     吉田光演   

 本発表では,CALLの従来の動向の整理を行い,ドイツ語CALLの今後の展開についてスケッチする。まず,CALLに関する2つのモデル(チューター・モデルとツール・モデル)を紹介する。前者は,文法項目や単語の聞き取りなどprogressivな学習に適し,反復学習により個々の学生の理解に合わせた進行が可能になり,教師は学生をコントロールしやすい。後者は,コンピュータを学習ツール(ワープロ,電子メール,WWW等)として利用することにより,柔軟で創意的な学習者中心の授業が可能になる。ただし,学習成果の評価・コントロールはツール・モデルの方が難しい。いずれの場合でも,適切な教授法と組み合わせることによって,動機づけと学習の効果を高めることが期待できる。
 CALLの発展の障害となっていたハード整備の問題(CALL教室の不足)はインターネットの普及によって取り除かれつつある。自習用端末や自宅のパソコンからインターネットにアクセスすれば,いつでもどこでもドイツ語を学習することができる。ランデスクンデとしてWWWでドイツのアクチュアルな情報を収集するプロジェクト学習も可能である。ネットワーク環境の中で,ツール・モデルとしてコンピュータを活用することによって,教師は教材・方法・学習内容を決定する権威的役割からナビゲーターとしての媒介的役割に変化し,学習者中心の学習が実現される。この意味でCALLの活用はドイツ語教育の改善に大きく貢献できる。

 

2. 「英語教育におけるCALL研究と開発」     岩居弘樹   

 本発表では,私立大学情報教育協会・英語情報教育研究会で得た知識と経験をもとに,英語教育におけるCALLの現状を概観し,英語および英語以外の言語でのCALLの利用状況,市販の教材と自主制作の教材について報告する。
 我々と同様,英語教育の現場でも,E-Mailの活用,ホームページの活用や作成,自主教材プログラムの制作などが,各大学で試みられている。同研究会で報告された様々な教材と実際に使用した経験,いくつかの大学の語学用コンピュータ教室を訪問した印象,および立命館大学におけるCALLの現状を紹介しながら問題点・課題を整理することで,ドイツ語教育でCALLを活用するためのひとつの指針を提示したい。


3. 「CALLによるPhonetik授業について」      桂修治   



 いわゆるコミュニカティブアプローチによるドイツ語授業に関して,日本人学習者にコミュニケーションへの積極性が乏しいことがしばしば指摘される。そしてその原因は,欧米言語と異なるコミュニケーション様式や,日本の文化に由来する心理的要因に求められることが多い。これらの指摘はいずれももっともであるが,学生の持つ学習上の困難を調査すると,ドイツ語の音声が言語として理解できない,自信を持ってドイツ語の音声が作り出せないという音声学的な要因も,ドイツ語でのコミュニケーションへの大きな障害となっていることが分かる。とりわけ初級段階において音声学的な基礎をつくることは,授業の重要な課題であると思われる。
 このような学習目標のためには,LL装置やコンピュータを組みあわせたCALL教室はきわめて有効である。徳島大学でも56ブースのマルチメディア言語演習室が設置されているが,私はコンピューター教材によるドリルやLL装置による演習をドイツ語授業の中に取り入れ,とくにドイツ語の音声学的な学習に活用している。このような試みは,いわゆる閉鎖型・ドリル的なCALL活用に過ぎないが,ドイツ語授業に好ましい変化をもたらしていることが実感される。本報告では,授業実践の報告をまじえながら,CALLを活用したPhonetik授業の可能性を検討する。


4.「オンライン型マルチメディア教材の可能性」     岩崎克己   


 広島大学では,すでに,1993年4月にCALL教室(LL・視聴覚機能とコンピュータを利用した学習機能を統合した教室)が設置され,外国語授業で活用されてきた。また本年5月,あらたにMacintosh端末50台とWindowsNT端末20台および海外衛星放送受信ブース10台からなる本格的なマルチメディア外国語自習室もオープンし,外国語の自習に利用されている。これらのコンピュータはいずれも学内LAN を通じてネットワークに接続している。また一部の端末からは外国語学習用ビデオをデジタル化し自由に呼び出すことのできるビデオ・オン・デマンドも可能になった。
 本報告では,こうした環境を積極的に利用し,インターネット上で動かすことのできるオンライン型の自作マルチメディア教材やドリルについて紹介する。また,特に授業支援という観点から,授業での利用と学生の自習活動という2つの側面で,その可能性を考える。

 

5.「CALL教育システムの基礎から応用まで」     細谷行輝
 CALL教育システムを構築するにあたって,考慮しなければならない重要な課題を,実例に即しながら提示する。

1)CALL(コンピュータ支援外国語学習環境)とは:LLに新たにCA(コンピュータ支援)を付加したもの,すなわちCA-LLである。
2)何のためにCALLを導入するのか:教授法改革の一例に過ぎない。すなわち,教師には何よりも,現状の教育環境の不備を認識し,教育改革に向けての積極的な意欲が求められる。また,従来の教室の枠に捕らわれず,21世紀の教授法の一端を担う,遠隔教室,遠隔授業を実践する可能性が生じてくる。
3)CALLの操作性・汎用性:CALLを利用する教師に求める技能は,「マウス操作とワープロ操作のみ」として,教師の誰もが参加できる容易なシステムでなければならない。また,各教育機関に装備される端末やサーバなどの相違を吸収するため,汎用性の高いWorld Wide Web(WWW)を活用するシステムとするのが実践的であろう。
4)マルチメディアの活用:外国語の学習には,文字・音・映像を駆使したダイナミックなマルチメディア教材が不可欠であり,その最たるものが,動画,すなわち,ビデオ教材である。
5)授業支援システム,評価システムの制作:出席管理,成績管理などの自動化を実現するWWW対応授業支援システムが必要である。また,学習者には,CALL教室を介して,各自のペースと能力に応じた学習を可能とするが,試験など,各自の学習内容を評価する汎用的なシステムが不可欠となる。

 

6. 「ドイツ語CALLのDaFにおける位置付け--問題点と展望--」     境 一三  

 大学におけるコンピュータ環境整備の急速な進展とともに,CALL授業実践の基礎条件は整いつつある。本シンポジウムのこれまでの発表で明らかなように,先進的な大学ではすでに多くの試みが行われ,CALLの技術的な可能性の輪郭はおよそ明らかになりつつあると言ってよい。しかしながら,大学におけるドイツ語教育の理念と実際のカリキュラムとの関連で,CALL授業の役割を教育論として議論したものはまだほとんどない。技術はそれのみでレゾンデートルを持つものではなく,あくまでも目的に奉仕する道具として価値を持つ。われわれのコンテクストで言えば,目指すべきドイツ語教育像がまずあり,CALLはその実現のために機能するものでなくてはならない。どのような目標とメソッドを持った授業にどのようなCALLの技術がどのような形で投入されるべきか,そして機械ではない人間としての教師の果たす役割はいかなるものか。この問題について今後真剣かつ広範な議論が行わなければならない。本発表はこのような議論に向けた第一段階として,CALLの問題点と限界を明らかにし,近未来の授業形態を展望しようとするものである。

 


一般研究発表・語学・ドイツ語教育

 

 司会:小島一良,竹島俊之

1. 初期新高ドイツ語期の現在完了形    嶋崎啓

 Ebert (: Historische Syntax des Deutschen, 1972, S. 59) は、ドイツ語の現在完了形 (Perfekt)が「完全な文法化」vollstaendige Grammatikalisierungに達するのは16世紀であると言うが、本来自律的意味を持っていた過去分詞とsein/habenが意味的に不分離な文法的単位を形成するようになることを「文法化」と呼ぶとすれば、現在完了形は中高ドイツ語期 (1050-1350)においてすでに「文法化」している。従って、初期新高ドイツ語期 (1350-1650) の現在完了形を通時的観点から考察する場合、むしろ、いかなる現象がどのように現れたかに目を向けるべきである。例えば、初期新高ドイツ語期には、話法の助動詞の完了形 (hat tun wollen 等) が出現する。また、時間表現として完了形と同等であった状態受動形 (ist PP) とは別に、新たに動作受動の完了形 (ist PP worden)が用いられるようになる。中高ドイツ語期には主として過去形で表された「~したことがある」という「経験」は、初期新高ドイツ語期には現在完了形で表されるようになる。あるいは、中高ドイツ語期に多用された「継続」の用法の比率は初期新高ドイツ語期には低下する。そして南ドイツでは過去形が衰退する。本発表では、このような様々な現象の考察を通して、初期新高ドイツ語期の現在完了形を捉える重要な視点は「文法化」ではなく、「過去形化」であることを見たい。

 

4. Angemessenen Methodologie (appropriate methodology) im DaF-Unterricht in Japan   Klaus-Boerge Boeckmann

In den letzten Jahren hat sich im Fremdsprachenunterricht die Diskussion zur Frage des Methodentransfers von einer Kultur zur anderen (wieder) intensiviert, zunaechst im englischsprachigen Raum unter der Bezeichnung "appropriate methodology". Auch in Japan und in anderen ostasiatischen Laendern taucht immer wieder die folgende These auf: 'Aus dem deutschsprachigen Raum importierte methodische Formen funktionieren hier nicht, denn hier lernt man anders.' Im Rahmen eines Forschungsprojekts in Japan versuche ich dieser Behauptung nachzugehen und zu untersuchen, wie kulturtypische Lehr- und Lerntraditionen aussehen, durch was sie sich von den in deutschsprachigen Laendern vertretenen Konzeptionen unterscheiden und inwieweit Unterrichtende und Unterrichtete tatsaechlich glauben, dass sie nur mit den gewohnten, traditionellen Methoden erfolgreich lehren und lernen koennen. Der Vortrag wird von einer kurzen Darstellung der Fremdsprachenunterrichtstradition in Japan mit besonderer Beruecksichtigung methodischer Entwicklungen ausgehen und vor diesem Hintergrund Praxiserfahrungen und erste Ergebnisse des genannten Projekts praesentieren. Abschliessend wird die Frage diskutiert, wie aufgrund der gewonnenen Erkenntnisse Reformstrategien in der Fremdsprachenunterrichtsmethodik in einem Land wie Japan umgesetzt werden koennen.


シンポジウムIII

トーマス・ベルンハルトの諸相─── 没後十周年を記念して

Thomas Bernhard unter verschiedenen Aspekten

 

司会:竹内 節、神野眞悟

 現代オーストリア文学を代表する作家トーマス・ベルンハルトは、本年、没後十周年を迎えた。ベルンハルトといえば、生前はその過激ともいえる言動から、スキャンダルメーカーの面ばかりがクローズアップされていたきらいがあるが、一定の時を隔た今、作家ベルンハルトの作品を改めて読み直し、これを冷静かつ正当に評価して行こうという機運が高まりつつあるように思われる。

 事実、昨年九月、ベルリンにおいて国際的規模の「ベルンハルト・シンポジウム」が挙行されたのを始め、本年も、作家の命日である二月十二日以来長期間に渡り、ウィーンの作家ゆかりの地で朗読会など様々なイヴェントが開催され、さらに八月以来、彼の終焉の地である上オーストリア州のグムンデンを中心に、”Bernhard-Tage Ohlsdorf 1999”と題された、学術的シンポジウム等を含む一連の催しが実施されているなど、この作家の再発見・再評価は今や急ピッチで進行中である。

 わが国においても、ベルンハルトは、すでにその代表作数編が邦訳され、一般にも受容されてきている。また、少なからぬ数の研究者がその文学について地道な研究を進め、その成果を論文等の形で世に問いつつある。だが、なぜかこれまで、ベルンハルトとその文学について総合的に論じ合う「場」が存在しなかった。たしかに、ベルンハルトのあまりに生々しすぎる現代性などがその障壁になっていたであろうことは否めない。しかし、作家の没後十周年を迎えた今こそ、新たな「場」を設ける絶好の機会と思われる。

 そこで、実際に、これまで個々にベルンハルトの研究を進めてきた専門家、あるいはその文学に深い関心を持つ者が一同に集う「場」が誕生することになった。これはもちろん一度きりの集まりではなく、今後、今春ザルツブルクで設立された「国際トーマス・ベルンハルト協会」とも連携しながら、シンポジウムや出版などの活動を継続的に実施して行こうという趣旨のものである。そして、その第一弾として世に問うのが今回のシンポジウムである。

 本シンポジウムにおいては、さしあたり、これまでの内外の研究成果を踏まえ、「事実と虚構」、「狂気、笑い、死」、「音楽」、「都市小説」などベルンハルト文学の特質を語り出す代表的なキーワードを取り上げると同時に、これまであまり取り上げられることのなかった「詩」を始めとする、彼の作品のジャンル毎の特性にもできる限り言及し、これらを総合することによって、ベルンハルト文学の独自性を浮き彫りにしてみたいと考える。

 また、壇上の報告者たちの報告とそれに対する質疑応答に終始するのではなく、報告者どうしのディスカッションも行いたい。そしてさらに、会場の参加者からの問題提起およびそれをめぐっての討論への展開も期待したい。

  

1.事実と虚構     三上雅子

 初期から晩年にいたるまで常に同一のテーマを扱い続けてきたと評されるベルンハルトの作品世界においても、70年代を境にある変化が認められることを多くの研究者は指摘している。同じく死や狂気を描きながらその語り口は喜劇性を増し、活動の比重は散文から劇作へと移っていくのである。さらにこの時期以降作品中には実在の地名・人名が頻出するようになり、それが名誉毀損をめぐる幾多の裁判事件となって世上にスキャンダルメーカーとしてのベルンハルトの名を広めていく結果となる。しかし彼の作品に度々登場するオーストリアの実在の地名や人名は、徒に挑発をのみ意図したのでもなければ、現実の平板にして忠実な再現を目的としたものでもない。そこでは実在の場所や人は彼特有の誇張などの手法によって、ある特定の意味を持つ虚構の人物や空間に等しいものへと変貌させられているのである。事実を誇張し加工することによって、現実の背後に隠されているより深い意味を垣間見させる存在へと変容させていく、その間の作業こそがおそらくはベルンハルトの創作に欠かせぬ手続きなのであり、いつの間にか読者は現実と現実ではない事柄との間に横たわるグロテスクにして「灰色の曖昧な領域」へと誘われていくのである。ここではベルンハルトにおける事実と虚構の関係をいわゆる「自伝五部作」を中心に考えていく。

 

2.狂気と死と笑い ── トーマス・ベルンハルトの戯曲作品について──     桑原ヒサ子

 ベルンハルトは『ボリスのためのパーティー』(1970年)で劇作家としてデビューして以来、18年間に18の作品を執筆したが、この作品にはすでにその後の戯曲に共通する特徴が数多く確認できる。『ボリス』を例にまず、そうした特徴の意味を考えてみたい。すなわち、社会から隔離された空間(die Guteの自宅)、限定された主要人物の数、作品を構成する主人公の絶え間ないモノローグのために筋に重きが置かれていない点などである。主人公には始めから発展の可能性は考えておらず、事実上敵対者は存在しない。人間関係が存在するとすれば、偏執狂的長広舌を繰り広げる主人公(die Gute)と沈黙を強いられる召使(Johanna)の、相互に苦しめ合う Herr und Knecht の関係である。

 滑稽さは初期作品から見られるが、脚を失い車椅子を使う登場人物たちによる狂気と死の晩餐という構造の中では、陰鬱でグロテスクなものでしかない。そうした色調は四作目の『習慣の力』で変わる。コメディア・デラルテの要素が取り入れられ喜劇的側面が強調されている。しかし注目したいのは、散文でお馴染みの知識人やいわゆる精神的人間が登場するようになることである。彼らは世界に距離を取り、イロニーを持って外から自分を見ている。結末も必ずしも死ではなくなった。晩年のベルンハルトは自らを年老いた道化と見なしたが、その自己理解は彼らに投影されている。それを『世界改革者』(1979年)に見てみたい。

 

3.詩人としてのトーマス・ベルンハルト     瀧田夏樹

 第二次大戦末期を、わが中学2年生くらいの年齢で経験したベルンハルトの場合、死の思いの中に、爆撃による他者の死が深くかかわっているのは確かである。(平穏で美しいザルツブルクにおいて、そうであった)だが、より主体的な「死」は、すでにそれ以前から存在し、希望のない日常に、自殺を思った体験が、自伝的散文作品に繰り返し述べられている。そして「死」との対決は、みずからの肺疾との闘いを通じてさらに深められた。その、病気による死の凝視は、詩集『死のとき(In hora mortis)』のなかで興味ある展開を示している。その、神を呼ぶ声は、同郷の先輩詩人トラークルの「詩篇(Psalm)」を念頭において読むとき、明らかな意味を表す。しかし詩業を通じてこのテーマを追おうとした時が、ベルンハルトにとって「死」との本当の対決であったといえる.。他の2冊の詩集では、トラークルの世界の「死」が視野に入れられ、これに接近し、場合によっては、トラークルの詩語をも取り入れつつ、自分の「死」を歌おうとしているのが認められる。そしてそれを見極めたとき,詩作の試みは終わっていた。やがて休止期が来、新たなジャンルへの挑戦が始まり、そこで目を見張るような成功が収められた。

 本発表では、この若き詩人の詩作品を様々な面から考察して、先行の詩人たちから何を学び、その後の活動につないで行ったかを、具体的に検討してみたい。

 

 

4.ベルンハルトと音楽     岩下眞好

 トーマス・ベルンハルトの生涯と作品にとって、音楽はきわめて重要な位置を占めている。ベルンハルトは、すでに少年時代に、ヴァイオリンや歌唱、音楽美学を学び、のちにはザルツブルク・モーツァルテウム音楽院で本格的に音楽を勉強している。最終的には音楽の道には進まなかったものの、ベルンハルトの音楽への関心は止むことがなく、その文学作品も、しばしば音楽作品と密接な結びつきを見せている。かくしてベルンハルト研究において、その生涯および作品と音楽との関係を考察することは不可欠の研究テーマとなる。その際、さしあたって、このテーマ領域は3つの局面に分けて考えることができるものと思われる。すなわち、(1)その実際の音楽学習と作曲活動。(2)作品のテーマ的要素として、あるいは作品中の個々のモチーフや比喩素材としての音楽家や演奏家、あるいは音楽作品。(3)文体や作品の形式への音楽の影響。このうち、今回の発表では、ベルンハルトの文学的世界と直接関連する(2)と(3)の点について、長編小説『破滅者』を中心に、他の作品(『ヴィトゲンシュタインの甥』、『リッター、デーネ、フォス』など)も参照しながら、その様相を俯瞰してみたい。さらに時間が許せば、「音楽」のテーマと「ヴィトゲンシュタイン」のテーマの関連についても、『破滅者』と長編小説『修正』との関係に留意しながら、若干の指摘を行うつもりである。

 

5.狂気によって古都を衝く「ウィーン小説」:『ヴィトゲンシュタインの甥』     平田達治

 この作品は、その題名にあるように、著者トーマス・ベルンハルトの親友だったパウル・ヴィトゲンシュタインの、世の人々には狂気と恐れられる、「敏感すぎる感性をそなえた一つのノーブルな精神の滅び行くさま」(岩下眞好氏)を見届け、それを形象化して、今亡き友に捧げた小説である。しかし、文学作品として見るとき、ウィーンの音楽ファンには「音楽小説」、ウィーンの都市文化に興味を持つ読者には「ウィーンの都市小説」として読める二重性をも具えている。本報告では、このうち後者の側面を中心に見てゆきたい。

 まずこの作品の、あるいはベルンハルトの小説一般の特徴である「都市空間の詳細な実名描写」を作品に沿ってあとづけ、これによって得られる「トリヴィアールな魅力」を、過去のドイツ文学作品に見られる「匿名描写」と比較しつつ、広く読者を惹きつける小説の魅力について考察したい。しかし楽しく読める本小説が、その本質においては、いわば「狂気」をモチーフに、古都ウィーンの伝統に潜む退嬰性を鋭く見破り、「本物と偽物」とを暴く深刻な挑発の小説である点をも見てゆきたい。

 


シンポジウムIV

ドイツ中世文学に見られる<名誉>の諸相

Kulturelle Verhaltensmuster und Begrifflichkeit

der Ehre in der Literatur des deutshcn Mittelalters

 

司会: 有泉泰男

 ドイツ中世の文学作品を研究していく場合,わたしたちに要求される第一のことは,当該の作品を生んだ時代および社会背景,とくにその社会における人間の行動様式について出来るかぎり広範な知識をもたなくてはならないということであろう.この点で近年は日本のみならず世界的に中世の研究は一種のブ-ムの状態にあり,「暗黒時代」と不名誉なレッテルを貼られていた時代はさまざまな角度から新たな研究がなされ,この時代を特徴づける社会生活,人間の行動様式の解明については格段の進歩がみられ,上述の第一の問題をクリアすることは比較的容易になってきたといえよう.

 つぎにわたしたちが中世の文学作品を研究していく上で必要不可欠な問題は,語の解釈の問題である.作品に用いられている語は字面からみた場合,現在用いられている語と同じもの,あるいは綴りから現代ドイツ語を連想できる語も多い(arbeit, gewalt; g歹te, aht, triuwe, hochgez杯).しかしこのような語の解釈にこそわたしたちは注意を払わなくてはならない.たとえば arbeit を例にとってみると,現代用いられている意味では「労働・仕事,研究・勉強」であるが,中世においては,むしろ「他人から加えられる難儀・苦労」といったもので,より具体的な意味をもっていた.また今日ではもっぱら否定的な意味で用いられているGewaltは,「権勢・支配」の意味で,むしろ肯定的な意味で使われていた.時代とともにひとつの語が,本来は具体的なできごとを意味していたのに,それに抽象的な意味が加わってきたり,肯定的な意味が次第に否定的な意味に変わっていくことはドイツ語にかぎらず,わたしたちは日本語でも十分に経験してきていることである.

 いまわたしは中世の文学作品の研究に必要な問題を2つ挙げたが,もちろんこれ以外にも大切なことは多々ある.しかし今回わたしたちは中世の人々の行動様式をとらえることを目的とし,そのためにはどのような語,また概念が最適であろうか討議し,甚e (Ehre) の語を選びだした.「名誉・名声」と訳されるこの語はその語場をとらえるのが困難な語のひとつに挙げられよう.甚e とは個人的なものなのか,あるいは社会的なものなのか,具体的な事物にもあてはまるものか,あるいは抽象的な概念にとどまるものなのか,こうした問題について,具体的には名誉の獲得・維持・亡失・回復といった事柄について,中世の英雄叙事詩ならびに宮廷叙事詩ではどのように描かれているか,さらにこうした事柄が動作としてどのように表現されているかを中心にシンポジウムの形式で発表していく.

 

1 Zu einer historischen Semantik der Ehre im Mittelalter  Wolfgang Haubrichs

Ehre ist im Mittelalter ein Element der intersubjektiven Konstitution der adligen Persoenlichkeit. Die Ehre ist dabei kein affektiver, kein absoluter Wert, sondern ein relationaler, sich aus den Bindungen des Menschen ergebender Wert, dem eine strukturelle Betrachtungsweise angemessen ist, die sich auf den Konflikt richten muss. Denn nur im Konflikt, nicht in der Latenz treten die vier Elemente, die Kategorien der Ehre deutlich zutage:

1. Die Bindungen der Person an Verbaende, Aemter, Funktionen und den von diesen gesetzten 'ordo';

2. die urteilende Instanz der Oeffentlichkeit, die Ehre erst manifest macht;

3. die Regeln des Erwerbs, Verlustes und der Wiederherstellung von Ehre durch 'compositio'(Wiedergutmachung) oder Rache;

4. die Forderugen und Normen des jeweiligen 'ordo', welche die inhaltlich Substanz der Ehre ausmachen und im Konfliktfalle rechtliche Tatbestaende begruenden.

Ehre war ein so konstitutives Merkmal der Persoenlichkeit, dass sie auch im

Strafrecht ihren Platz fand.

 

2 『ニーベルンゲンの歌』にみられる<名誉>の諸相 佐々木 克夫

1200年頃成立した作者不詳の英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』は写本Bによると,全部で39の物語からなり,第1の物語から第19の物語を第一部,第20の物語から第39の物語りまでを第二部とすると,第一部ではジーフリトの暗殺が,第二部ではそれに対する妃クリームヒルトの復讐の物語になっている.第一部でジーフリトが何故暗殺されるのか.それには二人の女性が関わっている.一人はジーフリトと結婚するクリームヒルトであり,もう一人は謎めいた,神秘的な女性プリュンヒルトである.詩節6の4: 'si sturben s杯 jセmerl把he von zweier edelen frouwen n杯'.(かれらは後に痛々しくも二人の気高い婦人たちの争いのために死んだ.)に暗示されているようにこの叙事詩では二人の女性の'n杯'「憎しみ,争い」によって民族が滅びることになる.では何故彼女たちは'n杯'を抱いたり,行ったりするようになったのか.それには「名誉」が絡んでくる.

ここでいう名誉とは世間的な体面,或いは面子,個人としての尊厳をいい,それが傷つけられた時に,個人的に,社会的に人はどのようにそれを償おうとするか,それが今回のシンポジウムのテーマである訳であるが,この叙事詩は,彼女たちの傷つけられた名誉の回復が大勢の人々を滅ぼすことになるという物語である.第二部の最後のほうで,詩節2378の1:Die vil michel 甚e was dagelegen t冲.(大いなる権勢はその時死んだ.)とある.ここでいう'甚e'は「権勢を持つ(名誉ある)人々」として理解できるが,何故この'甚e'は死んだのか.この叙事詩において'甚e'が果たす役割は大きいものがある,と思われるが,シンポジウムにおいて第一部では二人の女性を中心に,第二部では騎士たちを中心にして,「名誉」について考察してみたい.

 

3 『クードルーン』にみられる<名誉>の諸相      古賀 允洋

Mhd.甚e (ahd. 甚a) は語源的には 經chaetzung"(評価,尊敬,尊重)を意味し, 特に神に対する畏敬の念を表わす語とされる.この敬意が能動的に他者に対して示されれば,Ehrerbietung,Hochachtungを意味し,自己が置かれた状態について示されれば,他者からのAchtung,Ansehenを意味し,受動的にRuhm,Ehreに包まれた状態が表わされる.

このような Schaetzung"が行われる根拠に関して,外的な要因は家門,地位,権勢,富,あるいは戦いの勝利などであり,内的な要因としては,個人の優れた資質や長所,特に勇敢さ・誠実さ・倫理観・道義心を挙げることができる.しかし,言うまでもなく外的要因と内的要因は多くの場合相互に関連していて,特に外的名誉には内的名誉が前提となっていることが多い.

『クードルーン』にも上記のようないろいろな相の甚eの例がみられるが,ここでは主に名誉の消滅とその回復について考察する.国王ヘテル王が討たれ,王女クードルーンが連れ去られたことを知ったとき,王妃ヒルデは,「私の名誉が消え去ろうとは」(wie swindet m馬 甚e! Kudrun 926,3)と言って,わが身と王国の悲運を嘆く.この英雄叙事詩では,失われた名誉の修復と再建が全編を貫くテーマの一つとなっている.

4 『パルチヴァール』にみられる<名誉>の諸相     有泉 泰男

ドイツ中世の宮廷叙事詩には甚eという言葉が頻繁に用いられている.宮廷社会で高い地位についているとか,富や財力(物質的な権勢)が他人よりも勝っていることで騎士には甚eが与えられる.また騎士が冒険で出会う相手との戦いにおいて勇敢であるとか,苦しんで助けを求めている人(大抵は婦人)をその窮地から救出する場合にもその騎士には甚eが与えられる.こうした甚eは一つの社会の中での対人間的関係によって生じてくるものであり,人々の評価に左右されるものである.さらにこうして得られる甚elopとかpr敗といった語と置き換えられる.

『パルチヴァール』においてもこうした対人間的関係に基づく甚eはみられる(22, 12; 227, 4; 278, 23など).ところでパルチヴァールがムンサルヴェーシェで苦しんでいる城主アンフォルタスを目にした時,グルネマンツの戒めを守ってその苦しみについて問うことをしなかったことで,彼はジグーネからgun甚ter l廃, verfluochet man!(栄誉なき者,呪われた男)とののしられる.さらにアルトゥース王の宮廷では彼はクンドリーエから問いを怠ったことで激しく非難され,自らの甚e, lop, pr敗を失うだけでなく,自分を迎え入れてくれた宮廷までも非難される.ここでパルチヴァールが失った甚e, lop, pr敗は対人間的関係から生じてきた甚e以上のものである.問いの怠りで失った甚eとは一体なになのか,またその修復にはなにが必要なのか考察してみた.

 

5 『トリスタン』にみられる<名誉>の諸相-宮廷風恋愛を中心に-     一條 麻美子

「愛とはあらゆる徳を集めた宝」(ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ)であり,「男子たるもの,高きミンネに身を捧げれば,さらにいっそう高貴となる」(フライダンク).それゆえ婦人に奉仕することは,騎士たる者のつとめであった.身分の高い婦人に愛を捧げる,婦人の名誉を守るために戦い,婦人のために宮廷風の振る舞いを身につけることにより,おのれの価値をつまり名誉を高めることが,理想的な騎士のあり方として賞賛されるのは,もっともなことであろう.しかし,物語の中に描かれる婦人奉仕の現場は,必ずしも名誉ある騎士を描いてはいない.例えば『ランスロ』では,主人公が王妃のために囚人しか乗らぬ荷馬車に乗り,人々のあざけりを受ける.その名も『婦人奉仕』という作品を書いたウルリヒ・フォン・リヒテンシュタインは,女装して遍歴の旅に出る.トリスタンもまた,イゾルデに対するミンネのゆえにライ病やみ,乞食,阿呆に身をやつして,人々の嘲笑を買う.しかしながらこれら「自ら名誉を貶める騎士たち」は,決して騎士としての価値を損なうことなく,賞賛を受け続けるのである.このような「自らの名誉を貶めることによって,実は名誉を高める」という逆説的な名誉獲得のシステムは,いかにして可能となっているのだろうか.

 

6 中世における身振りと振舞い -名誉を中心に-      四反田 想

20世紀末の現代では,専ら非言語的コミュニケーション行為として,或いは身体論の立場から捉えられがちな,「身振り」や「振舞い」は,西欧中世においては果たしてどのような価値を担っていたのか.Jean-Claude Schmittは,"La raison des gestes dans l'occident m仕i思al"(『中世の身ぶり』)の中で,西欧中世を「身ぶりの文明」と捉え,そこでは身振りが,現代社会が喪失した(或いは喪失したと錯誤した)多様な象徴的価値を持ち,様々なレヴェルや領域に偏在していたことを実証している.12世紀から,教会の宗教文化・文学に対して世俗貴族の文化・文学が台頭し,宮廷風作法は「中庸」(m越e)の「古代的理想ならびにその後のキリスト教的理想をみずからのものとし,...修道院と聖職者の規律(disciplina)とは区別された.」(Schmitt)このような歴史的・文化的背景のもとで,「名誉」(甚e)に関する様々な身振りや振舞いが,どのように盛時中世ドイツの世俗文学作品では言語的に叙述され,写本の細密画において絵画として描写されてきたのか.他のパネラーの取り挙げる作品とも関連させつつ,可能な限り視覚的資料を提示しながら,当時の読者に与えた,写本中のテクストと絵画との相互作用を分析し,これらの所作の象徴的意味の諸相を解読する.


シンポジウムV<ドイツ語教育部会企画>

日本におけるドイツ語教育のランドスケープ(承前)

---大学カリキュラムはどこへ向かうのか?

Bildungslandschft "Deutsch in Japan" (Fortsetzung)

--- Curriculum: Quo vadis?

 

司会: 近藤 弘, 三瓶 愼一

 

 1999年春季学会(上智大学)におけるシンポジウム「日本におけるドイツ語教育のランドスケープとドイツ語教員の社会的責任を考える --- アンケート調査の結果から」での議論を受け,その第2弾として大学カリキュラムの進むべき方向を模索する。 21世紀に向けて大学審議会が取りまとめた1998年11月答申については,審議会委員の戸田修三氏を招いての教育部会企画講演(1999年5月22日,上智大学)でも,その内容と審議会の基本的なスタンスを詳しく知ることができた。審議会は,大学に指針を示そうというのではなく,それぞれの創意工夫により,各大学がさらに個性化,多様化を進めるとともに,社会的な存在としての責任も自覚しながら,今後の複雑・混迷を極める社会を生き抜いていくための知識や技術を身につけさせる教育へと転換することが重要であるとする。ではいったい,大学のドイツ語教育における個性化,多様化とは何か?ドイツ語教員の社会的責任とは何か?また今後を生き抜く知識や技術,そしてそれにとどまらない教養を,大学のドイツ語教育は提供しうるのか?具体的な検討は,まだ緒についたばかりであるが,大学カリキュラムの行く先を十分に議論しておくことは,今後ドイツ語教育が大学という場において自らを主張し続けようとするならば,避けては通れない課題である。 本シンポジウムでは,大学のカリキュラムに具体的な4つの方向からスポットライトをあて,その問題点を明らかにし,改善の方向を探る。 まず,議論の前提となる現状認識を得るために,先般の「ドイツ語教育に関する調査」の大学カリキュラムに関わる部分の結果について,近藤が簡潔に報告する。 この後,高橋が,中央大学における事例を中心に,いわゆる従来の「ドイツ語ドイツ文学専攻」の現代における存在意義やコンセプトに再検討を加える。ドイツ語に対する社会的需要の凋落,教育現場の衰退などの反動から,独文科バッシングは激しいものがあるが,大半のドイツ語教員の出身母体である独文科を再生,活性化させることも,ドイツ語に関わるランドスケープの地盤沈下を防ぎ,これを活性化させるためのキーポイントとなろう。 続いて Richter が,慶應義塾大学法学部での事例を中心に,大学という教育現場における Deutsch als Fremdsprache のあり方について検討する。社会科学系の学生向けのインテンシブコースにおいて,日本人教員と母語話者教員がどのような補完的共同作業を行っているか,また Landeskunde を社会科学の Fachwissen との関係でどのように扱うか,などについて報告する。 

 最後に中山が,社会はドイツ語を必要としているものの,そのための人材養成機関として大学が機能しうるかという問題にメスを入れる。大学が広義の職業教育機関であるという認識は,日本の教育界には欠如しているが,ドイツ語教育が社会との接点を持とうとすればするほど,この点での認識を新たにせざるを得ないだろう。

 教育部会では,今後も引き続いて「ドイツ語教育のランドスケープ」という統一テーマのもとに,日本における教授・学習・運用の現場検証をしていきたいと考えている。各位の広汎な参加と建設的な議論を期待したい。

 

1.アンケート調査の結果に見る大学カリキュラムの現状     近藤 弘

 春季学会の報告では,主としてドイツ語教育の現状に対する教員と学生の意識や意見を扱ったが,今回は,大学のカリキュラムの状況に関する調査結果を8年前の調査結果とも一部比較しながら報告したい。 大学設置基準の改訂からほぼ10年,ほぼ90%の大学が新カリキュラムを導入した。それによると卒業単位数については,130単位以下が半数(52%)を占め,140単位が珍しくなかったころに比べれば,10単位程度は減少したように推察される。さらに旧一般教育科目等といわれた共通科目群(体育・外国語を含む)の平均値は38単位程度であり,また外国語の卒業単位数は3分の2の大学が12単位以下となっている。しかもその中でドイツ語は8単位の他に,6単位を挟んで4単位にも高い山ができている。つまり卒業単位数の減少が共通科目群や外国語の減少につながっているのが見て取れる。もちろん単なる単位数の削減だけが起こったのではなく,同時にそれを補う科目編成や授業内容・方法の検討やクラスサイズの縮小等によって改善が図られた筈なのだが,実際は,どうなのであろうか。 教員の記述意見にみられる新カリキュラム批判や評価をも合わせて紹介しながら,大学におけるドイツ語の教育・学習課程の問題点と展望を探る試みとしたい。

 

2.ドイツ語ドイツ文学専攻の現代的コンセプトとは?      高橋 慎也

 中央大学文学部ドイツ文学専攻は6年前にカリキュラムを大幅に変更し,「ドイツ語・ドイツ文学専攻」から「ドイツ語・ドイツ文化専攻」へとその性格を変えた。また現在,専攻の教育目標としては「異文化コミュニケーション能力の向上」を掲げている。 1・2年次のドイツ語教育に関しては,ドイツ人教員と日本人教員が3名1組となって1冊の教科書を用いながら「ドイツ語コミュニケーション」の授業を担当するという形態を制度化した。また専門教育の柱をドイツ語圏の文学,語学,文化学,社会学の4本とすることとした。さらにゼミナール制度を導入して専門教育の充実を図ると共に,卒論のテーマ選択を学生の判断に委ねることとした。それ以外にも課外活動を重視し,学生スタッフが中心となる新入生歓迎オリエンテーション合宿と夏期休暇中の語学合宿をこの10年間定期的に実施し,学年の垣根を越えて学生が交流できる機会を設けている。また夏期にはテュービンゲン大学への,春期にはベルリンのゲーテ・インスティトゥートへの短期留学を制度化している。また今年の3月にはポーランドでゲルマニスティックを学ぶ学生との交流を行い,9月には韓国の学生と,来年3月にはイタリアの学生と同様の交流をする準備を進めている。さらにドイツの6大学と協定関係を結んで全学で毎年10名程度の長期留学枠を確保している。以上のような積極的な改革を行った結果,学生のドイツ語コミュニケーション能力が向上し,卒論執筆者の割合も選択制にもかかわらず高い水準を保っている。 今回の私の発表ではこうした改革の経験を踏まえて,その長所と問題点を紹介したい。

 

3. "Deutsch als Fremdsprache" im Hochschulcurriculum

--- Aspekte eines erweiterten Landeskundekonzepts fuer Sozialwissenschaftler   Peter Richter

"Wie brauchen ein auf den jeweiligen Lernort bezogenes lamdeskundliches Denken, was staerker kulturkontrastive Grundlagenarbeit erfordert" und "Landeskunde, verstanden als Befaehigung zu interkultureller Kommunikation, sollte einen Beitrag dazu leisten, dass Verstaendigung moeglich wird ..." (Krumm) Unter diesem Motto werden die bisherigen Erfahrungen im Deutsch-Intensivkurs fuer Sozialwissenschaftler an der Keio-Universitaet zusammengefasst und die fuer die zukuenftige Gestaltung und Verankerung des Curriculums erforderlichen didaktischen und methodischen Massnahmen am Beispiel der Landeskunde zur Diskussion gestellt. Der spezifische Lernort --- die Juristische Fakultaet einer Hochschule in Asien --- erfordert ein ueber die Vermittlung von Grundwissen ueber die deutschsprachigen Laender hinausgehendes Konzept: Anknuepfend an sogenanntes Weltwissen und die im sozialwissenschaftlichen Fachstudium erworbenen Kenntnisse werden solche Themen behandelt, die die Studierenden auf der einen Seite befaehigen, in der Fremdsprache Deutsch ueber ihre eigene Kultur in Japan und in Asien Auskunft zu geben und sich auf der anderen Seite vergleichend mit der Kultur der deutschsprachigen Laender im europaeischen Kontext auseinanderzusetzen. Die kulturelle Brueckenfunktion eines so angelegten wissenschaftlichen Studiums soll dadurch gefoerdert werden, dass bevorzugt die historischen und aktuellen Beziehungen der asiatischen Laender untereinander und zu Europa, sowie die Verbindungn nach Asien aus europaeischer Perspektive thematisiert werden.

 

4.ドイツ語に対する職業上のニーズと現実のギャップ

--- 大学でドイツ語の職業教育は可能か?        中山 純

 標題で言う職業教育とは日独通訳の養成のことである。通訳教育,特に最終段階の教育は語学教育ではなく,職業教育及び訓練である。大学の語学教育に職業教育という概念は馴染まないと思われる方も多いと思う。 現在の大学でのドイツ語教育は,少数の専門課程を除いては大多数が入門レベルで終わっている。カリキュラムの枠組み故に,議論の余地がないように見える制度的制約の中で,ドイツ語教育の議論も,この領域の事柄に終始しているように見える。 ドイツ語を学ぼうとする者にとって,現在の状況は希望を抱かせるものではない。大学で週一コマしか授業がないといったような制度的枠組みよりも,学習上のゴールが専門教育を除いては極めて低いレベルでしか与えられていないからである。初歩の学習を終えた者が学べる教材,参考書,辞書の類はほとんど無いに等しいことなどは,その一例である。 このような状況を背景に,ドイツ語学習のゴールの選択肢のひとつとしての通訳を考えてみる。ドイツ語学習のカリキュラムを,ゴールから降ろしていく形で再考してみると,これまで見えなかった問題点もいくつか明らかになり,基礎的な語学教育にも役に立つと思われる。 誤解のないように付け加えておくが,この発表は全国津々浦々でドイツ語の通訳の養成をやりましょうと主張するものではない。したがって「我が大学ではできる,できない」という議論は不毛である。あくまでもカリキュラムデザインの参考になればというのが趣旨である。


シンポジウムV

  変動する時代の文学---よりどころを求めて

Dichter auf der Suche --- Literatur in Wendezeiten

司会:佐藤正樹

 ドイツ史を概観すると、長く行われてきた立居振舞の基準や生き方の規範、総じて人間の「よりどころ」と呼びうる価値の体系が疑問視され、それに代る新しい「よりどころ」が強く求められた時代がある。あるいはその価値変換が鮮明に、ときには激しい葛藤と多くの犠牲をともない、急速に、またゆっくりと進行した時代もある。たとえばキリスト教の滲透にともなう新旧の価値観や徳目の衝突、ゲルマンの部族法からの脱皮の時代は、こうした「よりどころ」の移行が長い時間をかけて、しかしきわめて広範囲に、深く進行した例である。おおよそ12世紀後半にその萌芽がみられる個人主義の成立、宗教改革によるその促進は、今日にいたるまでヨーロッパ人の精神的態度を決定づけた事件であった。むろん宗教改革は宗教的個人主義を確立しはしたが、政治外交上の制約から、文字どおりの個人主義的信仰の実現までになお多くの世代を必要としたのは確かである。しかし「個人主義」はヨーロッパに根づき、しかも、「個」を圧倒的に超越するキリスト教の神の地位は毫もゆらぐことがなかった。しかし近世から近代にかけて、遅くとも18世紀の啓蒙主義時代までには世俗化がもはや否定しがたい勢いで滲透した結果、長きにわたって真理を管理し、教え、救済のわざを独占してきたキリスト教会の権威がようやくかげりを見せたとき、過酷な歴史の過程で鍛えられたはずの「個人」は「個人」としてのみ存在することの困難を悟り、ふたたび新しい「よりどころ」を模索することになった。

 さて、このような真摯な模索は歴史上の大事件としてだけでなく、「個人」の生活史と切り離しえない真剣な努力としても見られるものである。そして人間が挫折とその克服とをくりかえすかぎり、新しい「よりどころ」を求める大小の困難は、大きな歴史過程はもとより、「個人」の生活史にもたえずついてまわるであろう。??しかし、古い「よりどころ」がその効力を失ったとき、つねに新しい「よりどころ」がすみやかに見出されるとはかぎらない。その底知れぬ不安の時代を過去の人々はどのように生き、どのように克服してきたのか、あるいは克服しえなかったのか。このシンポジウムは現代人の不安のみなもとの一つでもあるこうした困難のかずかずを直視する立場からドイツ文学史をひもとき、作品そのものや詩人の苦闘の歴史から、そこに刻まれた新しい「よりどころ」への模索の軌跡を読み取る試みであり、その成果を現代に生きるわれわれ自身の糧とすることをいわば遠い目標としている。

 

1.リュエデゲールは Ritter か?                   岡崎忠弘

 『ニーベルンゲンの歌』には、いくつかの時代要素が織りこまれてはいるが、いずれの要素もそれ本来の強靱さと明晰さに欠けている。この叙事詩は過渡期の波に漂っている。栄華の頂点よりつき落とされたクリエムヒルトは、復讐の鬼女と化して、実の兄弟をも殺害する。また、ハゲネは、彼一人の引き渡しを拒んでくれた主君らを、リュエデゲールより盾を贈与されたあとは、ないがしろにする。すでに薄められた血縁の世界となっている。 リュエデゲールの死にいたるまでのすべての行為を総体的に眺めるとき、はたして Ritter と言い切れるだろうか。たしかに、一方に、臣下としての義務および王妃に密かに与えた誓いの履行に責めたてられ、他方では、ブルゴント勢に対する友誼と親戚関係を捨てぬようにと懇願されて、両勢力の死闘のくりかえされるさなか、リュエデゲールはおのれの行為の帰着するところを予め察して行為の敢行を逡巡する。これは、活動を放埒なまでに開放し、行為の軌道を一切変えない Held の世界と著しい対照をなしている。

しかし、盾の贈与のあと tot mit etelichen eren に直進していくリュエデゲールの迷いのなさは、ドナウ渡河後の死の運命を引き寄せるような行動をとるハゲネに通じている。過渡期の波に漂う世界で、リュエデゲールは何をよりどころに行動を律しているのか。

 

2.よりどころを求めてさまよう群衆 --- ビューヒナーの『ダントンの死』から     河原俊雄                       

 社会思想史の立場から今村仁司はこう述べる。「近代史のなかでの群衆のあり方を特徴づけることは、[……]それが一つの決定的な社会的勢力 (puis-s ance sociale) として、また社会と歴史の原動力 (moteur sociale) として、大きく登場したことにある」と。そして、「フランス革命以降では、群衆が社会と歴史の舞台で主役を演ずるようになった」と言い切る。 これはしかし、現代から近代をふりかえったときはじめて鮮明に出てくる認識であろう。フランス革命当時、どこまでこの群衆の存在の意味を把握できていたか。あくまでも、歴史は英雄的な大物が動かすもので大部分の者はその偉人に導かれ動かされる、そういう認識が一般的ではなかったか。その証拠に、この歴史認識は今でもまかり通っている。

 ビューヒナーはしかし、1834年の段階で、英雄的な大物など歴史の波間に浮かぶあぶくでしかないことをきわめてはっきりと認識していた。そしてその彼が注目したのは、個を超えて群れとして集まる人間たち(群衆)が歴史を動かす決定的な役割を担うという事実であった。しかも、そのことを彼が学んだのはフランス革命からであった。

 シンポジウムでは、『ダントンの死』の群衆場面に焦点を当て、これまでのビューヒナー研究史を視野に入れ、この群衆の動きについて徹底的に分析する。

 

3.バールの転換と日本               西村雅樹

 19世紀末から20世紀初頭にかけてのいわゆる世紀末ウィーン文化の代表的な批評家ヘルマン・バールは、変動する時代を先取りするかのように新しい主義・主張を紹介、主導し、みずからも変転を重ねた。しかし1910年ごろ、彼はモデルネの芸術運動のリーダーとしての立場を捨ててカトリックに回帰し、みずから時代の先頭に立つことはなくなった。この転換期に著された一連の評論に見られる思想的関心は、生のよりどころを求めての探究とみなせる。しかし転換期以前に著された著作のなかにもすでに同様の傾向は読み取れる。なかでも日本への関心が示された著作においてそれは顕著である。 1900年に催された分離派の日本美術特集展への批評『日本展』には、西洋とは異なる自然観や人間観をもつ日本文化の特質を鋭く捉えた評論が見られる。また1903年に発表された戯曲“Der Meister”では、日本人の登場人物がドイツ神秘主義を理解しうる人物として描かれている。これらの作品で示された日本への関心は、転換期に著された評論集に見られる「無」の精神性への強い関心につながり、西洋近代精神の批判に発するものとみなせる。ただしこの種の批判は、彼固有のものではなく時代の傾向でもあった。そしてまた一方で、当時は近代化がいっそう推し進められた時代でもあった。当報告では、このようなバールの事例をとおして20世紀初頭の思想動向の一端に触れてみたい。

 

4.アルフレート・デーブリーンの『王倫の三跳躍』と作家のよりどころ      小島 基 

 20世紀初頭、ヨーロッパにおける自然科学的「進歩」に、出口なしの状況を看破したこの作家は、一時期、古代中国の思想である「道家」の「無為自然」に突破口を見出そうと呻吟し、よりどころを模索した。 「無為自然」は「自我」を宇宙自然の循環のなかに包含する。他方、「近代自然科学」ではルネ・デカルトの「二元論」に言及するまでもなく、「自我」は玉座に据えられ、「機械論的自然」の外側に位置する、あたかも絶対者「神」の存在に近いかのように。科学の進歩に人間の幸福を予定し、合理的「知」の勝利に雄叫び上げるかの20世紀に、むしろこの作家は人類の危機を予感し、その傲慢な「自我」を超克する別の価値観を求め、「無為自然」に近づく。『王倫の三跳躍』はその試みであった。「自我」の無為は、「破瓜集団」のなかのそこここで試される。

 デーブリーンが求めていたよりどころは、「自我(己)」の否定であった。しかし、「無為自然」の「無為」は、それが自然的であるかぎり、やはり「自己肯定的」であるしかなかった。小説の最後の場面で、作者はこの思いを吐露している。そのため「三跳躍」は、新たな四番目の跳躍を必要とする。その四番目は、ユダヤ教の経典でもある『旧約聖書』に求められ、それが『ベルリン アレキサンダー広場』として結実する。

 

5.カフカの「人称」をめぐって                  古川昌文

 カフカは『城』の第一章を一人称形式で書き始め、途中で三人称形式に書き直している。ブランショはカフカにおける一人称から三人称への移行を重視し、芸術的開眼として高く評価している。しかし『城』では人称の変更が作品の構成・内容に影響を与えていない点をみるならば、むしろ人称の選択はカフカにとってさほど重要な問題ではなかったと考えることはできないか。カフカにおける人称の「軽さ」にこそわれわれは注目すべきなのではないか。また、カフカのいわゆる einsinnig な語りは、世界を一つの視点へと閉じこめる形式であると同時に、一人称と三人称の交換可能性へと開かれた形式なのではないか。さらに、カフカが「自分とは何ものなのか」という問いに終生向かい合わざるをえなかった作家であるとするならば、こうした人称の「軽さ」にはなおいっそう看過できない意味があるように思われる。本報告では、以上のような人称をめぐる仮説ないし問いを手がかりとして、カフカにおける「よりどころとしての『自己』」をそれが孕む危うさという観点から論じることによって、本シンポジウムのテーマへの接合を試み、議論に付したい。


シンポジウムVII

外国語教授法の諸相,学習目標,教授方法,測定・評価

Aspekte des Fremdsprachenunterrichts

--- Lernziele, Lehr-/ Lernmethode und Leistungsmessung


一般研究発表・文学

 

3.リルケ・メディア・崇高     黒子康弘

 『ドゥイノの悲歌』の「天使」は,なぜ「恐ろしい」のか。ドゥイノ以前,詩作のモットーについて,リルケは次のように述べている。「恐ろしきものとは,存在の在処を告げるもの,存在することを待ち望んでいるもの,すなわち,天使なのであるから」。つまり,ドゥイノ以前のリルケ自身の言葉が,すでにポエジーの課題を示すという役割において,「天使」と「恐ろしさ」を結び付けていたのである。しかし,やがて,カプリ島で書かれた詩にあるように,根源的な「深淵―恐怖」が襲い,リルケのポエジーは不能の危機に立った。これは,メディア論の視点から見れば,世紀末以降の諸々の複製技術が,「書かれたもの」の特権性を奪い,「書かれたもの」が内部崩壊を起こしたことと関係している。リルケが,『ドゥイノの悲歌』の冒頭で「恐ろしさ」に堪えず「天使」への直接的な呼びかけを断念し,/Engel/というシニフィアンを立て,そのシニフィアンが戯れを起こしたことはその現れである。そのような正体不明の不可解な「天使」に「恐怖」を感じながらも,自らのポエジーの死活にかかわる秘密として魅了される関係のパラドックスが,リルケに,「美」である「天使」を「恐ろしきものの始まり」と意識させた原因である。アーレントは,この「恐ろしい天使」を,カントと比較して「崇高の派生体」と呼んだが,「崇高ルネッサンス」と呼ばれる今日的な関心から,この意味を考えてみたい。

 

4.パウル・ツェランにおける「亡命の詩」     安井 猛

ルーマニア・ユダヤ人、ツェランは第二次世界大戦中強制労働のためにほとんど生命の限界にいたるまで苦しんだ。また彼の両親を強制収容所で失った。この青年時代の喪失と絶望の経験が彼のその後の詩作を深く規定した。パリに亡命した後も自らを救おうとして彼は「否定神学」と呼ぶべき彼の実存理解を展開した。それは同時にナチによる被迫害者との「同盟」を証し続けることでもあった。この「否定神学」は完璧な構造を備えているように見えた。しかし、結局、それは彼の孤独と悲嘆と負い目と被害妄想を癒すことが出来なかった。彼は所謂イヴァン/クレア・ゴル事件を機縁にセーヌに身を投じた。世界は彼から滑り落ち、何も残らなかった。彼の詩も最早彼を救わなかった。何故か?彼の「否定神学」の何処に隙があったのだろうか?この問いへの答えを、主として詩集『息の転向』(1967年)の第一ツーキュルスをなす『息の結晶』とその周辺の詩、また二、三の彼の友の言葉を手掛かりとして探りたい。

 

5.Heines "Romanzero" als Zeit-Tryptichon      Markus Hallensleben

Heines "Romanzero" markiert eine Wende vom Politischen ins Private und zugleich von der Zeitgeschichte zur Historie. Daァ Heine darin seine von ihm so stilisierte Entwicklung vom "freyesten Deutschen nach Goethe" zum "armen, todtkranken Juden" und "ungluecklichen Menschen" poetisch verarbeitet hat, ist kein Geheimnis, trotzdem gibt die zyklische Struktur dieses Spaetwerks immer noch Raetsel auf.

Bisher ist Heines Entwicklung als Resignation gewertet worden, als "Zusammenfall von Biographie und Historie" (Hoehn 1987). Das ist es aber nur, wenn man die Perspektive der teleologischen Geschichtsauffassung beibehaelt. Stattdessen soll hier versucht werden, das juedische Geschichts- und Ueberlieferungsverstaendnis, das sich insbesondere auf die Struktur des "Romanzero" und die Erzaehlhaltung dieser Texte ausgewirkt hat, als andere moegliche Perspektive zugrunde zu legen. Unter anderem entschluesselt sich so die Dreiteilung des Werkes und laesst sich der insgesamt geschlossene Charakter der gesamten Sammlung erklaeren.

Heines Umgang mit der Zeit im "Romanzero" ist ein dreifacher: ein poetologisches Spiel mit den Erzaehlzeiten, ein poetisches Spiel mit den verschiedenen Geschichtsepochen, sowie ein zeitkritischer Kommentar. Historie und Zeitkritik werden - nicht ohne juedischen Witz - in einem literarischen Zeitbegriff aufgehoben. Der "Romanzero" kann in diesem Sinne als Zeit-Tryptichon interpretiert werden, wie seine Einteilung ("Historien", "Lamentationen", "Hebraeische Melodien") in der Tradition juedisch-spanischer Memorbuecher steht.